オメガの香り

1

『いいな、高校生か…。』
制服を着て自転車に乗る二人組をすれ違い様に見送る。
楽しくて堪らないといった笑顔だった。
そうだよな。人生今からだもんな。
進学したり、就職したり、たくさんの人に出会って…。
ぼーっと彼らの後ろ姿を眺める。
はっ、やばい。遅れちゃう。
スマホで時間がを確認して全速力で走った。



「樹貴たつき、遅くなってごめん！」

「お母さん！」

持っていたおもちゃを放り投げて自分の胸に飛び込んでくる可愛い息子。
何もかも捨てて、何もかも諦めて手に入れたかけがえのない宝物だ。

「お母さん、おかえりなさい。」

保育士に声をかけられた。

「すいません、遅くなって…。」

「大丈夫。ギリギリセーフですよ。」

まるで母親のように温かい雰囲気の保育士だ。
柱の時計を見るとちょうど六時を指していた。
先生にお礼を言って保育園をあとにする。

「お母さん、今日の夜ごはんはなぁに？」

「さて、何でしょう。樹貴の大好きな…」

「カレー！！」

「正解。」

二人で手を繋いで家路につく。
毎日大変だけど幸せだ。
樹貴がいてくれれはどんな事でも頑張れる。
ずっとこんな時間が続くことを毎日願っていた。



僕が樹貴を身籠ったのはまだ十七歳になったばかりのころだった。
僕は僕自身も家族も僕がベータだと思っていた。
実際、七歳と十歳で行う二度のバース検査でベータの判定が出ていた。両親ともにベータ、ベータ以外のバースなんて疑う余地もない。
それがなぜこんな事になったのか…。
十七歳のあの夏の日、僕は突然発情したのだった。
そしてたまたま側に居た友人がラットを起こし、熱に浮かされるように関係を持ってしまった。
その友人にはオメガの婚約者がいる事を知っていたのに。
申し訳ない気持ちと気まずさで顔を合わせることが出来なかった。
幸い、すぐに夏休みに入ったので顔を合わせずに済んだのだ。
でも僕は妊娠していた。
発情期での性行為は百パーセント妊娠するって聞いたことがある。恐る恐る検査薬で検査してみたらくっきりと出た線。それは陽性判定の印だった。
僕が通っていた高校は有名な進学校で、一生懸命勉強してそこに合格した。両親はとても喜んでくれて盛大な合格祝いをしてくれた。
高校入学後も充実した日々を送っていた。
行きたい大学もあった。なりたい職業もあった。
でも散々悩み、全てを捨てて子どもを産む事を決めたんだ。
反対されることを恐れて親にも言わず、逃げるようにオメガのシェルターに身を寄せて樹貴を産んだ。初めて抱いた我が子は何物にも変え難いくらいの幸せな気持ちにさせてくれた。
僕はこの子を一生守っていくと誓った。
そして、月日は流れて樹貴が三歳になった時、シェルターを出て二人で生きていく事を決めたのだ。

六畳と四畳半二間の古いアパートは二人の城だ。
中卒のオメガに碌な仕事はなかったが、シェルターのスタッフに紹介してもらった仕事と母子手当とで親子二人何とか暮らしてこられた。

「お母さん、じゃがいもが透明になってきたよ。」

「うん。じゃあお水を入れて。」

「はーい。」

樹貴は四歳にしては早熟で頭も良い。おそらくアルファだろう。
ふと、樹貴の父親である友人を思い出した。

弁護士一家で、マスコミにも登場する有名な家だ。
壬生慎一郎みぶしんいちろう。
あの優しい笑顔、大きな手、広い背中、低いのに柔らかい声。忘れたくても忘れられなかった。
去年、テレビで婚約を知った。あのオメガと正式に婚約したようだ。
何度かあった事がある。元華族の由緒正しい家柄のそのオメガは儚げで可愛らしい男のオメガだった。

「お母さん、ブクブクしてきたよ。」

樹貴の声にハッと現実に戻る。

「じゃあ火を一番小さくして。」

「はーい。」

畳み掛けの洗濯物を急いで片付けて樹貴の近くに立った。

「火が通ったらカレールーを入れて出来上がりだね。」

「そうだね。」

この利発な息子は明らかに慎一郎の血を引いている。顔も髪の色も地頭の良さも彼そっくりだ。
何もかも捨てた樹里に神様がくれた唯一の宝物だった。