スパダリ社長の狼くん

soirée

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第一章

十二話

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退院して束の間の安らぎも味わわないまま、瞬が風邪をひいた。

ゴホッという咳と共にその顔が苦しげに歪む。非接触タイプの体温計が記した数値は、38.5度。
手のひらをその額に充てる。汗ばんだ肌に前髪が張り付いているのをやさしくかきあげる。火照った顔色に、乗せていたタオルを取りあげると既にやや温くなっていた。
 

 こう見えて忍は美丈夫としか言いようがないほど体調は崩さない。日頃の管理ももちろん、無茶はしないからだ。
 そう、雨の中を傘もささずに忍を迎えにきたのは瞬の自業自得でもある。だが、可愛い無茶である──突然の夕立に焦ったのだろう。たまたまその日は忍は電車通勤だったのだ。忍の傘は使わないまま、駅でずぶ濡れで待っていた姿に嬉しさを覚えたのは否めない。
 
 氷水に浸したタオルを搾り、額に乗せてやるとその息遣いが少し和らぐ。
 目が覚めたら何か食べさせなくてはいけない。薬を飲ませないといけない症状だ。
 そっと枕元を立ち去る瞬間、瞬が熱に浮かされたままつぶやいた。
「置いていかないで……──母さん……」   
 振り返った忍が憐憫のこもった視線を向ける。下ろされた瞬の瞼から一筋涙がこぼれ落ちていた。

 




 キッチンで作ってきた卵粥を持って忍が部屋に戻る。扉の音に気づいた瞬がうっすらと目を開いた。
「大丈夫? かなり高熱だ。これを食べたら病院に行こう。薬をもらわないとまずいだろうから」

 熱に潤んだ瞳でこちらを見るその顔についいけない想像をしてしまう。何を考えているんだと忍が咳払いをした。
ゴホゴホと瞬が咳き込む。喉もかなり痛むのだろう、押し出された声は掠れていた。
「悪い……俺のせいで仕事まで」
「気にしなくていいよ。家族がダウンしたら介抱するのは当然さ。君は早く良くなることだけを考えていたらいい。体も辛いだろ?」
「でもお前俺がきてから仕事に支障ばっか出て……俺なんか拾ったせいでお前の……俺、お前に迷惑しかかけてねぇ」

 おそらくは体の不調に引きずられて精神にもかなりの負担がきているのだろう。深く俯いた瞬の髪を撫でてやりながらベッドに腰を下ろし、その首を膝の上に抱き寄せた。
「大丈夫だよ。僕はきちんと君を養えるだけの仕事はしているし、たった一人の家族をこんな状態で放り出して仕事に行ったんじゃ却って何も手につかないさ。大丈夫」
 俯いたままの瞬が鼻を啜っているのを聞きながら、よしよしと背中を叩く。
 仕方がない。今まで彼はどんな不調時も一人で乗り切ってきたのだろう。初めて甘やかされたのならばこうなってしまっても無理はない。
 その耳元で優しく囁く。
「いい子だから何も心配しないで。風邪をひいた時くらい甘えていいんだ──僕にそんなこともさせてくれないの?」
 悪戯っぽく笑う忍に瞬がかすかに笑う。
「じゃあ、食べようか。薬をもらってこればずいぶん楽になるからね。総合病院は時間がかかるから、ちかくの個人病院に行こう、ね」

 高熱に浮かされたまま、瞬がくしゃみをする。
その瞬間生えた耳と尻尾に、忍が目を瞬いた。






「なるほどねぇ……シュンの体には不思議なことが多いけど、そんな頻繁に生えたり消えたりするの?」

 安曇が困惑気味に確認する。だが瞬にもわからない上、あれからさらに上がった熱で完全にダウンしている。
 苦しげな呼吸に背中をさすってやりながら忍が安曇に尋ねる。
「無茶なのは承知だけど、彼に何か処方はできないかな。解熱剤だけでもいい」
「オレは獣医で人間の医者じゃないよ? まぁ解熱剤なら出せるけどねぇ……シュンがイヤなんじゃない、オレの病院で出せる薬は」
「……?」
うっすら目を開いて疑問符を浮かべた瞬に安曇が頬を掻く。
「当たり前だけど、動物の解熱剤は下から入れるんだよ。流石に嫌でしょ」
「イヤだ……」
首を振る瞬に忍が軽い叱責をする。
「わがままを言ってる場合じゃないよ、やってもらうしかない。君は今40度の熱を出してるんだよ?どれだけ危険な状態か分かってる?」
忍の顔を見上げて瞬が泣きそうな顔をした。
「嫌だ……それだけは嫌だ」
熱で潤んだ瞳をさらに潤ませるその姿に、忍が問答無用で瞬のズボンと下着を下ろす。
安曇が肩をすくめた。
「いいの? シュンにもプライドがあると思うけど」
「今はそんなことを言ってる場合じゃないよ」
忍の声に安曇が座薬を手にして瞬の膝を割る。瞬は譫言のようにいやだと繰り返すが、忍がただでさえ力の入らないその体を完全に抑え込んでいる。
「まぁ、一瞬だから。ごめんね」
秘孔に差し込まれた異物に瞬の体がこわばる。
「あっ……!」
ぐいっと奥まで押し込んで、安曇が指を抜く。瞬の髪をくしゃっと撫でた。
「はい、おわり。一瞬だったでしょ」
その手に突然瞬が噛み付いた。
牙を剥いたその顔は熱の苦しさに上気して必要以上の色香が漂っているのにも関わらず、抑えきれない怒りを見せている。

 血が滲むほどに犬歯を立てる瞬に、忍がその体を安曇から引き剥がそうとするが、瞬は唸り声を上げてますます顎に力を入れる。安曇が困ったように笑う。かなりの痛みであっても笑って対応できるのは獣医としての長年の経験あってこそだ。
「そんなに怒らないで。イヤだったよね。でもこれで楽になるから、いい子だから噛み付かないで」
「瞬、やめるんだ。君のためだったんだから仕方ないだろう? 離すんだ」
 意識も朦朧としているのだろう、混濁した瞳で瞬は忍を睨む。
「仕方がないねぇ。ごめんね、ちょっとチクッとするよ」
安曇がやれやれと片手で注射器に鎮静剤を取る。
 首に刺そうとした瞬間、瞬が腕で安曇の手を跳ね除けた。噛み付いていた手を離し、一瞬で跳ね起きて診察室の隅に逃げる。
「瞬!」
忍の声にびくっとその体が引き攣った。
我に返ったその瞳に怯えが走る。
荒い息を吐きながら震え出したその眼前で、慎重に忍が膝を折った。
「いけない子だな。そんなに子供みたいにわがままを言う子だったかい? 君は」
手のひらを伸ばした忍に瞬が目を閉じて首をすくませる。平たく寝ている耳に、忍がそっと触れた。
「言うことがあるだろう? 裕也に」
瞬が顔を背けた。珍しく意地を張っているその耳を忍が軽くつねる。
「お前以外のやつにケツに指突っ込まれるなんてイヤに決まってるだろ……」
掠れた声で呟いた瞬にあら、と安曇が声を上げた。
「何? お二人そういう関係なの? だったら東條さんに頼んでもよかったのに。っていうか安心したよ。それなら処方しても東條さんにやってもらえるってことだよね」
可愛いことを言う瞬と平然としている安曇に呆れながら忍が下着も整えていない瞬を抱き上げて服を着せる。骨折した足を押して無理をした瞬の耳をもう一度つねる。
「まったく、足もまだ治りきってないのにこんな無茶をして。帰ったらお説教だからね? さぁ、裕也に謝って。誰があんなに強く噛み付いたの?」
「いいよいいよ、オレだってやだと思うし。いい歳して医者に座薬入れられるなんてさ。仕方ない、むしろよく頑張ったよ。とにかく薬は処方するから早く帰ってよく眠って。寝るのが一番の薬だからね」

 手早くカルテをまとめ、安曇が薬を手渡す。
「念のために言っておくけど、38度以上の熱がなければ使っちゃダメだからね。その足じゃ自分で挿れられないだろうから東條さんにはちゃんと噛み付かずに挿れてもらうんだよ」
 顔を背けたままの瞬に嘆息して、忍が松葉杖を手渡す。
「すまなかったね、裕也。助かったよ」
「いえいえ。お大事にね」
 苦笑した安曇と別れて車に乗り込んだ忍がハンドルを握りながら瞬に声をかけた。助手席で苦しそうに熱っぽい呼吸を繰り返すその手を軽く叩く。
「困った子だね。あんなに歯向かうことはないじゃないか」
瞬が顔を歪めた。
「イヤなもんはイヤだ。俺だって誰に対しても素直な訳じゃねえんだよ……」
涙を滲ませて抗議する彼に忍がもうひとつため息を絞り出す。
「君のためなのはわかってるんだろう?」
 忍の苦言にも瞬の頑なな態度は変わらない。よほど堪えかねたのだろう、その瞳に今までにない反抗的な色が宿っているのを見てやれやれと忍がちらりと視線を送る。
「bad boy」

 ゴホッと咳き込んだ瞬がシートベルトを締めたまま忍に背を向けるように窓へと身体を捻る。
「甘えていいんじゃないのかよ……」
弱った声でそう言った瞬にしまったと内心眉を寄せた。そうだ、彼は今ひどい風邪をひいているのだ。叱るのは後でも良い。
「そうだったね、ごめん。じゃあもう今日はこれ以上叱らないから、次に裕也に会った時ちゃんと謝れるかい?」
 溜飲を下げた忍に瞬が振り向かないまま微かに頷く。
忍が微笑んだ。
「いい子だ。嫌な思いをさせて悪かったよ。よく我慢したね」
「本当に嫌だったんだ。お前以外のやつにあんなことされたくない」
鼻声になっているのは風邪のためか、泣いているためか。こちらを振り向かないので断定はできないが、なんとなく泣いているのだろうと言う気はした。見た目に反して幼いところのある青年の髪をよしよしと手を伸ばして撫でる。
「本当によく我慢した。偉かったよ。風邪が治ったら何か美味しいものでも食べに行こうか。今日は僕がずっとそばにいてあげるからね」
「……悪い、俺本当にわがまま言ってるな」

 優しくされたことでやっと反省したのか、謝罪の言葉を口にした瞬に忍が笑う。
「可愛いわがままだけどね。君の言う通りだよ、嫌なものは嫌さ」
 静かになった助手席に、ハンドルを握りながら忍が視線を送る。苦しそうな呼吸ではあるものの、瞬はよく眠っていた。








 ベッドで目を覚ました瞬が身を起こす。あれほど拒絶した座薬ではあったがさすが効き目はよく、熱はほぼ下がっていた。高熱の後遺症で痛む節々に顔を顰めながら窓を見る。何時間眠っていたのか、部屋はもう夕暮れの薄闇に包まれていた。
 立ちあがろうとして気づく。ベッドサイドで床に座ったまま忍が眠っていた。二日間ほぼ寝ずの瞬の看病でいくら美丈夫と言われようと疲れが溜まったのだろう。今までこう言った瞬の不調時はいつでも瞬が目覚めた時には起きていた彼のその寝顔に、瞬は申し訳なさと同時に安堵を感じる。

 いくらか疲れを滲ませてはいるものの落ち着いた寝息を聞きながら、華奢な体を抱き上げてベッドに横たえた。瞬のそんな行動に目を覚ました忍はあえて瞼を下ろしたまま瞬の好きにさせる。その唇が己の唇を塞ぐのを感じながら耳を澄ませた。

 軽いキスで身を離した瞬が忍の顔を見下ろして呟く。


「お前がいてくれて本当によかった──お前のことが誰より好きだ」

 大切な想い人からの、自分が寝ていると思っているからこその正直な本音の吐露に胸の中だけで微笑む。

(僕もだよ──誰に対しても建前でしか付き合えなかった僕が誰かにこんなにも何かを与えられるのだと知れたのは君のおかげだ)


 瞬が横たえた忍の隣に潜り込んでくる。長身を丸めるように忍の体に寄り添うその姿を、目を開いて見ることができないことだけを少し残念に思った。
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