スパダリ社長の狼くん

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第一章

十三話

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 3日後、AZUMI ANIMAL CLINICを訪れた二人を安曇が診察室に通す。瞬のために、普段は使わなかった丸椅子を常備するようにしてくれている安曇が、その特等席を引き寄せて座るよう勧めた。黙り込んで腰を下ろした瞬の不貞腐れた顔に苦笑する。

「瞬? ちゃんと謝れるって言ったのは君だよね?」

 忍が瞬に声をかける。それでも頑なに視線を伏せる彼の耳を軽くつねった。

 瞬が忍の前では素直になる理由はこの叱り方にある。彼は決して瞬に圧力をかけたり強く命令したりはしない。辛抱強く瞬が自分から謝罪の言葉を口にできるまで待ってくれるのだ。それにどれだけ時間がかかろうと急かしたりもしない。それでいて絶対に「だったらいい」と突き放しもしない。体罰を加えることもない。
その「怖がらずに自分の罪悪感を言葉にできる」という過程が今の瞬には必要なのだ。忍はあらゆる面で瞬のトレーナーとしては最適な相性だったと言えた。


 謝罪の相手が安曇であるという今回の件は瞬にとっては非常に難しいパターンでもある。屈辱的なことをされたことに変わりはなく、それ相応の対応をしただけだと言う言い分が彼にもある。それでも危害を加えたことが自分の非であることも理解はしているからこそ、意地を張ってしまうのだ。これが忍に対する謝罪であれば瞬はもっと簡単に事を済ませられただろう。

 口を引き結んでいる瞬が、忍にそんなに嫌ならばいいよという一言をもらえることだけを期待しているのは、忍にもよくわかっている。だがそれを許せば瞬のためにならない。
「瞬」
穏やかな声で名前を呼んだ忍に瞬がすがるような視線を送る。それを受け止めて忍は首を横に振った。
「ダメだよ。ちゃんと謝って」


 そんな二人のやり取りを見ながら安曇は瞬はいい飼い主を得たなとその顔を見遣る。
 虐待を受けて育った保護犬によく見られる症状なのだ。少しでも嫌なことをされれば無我夢中で噛みつき、その後で暴力に怯えて余計に攻撃的になる。そんな荒れた犬には忍のような穏やかなトレーナーが必須だ。だが、多くのこう言った犬たちはここまで寛容な飼い主には出会えず何度も捨てられることになる。
 これが瞬の訓練であるならば、前回のように中途半端に逃げを作るのは良くない。何も言わずに診察室の椅子で足を組んで瞬のカルテを眺めた。

 逃げ場のない診察室という空間で、忍という保護者に見張られてのこの状況は瞬には酷だろう。だがきちんとこの課題をクリアすれば忍は瞬を充分すぎるほど褒めるだろうことは安曇にも、そして瞬にも分かっている。瞬が躊躇いがちに口を開く。何度も逡巡を繰り返したのちに掠れた声で
「……悪かった」
と呟いた。

 よしよしと忍がその髪を撫でる。微笑んだその瞳に瞬の首筋が微かに朱に染まった。
「Good boy。よく言えたね、偉いよ。もうあんなに人の手に強く噛み付いてはダメだからね。君はもうそんなに牙を剥かなくてもいいんだから。裕也、許してくれるかい?」
安曇が手を伸ばして忍と同じように瞬の髪を撫でた。
「もちろん。オレも強引に治療したのは悪かったしね。ごめん」
 そのセリフに瞬が口を開く。その目が今にも溜め込んだ不満をぶちまけようとしているのを見てとった忍がやんわりと唇を塞いだ。自らの唇にも人差し指を当てて瞬の顔を覗き込む。
「stop。その先は僕にいうんだ。家に帰ってからね。いくらでも聞いてあげるから、いいね?」
 瞬の耳が垂れる。帽子を手渡しながら忍はその立ち上がれない足に苦労する肩を引き上げた。
安曇がペンを回しながらカルテを軽く叩く。
「次にきた時は仲直りしようね。シュンはこれからもオレとは長い付き合いだと思うからさ」
まなじりを釣り上げた瞬の掌を忍が叩いた。
「攻撃しない、いいね。さぁ、帰るよ。裕也、時間をとらせてすまなかったね。ありがとう」
「いえいえ。って毎回言ってる気がするけど、気にしないで。ゆっくりシュンの愚痴聞いてあげて」
 不満そうにその顔を睨む瞬の手を引いて忍は診察室の扉を開ける。松葉杖なしでもなんとか歩けるようになったその足を気遣いながら、愛車に乗り込む。
車のドアを閉めた途端、瞬が黙り込んだ。
「さぁ、言ってごらん。色々不満があるだろう? 溜め込むのは良くないからね。僕にも裕也にもよく言わずに我慢した。全部吐き出してしまっていい」
許しを得たと同時に堰を切ったようにその瞼から涙が伝う。
「俺だけ悪いのか? 俺だっていきなりあんなことされなきゃ噛み付いたりしなかった。熱があったからって俺の意思を全部無視してなんでもしていいのかよ。お前だってそうだろ、俺が抵抗できないの分かってて余計に押さえつけてあいつにしろっていったのはお前じゃないか。俺はお前だけは俺に嫌なことはしないって信じてたのに……それでなんで俺ばっかり謝らなきゃいけないんだよ! 俺は悪くないだろ……!!」
 捲し立てるその髪を撫でようとした忍の手を瞬は払い除ける。悔しさを滲ませた潤んだ瞳に忍が申し訳なさそうに詫びた。
「そうだね。僕は君の体のためを思っていただけなんだけど、それでも君の意思を無視したのには違いはない。君に責められても仕方がない。悪かったよ。あんなに嫌がっていたのに」
「嫌だって俺は何度も言っただろ……お前がするならまだしもなんであんな奴に……」
「うん、そうだね」

 辛抱強く瞬の不満を肯定し続ける忍に、不意に瞬が顔を歪めた。
「こんなこと言いたくないんだ、お前を責めたいわけじゃなくて……お前のせいじゃないこともわかってる、けど俺もどうしたらいいのか分かんねえくらいに止まらないんだ」
「いいんだよ、気が済むまでなんでも言ってごらん。君の中で整理がついていないんだ。僕は付き合うから」

 その言葉に瞬がますますひどく泣きじゃくる。
「俺はっ……俺は……もうわかんねぇ……家に帰りたい」
子供のようなその姿に忍がやれやれと笑う。
「そうだね。家に帰ってゆっくり寝よう。添い寝は必要かい?」
 忍の掌に額を押し付けた瞬が頷く。素直な青年に忍がクスッと笑う。
「いい子だ。今日はよく頑張った。本当によく頑張ったよ。気がすむまで甘やかしてあげるから、僕に全部預けてしまうといい」
 瞬が目を上げて忍を見上げる。頷いてやって繰り返す。
「いいよ。なんでもわがままを言っていい。全部聞いてあげるから」
「じゃあ……」
瞬が恥ずかしそうに口にしたそのリクエストに、忍が妖艶な笑みを浮かべた。
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