75 / 130
第四章
五話
しおりを挟む
次の予定をこなすために車を走らせる。
安曇が珍しく自宅に彼らを呼んだので、クリニックの駐車場に車を停めたままそちらへ足を向けながら瞬がどうしてだろうな、と忍に尋ねてみる。忍が笑った。
「裕也らしいといえばそれまでだけどね。育休をとったそうだよ。なんと、一年半」
「すげえ。漢だな」
「自営業の強みだね。本人曰く『このご褒美のために他のスタッフにお金を払ってる』だそうだ」
「あいつ普通に嬉しいだけだろ、一日中安曇さんと一緒って」
「さぁ、それはどうかな……?」
意味深な笑みを見せる忍に疑問符を浮かべたまま、インターホンを押す。
「あっ、東條さん! シュン! ちょうどよかった!」
インターホン越しの安曇の声にかぶるように新生児の泣き声が響いている。これは大変そうだという瞬の印象は家に入って確信に変わった。新生児を抱いてドアを開けた安曇もさることながら、座り込んで呆然としている春香が壮絶な顔をしている。忍が「産後クライシス真っ最中だね」と声をかけた。
「今まで散々奥さんの方が大変なんだからってベタな言葉ばかりかけられてきただろうから、一言だけ。二人ともよく頑張ってる。お疲れ様」
忍の言葉に安曇が額を抑えた。やはり彼は彼で限界のようだ。新生児の育児は母親の辛さはよくクローズアップされるが、育児に父親が協力的な場合は父親の負担も凄まじい。おそらく安曇のことだから、産後間もない春香を寝かせてやろうと夜中の授乳も手伝っているのではないか。
「イヤ、もう本当オレ舐めてた。育児しんどい……けど、こんな状況ならなおさら春ちゃん一人に押し付けられないからさ。ここは二人で乗り切らないとね……」
そうは言うものの、顔色と言葉は真逆だ。瞬がこっそり尋ねてやる。
「……話聞くぞ。大丈夫かよ……?」
「……あとでお願い。オレもう倒れそう」
「……じゃあ、僕は春香の方を」
「東條さんたちが天使に見える……」
ふらつきながら安曇が二階の自室に向かおうとする。忍がリビングで座り込んだままの春香に声をかけた。
「ごめん、僕たちの都合で少し裕也を借りていくよ。その間赤ちゃんは僕が引き受けるから少し休んでいて。ね」
うん、と頷く春香の肩に手を置いて、安曇の腕から赤ん坊を引き受ける。一体どこで身につけたのか、首の座らない新生児の抱き方まで熟知している。
「そんなに泣かないで。お母さんもお父さんも疲れてしまうよ」
忍の声にはパニック発作を起こした瞬さえも落ち着かせる力がある。ぴたりと泣き止んだ赤ん坊に安曇が目を瞬いた。
「泣き止ませようと必死になってると意外とそれが伝わってしまうものさ。話を聞いている間は僕が見ているから、裕也も休んで」
ありがと、と呟いた安曇の複雑な目を見て、階段を登りながら諭す。
「僕は偶然きて今突然向き合ってるからこんなことができるだけ。この1ヶ月毎日頑張り続けてきた君が必死になるのは当然だよ。それに今はこんなふうに僕の腕でも寝てしまうけど、あと1ヶ月もしたら君たちでなければイヤって言い出すさ。君が頑張ってないわけじゃない」
「ああ、シュンが死ぬほど羨ましい。一家に一人東條さん欲しい……」
「悪いけどそれはダメだ、貸し出す程度ならいいけどもれなく俺もついてくるぞ」
安曇が自室の扉を開ける。予想よりも随分とシンプルな部屋に瞬が声を上げた。
「お前のことだからもっと映える部屋にしてんのかと……」
「もともとオレ、あんまそういうの得意じゃないんだよ。昔はそういうの気にした方がモテたからやってたこともあるけど、正直疲れる。家なんて地味で何にもない方が落ち着く」
その指が煙草を探すように無意識に本来胸ポケットがある位置に伸びる。思い出したようにため息をついた。
「だめだめ、今はダメよオレちゃん、我慢しろよ……」
「裕也、説明が終わったら瞬と家の外で一服しておいで。あまり我慢ばかりで縛りすぎるとメンタルによくない」
「本当助かる。ありがと。で、本題ね。これがこの前撮影したMRIの画像。遅くなってごめんね。結論から言うと、副腎に腫瘍がある。まぁあれだけ長い間異常数値を示しててないわけがないとは思ってたけど、下垂体じゃなかったのは救いだったね。下垂体の手術は難しいから……」
いくつかの画像を手早く見せてくれるが、当然ながら瞬にも忍にもよくは分からない。マウスで腫瘍の写った箇所を指してくれて初めてわかる程度だ。
安曇が珍しく瞬に視線を据えた。
「で、ここから先は東條さんではなくシュンに決めてもらいたい。オレの処方した内服の効果を見る限り、獣人化とコルチゾールは何らかの関わりがあるのは確かだとは思う。けど、獣人化に複数の要素が関わっていた場合は腫瘍を摘出するだけで獣人化の100%の阻止ができるとはオレも保証できない。そもそもコルチゾールは生命活動に必要な大切なホルモンだ。完全にゼロにはならない。平均値が正常になるだけ。これをちゃんと理解した上で決めて欲しい。それでも手術を受けるかどうか。非常に少ない例ではあるけれど、腹腔鏡手術は合併症で命を落とすケースだってある。脅しじゃなくて、このリスクを知らせずに勧めてしまうことはオレは詐欺だと思うから」
「──受ける」
ほぼ即答した瞬に安曇が驚く。
「大丈夫? ちゃんと考えた? もっと悩んでくれてもいいんだよ?」
「いや、事情が変わったんだ。グズグズ悩んでる時間はない。それに万が一摘出しても獣人化した場合は……それはそれで他の要因があったって言うヒントになるだろ。時間が惜しい。俺は一刻も早く俺の問題を全部片付けちまいたいんだ」
瞬の言葉にものいいたげに口を噤む安曇に、忍が補足する。
「すまないね。今は裕也にも言えないんだ。けれどそのうち君にも分かってしまうから、その時までは何も聞かないでいて欲しい」
「……分かった。シュンのMRIを見る限り、臓器の配列なんかはヒトそのものだ。だから手術は人間の病院で平気。あんまり気乗りはしないけどまた長谷部に力を借りるしかないかな……」
「いや、それは……なんつうか……俺が言えた義理じゃないんだけど長谷部さん可哀想だからやめろ。はっきりした症状があるなら紹介状だけ書いてもらうわけにはいかねぇか?」
長谷部が一番口が固いんだけどねぇ、と言いながら安曇がスマートフォンの連絡先を眺める。
「理系特進クラスにいたからね……医者の知り合いは他にもいるけど、総合病院の経営者まで行ったやつ長谷部以外にいたかな……」
「まぁ、正直に言えばここまできたら僕たちも君と共犯だ。長谷部さんには残酷なことをするけれど、力を借りるしかない。何かあった時に彼女はおそらく、何も言わずに秘匿してくれる」
「それでオレと繋がりができるならあいつは黙っててくれる、っていいたいんでしょ。違うよ。あいつはそこまでオレに依存してない。──そもそもオレがフラれたんだから」
ええ、と困惑の声を上げる瞬に忍と安曇が苦笑を向ける。
「オンナゴコロは難しいんだよね」
「一筋縄じゃ行かないのが男女だよ」
ふにゃ、と赤ん坊が居心地悪そうに身を捩る。抱き直して、忍が優しい顔になった。
「僕が言ったのはそう言う意味じゃないよ。彼女はこんなに可愛い子供を授かってフラフラになりながら育児に励んでる君を見て、その君に厄介ごとを持ち込む人じゃないってことだ。そういう愛し方もあるからね……」
やるせない顔をする瞬に小さくまつ毛を伏せて「感謝しなくちゃね」と呟いた。
「じゃあオレから連絡しとく。手術に当たってMRIの画像は長谷部と共有するよ。執刀医と担当医は多分長谷部とは別になる。長谷部はたしか専門は呼吸器だったから。
手術の説明とか日程調整とか色々あるから数回は通わなきゃいけないかな。腹腔鏡手術は術後の経過が良ければ退院は早い。骨折の時ほど長くはいなくていいと思うよ」
瞬が心底ホッとした顔をする。ただでさえ残された時間は少ないのに、入院している場合ではない。
「ありがとな。俺の面倒ごとに巻き込んでばっかで悪い。お詫びと言っちゃなんだけどなんでも聞くから愚痴れ。煙草やるし」
途端に医師としての顔を脱ぎ捨てて安曇がげっそりする。
「美桜、見ててもらっていい?」
まだ聞いていなかったが、赤ん坊の名前は美桜というらしい。忍が頷く。すやすやと眠っている娘の顔をちらりと覗き込んで、安曇が部屋を出る。続いて階段を降りた忍が美桜を抱いたまま春香の前に座り込む。何事か言葉をかけた忍に春香が泣き出したのを視界に入れながら、人一人の命を背負う重責を思い知る。玄関を出るなりしゃがみ込んだ安曇も重傷だ。
「いやさ、オレが支えないでどうすんだよって思うよ……オレは別に死ぬ思いして産んだわけじゃないし、春ちゃんみたいに命を吸われながら育ててるわけでもない。ここで父親が支えてやらなかったらオレのいる意味なんてなくなる。強制されてるわけでもないし。けどなんだろ、すっごい追い詰められてる感がすごいって言うか……世のお母さんってすごいよねぇ」
タバコの煙を深く吸い込んで、疲れたように「すごい」を連発する安曇を見下ろして瞬が単純に思ったことをそのまま口にする。下手に慰めようなどと思わない方がいい、瞬には想像もできない世界で戦っているのだから、そんなことを思うのは傲慢だ。
「けどお前……いくら体が無事だからって、普通のやつだって1ヶ月ろくに寝なかったらメンタルおかしくなるぞ。お前がそうなるのって当たり前だし、それでも手伝おうとしてるだけ200点満点じゃねぇの? 俺が言うのもなんだけど、育児って数ヶ月で目に見えて結果がわかるもんじゃねえと思うし疲れて当然だろ。それくらいお前、自分に許してやっていいんじゃねえ? 許しても許さなくても逃げるわけにいかねぇのは変わらないんだ、ラクできるところはラクしろよ。ガス抜きなら付き合うから」
「さすが東條さん仕込み……オレ頑張ってるでしょ……なのに道を歩けば何も知らない爺さんたちがお父さんも手伝うなんてさすが時代が違うねぇ、なんて言う。その一言でまた春ちゃんが追い詰められちゃうのに勘弁して欲しい。それぞれの家の事情があるんだからさ……」
安曇があっという間にフィルターギリギリまで吸ってしまった煙草の吸い殻を地面に押しつけて消す。無言で2本目を差し出してやる。相当なストレスだ。
「こんなこと言っちゃいけないのは分かってる。けどたまに美桜がいなかったらこうはならなかったんじゃ無いかって……」
「多分それは今お前も安曇さんも極限状態だから思っちまうだけだよ。なんでそんなになるまで二人だけで頑張っちまったんだ、俺も忍もいくらでも手伝いにくるぞ? 大丈夫だって……冷静な時のお前はそんなこと思わねえから。お前分かってるか? すっげーしんどい状況を持久戦で逃げ場もないまま戦ってきてんだよ、お前。しょうがねえ」
明らかに滅入ってしまっている安曇に、仕方ねぇなと提案する。
「俺も入院するまでの間な。その間は何とか踏ん張れよ。夜か土日か手伝いに来てやるからさ。お前も安曇さんももっと他人と喋った方がいいだろ。特別にめちゃくちゃ美味い飯を付けてやる」
「……ありがと」
「気にすんなよ」
そのまましばらくたわいない会話を交わす。やっと美桜の名前の由来や小さな指がかわいいと言うエピソードが出てきてホッとする。
「春ちゃんには言わないでよ。教えてないから。Mioってイタリアやスペインではそのまま『オレの』って意味だ。女の子だしいつかオレよりかっこいい彼氏連れてきちゃうかもしれないからさ、ちょっとした牽制」
「すげー親バカだな。お前のそう言う重いとこ、めちゃくちゃいいとこだろ」
思わず二人で笑ってしまう。
「もどろっか。ホントありがと」
「いいよ。忍にも手伝いに行くって言っとかねえとな」
玄関を開ける。予想外にも明るい笑い声が響いた。安曇が瞬をちらりと見る。
「シュンの彼氏って魔法使いかなんか……?」
「いや、まあ今日のはお前らが二人で追い詰められまくってただけだからな……外の人間と話すだけで多分普通に笑えるようにはなるって」
リビングのドアを開けながら忍に声をかける。
「忍。ちょっと相談があって」
「ああ、僕も。ごめんね、君を蔑ろにするわけじゃ無いけど、これから少し様子を見に来てあげたくて」
「ああ、やっぱ? 俺も安曇にそう言ってたとこ。夜か土日か。二人でこればお前が美桜ちゃん見ててくれてる間に俺が特別メニュー作ってやれるし」
以心伝心というのか、忍の行動原理を学んできた瞬は必然的に忍と同じ動きをしてしまうことが多い。躊躇いもなく手助けを申し出てくれる二人に春香が申し訳なさそうな顔をする。
「いいよいいよ、そこまで……あたしがちゃんとしなきゃ」
「ほら、また言っているよ。『ちゃんとしなきゃ』って。充分頑張っているから大丈夫。むしろちゃんとしないで。掃除機なんてかけなくていいしオムツなんてその辺に放り出してていいから」
「言ったろ、俺の家にも賞味期限切れのナンプラーあるんだよ。どこもそんなもんだから気にするな。世の中のやつ意外とそんなちゃんとしてないぜ」
春香が心底ホッとしたように笑ってくれるのが嬉しい。忍の腕の中で寝息を立てている美桜を覗き込んで、瞬が話しかける。
「美桜ちゃん可愛いしな。好きで出歯亀してんだからさ」
毎週火曜日の夜と土曜日の日中に手伝いに行くということで話がまとまり、寝ついた美桜をベビーベッドに降ろす。
「背中スイッチ発動しないねぇ……」
感動したような春香の声に、忍が笑う。
「しっかり寝つかせてしまえば意外とそんなものだよ。眠りが浅いうちに降ろしてしまうと何度も起きて長丁場になるんだ」
さすがにどうしてそこまで知っているんだという顔をする三人を忍がはぐらかす。
「じゃあ、今日のところはこれでね。本当はもう少し手伝っていってあげたいんだけど、このあと気の重い予定が入っているんだ」
そうだった、と一瞬で現実に引き戻された瞬が沈鬱な顔をする。瞬にとっては己の手術など比べ物にならないほど重い話を聞きに行かなければならない。
行きたくない。それを聞いてしまったらもう、変えようもない事実にしてしまうようで。
「さぁ、あと一踏ん張りだ。これが終わったらうんと甘やかしてあげる。あと少しだけ頑張って。僕も君がいてくれないとさすがに辛いから」
感情を隠すプロのような忍でさえこんなことを口にする。それがすでに現実なのに。
「ああ……」
震えてしまいそうな声を喉仏に力を込めて誤魔化す。安曇と春香が顔を見合わせるのを笑顔で誤魔化した忍が扉を閉める。瞬の指先を捉えたその指がいつになく体温を失っていた。
「大丈夫。行こうか」
しっかりとした足取りで歩き出す、そのお前の冷静さが本当は大丈夫じゃない証拠なんだろう……と口にはしないまま瞬の指先が離れた手をもう一度握り込んだ。
一方その頃、仮眠室からの引越しの準備をしてはパソコンの前に座り込んで現実逃避を繰り返していた佑が、暇潰しに瞬の12歳当時の飼い主──火傷の加害者である秋平透の出身校を検索していた。その指がふと止まる。
「え……? これ……忍、関わらせちゃダメだろ……この前のおっさんたちと同じじゃん……」
なぁ、とその声がここにはいない忍に問う。
「あんた、人のために傷ついてばっかでさ……あんたのことは誰が……」
安曇が珍しく自宅に彼らを呼んだので、クリニックの駐車場に車を停めたままそちらへ足を向けながら瞬がどうしてだろうな、と忍に尋ねてみる。忍が笑った。
「裕也らしいといえばそれまでだけどね。育休をとったそうだよ。なんと、一年半」
「すげえ。漢だな」
「自営業の強みだね。本人曰く『このご褒美のために他のスタッフにお金を払ってる』だそうだ」
「あいつ普通に嬉しいだけだろ、一日中安曇さんと一緒って」
「さぁ、それはどうかな……?」
意味深な笑みを見せる忍に疑問符を浮かべたまま、インターホンを押す。
「あっ、東條さん! シュン! ちょうどよかった!」
インターホン越しの安曇の声にかぶるように新生児の泣き声が響いている。これは大変そうだという瞬の印象は家に入って確信に変わった。新生児を抱いてドアを開けた安曇もさることながら、座り込んで呆然としている春香が壮絶な顔をしている。忍が「産後クライシス真っ最中だね」と声をかけた。
「今まで散々奥さんの方が大変なんだからってベタな言葉ばかりかけられてきただろうから、一言だけ。二人ともよく頑張ってる。お疲れ様」
忍の言葉に安曇が額を抑えた。やはり彼は彼で限界のようだ。新生児の育児は母親の辛さはよくクローズアップされるが、育児に父親が協力的な場合は父親の負担も凄まじい。おそらく安曇のことだから、産後間もない春香を寝かせてやろうと夜中の授乳も手伝っているのではないか。
「イヤ、もう本当オレ舐めてた。育児しんどい……けど、こんな状況ならなおさら春ちゃん一人に押し付けられないからさ。ここは二人で乗り切らないとね……」
そうは言うものの、顔色と言葉は真逆だ。瞬がこっそり尋ねてやる。
「……話聞くぞ。大丈夫かよ……?」
「……あとでお願い。オレもう倒れそう」
「……じゃあ、僕は春香の方を」
「東條さんたちが天使に見える……」
ふらつきながら安曇が二階の自室に向かおうとする。忍がリビングで座り込んだままの春香に声をかけた。
「ごめん、僕たちの都合で少し裕也を借りていくよ。その間赤ちゃんは僕が引き受けるから少し休んでいて。ね」
うん、と頷く春香の肩に手を置いて、安曇の腕から赤ん坊を引き受ける。一体どこで身につけたのか、首の座らない新生児の抱き方まで熟知している。
「そんなに泣かないで。お母さんもお父さんも疲れてしまうよ」
忍の声にはパニック発作を起こした瞬さえも落ち着かせる力がある。ぴたりと泣き止んだ赤ん坊に安曇が目を瞬いた。
「泣き止ませようと必死になってると意外とそれが伝わってしまうものさ。話を聞いている間は僕が見ているから、裕也も休んで」
ありがと、と呟いた安曇の複雑な目を見て、階段を登りながら諭す。
「僕は偶然きて今突然向き合ってるからこんなことができるだけ。この1ヶ月毎日頑張り続けてきた君が必死になるのは当然だよ。それに今はこんなふうに僕の腕でも寝てしまうけど、あと1ヶ月もしたら君たちでなければイヤって言い出すさ。君が頑張ってないわけじゃない」
「ああ、シュンが死ぬほど羨ましい。一家に一人東條さん欲しい……」
「悪いけどそれはダメだ、貸し出す程度ならいいけどもれなく俺もついてくるぞ」
安曇が自室の扉を開ける。予想よりも随分とシンプルな部屋に瞬が声を上げた。
「お前のことだからもっと映える部屋にしてんのかと……」
「もともとオレ、あんまそういうの得意じゃないんだよ。昔はそういうの気にした方がモテたからやってたこともあるけど、正直疲れる。家なんて地味で何にもない方が落ち着く」
その指が煙草を探すように無意識に本来胸ポケットがある位置に伸びる。思い出したようにため息をついた。
「だめだめ、今はダメよオレちゃん、我慢しろよ……」
「裕也、説明が終わったら瞬と家の外で一服しておいで。あまり我慢ばかりで縛りすぎるとメンタルによくない」
「本当助かる。ありがと。で、本題ね。これがこの前撮影したMRIの画像。遅くなってごめんね。結論から言うと、副腎に腫瘍がある。まぁあれだけ長い間異常数値を示しててないわけがないとは思ってたけど、下垂体じゃなかったのは救いだったね。下垂体の手術は難しいから……」
いくつかの画像を手早く見せてくれるが、当然ながら瞬にも忍にもよくは分からない。マウスで腫瘍の写った箇所を指してくれて初めてわかる程度だ。
安曇が珍しく瞬に視線を据えた。
「で、ここから先は東條さんではなくシュンに決めてもらいたい。オレの処方した内服の効果を見る限り、獣人化とコルチゾールは何らかの関わりがあるのは確かだとは思う。けど、獣人化に複数の要素が関わっていた場合は腫瘍を摘出するだけで獣人化の100%の阻止ができるとはオレも保証できない。そもそもコルチゾールは生命活動に必要な大切なホルモンだ。完全にゼロにはならない。平均値が正常になるだけ。これをちゃんと理解した上で決めて欲しい。それでも手術を受けるかどうか。非常に少ない例ではあるけれど、腹腔鏡手術は合併症で命を落とすケースだってある。脅しじゃなくて、このリスクを知らせずに勧めてしまうことはオレは詐欺だと思うから」
「──受ける」
ほぼ即答した瞬に安曇が驚く。
「大丈夫? ちゃんと考えた? もっと悩んでくれてもいいんだよ?」
「いや、事情が変わったんだ。グズグズ悩んでる時間はない。それに万が一摘出しても獣人化した場合は……それはそれで他の要因があったって言うヒントになるだろ。時間が惜しい。俺は一刻も早く俺の問題を全部片付けちまいたいんだ」
瞬の言葉にものいいたげに口を噤む安曇に、忍が補足する。
「すまないね。今は裕也にも言えないんだ。けれどそのうち君にも分かってしまうから、その時までは何も聞かないでいて欲しい」
「……分かった。シュンのMRIを見る限り、臓器の配列なんかはヒトそのものだ。だから手術は人間の病院で平気。あんまり気乗りはしないけどまた長谷部に力を借りるしかないかな……」
「いや、それは……なんつうか……俺が言えた義理じゃないんだけど長谷部さん可哀想だからやめろ。はっきりした症状があるなら紹介状だけ書いてもらうわけにはいかねぇか?」
長谷部が一番口が固いんだけどねぇ、と言いながら安曇がスマートフォンの連絡先を眺める。
「理系特進クラスにいたからね……医者の知り合いは他にもいるけど、総合病院の経営者まで行ったやつ長谷部以外にいたかな……」
「まぁ、正直に言えばここまできたら僕たちも君と共犯だ。長谷部さんには残酷なことをするけれど、力を借りるしかない。何かあった時に彼女はおそらく、何も言わずに秘匿してくれる」
「それでオレと繋がりができるならあいつは黙っててくれる、っていいたいんでしょ。違うよ。あいつはそこまでオレに依存してない。──そもそもオレがフラれたんだから」
ええ、と困惑の声を上げる瞬に忍と安曇が苦笑を向ける。
「オンナゴコロは難しいんだよね」
「一筋縄じゃ行かないのが男女だよ」
ふにゃ、と赤ん坊が居心地悪そうに身を捩る。抱き直して、忍が優しい顔になった。
「僕が言ったのはそう言う意味じゃないよ。彼女はこんなに可愛い子供を授かってフラフラになりながら育児に励んでる君を見て、その君に厄介ごとを持ち込む人じゃないってことだ。そういう愛し方もあるからね……」
やるせない顔をする瞬に小さくまつ毛を伏せて「感謝しなくちゃね」と呟いた。
「じゃあオレから連絡しとく。手術に当たってMRIの画像は長谷部と共有するよ。執刀医と担当医は多分長谷部とは別になる。長谷部はたしか専門は呼吸器だったから。
手術の説明とか日程調整とか色々あるから数回は通わなきゃいけないかな。腹腔鏡手術は術後の経過が良ければ退院は早い。骨折の時ほど長くはいなくていいと思うよ」
瞬が心底ホッとした顔をする。ただでさえ残された時間は少ないのに、入院している場合ではない。
「ありがとな。俺の面倒ごとに巻き込んでばっかで悪い。お詫びと言っちゃなんだけどなんでも聞くから愚痴れ。煙草やるし」
途端に医師としての顔を脱ぎ捨てて安曇がげっそりする。
「美桜、見ててもらっていい?」
まだ聞いていなかったが、赤ん坊の名前は美桜というらしい。忍が頷く。すやすやと眠っている娘の顔をちらりと覗き込んで、安曇が部屋を出る。続いて階段を降りた忍が美桜を抱いたまま春香の前に座り込む。何事か言葉をかけた忍に春香が泣き出したのを視界に入れながら、人一人の命を背負う重責を思い知る。玄関を出るなりしゃがみ込んだ安曇も重傷だ。
「いやさ、オレが支えないでどうすんだよって思うよ……オレは別に死ぬ思いして産んだわけじゃないし、春ちゃんみたいに命を吸われながら育ててるわけでもない。ここで父親が支えてやらなかったらオレのいる意味なんてなくなる。強制されてるわけでもないし。けどなんだろ、すっごい追い詰められてる感がすごいって言うか……世のお母さんってすごいよねぇ」
タバコの煙を深く吸い込んで、疲れたように「すごい」を連発する安曇を見下ろして瞬が単純に思ったことをそのまま口にする。下手に慰めようなどと思わない方がいい、瞬には想像もできない世界で戦っているのだから、そんなことを思うのは傲慢だ。
「けどお前……いくら体が無事だからって、普通のやつだって1ヶ月ろくに寝なかったらメンタルおかしくなるぞ。お前がそうなるのって当たり前だし、それでも手伝おうとしてるだけ200点満点じゃねぇの? 俺が言うのもなんだけど、育児って数ヶ月で目に見えて結果がわかるもんじゃねえと思うし疲れて当然だろ。それくらいお前、自分に許してやっていいんじゃねえ? 許しても許さなくても逃げるわけにいかねぇのは変わらないんだ、ラクできるところはラクしろよ。ガス抜きなら付き合うから」
「さすが東條さん仕込み……オレ頑張ってるでしょ……なのに道を歩けば何も知らない爺さんたちがお父さんも手伝うなんてさすが時代が違うねぇ、なんて言う。その一言でまた春ちゃんが追い詰められちゃうのに勘弁して欲しい。それぞれの家の事情があるんだからさ……」
安曇があっという間にフィルターギリギリまで吸ってしまった煙草の吸い殻を地面に押しつけて消す。無言で2本目を差し出してやる。相当なストレスだ。
「こんなこと言っちゃいけないのは分かってる。けどたまに美桜がいなかったらこうはならなかったんじゃ無いかって……」
「多分それは今お前も安曇さんも極限状態だから思っちまうだけだよ。なんでそんなになるまで二人だけで頑張っちまったんだ、俺も忍もいくらでも手伝いにくるぞ? 大丈夫だって……冷静な時のお前はそんなこと思わねえから。お前分かってるか? すっげーしんどい状況を持久戦で逃げ場もないまま戦ってきてんだよ、お前。しょうがねえ」
明らかに滅入ってしまっている安曇に、仕方ねぇなと提案する。
「俺も入院するまでの間な。その間は何とか踏ん張れよ。夜か土日か手伝いに来てやるからさ。お前も安曇さんももっと他人と喋った方がいいだろ。特別にめちゃくちゃ美味い飯を付けてやる」
「……ありがと」
「気にすんなよ」
そのまましばらくたわいない会話を交わす。やっと美桜の名前の由来や小さな指がかわいいと言うエピソードが出てきてホッとする。
「春ちゃんには言わないでよ。教えてないから。Mioってイタリアやスペインではそのまま『オレの』って意味だ。女の子だしいつかオレよりかっこいい彼氏連れてきちゃうかもしれないからさ、ちょっとした牽制」
「すげー親バカだな。お前のそう言う重いとこ、めちゃくちゃいいとこだろ」
思わず二人で笑ってしまう。
「もどろっか。ホントありがと」
「いいよ。忍にも手伝いに行くって言っとかねえとな」
玄関を開ける。予想外にも明るい笑い声が響いた。安曇が瞬をちらりと見る。
「シュンの彼氏って魔法使いかなんか……?」
「いや、まあ今日のはお前らが二人で追い詰められまくってただけだからな……外の人間と話すだけで多分普通に笑えるようにはなるって」
リビングのドアを開けながら忍に声をかける。
「忍。ちょっと相談があって」
「ああ、僕も。ごめんね、君を蔑ろにするわけじゃ無いけど、これから少し様子を見に来てあげたくて」
「ああ、やっぱ? 俺も安曇にそう言ってたとこ。夜か土日か。二人でこればお前が美桜ちゃん見ててくれてる間に俺が特別メニュー作ってやれるし」
以心伝心というのか、忍の行動原理を学んできた瞬は必然的に忍と同じ動きをしてしまうことが多い。躊躇いもなく手助けを申し出てくれる二人に春香が申し訳なさそうな顔をする。
「いいよいいよ、そこまで……あたしがちゃんとしなきゃ」
「ほら、また言っているよ。『ちゃんとしなきゃ』って。充分頑張っているから大丈夫。むしろちゃんとしないで。掃除機なんてかけなくていいしオムツなんてその辺に放り出してていいから」
「言ったろ、俺の家にも賞味期限切れのナンプラーあるんだよ。どこもそんなもんだから気にするな。世の中のやつ意外とそんなちゃんとしてないぜ」
春香が心底ホッとしたように笑ってくれるのが嬉しい。忍の腕の中で寝息を立てている美桜を覗き込んで、瞬が話しかける。
「美桜ちゃん可愛いしな。好きで出歯亀してんだからさ」
毎週火曜日の夜と土曜日の日中に手伝いに行くということで話がまとまり、寝ついた美桜をベビーベッドに降ろす。
「背中スイッチ発動しないねぇ……」
感動したような春香の声に、忍が笑う。
「しっかり寝つかせてしまえば意外とそんなものだよ。眠りが浅いうちに降ろしてしまうと何度も起きて長丁場になるんだ」
さすがにどうしてそこまで知っているんだという顔をする三人を忍がはぐらかす。
「じゃあ、今日のところはこれでね。本当はもう少し手伝っていってあげたいんだけど、このあと気の重い予定が入っているんだ」
そうだった、と一瞬で現実に引き戻された瞬が沈鬱な顔をする。瞬にとっては己の手術など比べ物にならないほど重い話を聞きに行かなければならない。
行きたくない。それを聞いてしまったらもう、変えようもない事実にしてしまうようで。
「さぁ、あと一踏ん張りだ。これが終わったらうんと甘やかしてあげる。あと少しだけ頑張って。僕も君がいてくれないとさすがに辛いから」
感情を隠すプロのような忍でさえこんなことを口にする。それがすでに現実なのに。
「ああ……」
震えてしまいそうな声を喉仏に力を込めて誤魔化す。安曇と春香が顔を見合わせるのを笑顔で誤魔化した忍が扉を閉める。瞬の指先を捉えたその指がいつになく体温を失っていた。
「大丈夫。行こうか」
しっかりとした足取りで歩き出す、そのお前の冷静さが本当は大丈夫じゃない証拠なんだろう……と口にはしないまま瞬の指先が離れた手をもう一度握り込んだ。
一方その頃、仮眠室からの引越しの準備をしてはパソコンの前に座り込んで現実逃避を繰り返していた佑が、暇潰しに瞬の12歳当時の飼い主──火傷の加害者である秋平透の出身校を検索していた。その指がふと止まる。
「え……? これ……忍、関わらせちゃダメだろ……この前のおっさんたちと同じじゃん……」
なぁ、とその声がここにはいない忍に問う。
「あんた、人のために傷ついてばっかでさ……あんたのことは誰が……」
2
あなたにおすすめの小説
【BL】捨てられたSubが甘やかされる話
橘スミレ
BL
渚は最低最悪なパートナーに追い出され行く宛もなく彷徨っていた。
もうダメだと倒れ込んだ時、オーナーと呼ばれる男に拾われた。
オーナーさんは理玖さんという名前で、優しくて暖かいDomだ。
ただ執着心がすごく強い。渚の全てを知って管理したがる。
特に食へのこだわりが強く、渚が食べるもの全てを知ろうとする。
でもその執着が捨てられた渚にとっては心地よく、気味が悪いほどの執着が欲しくなってしまう。
理玖さんの執着は日に日に重みを増していくが、渚はどこまでも幸福として受け入れてゆく。
そんな風な激重DomによってドロドロにされちゃうSubのお話です!
アルファポリス限定で連載中
隠れSubは大好きなDomに跪きたい
みー
BL
ある日ハイランクDomの榊千鶴に告白してきたのは、Subを怖がらせているという噂のあの子でー。
更新がずいぶん遅れてしまいました。全話加筆修正いたしましたので、また読んでいただけると嬉しいです。
ふたなり治験棟 企画12月31公開
ほたる
BL
ふたなりとして生を受けた柊は、16歳の年に国の義務により、ふたなり治験棟に入所する事になる。
男として育ってきた為、子供を孕み産むふたなりに成り下がりたくないと抗うが…?!
今日もBL営業カフェで働いています!?
卵丸
BL
ブラック企業の会社に嫌気がさして、退職した沢良宜 篤は給料が高い、男だけのカフェに面接を受けるが「腐男子ですか?」と聞かれて「腐男子ではない」と答えてしまい。改めて、説明文の「BLカフェ」と見てなかったので不採用と思っていたが次の日に採用通知が届き疑心暗鬼で初日バイトに向かうと、店長とBL営業をして腐女子のお客様を喜ばせて!?ノンケBL初心者のバイトと同性愛者の店長のノンケから始まるBLコメディ
※ 不定期更新です。
待てって言われたから…
ゆあ
BL
Dom/Subユニバースの設定をお借りしてます。
//今日は久しぶりに津川とprayする日だ。久しぶりのcomandに気持ち良くなっていたのに。急に電話がかかってきた。終わるまでstayしててと言われて、30分ほど待っている間に雪人はトイレに行きたくなっていた。行かせてと言おうと思ったのだが、会社に戻るからそれまでstayと言われて…
がっつり小スカです。
投稿不定期です🙇表紙は自筆です。
華奢な上司(sub)×がっしりめな後輩(dom)
兄さん、僕貴方にだけSubになるDomなんです!
かぎのえみずる
BL
双子の兄を持つ章吾は、大人顔負けのDomとして生まれてきたはずなのに、兄にだけはSubになってしまう性質で。
幼少期に分かって以来兄を避けていたが、二十歳を超える頃、再会し二人の歯車がまた巡る
Dom/Subユニバースボーイズラブです。
初めてDom/Subユニバース書いてみたので違和感あっても気にしないでください。
Dom/Subユニバースの用語説明なしです。
怒られるのが怖くて体調不良を言えない大人
こじらせた処女
BL
幼少期、風邪を引いて学校を休むと母親に怒られていた経験から、体調不良を誰かに伝えることが苦手になってしまった佐倉憂(さくらうい)。
しんどいことを訴えると仕事に行けないとヒステリックを起こされ怒られていたため、次第に我慢して学校に行くようになった。
「風邪をひくことは悪いこと」
社会人になって1人暮らしを始めてもその認識は治らないまま。多少の熱や頭痛があっても怒られることを危惧して出勤している。
とある日、いつものように会社に行って業務をこなしていた時。午前では無視できていただるけが無視できないものになっていた。
それでも、自己管理がなっていない、日頃ちゃんと体調管理が出来てない、そう怒られるのが怖くて、言えずにいると…?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる