スパダリ社長の狼くん

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第四章

六話

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 初めて訪れた病院のあまりの静けさに頭痛を覚える。
 そこかしこから死の匂いが滲んでいるように思ってしまうのは、ただの偏見だと分かっているけれど……。
 受付で診察券を出した忍の名を見た看護師が一瞬沈黙する。
「今後の治療方針のお話を。家族にも聞いてもらいたいので」
 静かな声で説明をする忍に微笑んで診察券を返す。お待ちください、と言われるまま待合室の椅子に腰を下ろす。
「なぁ、どうしたらいい……? 聞くのが怖い……聞いちまったらもう逃げられないみたいで今すぐここから逃げ出したいくらいだ……」
 掠れた声でそう言葉にしてくれる瞬がいてくれるから、忍の方は理性を保っていられるのだ。ここで自分が取り乱すわけには行かないから、と。気が付けば幼い頃からずっとそればかりで生きてきたようにも思うが、忍にとってはそれだけ『自分の代わりに不安や恐怖を言葉にしてくれる』存在が必要なのだった。
「大丈夫だよ。僕だって怖い。お互い様だ」
「なぁ、なんでこんな……問題ばっかり起きるんだろうな。どうして……」
「強く光るものは、濃い影も落とす。それでも、光も影も君の一部だ。無くせないし、無くす必要もない」
 呼び出しパネルに忍の番号が明滅する。覚悟を決めたように立ち上がった忍が、躊躇している瞬に手を差し伸べた。
「今はまだ、僕が手を貸してあげられるからね……。そのうち一人で立てるようになるんだよ」





 家族と説明された瞬との間に血縁関係はないという説明に一瞬不可解な顔をした医師に忍が微笑む。
「まだ日本では同性婚が認められておりませんので」
「ああ、そういう……差し出がましいことをお尋ねしますが、血縁のあるご家族は?」
「残念ながら僕は天涯孤独ですので」
「そういうことでしたら……」
 こんなところでまで血縁が優先されるのか、と泣きたくなる。何事もなかったかのように笑顔で受け流せる忍の強さはいいことなのかわるいことなのかわからないけれど。
「では、まずは詳しい説明から……東條さんのがんは小細胞がん、発生しているのは肺門部です。転移しやすい、がんの成長スピードも早いというのが特徴です──」
 頭が理解を拒むように何も感じ取れなくなる。何を言っているのか全く分からない。気がついた時には、忍に支えられていた。
「大丈夫? ごめんね、起こして。これだけ君と決めておきたくて。延命処置、なんだけど……」
 瞬が目を見開く。しないつもりでいるのかと震える指先が問うている。その赤銅色の瞳を見つめ返して、忍がはっきりと頷いた。
「そこまで苦しみたくないんだ、いくら僕でも……延命したところで一週間持つか持たないか、その間意識もなく痩せていくだけの僕を見ていても君も辛いと思うから……」
 いやだ、と喚き散らしたいのを精神力を振り絞って耐える。今までどんな事態からも逃げずに生きてきた忍の最期の逃避をどうして瞬が禁じられるのか。ここで瞬が涙を流してしまえば忍はまた瞬の気持ちを優先してしまうから、何が何でも耐えろと手首を握りしめる。
「治療は在宅でいいのですか?」
「はい。必要な時に緩和ケアが受けられればと……ただ本当に末期に入った時には病床を一つ空けていただけるでしょうか」
 分かりました、と医師が頷く。痛みに踠く忍を目にして瞬が平常心でいられるとは思えない。これ以上瞬に負担を負わせたくなかった。
 では今日のところはこれで、と医師がカルテをたたむ。そして忍と瞬を励ますようにこう付け加えた。
「病の診断を受けたとはいえ、東條さんは東條さんのままです。絶望したくなる気持ちは当然ですが、これは気休めにしか思えないでしょうが治るケースだってある。ともかくも、今目の前にいる東條さんを大切にしてあげてください」
 何も言わずに腰を上げた瞬がふらつく頭を押さえながら足早に自動ドアを抜ける。保険証と処方された薬を受け取って忍が車に戻る頃には、パーキングで座り込んだまま車の影に隠れるように涙を落とす瞬の姿があった。
「……ごめんね。辛い思いばかりさせてしまって」
 小さく咳き込みながら忍が詫びる。佑にもかけた謝罪を改めて口にした。
「ごめん。守ってあげられないのなら手を差し伸べるべきじゃなかった……」
「違う……違うから……お前がいてくれたから俺は……お前に会えたこと、何より嬉しかったからそんなこと言うなよ……」
 僅かに滲んだ涙を誤魔化して、最愛の瞬のために咲う。
「ありがとう。君がいてくれてよかった。いい子だからそんなに泣かないで」





 マンションの自室に帰っても、2人とも食欲が湧かない。リビングでソファに座り込んで、ただただ離れたくないというように身を寄せる。
「たくさん言いたいことを溜め込んでるんじゃない?」
 気遣ってくれる忍に、瞬がかぶりを振る。
「逆だ。何も……何も湧いてこない。お前のそばにいられればなんでもいい」
「そうか。本音は?」
「っ……い、逝くなよ、置いていくなよ……なんでそんな落ち着いてるんだよ……」
 こんなことを言われても忍にもどうしようもないのにと思うのに、抱えきれない想いが行き場をなくして……苦しい。
「1人になんて絶対しないってあんだけ言ってたのに……嘘ばっかじゃねえかっ……」
 散々泣いて枯れてしまったと思っていたのに、涙腺というのは意外としぶとい。枯れてくれよと願う。これ以上心配させないために、涙腺など無くなってしまえばいい。
「うん、ごめんね。僕は君に守れない約束ばかりしてしまった。責めてくれて構わない」
 悲しそうな忍の瞳を見るのが怖い。せめてもう少し、告げられた病に抗うそぶりを見せてくれていたら……。そこまで考えて、不意に恐ろしいほどの絶望に襲われた。
「忍……お前、もしかして」
「うん……?」
 尋ね返してくれる忍にそれ以上は言えず、細い肩を抱きしめる。
(お前、本当は……安心してるんじゃないのか。もうこれ以上戦わなくていいって……)
「瞬……? だいじょうぶ──」
 口にしかけた忍の唇を無理やり塞ぐ。お前は何度それを人に繰り返してきてやったんだと問い返すように。そしてきっと、忍自身は誰からも大丈夫かなどと気遣われずにきたんだろう、と意地を張る忍の幼さを溶かすように丹念に舌を絡める。
「お前が弱音を吐く番だろ? 俺のことなんかどうでもいい──俺は本気だぞ。泣けないなら泣かせてやる。溜め込んでんのはどっちだよ……」
「それは怖いな……」
「真面目に聞け。いつからそうやって笑って受け流す癖だけで乗り切ってきたんだよ。いくらそれがお前の生き方だとしても理不尽なことは理不尽だと怒れ。どうして人より何倍もキツい思いを堪えて努力してきたお前がこんなことになるんだって、本当は悔しいだろ? どうして僕がって。その声を無視したらお前、死んでも後悔するぞ。何も自暴自棄になって吐くほど飲めだとかそんなことは言ってない。ただ、お前の中に溜め込んでるその理不尽に対する悔しさを隠すなよ。そんなん悔しくて当たり前なんだから……周りに優しくすることでお前自身の感情から目を逸らすなよ。たまにはお前の声も聞いてやれ。聞いてやれないなら俺が聞くから」
 力ずくで腕の中に閉じ込める。忍ならば本気になれば外してしまえるだろうけれど。
 駄々をこねるように突き放そうとする腕を捉えて引き込む。このための体格差だったと今なら思う。抗っていた体が不意に力を失う。限界まで堪えたSOSを忍がようやく口にした。
「どうして僕なんだ……僕はこんな、こんな未来のために努力してきたんじゃない。こんなことになるなら初めから何もしないほうが良かった……」
 震える喉からこぼれる本音を抱きしめて聞いてやりながら、瞬が頷く。
「ああ、そうだな」
「社員の生活? 会社の未来……? そんなものどうだっていい。僕だって選べたのなら自分のために生きた。僕がこうなるしかないような環境だったんだ、仕方ないじゃないか……僕だって好きでこんな慈善事業のような生き方をしてるわけじゃない。僕はただ、僕の言葉を聞いて欲しかっただけだ……誰も助けてくれないんだからこうするしかないじゃないか。でもそれがこんなペナルティを追うほどのことなのか……?」
「俺は聞いてる。ちゃんと聞こえてるから大丈夫だ。お前のやってきたことは何も間違いじゃない」
「僕、は……」
「お前が今まで誉めてきた誰よりお前は頑張ってる。もういいから」
 望みもしないのに嗚咽が漏れる。いつの間にこんなに追い詰められていたのかと思うほど。抱きしめてくれる瞬の体温を縋るように指で辿る。
 怖いな、と痛感する。ここまで己を崩壊させるまでに成長した男としての瞬の魅力が。縋ってしまえと忍の中で声が響く。
「瞬……助けてくれ……こんな終わり方をしたくない……」
 瞬がやるせない瞳をする。それを叶えてやれないから、だからこそ。
「……助けてやるよ。お前のその地獄から抜け出させてやるよ」
 嘯いて、忍の涙を唇で救う。
「俺にできることなんでもしてやる。お前にやれるもの、なんでもやるから」
 無音の部屋に響く嗚咽が自分のものでないというだけで、これほど苦しいものなのかと瞬が瞳を細めた。
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