聖灰と守護者は眠る

おシオ

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プロローグ

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 その日は良く晴れた、気持ちのいい南風の吹く日であった。
 ぼくは窓を両開きいっぱいに開けて、体の隅々にまで行き渡るくらいに大きく空気を吸い込んだ。午後を回ってぬるくなり始めた空気に混じって微かに鼻腔をくすぐる青い匂いは、家の裏にある小さな丘に自生する蔦苺の花のそれで、ぼくはすっかり嬉しくなった。またひと月もすれば、あの琥珀色の蜜に似た果実を味わえるかと思うとぼくの胸は躍るようだった。
 木漏れ日の光は粒になってぼくや芝に降り注ぎ、短い雨期の終わりを告げていた。しょっちゅう天候が変わる割に大きな災害もなく、変化に富んでいるところが気に入っていた。
 ぼくははっと我に返る。それから、背後の室内を振り返り、静まり返っていることを確認した。それから窓の縁の身を乗り出して、見え得る限りの範囲を注意深く観察する。庭と森を区切るように並んで生い茂る低木には、朝方通り過ぎた霧の置き土産か、露がまだ硝子のように輝いている。そよと風が吹く度、それらは揺れたり落ちたりするので、辺りに異常がないか窺うぼくの気を度々逸らさせた。
 窓は地面からぼくの頭より少しだけ低い程度の高さにあるので、慎重を期してぼくは体の向きを変えた。
 飛び降りた時に音を立てないように、そっと脚を伸ばしてできるだけ低い位置で降りたい。
「よい、しょ……!」
 つい、くせで小さく呟いてしまったことに後で気付いて慌てて口を押さえた。そのまま固まって目だけで辺りを見回すが、特に変わったところはない。ほっと僕は息をついて、今度こそ黙って柔らかい草の上に降り立った。先に靴を履いていて良かった、やはりこちらも露でしっとりとしていて、素足や靴下では小さな不快感を得られたことだろう。
 風がぼくの茶色の髪をかきあげていく。被った海月帽は浮き上がらずに済む程度の、優しい風。
 気持ちいいな、と思いながらも、早速ぼくは家の壁伝いに移動を始める。ぐずぐずしてはいられない。
 そうして先生が植えた苦い実をつける木を過ぎると、玄関が見える。いくらぼくがどじでも、こっそり家を抜け出すのに、正面から出て行くほどではない。服の裾が引っかかるリスクを冒してでも、生け垣を超えていかなければ。ここまで回り込んできたのは、一番往来がある玄関周りの様子を見ておきたかったからだ。もし、既にぼくの脱出が露見しているなら、そこに追手が飛び出してくるなりうろついているなりの光景が見られるだろうし、その場合は早々にぼくは降参して出て行く選択をするしかなかった。まだ庭に出ただけなので、軽く叱られるだけで済む。
 果たして、玄関や正面の庭は無人であった。ぼくは千載一遇のチャンスにどきどきした。
 庭を出れば森。まだ一人では歩くことの許されていない危険な場所。日光の当たる明るい庭と鬱蒼とした森との境界ははっきりと見て取れる。
 隙間なく葉が茂る生け垣の突破方法は一つしかない。小さくつばを飲み込んで、ぼくは家の壁際から助走をつけて一気に腰ほどの高さのそれを飛び越えた。
 服の裾が枝の先に引っかかって破れる音がしたが、体はそのまま想定通りに墜ちた。着地は勢いあまってつんのめるようにして膝と手ですることになった。各所汚れたが痛みはないので、まあよしとする。
「できた……! テオ様の言った通りだ、やればできるんだ!」
 達成感に破顔した。何度も練習やイメージトレーニングをしてきたが、こうもうまくいくとは。嬉しくて飛び跳ねたかったが、状況を忘れてはいない。土を払いながら立ち上がって、ふと気付く。
 今日は一人。手入れをしていない草むらや木の影が、いやに濃く見える。
 いつまでも日の当たらない場所のような、まとわりつくような冷気と湿気にぶるりと身を震わせた。先生とよく取りに行く白殻茸なら好むような環境なんだろうが、ぼくには箒の先で背筋を触られるようないやな感覚だった。
「……」
 何となく早足で、ぼくは歩き出した。家からはこちらの森の方は良く見えないことは、普段家から窓を見る自分自身がよく分かっている。庭から抜け出る時より見つかりにくいだろうと見当をつけ、いくらか警戒心は薄らいでいる。
 しかし、次に警戒すべきなのは目の前に広がっている森の方だと切り替える必要があった。夜になると狼の鳴き声が聞こえることもあるし、灰色の人形みたいな何かを見かけたこともあるし、昼間でも大きな猿のようなものが歩いている。先生はなにか見間違えたのだと言っていたけれど、だからといって絶対に一人で森に行ってはいけないと怖い調子でぼくに言いつけた。それはつまり、やっぱり危ないからなのだ。
「大丈夫……いこう」
 かすかに恐怖心が芽生えたことを自覚して、自分に言い聞かせる。村まで行くのに、何度も先生と歩いた道だ。薄暗いだけの、ただの道。もう少し行くと、頭に苔の生えた亀のような岩が見えてくる筈だ。
  

 そう思い続けて、もうどれくらい経ったろうか。
 懐中時計を上着のポケットから取り出して開く。年季の入った真鍮のそれは、いつだって正確に針を動かしている。ぼくは、窓から出てくる前に見た部屋の振り子時計のことを思い出した。十分弱の道のりの筈が、かれこれ二時間ほど彷徨っている。
 この調子だと夜を迎えても目的を果たせる気がしないが、ならばまっすぐに家に帰ることができるかと言われても無理な話だった。にっちもさっちもいかないとはこのことだろうな、とぼくは痛感していた。
 靴の下で、黒い草がじゃみと音を立てる。ざわざわと木の葉が擦れ合う音が、人のひそひそ声に聞こえてくる。心臓の音がうるさいほど鳴っている。
 知らない草の匂いが風と共にやってきては、嘲笑うように肌をかすめていく。
「ど……どうしよう、これって迷子なのかなあ……」
 つい声に出して呟いてしまうと、それが音叉のように自分の中に反響し合って不安な心を増幅させていく。
 気付けば、見たことのない小川が流れている。小さいとはいえ、両岸にはしなだれるほど草が生えていて、背の低いぼくの視界を奪う。
 かきわけてよく見ようと触った途端、鋭い痛みが走る。
「痛っ!」
 ひっこめた手を見ると、人差し指の先に薄っすらと切れ目が入って、赤く血が盛り上がったかと思うと数的ほどぽたぽたと落ちた。ぼくは何だか泣きたいような気持ちで指をくわえて血を舐めとる。
 鉄を舐めたことはないが、本にはそう書いてある。この味が鉄の味なのかな、と逆説的に思いながら、ぼくは仕方なく小川とは別の方向に向かう。
 しかし脚が疲れを訴えていた。ぼくはふらふらと手頃な岩に寄っていき、腰かける。ふうと息を吐いて落ち着くと、ずしんと体がより一層重くなったような気がした。
 腹の虫が悲しげに鳴いた。水も食べ物も持たずに出てきたので、空腹をどうすることもできない。森の中にあるものは、勝手に口にしてはいけないときつく禁じられている。
 ぼくはなんだか馬鹿らしくなって、ちょっと笑った。
「言いつけを破って一人で出てきたのに……まだ言いつけを守る気があるなんて、変なの」
 だが、こんな筈ではなかった。目的地の目星は付いていたのだから、一瞬家を抜け出して、ほんの数十分で帰って来られる筈だったのだ。それがこのざまである。自分はやはりどじなのだ、と突き付けられた気がして、岩の上で膝を抱えて、ぼくは鼻がつんとして涙が滲んでくるのを感じていた。
「……先生、怒ってるかなあ。だまっていなくなったし、服のすそも破いちゃったし、ちょっとだけケガも……全部しちゃいけないことなのに……ぼくのばか、ドジ」
 言いながら、自分の情けなさにとうとう泣けてきてしまった。
 やはり自分は世間知らずの子どもなのだ。いくら本を読んでも、先生に教わっても、結局は頭でっかちになるだけで経験としては何も分かっていない。外への憧れもこうして現実にせせら笑われて、ぼくはひどく惨めな気分であった。
「うう……ぐす……ぼくはただ……、……?」
 不意に、ぼくは膝にうずめていた顔を上げる。じゃぶ、と音がした気がした。
 そして、強烈な――獣の匂い。
 小川の岸辺の鋭利な草をかき分けて、それはぬっと現れた。
『ググググ……グギギイイイイ……』
 耳障りな低い唸り声に、全身が総毛立つ。
 優にぼくの背の何倍もあるそれは、手足が異様に長く、顔の大きな猿だった。いや、ぼくの知っている図鑑で見た猿よりずっと人間みたいに二足で歩き、顔の真ん中にある一つだけの目玉も大魚みたいで、全身に白い毛が生えていた。
 間違いなく、こっちを見ている。縦長の目に、耳まで裂けそうに大きな口からは黄色い歯が見える。生理的に嫌悪感の否めない、狂気走った笑みを浮かべているかのようだった。
 手足が震えて、力が抜けた。
「……ぁ……」
 蛇に睨まれた蛙とはこういうことだろうか。体が動かない。恐怖で歯の根が合わない。
 だってそれは、明らかに、自分より大きくて、強くて、野蛮で、どうしようもない。
 突然そいつがこちらに駆けだした。瞬きもせず、ぼくをその目に映したまま、まっすぐに。
「ひっ、やっ、やだ、っ……!」
 逃げる間もなかった。馬鹿みたいにでかい手が、ぼくの胴を鷲掴みにして持ち上げた。
 その衝撃で、骨が軋んだのが分かった。とてつもない握力に、意識が遠のく。目の前に、にいいと笑んだ化け猿が腐臭の強い息を吐いた。
「っう、……ぁえ……っ」
 ぼくはこらえることなく胃の中のものを全部吐き出した。猿は吐瀉物を器用に避けた。
 胃液でのどが痛い。痛みで視界が狭窄する。心臓と呼吸音ばかりが耳の奥で大きく響く。
 ――食べられる、と思った。あの歯で手足をもがれ、首を持って脊髄を引きずり出してかみ砕いて啜られる。それか、遊ばれるんだ、と。痛めつけて千切ったり投げられたりして、ただただ残酷に殺される。きっとすごく痛い。すごくすごく。いやだ、いやだ、やだやだやだ、こわい。
 と――次の瞬間。
 ぱりんと薄い硝子の弾ける音がした。途端、ぼくは地面に落とされ、猿は顔面を手で押さえて悍ましい悲鳴を上げた。何が起こったのか、ぼくは比較的すぐに分かった。先生に常に持たされていた蛇の目石の首飾りがばらばらになって落ちた傍に散らばっていた。まじないを込めたお守りだったのだろう。
 猿は怒り狂った声で顔を押さえたまま地面を転がり、一時的かもしれないがぼくのことを忘れたようだった。一方で不思議と僕の意識ははっきりと戻っていて、体の痛みもわずかに和らいでいた。
(今、逃げなきゃ……!)
 あの化け猿を殺すことは出来ない程度であれ、術が込められた首飾りにぼくは感謝をして、猛然と走り出した。
 何処へかは分からないが、今走らなければ確実に死ぬ確信があった。もうお守りのようなものは持っていない。走るしかなかった。
 幸いぼくは、脚は遅くない。あっという間にその猿から距離を取る。
 だが、安心することは出来なかった。森の中をけたたましい声が飛んでくる。甲高く、低く、様々な音程で、思い思いの発音で、しかし耳にこびり付いたあの響きで。
『ギイイ、ギャギイイ!』『イイイィダ! イア゛!』
 あの猿と同じだ、と血の気が引いた。一頭じゃなかったんだ、そう分かった途端、また恐怖がぼくの脚をもつれさせた。
「あっ、」
 足元が、ない。
 ぐらりと体が傾く。臓腑が浮く感覚。地面は唐突に途切れていて、眼下には広大な樹海が広がっていた。
 時間がゆっくりと流れているように見えるのは、これが走馬燈だからだろうか。さっきまで自分がいた場所から、三頭の化け猿が追うように飛び降りてくる。
 狩りだったんだ、と直感した。彼らはこんな崖程度、飛び降りたとて怪我もしない。だがぼくは違う。地面に叩きつけられ、死ぬか全身の骨を砕かれ虫の息だ。彼らは、獲物のぼくを崖に追い詰めたんだ。最初から最後まで、ぼくには何もできなかった。お守りも意味はなかった。
 不思議ともう怖くはなかった。
 短いぼくの生が脳裏を過る。初めて花冠を作った日。初めて村まで行った日。眠れない夜に手をつないでくれたぬくもり。たくさんの、小さな思い出が溢れ出して止まらない。
 そしてそのどれもに寄り添ってくれていたひとが、今ここにいないことがとても寂しくて、もう会えないことが辛くて、ぼくは胸が張り裂けそうだった。
  
「ごめんなさい、先生――」
  
「――本当に、困った子だ」
  
 宙に投げ出された小さな体を、まるで綿でふんわりと包み込むように受け止めたのは、黒衣の男であった。
 纏った長上着も制帽も黒く、立てた襟は頬を隠すほど大きい。背の高さと帽子、固く厚い上着の生地のせいか、円柱のようなシルエットであった。その眼光はぎょろりとして、一見すると仮面のように無表情が張り付いているかのようであった。しかし、今しがた発したその声音は穏やかで、呆れと疲れ、そしてその奥には慈しみが滲んでいた。
 少年――あるいは少女はぽかんとして、男を見上げた。重さを失ったかのように少年の体は男とともに崖の中程の宙に浮いていた。男の足元は見えない板の上に立っているように揺ぎ無く、少年の体は水に浮いているように時折揺れ動くのを、男が腕で固定しているような状態であった。
 そうしている間に、男は続いて落ちてくる化け猿を人差し指で軽く指し示した。刹那、白い毛の獣たちはざらざらと大きな音を立てて、砂利のような粒に分解された。はっとして少年がそちらに目を向けた時には、大きな雪片の如く風に乗ってどこへか消えていった。
 その光景は美しくさえあり、少年は夢を見ているような心地で、ぼんやりと大粒の涙をこぼしていた。小さな唇が動く。
「せ……んせ……?」
「はい。あまり心配させないでください」
 淡々と、微かに怒気を混じらせた声で低く男は少年に囁く。途端、少年はわっと男の胸に頭を押し付けて、しがみついた。咳を切ったように泣きじゃくる少年に、男はされるがまま黙って見つめていた。併せて、あたたかな光に包まれたかと思うと急速に少年の傷と痛みは消えていく。
「うう、ふぁああん……! せんせぇ、先生……!」
「どうして黙って森に入ったのですか? あれほど危ないと教えていたでしょう」
「ふぐぅ……ごめんなさい……! あの、ぼく……この前のお散歩で、とっても素敵なお花を見つけたんです。白くて、手のひらくらいの大きな、花びらの……その時は遠くで取りに行こうとは思わなかったんですけど……帰ってから、だんだんとそのお花が欲しくなって……咲いているうちに摘みに行かなくちゃって思って……それで……」
 成程、と男は合点がいったようだった。少年は植物の種類に明るい訳ではないだろうが、得てして多くの花はあまり開花期間が長くない。本来の受粉という目的を果たすのに、虫なり風なりの条件が整った頃に咲くようになっているので、人間による品種改良を経ていない野草などでは特に、美しく咲いている期間も時期もまちまちであろう。
「香りや花粉に魅了の効果があるものだったかもしれません。危険ですので、欲しいならそうと私に言うべきでした」
 見た目や低い声の割に丁寧な口調で咎めるように言うと、少年は目元を擦りながら唇を少し尖らせた。ほんの少し、恥ずかしそうに口ごもりながら。
「内緒で欲しかったんだもん……先生に、いつもありがとうって、あげたくて……」
 男は眼を瞬かせた。
 それからふ、と目を細めて、少年のふわふわした茶髪と捩じれた黒い角にそっと頬を寄せた。
「その気持ちだけ、いただきます。私は、あなたが生きていてくれることの方がずっと嬉しい。……無事でよかった」
「うわーんごめんなさあい! もうしませぇん……!」
  
 大切そうに男はその小さな塊を抱きしめたまま、夕闇が忍び寄る藤色と茜色の狭間を流れ星のように飛び去った。
  
  
  
  
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