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一 : 命を削りて尽くす忠-(5)父も頼りとする懐刀
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翌日。三中老や奉行達が詰問の為に当該の大名家を訪れるも、事態に進展は見られない。その時間的猶予を縫い、利長はどうしても或る人物から意見を聞いておきたかった。
起床後、利長が朝餉や身形を整えた頃合に、意中の人物は現れた。
「早いですね」
驚く利長に相手は事も無げに答える。
「今は一刻も惜しいですからね。いつ事態が動くか分かりません故」
冷静沈着に応じる様子に、利長は頼もしさすら感じる。
高山“右近”重友(長房とも)。天文二十一年生まれの四十八歳。彼が今日に至るまでの道のりは“波瀾万丈”の一言に尽きる。
摂津の国人・高山“飛騨守”友照の長男に生まれ、永禄六年〈一五六三年〉七月に耶蘇教(キリスト教)の教えに感銘を受けた父や家族と共に受洗、公正を意味する“ジュスト”の洗礼名で吉利支丹となる。高山家は当時松永久秀の麾下にあったが、久秀の主家・三好家の弱体化で独立。永禄十一年〈一五六八年〉九月に足利義昭を奉じて織田信長が上洛するとこれに従い、摂津国の守護になった和田惟政の麾下に入る。
元亀《げんき》二年〈一五七一年〉八月、白井河原の地で荒木村重勢に敗れた惟政は討死、跡を継いだ惟長に高山家は引き続き臣従したのだが……何を思ったか惟長は和田家中の主柱である高山父子の謀殺を企図。計画は事前に漏れるも“疚しい点はない”と父子は受けて立つ事にした。元亀四年〈一五七三年〉三月、高槻城に呼び出された高山父子は家臣十五名を連れて出仕。主君と対面する最中、予め潜んでいた和田家家臣が押し入ってきた。蝋燭の火が消え真っ暗闇の中で乱戦となり、右近は惟長に致命傷を与えるも自らの首半分を斬られ重体となった。周囲は死を覚悟したが奇蹟的に回復、これを“神が助けてくれた”と捉えた右近はさらに耶蘇教へ傾倒していく。その後、村重の家臣となった高山家は高槻四万石が与えられた。天正三年頃、友照は家督を譲り右近が当主となる。
天正六年十月、村重が織田家から造反。右近は村重に妹や息子を人質に出して翻意を促すも失敗。一方の信長は右近が尊敬するオルガンティノ神父に「右近を降らせたら耶蘇教の布教を後押しするが、失敗したら弾圧する」と脅し、右近の元へ遣わした。オルガンティノは「信長に降るのが筋だが、よく考えよ」と伝えたが、家中は荒木派と織田派で二分し、右近は煩悶した。荒木に付けば“宗教”が、織田に付けば“家族”が、それぞれ犠牲になる。悩みに悩み抜いた末に出した結論は――家も領地も手放し、一人の吉利支丹として紙衣一枚の姿で城を出たのだ。吃驚仰天の選択に村重も信長も度肝を抜かれ、村重は人質を返還し信長は対面した折に愛用の小袖と愛馬を授けた。荒木村重の謀叛を鎮圧させた後、右近は織田家の直臣となり所領も安堵された。
天正十年六月に本能寺の変で信長が横死すると、中国大返しで畿内に戻ってきた羽柴秀吉に逸早く麾下へ入り、山崎の戦いでは従兄弟の中川清秀と共に先鋒を任された。翌年の賤ヶ岳の戦いでは大岩山砦の中川清秀が討死・賤ヶ岳砦の桑山重晴は守りを放棄する中、右近は持ち場である岩崎山砦に押し寄せる柴田方の軍勢を凌ぎ羽柴秀長の本陣・木ノ本砦へ引き揚げた(一説には戦わず木ノ本へ逃げ込んだとされるが、近年は疑問視されている)。その後も秀吉に従い各地を転戦、天正十三年〈一五八五年〉閏八月に明石六万石(十二万石とも)へ加増転封している。
しかし、転機が訪れたのは天正十五年六月、秀吉が伴天連追放令を発布。理由は“吉利支丹の強い結束で一向一揆のような事が起きるのを恐れた為”、“伴天連や吉利支丹が仏教を迫害・排斥した為”、“日本人が南蛮商人により奴隷として海外へ売られた為”など諸説あるが、耶蘇教を秀吉が危険視した事は確かだ。同時に秀吉は諸大名へ棄教するよう促し、黒田孝高や小西行長などが応じている(但し、本気で禁教すれば一揆へ発展する可能性があったので、表向き棄教し隠れて信仰するのは黙認していた)。ところが――右近は『信仰を捨てるくらいなら大名の地位を捨てる』と断固拒否。あの手この手で翻意を試みるも右近の意志は揺るがず、改易された。その後は行長の元に居たが天正十六年〈一五八八年〉に前田利家の元に移っている。天正十八年には秀吉の勘気が解けたらしく、二万六千石の扶持で客将の扱いとなった。
酸いも甘いも経験してきた右近は千利休の優れた弟子“利休七哲”の一人に挙げられる程の人物で、その交友は大名から耶蘇教関係者・文化人・豪商など幅広かった。加えて文化の最先端である畿内を地盤にしてきた事から築城技術や教養を兼ね備えていた。そして何より頭の回転が速く信仰の為に所領も地位も擲つ潔さ・忠誠心などから利家の懐刀として重用されていた。
「父上は?」
「よくお休みになられております。……余程、疲労が蓄積されておられたのでしょう」
心配気に答える右近。熟睡しているのは良い事だと前向きに捉え、利長は切り出した。
「この先の展望について、意見を伺いたい」
訊ねられた右近はやや沈黙し、静かに返す。
「……殿(利長)は、どう思われます?」
「婚姻を結んだ者は百戦錬磨の癖者揃い。あれやこれや理由を捏ねて追及を躱すだろう」
嘆息しながら見解を述べる利長。右近も同意らしく頷いた。
典型的な猪武者で直情径行な性格の福島正則でさえ、狡猾な一面を持っている。最も篭絡の可能性が高い正則ですらそうなのだから、他の者達は言わずもがな。家康同様に非を認めないだろう。
問題は、この後だ。『御掟』を破っているのは明白なのに、当事者達は否定する。両者の言い分が食い違う状況で、どう裁くか。
「右近は、父上から意見を求められたか?」
利長が問うが、右近は首を横に振る。
「いえ。大殿(利家)は自らの肚の内に収めておくみたいです」
何かあれば知恵袋の右近に助言を求めていた利家だが、今回の件は別のようだ。逆に言えば、他人に事情を悟られたくない程に難しい案件だと推察出来る。
その答えを聞き、やはりかと納得する利長。自分や右近とは次元の違う立ち位置にある父は、我々が推し量るのも烏滸がましいくらいに苦悩しているのは確実だ。家康の暴走を止められるのは自分のみと分かっているから尚更だった。
室内は朝の穏やかな明るさに反して重々しい雰囲気に包まれる。沈黙を破ったのは右近だ。
「これは私の見立てになりますが……」
前置きを述べた上で右近は自論を述べる。
「内府様から武力行使に出る可能性は限りなく低いです。もし仮に攻めるとなれば大坂を目指す事になり、これは“上様へ刃を向ける行為”と解釈され、討伐の大義を与えてしまいます。流石の内府様もそのような愚を犯すことはありませんでしょう」
大阪へ移徙した事で、秀頼という“玉”はこちらが握っている。その為、“理不尽な言い掛かりだ!”と幾ら家康が訴えても、兵を挙げれば“公儀に反旗を翻した!”と利家達へ討伐する正当な理由が出来る。戦闘になるとすれば利家側から兵を差し向け、家康が迎え撃つ形に限定される。武力衝突になるか否かは、利家の胸三寸次第である。
「大殿も、内府様の目に余る振る舞いを苦々しく思っておられるでしょう。然れど、上様のお膝元である大坂・伏見で騒擾を起こしてまで大老筆頭の内府様を退治されようとされるか。……恐らく、決めかねておられるかと」
複雑な表情で右近は語る。その内容は利長の考えと概ね一致していた。多少の差異はあるとするならば、父は戦に慎重的な方がやや優勢と見ている点か。
全ての関係者の聴取を終えた時、父はどういう判断を下すのか。知恵者の右近から手掛かりを掴みたかったが、それも難しいようだ。
「殿」
声を掛けてきた右近は、険しい表情のまま続ける。
「我が前田家のみならず、豊家の命運は大殿に懸かっております。くれぐれもご無理をなさらないよう、折に触れてお伝え下され」
右近が切実な訴えに、利長も黙って頷く。
聞き方次第では“隠居した利家が依然実権を握り、当主の利長はお飾りである”とも受け取れるが、実際その通りだ。父は豊臣家の大黒柱で、利長は父の負担を少しでも軽くするだけで手一杯。右近の心配も重々承知しているものの、あの父が「お体を労わって下さい」と進言して聞き入れるとは思えない。
「……分かった。急に呼んで済まなかったな」
「とんでもありません。相談したい事がございましたら何なりとお呼び下さいませ」
そう言い、一礼してから下がっていく右近。十歳下の利長に対しても一家臣として接してくれる右近の存在はありがたかった。
会談を終えても、利長の気持ちが晴れなかった。また一つ重い荷を背負った心地だが、いつもの事だと慣れていた。偉大な父にいつまでも縋り切りでは駄目だと思う反面、頼らざるを得ない自分にもどかしさを抱いた。
起床後、利長が朝餉や身形を整えた頃合に、意中の人物は現れた。
「早いですね」
驚く利長に相手は事も無げに答える。
「今は一刻も惜しいですからね。いつ事態が動くか分かりません故」
冷静沈着に応じる様子に、利長は頼もしさすら感じる。
高山“右近”重友(長房とも)。天文二十一年生まれの四十八歳。彼が今日に至るまでの道のりは“波瀾万丈”の一言に尽きる。
摂津の国人・高山“飛騨守”友照の長男に生まれ、永禄六年〈一五六三年〉七月に耶蘇教(キリスト教)の教えに感銘を受けた父や家族と共に受洗、公正を意味する“ジュスト”の洗礼名で吉利支丹となる。高山家は当時松永久秀の麾下にあったが、久秀の主家・三好家の弱体化で独立。永禄十一年〈一五六八年〉九月に足利義昭を奉じて織田信長が上洛するとこれに従い、摂津国の守護になった和田惟政の麾下に入る。
元亀《げんき》二年〈一五七一年〉八月、白井河原の地で荒木村重勢に敗れた惟政は討死、跡を継いだ惟長に高山家は引き続き臣従したのだが……何を思ったか惟長は和田家中の主柱である高山父子の謀殺を企図。計画は事前に漏れるも“疚しい点はない”と父子は受けて立つ事にした。元亀四年〈一五七三年〉三月、高槻城に呼び出された高山父子は家臣十五名を連れて出仕。主君と対面する最中、予め潜んでいた和田家家臣が押し入ってきた。蝋燭の火が消え真っ暗闇の中で乱戦となり、右近は惟長に致命傷を与えるも自らの首半分を斬られ重体となった。周囲は死を覚悟したが奇蹟的に回復、これを“神が助けてくれた”と捉えた右近はさらに耶蘇教へ傾倒していく。その後、村重の家臣となった高山家は高槻四万石が与えられた。天正三年頃、友照は家督を譲り右近が当主となる。
天正六年十月、村重が織田家から造反。右近は村重に妹や息子を人質に出して翻意を促すも失敗。一方の信長は右近が尊敬するオルガンティノ神父に「右近を降らせたら耶蘇教の布教を後押しするが、失敗したら弾圧する」と脅し、右近の元へ遣わした。オルガンティノは「信長に降るのが筋だが、よく考えよ」と伝えたが、家中は荒木派と織田派で二分し、右近は煩悶した。荒木に付けば“宗教”が、織田に付けば“家族”が、それぞれ犠牲になる。悩みに悩み抜いた末に出した結論は――家も領地も手放し、一人の吉利支丹として紙衣一枚の姿で城を出たのだ。吃驚仰天の選択に村重も信長も度肝を抜かれ、村重は人質を返還し信長は対面した折に愛用の小袖と愛馬を授けた。荒木村重の謀叛を鎮圧させた後、右近は織田家の直臣となり所領も安堵された。
天正十年六月に本能寺の変で信長が横死すると、中国大返しで畿内に戻ってきた羽柴秀吉に逸早く麾下へ入り、山崎の戦いでは従兄弟の中川清秀と共に先鋒を任された。翌年の賤ヶ岳の戦いでは大岩山砦の中川清秀が討死・賤ヶ岳砦の桑山重晴は守りを放棄する中、右近は持ち場である岩崎山砦に押し寄せる柴田方の軍勢を凌ぎ羽柴秀長の本陣・木ノ本砦へ引き揚げた(一説には戦わず木ノ本へ逃げ込んだとされるが、近年は疑問視されている)。その後も秀吉に従い各地を転戦、天正十三年〈一五八五年〉閏八月に明石六万石(十二万石とも)へ加増転封している。
しかし、転機が訪れたのは天正十五年六月、秀吉が伴天連追放令を発布。理由は“吉利支丹の強い結束で一向一揆のような事が起きるのを恐れた為”、“伴天連や吉利支丹が仏教を迫害・排斥した為”、“日本人が南蛮商人により奴隷として海外へ売られた為”など諸説あるが、耶蘇教を秀吉が危険視した事は確かだ。同時に秀吉は諸大名へ棄教するよう促し、黒田孝高や小西行長などが応じている(但し、本気で禁教すれば一揆へ発展する可能性があったので、表向き棄教し隠れて信仰するのは黙認していた)。ところが――右近は『信仰を捨てるくらいなら大名の地位を捨てる』と断固拒否。あの手この手で翻意を試みるも右近の意志は揺るがず、改易された。その後は行長の元に居たが天正十六年〈一五八八年〉に前田利家の元に移っている。天正十八年には秀吉の勘気が解けたらしく、二万六千石の扶持で客将の扱いとなった。
酸いも甘いも経験してきた右近は千利休の優れた弟子“利休七哲”の一人に挙げられる程の人物で、その交友は大名から耶蘇教関係者・文化人・豪商など幅広かった。加えて文化の最先端である畿内を地盤にしてきた事から築城技術や教養を兼ね備えていた。そして何より頭の回転が速く信仰の為に所領も地位も擲つ潔さ・忠誠心などから利家の懐刀として重用されていた。
「父上は?」
「よくお休みになられております。……余程、疲労が蓄積されておられたのでしょう」
心配気に答える右近。熟睡しているのは良い事だと前向きに捉え、利長は切り出した。
「この先の展望について、意見を伺いたい」
訊ねられた右近はやや沈黙し、静かに返す。
「……殿(利長)は、どう思われます?」
「婚姻を結んだ者は百戦錬磨の癖者揃い。あれやこれや理由を捏ねて追及を躱すだろう」
嘆息しながら見解を述べる利長。右近も同意らしく頷いた。
典型的な猪武者で直情径行な性格の福島正則でさえ、狡猾な一面を持っている。最も篭絡の可能性が高い正則ですらそうなのだから、他の者達は言わずもがな。家康同様に非を認めないだろう。
問題は、この後だ。『御掟』を破っているのは明白なのに、当事者達は否定する。両者の言い分が食い違う状況で、どう裁くか。
「右近は、父上から意見を求められたか?」
利長が問うが、右近は首を横に振る。
「いえ。大殿(利家)は自らの肚の内に収めておくみたいです」
何かあれば知恵袋の右近に助言を求めていた利家だが、今回の件は別のようだ。逆に言えば、他人に事情を悟られたくない程に難しい案件だと推察出来る。
その答えを聞き、やはりかと納得する利長。自分や右近とは次元の違う立ち位置にある父は、我々が推し量るのも烏滸がましいくらいに苦悩しているのは確実だ。家康の暴走を止められるのは自分のみと分かっているから尚更だった。
室内は朝の穏やかな明るさに反して重々しい雰囲気に包まれる。沈黙を破ったのは右近だ。
「これは私の見立てになりますが……」
前置きを述べた上で右近は自論を述べる。
「内府様から武力行使に出る可能性は限りなく低いです。もし仮に攻めるとなれば大坂を目指す事になり、これは“上様へ刃を向ける行為”と解釈され、討伐の大義を与えてしまいます。流石の内府様もそのような愚を犯すことはありませんでしょう」
大阪へ移徙した事で、秀頼という“玉”はこちらが握っている。その為、“理不尽な言い掛かりだ!”と幾ら家康が訴えても、兵を挙げれば“公儀に反旗を翻した!”と利家達へ討伐する正当な理由が出来る。戦闘になるとすれば利家側から兵を差し向け、家康が迎え撃つ形に限定される。武力衝突になるか否かは、利家の胸三寸次第である。
「大殿も、内府様の目に余る振る舞いを苦々しく思っておられるでしょう。然れど、上様のお膝元である大坂・伏見で騒擾を起こしてまで大老筆頭の内府様を退治されようとされるか。……恐らく、決めかねておられるかと」
複雑な表情で右近は語る。その内容は利長の考えと概ね一致していた。多少の差異はあるとするならば、父は戦に慎重的な方がやや優勢と見ている点か。
全ての関係者の聴取を終えた時、父はどういう判断を下すのか。知恵者の右近から手掛かりを掴みたかったが、それも難しいようだ。
「殿」
声を掛けてきた右近は、険しい表情のまま続ける。
「我が前田家のみならず、豊家の命運は大殿に懸かっております。くれぐれもご無理をなさらないよう、折に触れてお伝え下され」
右近が切実な訴えに、利長も黙って頷く。
聞き方次第では“隠居した利家が依然実権を握り、当主の利長はお飾りである”とも受け取れるが、実際その通りだ。父は豊臣家の大黒柱で、利長は父の負担を少しでも軽くするだけで手一杯。右近の心配も重々承知しているものの、あの父が「お体を労わって下さい」と進言して聞き入れるとは思えない。
「……分かった。急に呼んで済まなかったな」
「とんでもありません。相談したい事がございましたら何なりとお呼び下さいませ」
そう言い、一礼してから下がっていく右近。十歳下の利長に対しても一家臣として接してくれる右近の存在はありがたかった。
会談を終えても、利長の気持ちが晴れなかった。また一つ重い荷を背負った心地だが、いつもの事だと慣れていた。偉大な父にいつまでも縋り切りでは駄目だと思う反面、頼らざるを得ない自分にもどかしさを抱いた。
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