春を照らすカクテル光線

佐倉伸哉

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09. 五回表

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 日は沈み、空は濃紺から黒へと移り変わる途中にある五回表。
 この回先頭の九番香取は初球から積極的に振ってきたが、高々と打ち上げてしまった。打球はライト方向へ飛んで行き、ライトの大本も余裕を持って落下点に入った。
 しかし……上空を見上げる大本の様子がおかしい。一度完全に止まった足が、また動き始めた。上を見ながら前進してきたが足を止める気配は見られない。どんどん速度を上げていくが、大本の手前で白球が跳ねた。香取は打球が落ちたのを確認して二塁を窺う動きを見せたが、ワンバウンドで捕った大本が素早くセカンドへ送球すると一塁へ戻った。記録はヒット。
 堅守が売りの泉野高は当然のことながら外野の守りもかなり鍛え上げられていた。それにも関わらず目測を誤ったのは、不慣れな暗い中でのプレーが影響したのだろう。
 不運な形で先頭打者を出してしまった。それでも岡野は特に気にすることなく、気持ちを切り替えていた。
 打順は一番に戻り、中居が打席へ入ってきた。第一、第二打席共に抑えており、印象は決して悪くなかった。
 内野はゲッツー狙いのダブルプレーシフトを敷いたが、中居はここでバントの構えを見せたことでファーストとサードがバントに備えてやや前寄りに守る隊形となった。岡野としてはゲッツーが理想だが、最悪ランナーを進められてもアウトを確実に一つ取れるならバントでも構わないと思っていた。
 初球。内角高めへストレート。中居はバントの構えを崩さず、来たボールをしっかり転がした。打球は三塁線寄りに転がったものの、ボールの勢いが強かったのでそのまま切れると岡野は判断した。サードの原も同じ見立てらしく、敢えて処理せず転がる白球の行方を見守る。
 やがて転がる勢いが弱まり、白球は三塁線のラインに迫っていった。観衆も含めた全員の視線が白球に注がれる中……白球はラインの上でピタリと止まった。
「フェア!!」
 無情にも告げられた三塁塁審のジャッジに原はがっくりと肩を落とした。中居は既に一塁を駆け抜けており、香取も二塁に進んでいた。アンラッキーが重なる形で連打を許してしまった。
 切れると思っていた岡野も少なからずショックを受けたが、それでも深刻に捉えないよう気丈に振舞った。
 ノーアウトから二者連続でヒットが出たことにより三塁側のアルプススタンドは大いに盛り上がっていた。ブラスバンドの演奏も心なしか熱を帯びているように聞こえるし、大応援団の歓声やメガホンの音も先程より大きくなったように感じる。押せ押せムードに流石の岡野も萎縮する気持ちが芽生えた。
「―――」
 原が岡野に向けて声を掛けてきたが、三塁側から発せられる大音量に掻き消されて聞き取れなかった。口の動きから察するに「ゴメンな」と言ったのだろうか。岡野は聞こえるか分からないが「気にするな」と返した。伝わったかどうか分からないが、原が片手で拝んだことから恐らく意図は伝わったのだろう。
 さて、どうするか。
 次の城島は第一打席がサードへのファールフライ、第二打席ではフルカウントの四球。出塁は許しているが印象は悪くない。
 問題なのは……次に控えている木村だ。第一打席では初見のスライダーを強引にライトへ運ばれ、第二打席では低めのストレートをセンターへ綺麗に弾き返された。ここまで当たっている上に相性も最悪だ。
 木村の前にランナーを溜めない事が肝要と考えていたので、既にランナーが二人出ているこの状況は芳しくない。トリプルプレーならば一発逆転でピンチから脱却出来るが、望みは薄い。ダブルプレーでアウト二つ取れれば上出来、最悪でもアウト一つは稼いでおきたい。アウトさえ取れれば一旦流れが切れるので、悪い流れも断ち切れることだろう。
 城島はトリプルプレーの可能性がある引っ張りは避けたいから、右方向へ流してくることだろう。その場合、右打者から逃げていく軌道であるスライダーは避け、シンカーで詰まらせるのがベストか。
 初球。相手の出方を窺うべく外角高めのストレートを選択したが……城島は果敢にも振ってきた!しかも流すのではなく強引に引っ張ってきた!打球は左中間方向へ転がっていく。
 通常であればショートの守備範囲内だったが、ゲッツーシフトを敷いていた為にショートは通常の守備位置から二塁寄りに守っており、三遊間は広く空いている状態だった。幸いなことに打球の勢いはそんなに強くないが、それでも抜けてしまえば確実に先制を許してしまう。逆を衝かれたショートが懸命に追いかける。
 走って、走って、追いつくかどうかの瀬戸際。このままでは間に合わないと悟ったショートがダイビングキャッチを試みる!
 『絶対に止めてやる』という強い執念が実を結び、ボールはグラブの中に収まった。瞬時に立ち上がって送球する体勢となったが……ランナーはそれぞれ次の塁に進んでおり、バッターランナーも既に一塁ベースを駆け抜けていた。
 味方のファインプレーもあって先制点こそ阻止したが……これで全ての塁が埋まってしまった。ここで迎えるは、今日一番当たっている木村。絶体絶命の大ピンチである。
 遠くへ飛ばすことも、手堅くヒットを狙うことも、やろうと思えばセーフティスクイズも出来るバッター。三振、内野フライ、どん詰まりのピッチャーゴロかキャッチャーゴロ以外なら高確率で失点してしまう、非常に厳しい状況だ。
 犠牲フライまたは内野ゴロなら一点、ヒットなら二塁ランナーも生還するだろうから二点、外野の間を抜ければ走者一掃で三点、そして最も怖いのは……フェンスの上を越えてスタンドインすれば一挙四点。ここまでヒットどころか一人のランナーも出せておらず完全試合ペースで抑えられている味方打線が四点も取れるとは思えない。たった一点でも、途轍もなく重たい。
 ……いやいや、ネガティブなことばかり考えるのは良くない。ボテボテのピッチャーゴロならホーム封殺でゲッツーだ。内野に転がれば一点は失うがダブルプレーになる可能性だってある。そして何より、三振や内野フライになる可能性だってゼロじゃない! 何事もチャレンジしなければ道は拓かれないのだ!
 ここまで不運な形で出塁を許してきたせいか、悪い方向へ傾いていた思考を意識して持ち直す。流石に三連打を浴びて心配に感じた新藤が声を掛けようと立ち上がりかけたが、岡野はそれを手で制して気丈に振る舞った。
 誰かが言っていたっけ。『神様はその人が乗り越えられるだけの大きさの試練を与える』と。誰が言ったか覚えてないけれど、言われてみれば確かにその通りだ。俺はこのピンチを凌いで、一回り成長してやろうじゃないか。
 体育会系特有の熱血体質とは真逆のドライな性格の岡野だったが、成長意欲も勝負に対する意欲も人並みに持っていた。好きだから続けてきた野球だが、実力差がある相手だから負けても仕方ないとは思わない。『窮鼠猫を噛む』の諺ではないが、才能で大きく劣る凡人でも舐めて臨めば痛い目に遭うことを思い知らせてやる!
 三塁側から送られる大阪東雲の応援はボルテージを上げて最高潮に達していた。ブラスバンドの演奏も熱を帯び、大観衆から湧き起こる声援も一段と増して大きくなっていた。ここまで当たっている木村に皆期待を寄せているのだ。その熱量を自分に向けられていると置き換えれば……完全アウェーで心細さを覚えていたが、何だかやれる気がしてきた。
 球場の雰囲気を体内に取り込むようなイメージで、大きく空気を吸う。体が膨らむ感覚と同時に、ポジティブな気が全身に満たされていくような気がした。
 ……よし、やれる!
 間違いなく、この打席は今日の試合の行方を左右するターニングポイントとなる。後悔することないよう、出し惜しみせず全力でぶつかってやる!
 初球。外角低めへのストレート。木村は微動だにせず見送る。ストライクゾーンの隅ギリギリを狙ったボールだったが、主審の腕が上がった。ストライク。
 指に掛かったボールは我ながら素晴らしい出来だったと内心で自画自賛した。感触も悪くない。
 二球目。もう一度全く同じコースへストレート。先程と比べて微妙なズレはあったが、ほぼ同じ場所に投げ込めた。これも木村は悠々と見送り。二ストライク。ポンポンとテンポ良くストライクを重ね、追い込んだ。
 しかし、油断は禁物だ。第一打席でも同じように二球で二ストライクと追い込んだが、ウィニングショットのスライダーを強引にライトまで運ばれてヒットとされた。生半可なボールでは抑えられない。今日一番の、最高なボールで勝負だ!
 新藤のサインは……スライダー!! 岡野も勝負球に選ぶならスライダーだと決めていたので、バッテリー間で思惑は一致していた。コースは内角低め。無理に引っ張ってもファールになるかファースト正面のゴロになり、アウトになる可能性が極めて高い。
 但し、少しでも甘くなれば間違いなく痛打される。失敗は許されないこの状況で、自分の全てを出し切る気持ちで一球に魂を込める!
 一つ息を吐いて、集中を高める。ランナーは気にならない。走られる可能性はゼロなのでバッターとの勝負に全精力を注げる。岡野の目には木村の姿と新藤が構えるミットしか映っていなかった。感覚が研ぎ澄まされている良い兆候だ。
 ゆっくりと、自分のリズムで投球に入る。踏み込む左足、振り切る右腕、手元から離れる寸前まで白球と触れる指先。ピースがそれぞれあるべき場所に嵌まる感覚が、手に取るように伝わってきた。
 ボールが指先から放たれた瞬間―――比喩ではなく文字通りに自己最高のボールを投げられたと直感した。野球人生で一番のボールと断言しても良い程に、渾身の一球が投げられた。
 岡野の脳裏には、木村がスライダーに手が出ずに天を仰ぐ光景が映し出された。奇蹟の一球に流石の木村も打てな―――
 ―――刹那、背筋に冷たい感触が走った。直後、未来を予想した映像が一瞬の内に消え去り、現実に引き戻された。
 それまで悠然と見送っていた木村の右足がゆっくりと動くのが見えた。まさか、打つ気なのか。ベースを過ぎた辺りから内へ切り込んでいく軌道を描くボールに、木村のバットがピンポイントで合わせるようにスイングされる。
 大丈夫、強引に当てたとしても詰まらされるかファールになる。湧き上がってくる不安を打ち消すように岡野は自分自身に言い聞かせる。タイミング、ポイント、この二点が合致しなければ打ち返されるはずがない。
 それでも、木村は躊躇なくバットを振ってくる。例えるならばプロゴルファーのような、軸がしっかり据わったスイング。スムーズに出てきたバットは……岡野渾身の一球を見事に捉えた!
 澄んだ音を置き去りにして弾き返された白球は高々とセンター方向へ舞い上がった。反射的に打球の行方を目で追うが、既に白球は誰の手にも届かない高さまで飛翔していた。黒一色に染まった空を勢い良く切り裂いていった白球は……無人のバックスタンドに突き刺さった。
 満塁ホームラン―――。
 外野フェンスの上を越えていった瞬間、球場全体から揺れるような大歓声が沸き起こった。
 木村は周囲の喧騒に表情を変えることなく、ゆったりとした歩調でダイヤモンドを回っていき、先に生還した三人に出迎えられる形でホームをしっかりと踏んだ。待っていたランナーから祝福のタッチに軽く応じてからベンチへ引き揚げると、ベンチに居たメンバーが最高の結果を出してくれたチームの主砲を熱烈な祝福で迎え入れた。
 その様子を、岡野はマウンドの上から呆然と眺めるしかなかった。他のナインも最悪の結果に言葉を失っているようだった。
(嘘だろ……あのボールを……)
 最高傑作と自信を持って断言出来る球を、いとも簡単に打ち砕かれてしまった。その衝撃の大きさに岡野はがっくりとうなだれるしかなかった。
 声にならない言葉が零れる。この球が通用しないのなら、あの化け物をどうなって抑えればいいのだ。完璧な一球をスタンドまで運ばれ、それまで保っていた闘争心が根底から崩れ去っていく音が聞こえた。
 球場全体が一躍お祭りムードとなり盛り上がる中、新藤がマウンドに駆け寄ってきた。
「今の球はこれまで受けてきた球の中で一番良かった。ただ、相手が一枚上手だっただけだから。打たれたことは忘れて、切り替えていこう」
 新藤が懸命に慰めてくれたが、その言葉は自信を喪失した岡野の心に響いていなかった。岡野は無言で一つ頷くと、新藤はそれ以上声を掛けず元の守備位置に戻っていった。
 最高潮まで盛り上がった余韻が球場内に漂う中、四番の松岡が打席に向かってきた。
 それまでの反動からか、人生最高のボールを打ち砕かれたショックが大きかったからか、岡野はどこか上の空だった。
 初球。内角低めにストレートを要求されたが、球威のないボールが中央付近にずれた。甘い球を松岡も見逃さず痛打し、目の覚めるような当たりが一二塁間を駆け抜けていった。
 満塁ホームランで一挙四点先制した直後に四番の松岡もヒットで繋いだ。三塁側のアルプススタンドから湧き起こる応援が再びボルテージを上げてきた。
 さらに続く稲垣も低めへ沈むシンカーを巧みにすくい上げ、ふわりと上がった打球はサードの後方にポトリと落ちるヒットを放った。一塁ランナーの松岡が二塁を蹴って果敢に三塁を狙い、打球を処理したレフトが急いで三塁に送球したが悠々セーフの判定。その間隙を突いて稲垣も二塁を陥れた。
 不運な形で全ての塁が埋まり、ここ一番と踏んで全身全霊を尽くして送り出した人生最高のボールをスタンドに運ばれ、さらに連打を許して再びピンチを招いてしまった。悪夢のような展開で、流れは完全に相手のペースだ。これ以上失点した場合、さらなる大量失点に繋がる恐れがある。それだけは何としても避けたい所ではあるが、手持ちのカードを全て出し尽くしてしまった状況の中でこのピンチを打開する糸口は全く見当たらない。
 流石にマズイと感じた新藤が居ても立ってもいられず、主審にタイムを要求した。内野陣もマウンドに集まってきた。
「参ったな、流れが悪過ぎる……」
 険しい表情で語る新藤。ネガティブなことは滅多に口にしない新藤だったが、ここまでの展開に動揺が隠しきれない様子だった。
 怒涛の攻撃に決壊寸前で何とか踏ん張っているものの、もう一押しされれば間違いなく崩れてしまうだろう。ただでさえ完全試合ペースで封じ込まれている打線がこれ以上引き離されれば、逆転の目は完全に潰えることとなる。しかも全国でもトップクラスの破壊力を持つ大阪東雲打線を相手に孤軍奮闘してきた岡野が明らかに戦意を喪失してしまっている。どうすればこのピンチを乗り切れるか、全く分からなかった。
「おい、あれ!!」
 不意にセカンドの野沢が声を上げた。何かと思って野沢の視線の方向を見ると、全員が驚きで目を剥いた。
 普段はベンチの奥でじっと立って戦況を見つめている監督が、今はベンチの最前線に立って一人の部員に何か語りかけていたのだ。異常事態にマウンドに集まる全員の顔が強張る。
 野球未経験な監督は常々「俺の仕事は日々の見守りと引率だ」と言っており、実際練習に関して口出ししたり指示を出すことは一切無かった。試合が行われる際も、ベンチの奥から戦況を見つめるだけで伝令やサインを出したことは一度も無かった。
 監督が部員に対して要求したことは一つだけ。
『頼むから、警察沙汰になるようなことだけはしてくれるな。それだけ守ってくれれば、後は何をしてもいい』
 その約束を守ってくれるのであれば「テストの結果が多少悪くても大目に見る」とさえ口にした。教職に就いている者としてはあるまじき発言ではあったが、幸いなことに赤点を取る部員が出たことは無かった。試験前にテスト対策で部員全員が一堂に会して集中勉強会が自主的に行われていたことも一定の効果を挙げていたが、各々が勉強を疎かにしない意識を持っていたことも大きかった。
 ほぼほぼ放ったらかしにされてきたが、この監督のおかげで部員達はのびのびと練習することが出来た。効率の良いメニューを自分達で考え、怠けている者が居れば他の部員が注意し、自発的に朝練や居残り練習に取り組んだ。“任されている”ことは“頑張る”ことがセットになっていると皆考えていた。
 けれど、今この危機的な状況で、初めて監督が動いた。
 監督の横で話を聞いているのは、控えメンバーの柳井だ。柳井は岡野や新藤と同学年のキャッチャーで、肩もそれなりに強くて長打も期待出来る選手だったが、新藤という絶対的存在が同学年に居たことでサブに回ることとなった。それでも本人は腐ることなく別のポジションに挑戦し、今では外野やサードを守れるようになった。新藤に万一の際のバックアップ要員でなく、代打や交代に伴う守備要員という形でチームに欠かせない存在になっていた。また、非常に明るい性格で、モノマネをして周囲を笑わせたりベンチから積極的に声を出したりと、チーム内のムードーメーカーでもあった。
 その柳井が監督から伝えられた内容を復唱する。内容に齟齬がないことを確認した監督は、柳井の肩を叩いてマウンドへ向かうよう促した。監督から送り出された柳井はベンチ前から全速力で駆け出し、グラウンドに入る前に主審へ帽子を取って一礼してから再び走り出した。
「……監督は、何て言っていた?」
 強張った表情で新藤が訊ねると、柳井は一つタメを作ってから話し始めた。
「『いつも使っている遅い球はどうした?』って」
 開口一番に核心を突く一言に新藤は言葉に詰まった。さらに柳井は続ける。
「それと『自分達の方が実力で劣ると分かっているのに、相手の土俵で勝負しても勝ち目は無い。背伸びして負ければ必ず後悔することになる。だから、普段着の自分で、悔いが残らないよう精一杯やり尽くせ』だって」
 柳井から伝えられた監督の言葉に、岡野は頭を殴られたような衝撃を受けた。
 いつもボーっと見ているだけの監督だとばかり思っていたが、案外ちゃんと見ているんだなと岡野は感心した。
 新藤とは事前に打ち合わせして『今日はスローカーブを使わない』と決めていた。理由は簡単だ。岡野のスローカーブはストレートとの球速差で打者のタイミングを狂わせるのがメインで、スローカーブ単体で勝負出来るだけのクオリティがないからだ。弱小校や中堅校レベルなら通用したが、強豪校相手に通用しないのは既に分かっていた。秋の県予選決勝戦では県内で三本の指に入る強豪・星城が相手だったが、中継ぎで登板した岡野は先頭打者にスローカーブをスタンドまで運ばれていた。
 変化の幅も落差も大したことがない岡野のスローカーブは、芯で捉えられれば遠くまで飛ばされてしまう。全国でも指折りの強力打線を擁する大阪東雲が相手では些か分が悪いと判断した新藤が、新球種であるスライダーを軸にした配球で勝負することを提案し、岡野もそれを了承した。
 監督の言葉を伝えられてもなお、新藤の表情は晴れなかった。拒んでいるのではなく、葛藤しているのだろう。確かに、スローカーブを使えば緩急で投球の幅は広がるが、一歩間違えればさらなる大量失点に繋がる恐れがあるからだ。
「新藤」
 険しい表情のまま黙っている新藤に、柳井は優しく声を掛けた。
「お前はウチの顔だ。そのお前がそんな怖ーい顔してたら、チーム全体も暗ーくなってしまう。ほら、もっと笑え!」
 そう言うなり柳井は自分の指で口角を持ち上げ、ニコッと笑った。その顔に釣られて何人か笑みを溢[こぼ]した。すると今まで覆っていた重苦しい空気から一転して和やかな空気に入れ替わった。満塁弾を浴びてさらにノーアウト二三塁と絶体絶命の大ピンチである状況も一瞬だけながら忘れさせてくれた。
「……それも監督の指示か?」
「いんや。俺の個人的感想さ」
 新藤の問い掛けに柳井は軽い調子で答えた。
「……そうか」
 それから新藤は息を一つ吐くと、先程とは打って変わって明るい表情を浮かべて力強く宣言した。
「逆境上等! この状況を楽しもうぜ!」
「おう!!」
 新藤の呼び掛けに全員が力強く応じる。心なしか全員の表情も先程と比べて明るくなったように感じる。それはまた岡野も同じだった。
 自分も球場の雰囲気に呑まれていたと初めて気が付いた。「何とか抑えないと」「無様な試合にだけはしたくない」という気持ちだけが先走って、いつの間にか無意識の内に気負っていたのだ。柳井のアドバイスのお陰で、憑き物が落ちたような気分だ。
 ガムシャラにならなくても良い。いつも通り、肩肘張らずのらりくらりと躱[かわ]せば良いのだ。元々実力差があるのは承知の上だ。打たれたら「やっぱり相手が上手だった」と割り切るしかない。
 新藤の一声で締めると、内野陣は各々の守備位置に散っていった。新藤は戻り際に岡野へ短く「頼むぞ」と声を掛けてから戻っていった。マウンドには一人岡野だけとなった。
 バッターズサークルには、不敵な笑みを浮かべながらこちらを見つめる長瀬。多分「俺がここでダメ押して試合を決めてやる!」と思っているに違いない。だって、顔に書いてあるから。
 ただ、ここまで二打席対戦して何[いず]れも空振り三振に抑えている。何も考えずブンブン振ってくれるから逆に助かっていた。確率は低いが当たれば外野の頭を越えていくので、そういう“事故”に遭遇しないよう祈るしかない。
 岡野の中では「こういう風に攻めて、決め球はこれ」という投球のビジョンが出来上がっていた。打たれるイメージは微塵も抱いていない。あとは新藤がどう組み立てるか。
 打つ気満々で打席に入ってきた長瀬。一声景気づけに咆えてからバットを構えた。
 一拍の間を置いて、新藤が要求してきたのは……岡野が考えていたボールと一致していた。岡野も即座に頷く。
 初球。バッテリーが選択したのは……岡野の代名詞であるスローカーブ!
 ふわっと浮き上がる軌道のボールに長瀬は面喰ったという顔を見せた。それでも黙って見送ってなるものかと果敢にバットを出してきたが、バッターから逃げるように落ちていくボールを捉えきれず豪快に空振り。勢いがつき過ぎたあまり、堪え切れずに尻餅をついてしまった。
 良し、狙い通り。イメージした通りの結果に内心気分を良くした。
 二球目。今度はストライクゾーンへ入ってくるスローカーブ。長瀬も次こそは捉えてやると血眼になってボールをギリギリまで呼び込む。そして意を決してフルスイングしたが、無情にも空を切った。実は僅かにストライクゾーンに届かないコースに投げ込んだので、悪球打ちでもしない限り当たることは無いのだ。
 テンポ良く二ストライクまで追い込めた。次のボールは予め決まっていたらしく、新藤が間を置かずサインを送ってきた。岡野もその三球目に選ぶならそのボールだと思っていたので、一も二も無く応じる。
 一方で打席に立つ長瀬は明らかに苛ついた表情を浮かべていた。二球続けてスローカーブで翻弄されたことに対する怒りか、それとも真正面から勝負しないことに対する不満か。どちらにせよ、冷静さを欠いているのはこちらにとって好都合だ。
 三球目。遊び球を挟むことなく三球勝負を選択したバッテリーの答えは、内角高めへのストレート! 得意コースと逸った長瀬は反射的にバットを振ったが、先程まで二球続けて投じられたスローカーブに目が慣れていたために球速差の緩急についていけず、空振り。喉から手が出る程欲しかったアウトがようやく取れたことに、岡野は安堵の溜め息を洩らした。
 しかし、依然としてピンチは続いている。顔を歪めて悔しがる長瀬と入れ替わりに七番の草薙が右打席に入ってくる。
 草薙は第一打席で粘られた末に根負けしたバッテリーが歩かせてフォアボール、第二打席では外へ逃げて行くスライダーを泳がせてファーストへのファールフライに打ち取っている。何も考えずガンガン振ってくる長瀬とは対照的に、慎重にストライクを見極めてくるタイプという感じだ。打順は七番と下位ではあるが、近畿大会ではホームランを放っており油断大敵だ。
 初球。ここでもスローカーブを投げ込む。草薙は外れると踏んで見送ったが、外角低めの隅ギリギリに決まってストライク。
 変化球をコーナーに決める為に、制球力を上げる練習を秋から冬にかけて繰り返し行ってきた。ウイニングショットを持たない岡野にとって、コントロールは投球の生命線だ。配球は全て新藤に、守りは後ろに控える野手に全てを委ねている。自分は失投しないよう最大限気をつけて、新藤が構えた場所に目掛けて思い切り投げ込むだけだ。それが上手く機能したからこそ、夢の大舞台に立てているのだ。
 二球目。再び、外へ逃げて行くスローカーブ。草薙はストライクかボールか見極めが難しかったのか、カット。打球は後方へ飛んでいった。これで二ストライク。一見すると全く同じようなコースに同じボールを投げたように捉えられるが、実際は先程からボール一個分外に外していた。なので、見送ればボールになっていた球を草薙は手を出してしまったこととなる。
 三球目。ど真ん中付近に投げ込まれたボールに草薙もバットを出す。しかし、ボールはベース手前で外へスライドしていった。絶好球だと思ってスイングした草薙のバットは途中で止めることが出来ず、バットの先端に当たった打球はフラフラと力なく打ち上がり、一塁ベンチの前でファーストの関口が落ち着いてキャッチした。内野フライなのでタッチアップは出来ず、ランナーはそれぞれの塁に釘付けだった。
 満塁ホームランから連打で作ったノーアウト二三塁の大チャンスだったが、あっと言う間に二アウトとなってしまった。怒涛の六連打で膨らんだ押せ押せムードが急速に萎[しぼ]んでいくのを肌で感じ取った三塁側のアルプススタンドは、明らかに応援の熱量が弱まっていた。
『八番 ライト 国分君』
 流れが変わったことを肌で感じているのか、左打席に入ってくる国分の表情は幾分硬いように映った。一方で、立て続けにアウトを重ねた岡野はグランドスラムのショックから立ち直ったのか、血色が大分良くなった。本来であれば国分の方が優位に立っている筈なのに、立場は逆転していた。
(……さあ、ここからどう抑えようか)
 右打者二人を抑えたことで、岡野は完全に息を吹き返していた。強打者揃いの大阪東雲を何としても抑えなければならないと意気込んでいたが、今思えば前のめりになり過ぎていた。喪失していた自信も監督の言葉とスローカーブが効果的に利いたことで蘇っていた。それはマスクを被る新藤も同じなようで、笑みを浮かべながらこちらを見ていた。柳井の一言で救われたのだろう。そしてまた、新藤が笑っていることで岡野の方にも気持ちに余裕が持てた。
 岡野は息をフーッと吐くと、右腕をグルリと一回転させる。これで準備は整った。
 初球。国分の胸元へ目掛けてストレートを放り込んだ。厳しいコースを衝かれた国分は大きく仰[の]け反[ぞ]る。危ないボールに球場全体からどよめきが湧き上がるが、岡野は平然と聞き流す。
 これはあくまで次への布石。万一当たったとしても塁が埋まるだけで押し出しにはならない。ある意味で開き直った態度の岡野は一切動じていなかった。
 二球目。今度は内角低めにストレート。先程のボールが残像となって刻まれていたからか、国分は踏み込めず見送り。これがストライクの判定となり、一ボール一ストライク。
 三球目。外角からストライクへ入ってくるスローカーブ。外から内へ入る変化球は打者から見れば打ちやすいボールではあるが、二球続けてストレートを投げられた後に二十キロ近い球速差のある遅いボールに国分は完全にタイミングを狂わされてしまった。泳がされてボールの下を叩いてしまい、打球は勢いなく打ち上げてしまった。悔しがる国分と対照的に、マウンド上の岡野は穏やかな表情で打球の行方を見守る。
 高く上がった打球はそれ程遠くまで飛ばず、セカンドの野沢が余裕を持って落下点に入った。落球すれば即失点となる絶対に失敗出来ない場面だったが、何の波乱もなく無事にボールは野沢のグラブに納まった。
 長かった五回表が、ようやく終わりを告げた。三つ目のアウトを取った瞬間、岡野は思わず拳をグッと握って控え目に喜びを表した。
 四点を失ったのは痛いが、ノーアウト二三塁と絶体絶命の大ピンチを無失点で凌いだのは結果的に大きかった。そして何より、大阪東雲に傾いた流れをこちらへ手繰り寄せたのは、チームにプラスとなる好材料だった。
 引き揚げてくるナインの表情も一様に明るい。満塁弾を浴びたショックは消え去り、攻撃に向けて良い弾みがついたと実感した。
 望みを繋げば、勝機はいつか訪れる。そう信じて、岡野はこれからも投げ続ける意志を固めた。
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