僕が愛した昨日

葵依 透李

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一、

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 僕は、片親を幼い頃に亡くしたわけでも、のちの人生に長く尾を引く事件に遭遇したわけでもない。自分では特に変わっているところの無い、平々凡々な人間であると思っている。何かしら才能がある訳でもない。ただ、僕の思う普通と、その他大多数の人の思う普通は違うのだと、僕は美夜さんに教えてもらった。美夜さんは、僕の知り合いがやっているバーの常連だ。
 ある日の夜、お気に入りの席に腰を落ち着け氷入りのサイダーを飲んでいた時だ。

「あら、先客が居るわ」

 この街の女性が多く使う、この土地が育んだ言葉では無かった。耳慣れない言葉、しかしその声による自然さが酷く心地良かったのを、今でもはっきりと覚えている。
 緩く波打つ黒髪をささやかに主張する胸の上に流し、光沢のある深いブルーのワンピースを着たその女性へ顔を向けると、彼女は淡く微笑んだ。猫のようなしなやかさで隣のスツールに腰掛けると、隣いいかしら?と今更の問いをした。僕が、はあ、と曖昧に頷くと、にこりと笑ってマスターに酒を注文する。このマスターこそ僕の知り合いなのだが、彼は涼しげな微笑を浮かべこちらを一瞥しただけで、何も言わなかった。奇妙な隣人は、カウンターを滑るように出された白く煙ったカクテルを少し啜り、深い色の瞳で僕をみた。

「その席、いつも私が座る席なの」

 縦に長いカウンターのみの小さな店。扉から一番離れた奥の席。そこが僕のお気に入りだった。そして、この女性にとってのいつもの席、でもあったらしい。真っ赤なルージュがひかれた唇は、聞き心地の良い少し低めの声で、耳慣れないイントネーションで話す。僕はまだ責められたわけでも無いのに、謝罪の言葉を口にしていた。

「すいません、座ってしもてて。もう行きますから……」

 もう行く、と言うのは、彼女に気を遣ったわけでも無く事実だったのだ。グラスの中は、溶けた氷と僅かに残ったサイダーがほぼ同量の割合で混ざっている。

「やだ、退いてって言ってるんじゃないのよ。あなたもそこがいつもの席だったんでしょう?お話しましょうよ。時間、大丈夫?」
「はあ……大丈夫ですけど」
「ならいいわ。フミさん、この子よね」

 彼女はまたにこりと笑って、カウンターの向こうでグラスを磨いていたフミさんに声をかける。僕は、女性が僕が彼を呼ぶのと同じ愛称で呼ぶのを聞いて、そこに籠められた親しさに驚いた。店には僕ら以外に客は居なかったので、フミさんは二人の前にやってきて言う。

「あぁ、そやで。伸弥、サイダーもう一本飲むか?」

 僕の隣に向けられた言葉と、僕に向けられた言葉。その二つで、この瞬間は僕の見えないところで待ち望まれていたのだと知る。僕が頷くと、フミさんはサイダーの瓶を取りに厨房へ入って行った。

「彼から、この席にいつも座る子があたし以外にもいるって聞いて、あたし、出会うのを楽しみにしてたの」

 彼女は、静かにカクテルを舐め、薄っすらと残った口紅の跡を拭いながら言う。

「あたしね、そこに座って、お店に入って来る人達を見るのが好きなの。どんな人が入って来て、どこに座って、どんな仕種で何を飲むのか。それを見て、その人がどんな人か想像してみるの」

 なんと暇な人だ、と僕は思った。僕はその頃、自分の内側で起こる嵐で手一杯だったのだ。自分の外側への興味は限りなく薄く、僕はそんな自分が好きでもあった。自分への探求心を大事に抱えていた僕にとっては、見ず知らずの他人へ興味を持ちその人物を想像するだなんて、とても意味のあることだとは思えなかった。
 それでも僕は、自分が彼女のように明確な理由を、そして彼女が期待するような理由を持ちえないことに、申し訳無さと少しの羞恥を覚えた。だから僕はそんな風な顔を作って、そっと打ち明ける。

「あの、僕はそんな大した理由とか無くて、なんとなく座ってただけなんです。だからその、もうここには座りません」

 伏せていた目をそっと隣に向けると、女性はくすくすと笑ってみせた。

「誰もがいつもの場所に座る理由を持ってるわけじゃないわ。理由を持ってなきゃ座っちゃダメ、なんて言わないわよ。あたしはただ、会いたいな、と思ってただけ。ね、フミさん」

 厨房から戻ってきたマスターは、柔らかに頷いて、僕の為にサイダーの栓を抜いてくれる。しゅわしゅわと弾ける透明色のそれを新しく氷の入ったグラスに注ぐと、破裂音が波のように押し寄せる。

「俺はそこにいつも座る常連がいる、って言うただけやで。やのに美夜ちゃん、会いたい、絶対素敵な人やって譲らんのやもん」

「ピンときたのよ。あたし、こういう勘は外れたこと無いんだから」
 彼女はミヨという名らしい。悪戯っぽく黒目がちな瞳を瞬かせ、ミヨさんは笑う。

「あたし、美夜。美しい夜で、美夜よ。君は?」
 美夜。僕は漢字に修正した名前を、心の中で呼んでみる。
「伸弥です。伸びるに弥生の弥って書いて伸弥」
「伸弥くんね。いくつ?学生?」

 十九歳の大学生だと答えると、美夜さんは、素敵ねと言って微笑んだ。
 そんな風にして出会った美夜さんと、僕は今では不思議な友人関係だ。二人のお気に入りの席は、先に訪れた者の特等席として、僕らの間に存在している。
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