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2章
眠り姫の憂鬱①
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あれから1週間。
通り魔の噂はすっかりと身を潜めていた。
朝田は大学の授業を終えて、次の授業まで何をして過ごそうかと考えながらカフェテリアへと向かっていた。この大学では食堂とは別に、カフェが併設され学生の人気を集めていた。
遠くから朝田を呼ぶ声がした。
声の正体は見なくても分かる。仮にその声が変わってしまっても、朝田に声をかける人間などこの大学には七海以外にいない。
「七海、最近どこに行っていたんだ?」
「まぁ、ちょっと野暮用でね」
七海はここ数日あまり大学に来ていないようだった。毎日のようにどこからともなく現れて、よく分からない話をして去っていくのに珍しいこともあるものだと朝田も不思議に思っていた。
「それはそうと、あれからは特に何も起こってない?」
通り魔の件だろうか。特に何もないと、答える。
七海はほっとしたような表情をした。
「僕がいなくて寂しかったかな、朝田くん?」
「寂しくなかった」
「はっきり言われると傷つくなぁ。まぁ、またしばらくは来たり来なかったりだから。寂しかったら呼んでくれたまえ」七海はスマートフォンをかざしながら、朝田の前でポーズを取る。二人の間には沈黙が流れる。
あ、そうそうと七海は、沈黙に構うことなく言葉を続ける。
「黒木花純には気を付けて」
唐突に出てきた名前に朝田は少し驚く。黒木花純と朝田には親交はない。
七海もそれは知っているはずだ。
「気を付けるって、なにを」
「んー、とりあえずは近付かなければ大丈夫だと思うよ」
要領を得ない回答だが、七海がこのように言い淀むときは何を聞いても仕方がない。
「わかった、近付かない」
近付かないも何も、その気もない。そもそも眠り姫に出会うこともない。
「眠り姫に近付くと棘で怪我しちゃうからね」
七海は面白くもなさそうに言った。
~~~~~
授業を終えた朝田は薄暗くなった空の下、帰路についていた。夕方には昼の暖かさが嘘のように寒くなってくる。そろそろコートを出さなきゃなと朝田は思案する。
去年の今頃だったか、道端で女性が絡まれているのを見かけた。周囲には人がちらほらといたものの、相手が見るからに不良であることを主張するような出で立ちだったこともあって遠巻きに見ているだけだった。
恐らくその不良の声が無駄に大きかったことも要因だ。声の大きさは自分の強さや、権威を示すための最も単純な方法だろう。とにかく、その場に彼らよりも大きな声をあげられる者は一人もいなかった。
朝田もその時、見て見ぬふりをするつもりだった。しかし、その場に渦巻いていた感情がそうはさせてくれなかった。その女性の困惑や周囲の不快感、当の不良たちの欲望、そういったものが混ぜ合わされて、朝田の鼻腔をくすぐった。
だから、あれは女性を助けるためではない。朝田自身の不快感を消すための、あくまで利己的な行動だったのだ。
「僕はヒーローなんかじゃない」
朝田は口に出してみる。
それどころか妖怪であってもアマチュア以下だと思い知らされている。朝田は静かに、目立つことなく生きていく他ないと信じている。中途半端な自分にはそれが最善に思えていた。
気が付けば周りの人気がすっかりなくなっていた。いや、この感覚は一週間前に感じたものだ、と朝田は気付く。背後に集中するが、足音も何も聞こえなかった。恐る恐る振り返るが、そこには何もなかった。
その時、女性の悲鳴が聞こえた。
嫌な予感がする。
これは例の通り魔の仕業ではないかと頭の中で結びついた。
今回の標的は朝田ではないようだ。それでも、ここに漂っているのは誰かの欲望と不穏の匂い。誰かが襲われているとはっきりと告げている。
吐いてしまいたいくらいの嫌悪感を持つほどに黒く暗く身勝手な殺意がそこにはあった。気付いた時には朝田は羊男の姿に変身していた。
朝田は悲鳴のした方に走り出し、そして見つける。黒コートの男が女性に向けて包丁を振り下ろそうと構えている。女性は倒れこんでしまいピクリとも動かない。
「やめろ!」
緊張のあまり、思ったよりも大きな声が出た。
その声で黒コートの男はこちらをゆっくりと振り返る。
その顔にはノイズのような、黒い影のようなものがまとわりつき表情が見えない。
「なんだぁ、お前。ここは俺の狩場だ」
意外にも言葉は通じるらしい。朝田の姿を確認すると鉈を構えた黒コートの男はモザイク越しでも分かるくらい、にいっと笑みをこぼす。
「なんだ、お仲間か?
羊の顔ねぇ、プライバシー性は高そうだ。
ここにどうやって入った?」
朝田には答えることが出来ない。
相手との間合いの中で次の行動を必死に考えていた。
「ちっ、そろそろタイムオーバーだ。
水を差しやがって。次は許さないぜ、先輩」
黒いコートの男は突然、右手側の路地へと駆け出す。
一応は逃げてくれたらしい、少しだけ警戒と緊張が解ける。そこで再度、倒れている女性が目に入る。
「大丈夫です……か」
慎重に抱き起した女性の顔を見て、朝田は固まる。
その女性は黒木花純だった。
まだ息はあるらしいが、彼女の着ている白いカーディガンは赤く染まっている。素人目から見ても、この出血の量は危険な状態だと分かる。
朝田は花純を寝かせて、助けを呼ぶためにスマートフォンに手を伸ばす。
「お姉ちゃん……」
花純が何かを口にしている。
「喋らないでください、今はじっとしていて!」
朝田は取り乱してどこに助けを求めるべきかを迷う。110番か119番かそれとも。そこで七海の顔が思い浮かぶ。あいつはなぜ、黒木花純に気をつけろと言った?だが、当の黒木花純はここで襲われて倒れている。
その時、朝田は違和感に襲われる。
朝田がもう一度、花純に目を向けるとそこには血だまりだけが残っていた。
通り魔の噂はすっかりと身を潜めていた。
朝田は大学の授業を終えて、次の授業まで何をして過ごそうかと考えながらカフェテリアへと向かっていた。この大学では食堂とは別に、カフェが併設され学生の人気を集めていた。
遠くから朝田を呼ぶ声がした。
声の正体は見なくても分かる。仮にその声が変わってしまっても、朝田に声をかける人間などこの大学には七海以外にいない。
「七海、最近どこに行っていたんだ?」
「まぁ、ちょっと野暮用でね」
七海はここ数日あまり大学に来ていないようだった。毎日のようにどこからともなく現れて、よく分からない話をして去っていくのに珍しいこともあるものだと朝田も不思議に思っていた。
「それはそうと、あれからは特に何も起こってない?」
通り魔の件だろうか。特に何もないと、答える。
七海はほっとしたような表情をした。
「僕がいなくて寂しかったかな、朝田くん?」
「寂しくなかった」
「はっきり言われると傷つくなぁ。まぁ、またしばらくは来たり来なかったりだから。寂しかったら呼んでくれたまえ」七海はスマートフォンをかざしながら、朝田の前でポーズを取る。二人の間には沈黙が流れる。
あ、そうそうと七海は、沈黙に構うことなく言葉を続ける。
「黒木花純には気を付けて」
唐突に出てきた名前に朝田は少し驚く。黒木花純と朝田には親交はない。
七海もそれは知っているはずだ。
「気を付けるって、なにを」
「んー、とりあえずは近付かなければ大丈夫だと思うよ」
要領を得ない回答だが、七海がこのように言い淀むときは何を聞いても仕方がない。
「わかった、近付かない」
近付かないも何も、その気もない。そもそも眠り姫に出会うこともない。
「眠り姫に近付くと棘で怪我しちゃうからね」
七海は面白くもなさそうに言った。
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授業を終えた朝田は薄暗くなった空の下、帰路についていた。夕方には昼の暖かさが嘘のように寒くなってくる。そろそろコートを出さなきゃなと朝田は思案する。
去年の今頃だったか、道端で女性が絡まれているのを見かけた。周囲には人がちらほらといたものの、相手が見るからに不良であることを主張するような出で立ちだったこともあって遠巻きに見ているだけだった。
恐らくその不良の声が無駄に大きかったことも要因だ。声の大きさは自分の強さや、権威を示すための最も単純な方法だろう。とにかく、その場に彼らよりも大きな声をあげられる者は一人もいなかった。
朝田もその時、見て見ぬふりをするつもりだった。しかし、その場に渦巻いていた感情がそうはさせてくれなかった。その女性の困惑や周囲の不快感、当の不良たちの欲望、そういったものが混ぜ合わされて、朝田の鼻腔をくすぐった。
だから、あれは女性を助けるためではない。朝田自身の不快感を消すための、あくまで利己的な行動だったのだ。
「僕はヒーローなんかじゃない」
朝田は口に出してみる。
それどころか妖怪であってもアマチュア以下だと思い知らされている。朝田は静かに、目立つことなく生きていく他ないと信じている。中途半端な自分にはそれが最善に思えていた。
気が付けば周りの人気がすっかりなくなっていた。いや、この感覚は一週間前に感じたものだ、と朝田は気付く。背後に集中するが、足音も何も聞こえなかった。恐る恐る振り返るが、そこには何もなかった。
その時、女性の悲鳴が聞こえた。
嫌な予感がする。
これは例の通り魔の仕業ではないかと頭の中で結びついた。
今回の標的は朝田ではないようだ。それでも、ここに漂っているのは誰かの欲望と不穏の匂い。誰かが襲われているとはっきりと告げている。
吐いてしまいたいくらいの嫌悪感を持つほどに黒く暗く身勝手な殺意がそこにはあった。気付いた時には朝田は羊男の姿に変身していた。
朝田は悲鳴のした方に走り出し、そして見つける。黒コートの男が女性に向けて包丁を振り下ろそうと構えている。女性は倒れこんでしまいピクリとも動かない。
「やめろ!」
緊張のあまり、思ったよりも大きな声が出た。
その声で黒コートの男はこちらをゆっくりと振り返る。
その顔にはノイズのような、黒い影のようなものがまとわりつき表情が見えない。
「なんだぁ、お前。ここは俺の狩場だ」
意外にも言葉は通じるらしい。朝田の姿を確認すると鉈を構えた黒コートの男はモザイク越しでも分かるくらい、にいっと笑みをこぼす。
「なんだ、お仲間か?
羊の顔ねぇ、プライバシー性は高そうだ。
ここにどうやって入った?」
朝田には答えることが出来ない。
相手との間合いの中で次の行動を必死に考えていた。
「ちっ、そろそろタイムオーバーだ。
水を差しやがって。次は許さないぜ、先輩」
黒いコートの男は突然、右手側の路地へと駆け出す。
一応は逃げてくれたらしい、少しだけ警戒と緊張が解ける。そこで再度、倒れている女性が目に入る。
「大丈夫です……か」
慎重に抱き起した女性の顔を見て、朝田は固まる。
その女性は黒木花純だった。
まだ息はあるらしいが、彼女の着ている白いカーディガンは赤く染まっている。素人目から見ても、この出血の量は危険な状態だと分かる。
朝田は花純を寝かせて、助けを呼ぶためにスマートフォンに手を伸ばす。
「お姉ちゃん……」
花純が何かを口にしている。
「喋らないでください、今はじっとしていて!」
朝田は取り乱してどこに助けを求めるべきかを迷う。110番か119番かそれとも。そこで七海の顔が思い浮かぶ。あいつはなぜ、黒木花純に気をつけろと言った?だが、当の黒木花純はここで襲われて倒れている。
その時、朝田は違和感に襲われる。
朝田がもう一度、花純に目を向けるとそこには血だまりだけが残っていた。
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