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13話
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王宮での波乱の日々が終わり、私——ルージュ・ヴィオレットは自宅である侯爵家の屋敷に戻っていた。
ふだんは昼間はあまり通らない客間を抜け、重厚な扉の前へ。そこが父アゼル・ヴィオレット侯爵の執務室であり、書斎でもある。
あの大騒動から半月ほど経ったある日の午後、私は父の求めに応じてここを訪れていた。
「……ああ、ルージュか。よく来たな。ま、ゆっくり腰を掛けなさい」
中に足を踏み入れると、相変わらず威厳ある佇まいの父が、机の前で資料の山と睨めっこをしていた。母は今日は不在らしい。私は緊張を隠しつつ、失礼にならない程度に椅子へ腰掛ける。
書斎の中は重々しい空気が漂っているが、これでも前よりはずいぶんマシだ。王宮での事件直後、私が屋敷に戻ったときは、父も母も顔色をなくし、「どうすればいいのか」と憔悴していたほどだから。
「王家から正式な通達がきた。おまえとリオネル殿下の婚約は“なかったこと”にする……そういう扱いになるそうだ。実際には、王位継承から外されたリオネル殿下は、もう王都に戻れないと思うがな」
父が書類を指先で叩きながら言う。その声には、微かなほっとした響きが混じっていた。
私の家門——ヴィオレット侯爵家は、代々王家に仕えてきた名門ではあるが、あの軍事漏洩事件の影響がどこまで波及するか分からず、ずっと気が気でなかったのだろう。蓋を開ければ、すべてはリオネル殿下の責任として処理され、家としての追及は免れた。もちろん後味は悪いが、そういうものなのだ、この国の政治は。
「ええ……もう戻ってこられないでしょうね、あの方は。私にとっても、こうして自由に帰ってこられたのは幸いといえば幸いです」
もしリオネル殿下との結婚が続いていたとしたら、あのまま宮廷の政治闘争に巻き込まれ、さらに厳しい立場に立たされていたかもしれない。そう思うと、私は一概に不幸だったとは言えない。
しかし、割り切れない思いも胸の中にはくすぶっている。とりわけ、リナのことを考えると辛い。無実の罪を着せられ、国外へ放逐されてしまったあの子は、いったい今どうしているのか。生きているのかさえ、確証はない。
ただ、私にできることは何もなかった。王家からの正式な“口止め”と言っていいほどの圧力があり、これ以上の捜査や救済を主張すれば、ヴィオレット侯爵家に火の粉が降りかかりかねない。
「ところで、ルージュ。これから先、おまえはどうするつもりだ? ……王との縁談は破談になったが、いずれどこか他の家門との婚姻が必要だろう。世継ぎとしてのおまえの将来が、うちの家のためにも大切なんだ」
父の声には、どこか穏やかさが戻っていた。彼はもともと厳格だが、私のことを案じてくれる親でもある。
けれど、正直、私は結婚の話など今は聞きたくなかった。好きでもない相手と“形ばかり”の縁を結ぶのはもう懲り懲りだ。
私はできるだけ冷静さを保ちながら、父に言葉を返す。
「……お父様には申し訳ありませんが、今すぐ婚姻の話は考えたくないのです。むしろ、ゆっくり自分の時間を過ごしたい。お許しいただけませんか?」
「ふむ……まあ、今回の件で、おまえの心情は複雑だろうな。少なくとも、すぐ次の縁談を進めるなどという無茶はしないさ。しばらくはゆっくり過ごせ」
父は理解を示してくれた。もちろん、いつまでも独身を貫くことは難しいかもしれないが、しばらく自由にさせてくれるというならありがたい。
私は深々と頭を下げると、「それでは失礼いたします」と書斎を出た。父はなにか言いかけたが、そのまま黙って見送ってくれた。
自由”を思い返すひととき
執務室を出て、自室に戻る途中、ふと窓から見える屋敷の庭が目に留まる。高い塀と樹木に囲まれた屋敷の敷地は、王宮ほどではないが十分に広く、季節の草花が整然と咲き誇っていた。
王宮の庭園とは違う、ちょっと素朴な美しさ。それを見ているうちに、私は自分でも意外なほど、心がほぐれていくのを感じる。
(ああ、私は家に帰ってきたんだわ……)
この場所なら、好きなだけお昼寝をしても、読みかけの本に没頭してもいい。お茶を飲みながら平和に過ごすこともできる。王宮での窮屈さに比べれば、何と気楽なことか——。
その一方で、私の中には小さな空虚もある。王宮にいた頃は、リナやリオネル殿下がそばにいて、奇妙な関係とはいえ刺激的で、心を動かされた。悲劇に終わったとはいえ、あの数週間の出来事が、私の中に深く刻み込まれているのを感じる。
「……もう二度と、あんな思いはしたくない。でも……」
リナが笑顔でお菓子を食べていた姿や、宮廷の廊下で殿下とばったり顔を合わせたときのぎこちない会話。そういった何気ない日常が、今となっては懐かしい。
私はそんな感傷を振り払うように、足早に自室へ戻った。そして、好きなだけ本を開き、紅茶を片手に過ごしてみる。お昼寝もしてみる。……けれど、どうにも落ち着かないのだ。
不思議なことに、自由を満喫しているはずなのに、かつて感じていた心地よさが薄れている。まるで違う世界を見てきたあとで、“元の自分”に戻れなくなったような感覚。
(私はこれから、どう生きればいいのかしら……。結局、王家との婚約はなくなったから、こうして家に戻って平穏に過ごせばいい。でも、それで満足できるの?)
数日前までなら、「望んでいた平穏が戻ってきた」と喜べたかもしれないのに。いま、私の心はどこか物足りなさを抱えている。
それでも日々は進む。侯爵家での落ち着いた暮らしの中、私は自分なりに気分転換を図ろうとする。けれど、そのどこか空虚な時間に変化が訪れるのは、思いがけない来客からだった。
ふだんは昼間はあまり通らない客間を抜け、重厚な扉の前へ。そこが父アゼル・ヴィオレット侯爵の執務室であり、書斎でもある。
あの大騒動から半月ほど経ったある日の午後、私は父の求めに応じてここを訪れていた。
「……ああ、ルージュか。よく来たな。ま、ゆっくり腰を掛けなさい」
中に足を踏み入れると、相変わらず威厳ある佇まいの父が、机の前で資料の山と睨めっこをしていた。母は今日は不在らしい。私は緊張を隠しつつ、失礼にならない程度に椅子へ腰掛ける。
書斎の中は重々しい空気が漂っているが、これでも前よりはずいぶんマシだ。王宮での事件直後、私が屋敷に戻ったときは、父も母も顔色をなくし、「どうすればいいのか」と憔悴していたほどだから。
「王家から正式な通達がきた。おまえとリオネル殿下の婚約は“なかったこと”にする……そういう扱いになるそうだ。実際には、王位継承から外されたリオネル殿下は、もう王都に戻れないと思うがな」
父が書類を指先で叩きながら言う。その声には、微かなほっとした響きが混じっていた。
私の家門——ヴィオレット侯爵家は、代々王家に仕えてきた名門ではあるが、あの軍事漏洩事件の影響がどこまで波及するか分からず、ずっと気が気でなかったのだろう。蓋を開ければ、すべてはリオネル殿下の責任として処理され、家としての追及は免れた。もちろん後味は悪いが、そういうものなのだ、この国の政治は。
「ええ……もう戻ってこられないでしょうね、あの方は。私にとっても、こうして自由に帰ってこられたのは幸いといえば幸いです」
もしリオネル殿下との結婚が続いていたとしたら、あのまま宮廷の政治闘争に巻き込まれ、さらに厳しい立場に立たされていたかもしれない。そう思うと、私は一概に不幸だったとは言えない。
しかし、割り切れない思いも胸の中にはくすぶっている。とりわけ、リナのことを考えると辛い。無実の罪を着せられ、国外へ放逐されてしまったあの子は、いったい今どうしているのか。生きているのかさえ、確証はない。
ただ、私にできることは何もなかった。王家からの正式な“口止め”と言っていいほどの圧力があり、これ以上の捜査や救済を主張すれば、ヴィオレット侯爵家に火の粉が降りかかりかねない。
「ところで、ルージュ。これから先、おまえはどうするつもりだ? ……王との縁談は破談になったが、いずれどこか他の家門との婚姻が必要だろう。世継ぎとしてのおまえの将来が、うちの家のためにも大切なんだ」
父の声には、どこか穏やかさが戻っていた。彼はもともと厳格だが、私のことを案じてくれる親でもある。
けれど、正直、私は結婚の話など今は聞きたくなかった。好きでもない相手と“形ばかり”の縁を結ぶのはもう懲り懲りだ。
私はできるだけ冷静さを保ちながら、父に言葉を返す。
「……お父様には申し訳ありませんが、今すぐ婚姻の話は考えたくないのです。むしろ、ゆっくり自分の時間を過ごしたい。お許しいただけませんか?」
「ふむ……まあ、今回の件で、おまえの心情は複雑だろうな。少なくとも、すぐ次の縁談を進めるなどという無茶はしないさ。しばらくはゆっくり過ごせ」
父は理解を示してくれた。もちろん、いつまでも独身を貫くことは難しいかもしれないが、しばらく自由にさせてくれるというならありがたい。
私は深々と頭を下げると、「それでは失礼いたします」と書斎を出た。父はなにか言いかけたが、そのまま黙って見送ってくれた。
自由”を思い返すひととき
執務室を出て、自室に戻る途中、ふと窓から見える屋敷の庭が目に留まる。高い塀と樹木に囲まれた屋敷の敷地は、王宮ほどではないが十分に広く、季節の草花が整然と咲き誇っていた。
王宮の庭園とは違う、ちょっと素朴な美しさ。それを見ているうちに、私は自分でも意外なほど、心がほぐれていくのを感じる。
(ああ、私は家に帰ってきたんだわ……)
この場所なら、好きなだけお昼寝をしても、読みかけの本に没頭してもいい。お茶を飲みながら平和に過ごすこともできる。王宮での窮屈さに比べれば、何と気楽なことか——。
その一方で、私の中には小さな空虚もある。王宮にいた頃は、リナやリオネル殿下がそばにいて、奇妙な関係とはいえ刺激的で、心を動かされた。悲劇に終わったとはいえ、あの数週間の出来事が、私の中に深く刻み込まれているのを感じる。
「……もう二度と、あんな思いはしたくない。でも……」
リナが笑顔でお菓子を食べていた姿や、宮廷の廊下で殿下とばったり顔を合わせたときのぎこちない会話。そういった何気ない日常が、今となっては懐かしい。
私はそんな感傷を振り払うように、足早に自室へ戻った。そして、好きなだけ本を開き、紅茶を片手に過ごしてみる。お昼寝もしてみる。……けれど、どうにも落ち着かないのだ。
不思議なことに、自由を満喫しているはずなのに、かつて感じていた心地よさが薄れている。まるで違う世界を見てきたあとで、“元の自分”に戻れなくなったような感覚。
(私はこれから、どう生きればいいのかしら……。結局、王家との婚約はなくなったから、こうして家に戻って平穏に過ごせばいい。でも、それで満足できるの?)
数日前までなら、「望んでいた平穏が戻ってきた」と喜べたかもしれないのに。いま、私の心はどこか物足りなさを抱えている。
それでも日々は進む。侯爵家での落ち着いた暮らしの中、私は自分なりに気分転換を図ろうとする。けれど、そのどこか空虚な時間に変化が訪れるのは、思いがけない来客からだった。
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