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第20話 聖女、帰還
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第20話 聖女、帰還
夜の街道を、馬車は休みなく駆けていた。
車輪が石を打つたび、小さく身体が揺れる。
けれどホーリィー・メイデンは、その揺れに眉ひとつ動かさなかった。
膝の上には、王太子ジョン・ウィリアムから届いた二通の密書がある。
最初のものは、助けを求める文だった。
二通目は、さらに切迫していた。
城はすでに深く侵されていること。
エリザベート・バートリが吸血姫であること。
そして――自分は、二晩でこの有様だ、と。
最後の一文だけ、筆跡がひどく乱れていた。
読んだとき、ホーリィーは何も言わなかった。
怒りも、悲しみも、驚きも、表には出さなかった。
ただ、その紙を静かに畳み直しただけだ。
それでもマリアにはわかった。
お嬢様は、もう戻ると決めているのだと。
「お嬢様」
向かいに座るマリアが、そっと声をかける。
「少しでも、お休みになってくださいませ」
ホーリィーは首を振った。
「眠れないわ」
それは気分の問題ではなかった。
王都へ近づくほど、胸の奥がざわめくのだ。
静かだったはずの内側で、何かが目覚め始めている。
まるで、遠くに置いてきたはずのものが、再び自分のもとへ戻ってこようとしているように。
馬車の外では、護衛の蹄の音が続いている。
夜は深い。
けれど月は明るく、道を白く照らしていた。
その白さの向こうに、王都がある。
そして王城がある。
あの場所から追い出された夜よりも、今のほうがずっと胸が重い。
戻る理由が違うからだ。
あのときは、何もわからないまま去った。
だが今は、わかっている。
王都に巣食ったものが何であるか。
自分がそこにいなかったせいで、何が起きたのか。
そして、もう手遅れかもしれないことまで。
「……間に合うかしら」
ぽつりと漏れた言葉に、マリアが顔を上げる。
「間に合います」
強い声だった。
「きっと」
ホーリィーは小さく微笑んだ。
励まされているのは自分だとわかっていても、その言葉はありがたかった。
しばらくして、馬車は王都の外れに近づく。
迎えに出ていた王城の騎士たちが合流し、先導するように前へ出た。
その一人が馬を寄せ、窓の外から恭しく告げる。
「公爵令嬢様。もうまもなく王都の門です」
ホーリィーは小さく頷く。
そして、窓の外へ目を向けた。
遠くに見える王都の灯。
その光景は見慣れていたはずなのに、今夜はひどく違って見えた。
生きた街の灯ではない。
どこか薄く、弱く、夜に呑まれかけた灯に見える。
門をくぐる瞬間だった。
ホーリィーは、不意に胸の奥を強く打たれたような感覚を覚えた。
息が止まる。
「お嬢様!?」
マリアが身を乗り出す。
だがホーリィーは手で制した。
苦しみではない。
痛みでもない。
ただ、広がっていく。
自分の内から、静かな光のようなものが。
王都の空気と触れ合った瞬間、それがたしかに戻ってきたのだとわかった。
「……やはり」
ホーリィーは、静かに目を閉じる。
「私が、張っていたのね」
「え?」
マリアには意味がわからなかっただろう。
けれどホーリィーには、はっきりと感じ取れた。
自分がいた頃、王都には薄い膜のようなものがあった。
目には見えず、誰にも知られず、それでも確かに街を覆っていたもの。
それが今は、あちこちから破れ、裂け、冷たいものが染み込んでいる。
結界。
そう呼ぶべきものなのだと、今ようやく理解する。
自分は奇跡を起こしていなかったのではない。
ただ、ずっと気づかれないかたちで王都を守っていたのだ。
その事実に驚きはなかった。
むしろ、ひどく腑に落ちた。
なぜ王都を離れた瞬間、胸の奥がほどけたのか。
なぜ今、戻っただけで何かが再び繋がるのか。
すべて、そこへ繋がっていた。
「お嬢様、お顔色が……」
マリアが不安げに言う。
ホーリィーは首を振る。
「大丈夫」
大丈夫ではないのは、王都のほうだ。
街の中へ入るほど、その淀みは濃くなる。
道を行く人々は、眠っているか、あるいは灯りを落として息を潜めているのだろう。夜の王都は静かすぎた。
まるで街全体が、何かを恐れて耳を澄ましているようだった。
馬車は貴族街を抜け、王城へ向かう。
近づくほど、空気は重くなる。
王都の中でも、とくに王城だけが深く侵されているのがわかった。
そこに巣食うものの気配が、遠目にも濃い。
「……ひどい」
ホーリィーは思わず呟いた。
マリアが震える声で言う。
「そんなに、ですか」
「ええ」
ホーリィーは窓の外から視線を外さない。
「まるで、城全体が夜に喰われているみたい」
その言葉に、マリアが息を呑んだ。
冗談ではないと、声音でわかったのだろう。
やがて、王城の門が見えてくる。
迎えの騎士たちが合図を送り、重い門が開かれた。
その瞬間、ホーリィーの背筋を冷たいものが走る。
王城の中だけ、夜の質が違った。
静かすぎる。
冷たすぎる。
人の営みがある場所の夜ではない。
何か別のものの領域に足を踏み入れたような感覚だった。
馬車が止まる。
扉が開かれ、ホーリィーはゆっくりと降り立った。
石畳に靴底が触れた瞬間、目に見えないものが足元から広がっていく気がした。
冷えきっていた王城の空気が、ほんのわずかだけ揺らぐ。
控えていた騎士や侍女たちが、知らず知らずのうちに息をついている。
彼ら自身は気づいていない。
だがホーリィーにはわかった。
自分が戻ったことで、ここにもほんの少しだけ光が差したのだと。
階段の上には、国王と数人の重臣が待っていた。
その顔には疲労と動揺が色濃く出ている。
ホーリィーが去った夜会のときとはまるで違う。
誰もが、誇りや建前をかなぐり捨てた顔をしていた。
国王が一歩前へ出る。
「ホーリィー・メイデン」
その声は重かった。
「……来てくれたか」
ホーリィーは階段の下で一礼した。
「王都と王城を守るために参りました」
それは、王太子のためではないという、静かな線引きでもあった。
国王はそれを理解したのか、苦い顔でうなずく。
「息子の愚行については……今は何も言えぬ」
「後で結構です」
ホーリィーは淡々と答える。
「まず、殿下はどちらに」
国王の表情が暗くなる。
「自室だ。三日ほどで、まるで別人のように衰弱しておる」
その言葉に、ホーリィーの睫毛がわずかに伏せられた。
もう三夜。
密書の内容から予想はしていたが、やはり時間は残っていない。
「案内を」
短く告げると、国王はすぐに首を振る。
「いや、先に説明が」
「いいえ」
ホーリィーはきっぱりと言った。
その声の静けさに、その場の全員が押された。
「説明は歩きながら伺います」
それだけ言って、彼女は王城の中へ足を踏み入れる。
その瞬間。
壁際に掛けられていた大鏡の曇りが、ふっと薄れた。
そこにいた侍女のひとりが、小さく息を呑む。
「鏡が……」
誰かが囁く。
磨いても晴れなかった鏡が、ホーリィーの通ったあとだけ、わずかに澄んでいた。
国王も重臣たちも、それを見た。
何もしていないと言われた聖女が、ただ戻っただけで、城の空気を変えた。
その意味を、誰もが言葉にできないまま悟り始める。
ホーリィーは鏡に目も向けず、前だけを見ていた。
もう迷いはない。
今夜、自分がすべきことはただひとつ。
城の奥へ進みながら、彼女は静かに息を吐く。
「……待っていてください」
それが誰に向けた言葉なのか、自分でもはっきりとはわからなかった。
王城で怯える人々へか。
遅すぎる後悔の中にいる王太子へか。
それとも、この城の奥で自分を待つ吸血姫へか。
ただひとつ確かなのは、長い夜が、ようやく終わりへ向かい始めたということだった。
夜の街道を、馬車は休みなく駆けていた。
車輪が石を打つたび、小さく身体が揺れる。
けれどホーリィー・メイデンは、その揺れに眉ひとつ動かさなかった。
膝の上には、王太子ジョン・ウィリアムから届いた二通の密書がある。
最初のものは、助けを求める文だった。
二通目は、さらに切迫していた。
城はすでに深く侵されていること。
エリザベート・バートリが吸血姫であること。
そして――自分は、二晩でこの有様だ、と。
最後の一文だけ、筆跡がひどく乱れていた。
読んだとき、ホーリィーは何も言わなかった。
怒りも、悲しみも、驚きも、表には出さなかった。
ただ、その紙を静かに畳み直しただけだ。
それでもマリアにはわかった。
お嬢様は、もう戻ると決めているのだと。
「お嬢様」
向かいに座るマリアが、そっと声をかける。
「少しでも、お休みになってくださいませ」
ホーリィーは首を振った。
「眠れないわ」
それは気分の問題ではなかった。
王都へ近づくほど、胸の奥がざわめくのだ。
静かだったはずの内側で、何かが目覚め始めている。
まるで、遠くに置いてきたはずのものが、再び自分のもとへ戻ってこようとしているように。
馬車の外では、護衛の蹄の音が続いている。
夜は深い。
けれど月は明るく、道を白く照らしていた。
その白さの向こうに、王都がある。
そして王城がある。
あの場所から追い出された夜よりも、今のほうがずっと胸が重い。
戻る理由が違うからだ。
あのときは、何もわからないまま去った。
だが今は、わかっている。
王都に巣食ったものが何であるか。
自分がそこにいなかったせいで、何が起きたのか。
そして、もう手遅れかもしれないことまで。
「……間に合うかしら」
ぽつりと漏れた言葉に、マリアが顔を上げる。
「間に合います」
強い声だった。
「きっと」
ホーリィーは小さく微笑んだ。
励まされているのは自分だとわかっていても、その言葉はありがたかった。
しばらくして、馬車は王都の外れに近づく。
迎えに出ていた王城の騎士たちが合流し、先導するように前へ出た。
その一人が馬を寄せ、窓の外から恭しく告げる。
「公爵令嬢様。もうまもなく王都の門です」
ホーリィーは小さく頷く。
そして、窓の外へ目を向けた。
遠くに見える王都の灯。
その光景は見慣れていたはずなのに、今夜はひどく違って見えた。
生きた街の灯ではない。
どこか薄く、弱く、夜に呑まれかけた灯に見える。
門をくぐる瞬間だった。
ホーリィーは、不意に胸の奥を強く打たれたような感覚を覚えた。
息が止まる。
「お嬢様!?」
マリアが身を乗り出す。
だがホーリィーは手で制した。
苦しみではない。
痛みでもない。
ただ、広がっていく。
自分の内から、静かな光のようなものが。
王都の空気と触れ合った瞬間、それがたしかに戻ってきたのだとわかった。
「……やはり」
ホーリィーは、静かに目を閉じる。
「私が、張っていたのね」
「え?」
マリアには意味がわからなかっただろう。
けれどホーリィーには、はっきりと感じ取れた。
自分がいた頃、王都には薄い膜のようなものがあった。
目には見えず、誰にも知られず、それでも確かに街を覆っていたもの。
それが今は、あちこちから破れ、裂け、冷たいものが染み込んでいる。
結界。
そう呼ぶべきものなのだと、今ようやく理解する。
自分は奇跡を起こしていなかったのではない。
ただ、ずっと気づかれないかたちで王都を守っていたのだ。
その事実に驚きはなかった。
むしろ、ひどく腑に落ちた。
なぜ王都を離れた瞬間、胸の奥がほどけたのか。
なぜ今、戻っただけで何かが再び繋がるのか。
すべて、そこへ繋がっていた。
「お嬢様、お顔色が……」
マリアが不安げに言う。
ホーリィーは首を振る。
「大丈夫」
大丈夫ではないのは、王都のほうだ。
街の中へ入るほど、その淀みは濃くなる。
道を行く人々は、眠っているか、あるいは灯りを落として息を潜めているのだろう。夜の王都は静かすぎた。
まるで街全体が、何かを恐れて耳を澄ましているようだった。
馬車は貴族街を抜け、王城へ向かう。
近づくほど、空気は重くなる。
王都の中でも、とくに王城だけが深く侵されているのがわかった。
そこに巣食うものの気配が、遠目にも濃い。
「……ひどい」
ホーリィーは思わず呟いた。
マリアが震える声で言う。
「そんなに、ですか」
「ええ」
ホーリィーは窓の外から視線を外さない。
「まるで、城全体が夜に喰われているみたい」
その言葉に、マリアが息を呑んだ。
冗談ではないと、声音でわかったのだろう。
やがて、王城の門が見えてくる。
迎えの騎士たちが合図を送り、重い門が開かれた。
その瞬間、ホーリィーの背筋を冷たいものが走る。
王城の中だけ、夜の質が違った。
静かすぎる。
冷たすぎる。
人の営みがある場所の夜ではない。
何か別のものの領域に足を踏み入れたような感覚だった。
馬車が止まる。
扉が開かれ、ホーリィーはゆっくりと降り立った。
石畳に靴底が触れた瞬間、目に見えないものが足元から広がっていく気がした。
冷えきっていた王城の空気が、ほんのわずかだけ揺らぐ。
控えていた騎士や侍女たちが、知らず知らずのうちに息をついている。
彼ら自身は気づいていない。
だがホーリィーにはわかった。
自分が戻ったことで、ここにもほんの少しだけ光が差したのだと。
階段の上には、国王と数人の重臣が待っていた。
その顔には疲労と動揺が色濃く出ている。
ホーリィーが去った夜会のときとはまるで違う。
誰もが、誇りや建前をかなぐり捨てた顔をしていた。
国王が一歩前へ出る。
「ホーリィー・メイデン」
その声は重かった。
「……来てくれたか」
ホーリィーは階段の下で一礼した。
「王都と王城を守るために参りました」
それは、王太子のためではないという、静かな線引きでもあった。
国王はそれを理解したのか、苦い顔でうなずく。
「息子の愚行については……今は何も言えぬ」
「後で結構です」
ホーリィーは淡々と答える。
「まず、殿下はどちらに」
国王の表情が暗くなる。
「自室だ。三日ほどで、まるで別人のように衰弱しておる」
その言葉に、ホーリィーの睫毛がわずかに伏せられた。
もう三夜。
密書の内容から予想はしていたが、やはり時間は残っていない。
「案内を」
短く告げると、国王はすぐに首を振る。
「いや、先に説明が」
「いいえ」
ホーリィーはきっぱりと言った。
その声の静けさに、その場の全員が押された。
「説明は歩きながら伺います」
それだけ言って、彼女は王城の中へ足を踏み入れる。
その瞬間。
壁際に掛けられていた大鏡の曇りが、ふっと薄れた。
そこにいた侍女のひとりが、小さく息を呑む。
「鏡が……」
誰かが囁く。
磨いても晴れなかった鏡が、ホーリィーの通ったあとだけ、わずかに澄んでいた。
国王も重臣たちも、それを見た。
何もしていないと言われた聖女が、ただ戻っただけで、城の空気を変えた。
その意味を、誰もが言葉にできないまま悟り始める。
ホーリィーは鏡に目も向けず、前だけを見ていた。
もう迷いはない。
今夜、自分がすべきことはただひとつ。
城の奥へ進みながら、彼女は静かに息を吐く。
「……待っていてください」
それが誰に向けた言葉なのか、自分でもはっきりとはわからなかった。
王城で怯える人々へか。
遅すぎる後悔の中にいる王太子へか。
それとも、この城の奥で自分を待つ吸血姫へか。
ただひとつ確かなのは、長い夜が、ようやく終わりへ向かい始めたということだった。
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