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第21話 ミイラの王太子
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第21話 ミイラの王太子
王太子ジョン・ウィリアム・ポリドーリの私室へ向かう廊下は、夜の冷たさをそのまま閉じ込めたように静まり返っていた。
先導する騎士たちの足音だけが、石床に乾いて響く。
その後ろを歩きながら、ホーリィー・メイデンは周囲の気配を静かに探っていた。
やはり、濃い。
王城の外縁ではまだ薄く残っていたものが、奥へ進むほどに歪んでいく。
冷たいだけではない。
甘い。
花の香りに似て、けれど確かに生きものを惑わせる甘さだった。
魔性の気配。
それが城の壁や床、空気の隙間にまで染みついている。
ホーリィーが歩くたび、わずかに澄んでいく場所もある。だが一度侵されたものは、戻るまでに時間がかかる。
何よりも、源がまだ城の中にいる。
「こちらです」
先を行く騎士が低く告げ、足を止めた。
王太子の私室の前だった。
扉の左右には護衛がいる。
だがその顔色は、戦の前に立つ兵のものではない。
もっと違う、言葉にしがたい恐怖を長く見つめ続けた者の顔だった。
ホーリィーはその表情に、説明を聞くより早く状況を察する。
遅かったのだ。
おそらく。
けれど確認しなければならない。
国王が、後ろから重い声で言う。
「……覚悟はしてくれ」
ホーリィーは振り返らなかった。
ただ、静かに答える。
「はい」
護衛が扉を開ける。
軋んだ音が、ひどく大きく響いた。
室内には灯りが残されていた。
燭台の火はまだ揺れている。寝台も、机も、鏡台も、そこにある。昨夜まで人が使っていた部屋の名残が、あまりに生々しい。
けれど、その部屋の中心にあるものが、すべてを異様にしていた。
寝台の上に、王太子が横たわっていた。
いや、それはもはや“横たわっている”という表現すら似つかわしくない姿だった。
肌は干からび、頬は落ちくぼみ、指先は細く縮れている。
三日前まで、傲慢で、愚かで、それでも生きていた青年の姿など、そこにはどこにも残っていない。
長い時間をかけて乾かされた遺骸のように、ジョン・ウィリアム王太子は静かにそこにあった。
室内の誰も、すぐには声を出せなかった。
国王も、重臣たちも、騎士たちも。
そしてホーリィーも。
ただ一歩、足を進める。
そのたびに、床に残った魔性の気配がささやかに退く。
寝台のそばまで来たところで、ホーリィーは立ち止まった。
見間違いではない。
もう間に合わなかったのだ。
三夜目まで耐えれば、そう思っていたのだろう。
あるいは、今夜こそ聖女が間に合うと信じていたのかもしれない。
だが吸血姫は、そのわずかな希望すら残さなかった。
ホーリィーはゆっくりと目を閉じた。
怒りはなかった。
哀れみも、今はない。
ただ、ひとつの終わりを確認しただけだった。
「……吸血の魔性」
小さく呟く。
その言葉に、国王がわずかによろめいた。
「やはり、そうなのだな」
答えはわかっていたのだろう。
それでも誰かの口から断定されるまでは、信じたくなかったのかもしれない。
ホーリィーは目を開く。
その視線は、すでに亡骸ではなく、部屋の奥を見ていた。
鏡だ。
王太子の部屋に置かれた大きな鏡は、他の場所よりも濃く曇っている。
白く霞んだその鏡面に、部屋の姿はぼんやり映っていた。けれどその曇りの奥には、まだ何かが残っている。
ホーリィーはそっと鏡へ近づいた。
誰も止めない。
彼女が何を見ているのか、誰もわからないからだ。
白い指先を、鏡の縁へ軽く触れる。
その瞬間、曇りがすっと薄れた。
鏡の中に、室内が映る。
寝台。燭台。青ざめた国王。息を潜める騎士たち。
そして、ほんの一瞬だけ。
紅い影が、鏡の奥を横切った。
ホーリィーの瞳が細くなる。
「……まだ近くにいます」
そのひと言に、部屋の空気が凍りついた。
国王が息を呑む。
「何だと」
「王太子殿下を……いえ、この部屋を、まだ離れていないようです」
ホーリィーは静かに手を離す。
曇りはすぐには戻らなかった。
それだけでも、この部屋に彼女が持ち込んだものがわかる。
浄化。
あるいは本来あるべきものへ戻す力。
王太子の死は覆らない。
けれど、この部屋に満ちていた魔の残滓は、少しずつ薄れ始めていた。
国王が、ひどく低い声で問う。
「息子は……苦しんだのか」
ホーリィーは答えなかった。
答える必要はないと思った。
その沈黙だけで、十分だったからだ。
国王はしばらく立ち尽くしていたが、やがて顔を覆うでもなく、ただ深く息を吐いた。
王としてではなく、父として。
愚かな息子を止められなかった男として。
「……余の責だな」
誰に向けた言葉でもなかった。
ホーリィーはそれにも答えず、寝台の脇へ戻る。
亡骸を見下ろし、静かに片膝をついた。
祈りのためではない。
確認のためだった。
王太子の首筋には、大きな傷はない。
けれど魔性の痕は、確かに残っている。
命そのものを少しずつ奪われた者の痕跡だ。
彼女はそっと目を伏せる。
「ここまで、よく耐えたのですね」
その言葉は責めではなかった。
かといって赦しでもない。
ただ事実として、ジョン・ウィリアムは三夜のあいだ恐怖に耐え、最後まで助けを待っていた。
その結果が、この姿だとしても。
後悔しても遅い。
だが、後悔したこと自体は、もう否定しようがない。
ホーリィーは立ち上がる。
「殿下はもう救えません」
はっきりと言った。
その現実から目を逸らさせないために。
「ですが、まだ救える方々がいます」
国王が顔を上げる。
その目には痛みがある。
けれど王として戻ろうとする意志も、まだ残っていた。
「……どうすればよい」
ホーリィーは、扉の向こう――さらに城の奥を見た。
王太子の私室よりも濃い闇がある。
そこに、あれはいる。
「王座の間へ向かいます」
「ひとりでか」
「おそらく、その前に何人かと会うでしょう」
ホーリィーの声音は静かだった。
「すでに眷属にされている者がいるはずです」
騎士たちの間に動揺が走る。
国王の顔色も変わる。
「誰が……」
「まだわかりません」
けれど、いる。
城の淀み方でわかる。
吸血姫は、ただ喰らうだけでは満足しない。自分に従うものを作り、城の中をさらに深く侵していく。
王太子が喰われた今、次に狙われるのは王か、あるいは城の中枢を担う者たちだ。
だから急がねばならない。
ホーリィーは最後にもう一度だけ、王太子の亡骸を見た。
そこには、婚約者だった男の面影はほとんどない。
残っているのは、愚かな選択の果てに喰われたひとりの人間の結末だけだ。
「……お休みください」
それだけを、誰にも聞き取れないほど小さく言う。
そして背を向けた。
もう振り返らない。
今見るべきものは、終わった命ではなく、まだ終わらせてはならない命のほうだ。
扉へ向かって歩き出すと、国王が低く問う。
「勝てるのか」
ホーリィーは足を止めずに答える。
「勝つ、ではありません」
その声は、夜の中でもよく通った。
「還すのです」
その言葉の意味を、その場の誰も完全には理解できなかっただろう。
けれど不思議と、そのひと言に王太子の部屋を満たしていた冷気が少しだけ和らいだ気がした。
ホーリィーが廊下へ出る。
その背後で、曇っていた鏡がさらに澄んでいく。
部屋に残った騎士のひとりが、思わず呟いた。
「……聖女様だ」
誰に聞かせるでもない声だった。
だが、その場の誰も否定しなかった。
もう疑う余地などなかったからだ。
王城の奥では、まだ長い夜がうごめいている。
けれど、その夜へ向かって歩く公爵令嬢の後ろ姿には、確かに朝の気配があった。
王太子ジョン・ウィリアム・ポリドーリの私室へ向かう廊下は、夜の冷たさをそのまま閉じ込めたように静まり返っていた。
先導する騎士たちの足音だけが、石床に乾いて響く。
その後ろを歩きながら、ホーリィー・メイデンは周囲の気配を静かに探っていた。
やはり、濃い。
王城の外縁ではまだ薄く残っていたものが、奥へ進むほどに歪んでいく。
冷たいだけではない。
甘い。
花の香りに似て、けれど確かに生きものを惑わせる甘さだった。
魔性の気配。
それが城の壁や床、空気の隙間にまで染みついている。
ホーリィーが歩くたび、わずかに澄んでいく場所もある。だが一度侵されたものは、戻るまでに時間がかかる。
何よりも、源がまだ城の中にいる。
「こちらです」
先を行く騎士が低く告げ、足を止めた。
王太子の私室の前だった。
扉の左右には護衛がいる。
だがその顔色は、戦の前に立つ兵のものではない。
もっと違う、言葉にしがたい恐怖を長く見つめ続けた者の顔だった。
ホーリィーはその表情に、説明を聞くより早く状況を察する。
遅かったのだ。
おそらく。
けれど確認しなければならない。
国王が、後ろから重い声で言う。
「……覚悟はしてくれ」
ホーリィーは振り返らなかった。
ただ、静かに答える。
「はい」
護衛が扉を開ける。
軋んだ音が、ひどく大きく響いた。
室内には灯りが残されていた。
燭台の火はまだ揺れている。寝台も、机も、鏡台も、そこにある。昨夜まで人が使っていた部屋の名残が、あまりに生々しい。
けれど、その部屋の中心にあるものが、すべてを異様にしていた。
寝台の上に、王太子が横たわっていた。
いや、それはもはや“横たわっている”という表現すら似つかわしくない姿だった。
肌は干からび、頬は落ちくぼみ、指先は細く縮れている。
三日前まで、傲慢で、愚かで、それでも生きていた青年の姿など、そこにはどこにも残っていない。
長い時間をかけて乾かされた遺骸のように、ジョン・ウィリアム王太子は静かにそこにあった。
室内の誰も、すぐには声を出せなかった。
国王も、重臣たちも、騎士たちも。
そしてホーリィーも。
ただ一歩、足を進める。
そのたびに、床に残った魔性の気配がささやかに退く。
寝台のそばまで来たところで、ホーリィーは立ち止まった。
見間違いではない。
もう間に合わなかったのだ。
三夜目まで耐えれば、そう思っていたのだろう。
あるいは、今夜こそ聖女が間に合うと信じていたのかもしれない。
だが吸血姫は、そのわずかな希望すら残さなかった。
ホーリィーはゆっくりと目を閉じた。
怒りはなかった。
哀れみも、今はない。
ただ、ひとつの終わりを確認しただけだった。
「……吸血の魔性」
小さく呟く。
その言葉に、国王がわずかによろめいた。
「やはり、そうなのだな」
答えはわかっていたのだろう。
それでも誰かの口から断定されるまでは、信じたくなかったのかもしれない。
ホーリィーは目を開く。
その視線は、すでに亡骸ではなく、部屋の奥を見ていた。
鏡だ。
王太子の部屋に置かれた大きな鏡は、他の場所よりも濃く曇っている。
白く霞んだその鏡面に、部屋の姿はぼんやり映っていた。けれどその曇りの奥には、まだ何かが残っている。
ホーリィーはそっと鏡へ近づいた。
誰も止めない。
彼女が何を見ているのか、誰もわからないからだ。
白い指先を、鏡の縁へ軽く触れる。
その瞬間、曇りがすっと薄れた。
鏡の中に、室内が映る。
寝台。燭台。青ざめた国王。息を潜める騎士たち。
そして、ほんの一瞬だけ。
紅い影が、鏡の奥を横切った。
ホーリィーの瞳が細くなる。
「……まだ近くにいます」
そのひと言に、部屋の空気が凍りついた。
国王が息を呑む。
「何だと」
「王太子殿下を……いえ、この部屋を、まだ離れていないようです」
ホーリィーは静かに手を離す。
曇りはすぐには戻らなかった。
それだけでも、この部屋に彼女が持ち込んだものがわかる。
浄化。
あるいは本来あるべきものへ戻す力。
王太子の死は覆らない。
けれど、この部屋に満ちていた魔の残滓は、少しずつ薄れ始めていた。
国王が、ひどく低い声で問う。
「息子は……苦しんだのか」
ホーリィーは答えなかった。
答える必要はないと思った。
その沈黙だけで、十分だったからだ。
国王はしばらく立ち尽くしていたが、やがて顔を覆うでもなく、ただ深く息を吐いた。
王としてではなく、父として。
愚かな息子を止められなかった男として。
「……余の責だな」
誰に向けた言葉でもなかった。
ホーリィーはそれにも答えず、寝台の脇へ戻る。
亡骸を見下ろし、静かに片膝をついた。
祈りのためではない。
確認のためだった。
王太子の首筋には、大きな傷はない。
けれど魔性の痕は、確かに残っている。
命そのものを少しずつ奪われた者の痕跡だ。
彼女はそっと目を伏せる。
「ここまで、よく耐えたのですね」
その言葉は責めではなかった。
かといって赦しでもない。
ただ事実として、ジョン・ウィリアムは三夜のあいだ恐怖に耐え、最後まで助けを待っていた。
その結果が、この姿だとしても。
後悔しても遅い。
だが、後悔したこと自体は、もう否定しようがない。
ホーリィーは立ち上がる。
「殿下はもう救えません」
はっきりと言った。
その現実から目を逸らさせないために。
「ですが、まだ救える方々がいます」
国王が顔を上げる。
その目には痛みがある。
けれど王として戻ろうとする意志も、まだ残っていた。
「……どうすればよい」
ホーリィーは、扉の向こう――さらに城の奥を見た。
王太子の私室よりも濃い闇がある。
そこに、あれはいる。
「王座の間へ向かいます」
「ひとりでか」
「おそらく、その前に何人かと会うでしょう」
ホーリィーの声音は静かだった。
「すでに眷属にされている者がいるはずです」
騎士たちの間に動揺が走る。
国王の顔色も変わる。
「誰が……」
「まだわかりません」
けれど、いる。
城の淀み方でわかる。
吸血姫は、ただ喰らうだけでは満足しない。自分に従うものを作り、城の中をさらに深く侵していく。
王太子が喰われた今、次に狙われるのは王か、あるいは城の中枢を担う者たちだ。
だから急がねばならない。
ホーリィーは最後にもう一度だけ、王太子の亡骸を見た。
そこには、婚約者だった男の面影はほとんどない。
残っているのは、愚かな選択の果てに喰われたひとりの人間の結末だけだ。
「……お休みください」
それだけを、誰にも聞き取れないほど小さく言う。
そして背を向けた。
もう振り返らない。
今見るべきものは、終わった命ではなく、まだ終わらせてはならない命のほうだ。
扉へ向かって歩き出すと、国王が低く問う。
「勝てるのか」
ホーリィーは足を止めずに答える。
「勝つ、ではありません」
その声は、夜の中でもよく通った。
「還すのです」
その言葉の意味を、その場の誰も完全には理解できなかっただろう。
けれど不思議と、そのひと言に王太子の部屋を満たしていた冷気が少しだけ和らいだ気がした。
ホーリィーが廊下へ出る。
その背後で、曇っていた鏡がさらに澄んでいく。
部屋に残った騎士のひとりが、思わず呟いた。
「……聖女様だ」
誰に聞かせるでもない声だった。
だが、その場の誰も否定しなかった。
もう疑う余地などなかったからだ。
王城の奥では、まだ長い夜がうごめいている。
けれど、その夜へ向かって歩く公爵令嬢の後ろ姿には、確かに朝の気配があった。
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