何もしていない聖女と言われたので、婚約破棄を受け入れます

鍛高譚

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第22話 眷属の廊下

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第22話 眷属の廊下

王太子の私室を出た瞬間、王城の空気は再び重くなった。

部屋の中ではわずかに薄れていた冷えが、廊下へ一歩踏み出しただけで肌にまとわりつく。夜は更け、燭台の火は静かに揺れているというのに、その明かりはどこか頼りない。

まるで光そのものが、奥へ進むことをためらっているようだった。

ホーリィー・メイデンは、歩みを止めずに言う。

「これより先、私のすぐ後ろ以外には立たないでください」

その声は穏やかだったが、拒む余地のない響きがあった。

国王と重臣たち、そして数名の騎士がその後ろに続いている。彼らは誰も異を唱えなかった。

王太子の亡骸を見た今、この城で何が起きているのか、もはや疑う者はいない。

「陛下」

ホーリィーが前を向いたまま呼ぶ。

「宰相閣下は、どちらにいらっしゃいますか」

国王が一瞬だけ息を詰める。

「……先ほどまで、余のもとにいた」

「今は?」

「いや、途中で姿を見なくなったと聞いた」

その答えに、ホーリィーの瞳がわずかに細くなる。

予感は当たっていた。

王太子が墜ちた今、次に狙われるのは王そのものか、あるいは王を支える中枢だ。宰相がいないというだけで、もう嫌な想像はいくらでもできる。

「急ぎましょう」

一行はさらに奥へ進む。

長い回廊には、ところどころに鏡が掛けられていた。そのいくつかはまだ曇っている。ホーリィーが近づくたび、曇りは少しずつ薄れるが、完全には晴れない。

まだ、城の中心にいるものが残っているからだ。

「……音がしませんな」

重臣のひとりが、怯えを押し殺すように呟いた。

たしかに、その通りだった。

王城には本来、夜でも完全な静寂はない。遠くの足音、夜番の声、どこかで鳴る扉の気配。人が生きている場所なら、必ず何かしらの小さな音がある。

だが今の城には、それがなかった。

まるで息を潜めているのではない。

息をする者そのものが減っているような静けさだった。

そのとき、不意に前方で甲冑の鳴る音がした。

かすかに。

けれど、はっきりと。

騎士たちが身を硬くする。

国王の周囲を守るように前へ出ようとした、その瞬間だった。

「動かないで」

ホーリィーの一言で、彼らの足が止まる。

暗い廊下の先から、ゆっくりと人影が現れた。

騎士だった。

王城付きの近衛騎士の鎧を着ている。見慣れた顔ぶれのはずなのに、その歩みはひどくぎこちない。糸で操られた人形のように、関節の動きがどこか不自然だった。

一人ではない。

二人、三人、五人。

その後ろから、さらに影が続く。

「……近衛騎士団」

国王の低い声に、かすかな動揺が滲む。

彼らは無言だった。

返事をしない。

ただ、まっすぐこちらへ向かってくる。

燭台の火が彼らの顔を照らしたとき、ようやく異様さがはっきりと見えた。

瞳が、紅く濁っている。

焦点は合っているのに、その奥に人の理性がない。首筋には、小さな痕があった。ほんのわずかな傷跡だ。だがホーリィーの目には、それが何を意味するのか明白だった。

眷属。

吸血姫に血を与えられ、命を捻じ曲げられた者たち。

「……下がってください」

年若い騎士のひとりが、ひどく乾いた声で言った。

それは命令だった。

だが、その口調には本人の意思がほとんどない。

「ここから先へは、お通しできません」

次に響いた声は、近衛騎士のものではなかった。

一行の最後尾にいた重臣が、はっと息を呑む。

暗がりの向こうから現れたのは、王国の宰相だった。

豪奢な衣をまとったまま、その顔だけが妙に色を失っている。目は騎士たちと同じく紅く濁り、唇は乾ききっていた。

「宰相……!」

国王が一歩前へ出かける。

だがホーリィーがそっと片手を上げ、それを止めた。

宰相は深く頭を垂れるでもなく、ただぎこちなく口を開く。

「聖女を……ここで止めろと」

その声は、誰かの命令をそのまま口にしているだけだった。

国王の表情が変わる。

怒りではない。

痛みと絶望がないまぜになった顔だ。

長年仕えた臣下が、いま目の前で人ならぬものの命令に従っている。

その事実が、言葉より重くのしかかっていた。

騎士たちはゆっくりと剣を抜いた。

鞘走りの音が、ひどく冷たい。

だがその動きは戦う者のものではない。訓練された騎士の美しさがあるからこそ、そこに宿る空虚さが余計に異様だった。

「下がりなさい」

ホーリィーが静かに言う。

その声は彼らを責めない。

命令するというより、呼びかける声だった。

「あなたたちは、まだ戻れます」

近衛騎士のひとりが、ぴくりと肩を震わせた。

だがすぐに、その紅い瞳に濁りが戻る。

「……近づくな」

宰相が低く言う。

「ここを、通すな」

その声を合図にするように、騎士たちが一斉に前へ出た。

国王の護衛たちが剣を構える。

だがホーリィーは、一歩も退かない。

むしろ静かに前へ出た。

「剣を下ろしてください」

背後へ向けたそのひと言で、護衛たちの動きが止まる。

「ですが、聖女様!」

「この方たちを斬ってはなりません」

ホーリィーは目の前の騎士たちを見つめる。

彼らはまだ完全な怪物ではない。

奪われたのだ。血も、意志も、夜の側へ。

ならば、やるべきことは討つことではなく、還すことだ。

騎士たちの足音が近づく。

刃の先が燭台の光を受ける。

あと数歩で届く距離。

そのとき、ホーリィーは静かに目を閉じた。

息を吸う。

胸の奥で、王都へ戻ったときから感じていた光が、ゆっくりと形を持つ。

ずっと無意識のまま張っていたもの。

王都を覆い、城を守っていたもの。

それを今度は、自らの意思で解き放つ。

彼女の足元から、淡い光が広がった。

強烈な閃光ではない。

目を焼くような白でもない。

春の朝が、長い夜のあとにそっと差し込むような、やわらかな光だった。

それが石床を這い、騎士たちの足元へ届く。

触れた瞬間、最前列にいた騎士の身体がびくりと震えた。

剣先が揺れる。

紅く濁っていた瞳が、わずかに揺らぐ。

「……あ」

かすかな声が漏れる。

それは、操られた眷属の声ではなかった。

自分を取り戻しかけた人の声だった。

だが次の瞬間、濃い闇の気配がその揺らぎを押し潰そうとする。

吸血姫の支配が、まだ彼らの内に深く食い込んでいるのだ。

ホーリィーは目を開いた。

瞳の奥に、淡い金の光が宿る。

「戻りなさい」

その言葉とともに、光がもう一度広がった。

今度は、はっきりと。

朝露をまとった風のように、静かで、透きとおっていて、それでいて逃れようのない光。

騎士たちの動きが止まる。

宰相が片手で顔を覆う。

まるで、長い悪夢から醒めようとして苦しんでいるように。

国王も重臣たちも、息を呑んで見つめるしかなかった。

これは戦いではない。

断罪でもない。

人の身に入り込んだ夜を、少しずつ剥がしていく行為だ。

騎士のひとりが、がしゃんと剣を取り落とした。

紅い瞳から色が薄れ、代わりに深い疲労が浮かぶ。

宰相もまた、膝をついた。

「……聖女、様」

掠れた声だった。

それが彼自身の意思で発せられたものだと、誰にでもわかった。

ホーリィーは彼へ近づこうとする。

だが、その瞬間。

廊下の奥から、甘い笑い声がした。

鈴を鳴らすような、小さくやわらかな笑い声。

けれどその場の全員の背筋を凍らせるには十分だった。

エリザベートだ。

姿は見えない。

だが確かに、どこかで見ている。

宰相の肩が震える。

近衛騎士たちの顔に、再び苦しげな歪みが走る。

夜が、まだ彼らを引き戻そうとしていた。

ホーリィーは廊下の奥を見据えた。

「……そこにいるのですね」

答えはない。

あるのは、もう一度ふっとこぼれる笑い声だけだった。

長い夜は、まだ終わっていない。

けれど、その夜を裂く朝の気配は、もう確かにここにあった。
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