何もしていない聖女と言われたので、婚約破棄を受け入れます

鍛高譚

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第23話 灰になる者たち

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第23話 灰になる者たち

甘い笑い声が、廊下の奥でふっと途切れた。

それと同時に、近衛騎士たちの身体が大きく震える。

紅く濁っていた瞳が、光と闇のあいだで揺れ続けていた。

戻りかけた理性を、なお夜が引き戻そうとしている。

王城の石壁に染みついた魔性の気配が、彼らの内に残る支配を後押ししているのだと、ホーリィー・メイデンにははっきりわかった。

このままでは、また奪われる。

いま一度、完全に。

ホーリィーは静かに息を吸う。

足元に広がった淡い光が、さらにやわらかく、けれど確かな広がりを持ち始めた。

それは鋭い刃のような聖光ではない。

咎めるための光ではなく、還すための光。

本来あるべき場所へ、迷ったものを送り返す朝の光だった。

「怖がらないでください」

ホーリィーの声は、ひどく静かだった。

近衛騎士たちへ向けて。

宰相へ向けて。

そして、自分の背後で息を詰めて見守る者たちへ向けても。

「もう終わります」

その言葉に呼応するように、光が廊下いっぱいに満ちる。

騎士たちの肩から、重いものが剥がれ落ちるような気配がした。

ひとりが剣を手放す。

続いてもうひとり。

甲冑の鳴る音が、長い静寂の中で妙に乾いて響いた。

宰相が片膝をついたまま、苦しげに胸元を押さえる。

「……聖女、様……」

かすれたその声には、もう命令を繰り返す空虚さがなかった。

自分の言葉だ。

自分の意志で、ようやくそこにいる。

ホーリィーは一歩、宰相へ近づいた。

そのときだった。

最前列の騎士の指先から、さらりと灰がこぼれ落ちた。

背後の誰かが息を呑む。

国王が、低く名を呼びかける。

「……何だ、これは」

騎士は苦しんでいるわけではなかった。

悲鳴もない。

ただ、長い夢から覚めるように、ぼんやりと自分の手を見つめている。

その指先が、夜明けの霜が解けるように崩れていく。

甲冑の隙間から、淡い灰が静かに零れ落ちる。

まるで最初からそこに肉も血もなかったかのように。

ホーリィーはその様子を見つめ、静かに言った。

「眷属にされた時点で、すでにかなり深く侵されています」

国王が顔を強張らせる。

「助からぬのか」

ホーリィーは少しだけ目を伏せた。

「……命そのものを、夜へ繋ぎ替えられてしまっています」

完全には戻せない。

人としての輪郭は、もう保てないところまで削られていた。

それでも。

「ですが、このまま怪物として在り続けさせることはできません」

それは残酷な宣告でもある。

だが同時に、唯一残された救いでもあった。

騎士は、淡くなった瞳でホーリィーを見た。

そこにはもう、紅い濁りはない。

ただ深い疲労と、ようやく終わることへの安堵だけがあった。

「……よかった」

その一言が落ちる。

次の瞬間、彼の身体がさらりと崩れた。

音もなく。

苦しみの形もなく。

甲冑だけを残し、中にあったものは灰となって石床へ落ちる。

それは恐ろしい光景のはずだった。

けれど不思議と、凄惨さはない。

むしろ、夜に囚われていたものが朝に還っていく、美しくさえある終わり方だった。

灰は風もないのにふわりと舞い、廊下の光の中できらめく。

雪のようだった。

あるいは、長い冬の果てにほどける最初の霜のようにも見える。

ひとり、またひとりと、近衛騎士たちが崩れていく。

誰も叫ばない。

剣を落とし、わずかに理性を取り戻し、そして灰となる。

ホーリィーは、そのたび小さく目を閉じた。

弔うように。

責めることなく。

ただ、終わりを受け止めるように。

やがて宰相だけが残った。

彼は膝をついたまま、震える手で床を支えている。

瞳の紅はほとんど消えていた。

けれど身体の輪郭はすでに淡く、今にも崩れそうだった。

国王が堪えきれず一歩前へ出る。

「宰相!」

その声に、宰相はゆっくりと顔を上げた。

長年王に仕えた老臣の顔だった。

疲れ果ててはいても、もう怪物の操り人形ではない。

「……陛下」

かすれた声に、国王の表情が歪む。

「余が……気づけなかった」

その悔恨に、宰相はほんのわずか首を振った。

「いいえ……これは……誰の、目にも……」

言葉の続きは、息に混じって切れた。

それでも彼は、無理に唇を動かす。

「王都を……」

ホーリィーが、静かに頷く。

「守ります」

宰相の顔に、かすかな安堵が浮かんだ。

「……それなら、よかった」

その声を最後に、彼の身体もまた、静かに灰へと崩れていく。

豪奢な衣だけが形を失わず、その内側から細かな灰がこぼれ落ちる。

国王はその場に立ち尽くしたまま、何も言えなかった。

ただ見送るしかない。

忠臣として、そして王国の柱として生きてきた男の最期を。

灰は床に積もり、淡い光の中で静かに舞っていた。

一行の誰も、しばらく動けなかった。

騎士たちも、重臣たちも、侍女たちも。

それが恐ろしかったからではない。

むしろ、あまりに静かで、美しすぎたからだ。

ホーリィーだけが、廊下の奥を見ていた。

甘い気配はまだ消えていない。

今の光景を、吸血姫はどこかで見ていたはずだ。

己が作り出した眷属たちが、夜ではなく朝へ還っていくのを。

「……見ているのでしょう」

ホーリィーは低く言う。

返事はない。

けれど廊下の奥の闇が、かすかに揺れた気がした。

鈴を鳴らすような笑い声は、もうしない。

その代わりに、濃い邪気だけが静かに流れてくる。

怒りではない。

もっと冷たい興味。

ようやく相応しい相手が現れたときの、愉悦に似たものだった。

ホーリィーは背後の者たちへ振り返る。

「ここから先は、私ひとりで参ります」

国王がすぐに首を振る。

「ならぬ」

「陛下」

ホーリィーの声は穏やかだった。

「この先におられるのは、剣で斬れる相手ではありません」

国王は言葉を失う。

事実、いま目の前でそれを見たばかりだった。

人の身がどれほど容易く捻じ曲げられ、どれほど静かに崩れていくのかを。

ホーリィーは続ける。

「これ以上、誰も奪わせたくありません」

その一言に、誰も反論できなかった。

灰の積もる廊下の先。

重い扉が見える。

王座の間へ続く最後の道。

そこから流れてくる闇は、城のどの場所よりも濃かった。

ホーリィーは一度だけ、足元の灰へ目を落とす。

「……おやすみなさい」

誰へともなく、そう呟く。

それは祈りであり、見送りでもあった。

そして顔を上げる。

瞳の奥には、もう迷いはない。

夜を終わらせるために。

朝を、この城へ取り戻すために。

ホーリィー・メイデンは、王座の間へ向かって歩き出した。
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