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第31話 見えない守り
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第31話 見えない守り
公の場で名誉が回復されても、王都の日々は驚くほどいつも通りに流れていった。
それは当然のことだった。
王城で何が起きたのか、そのすべてを知る者は限られている。貴族たちの間で噂は駆け巡っていても、街へ下りれば話は少しずつ形を変え、やがて曖昧になっていく。
王太子が急逝したこと。
婚約者とされた伯爵令嬢が人ならざる魔性だったこと。
そして、追放されたはずの公爵令嬢が王城を救ったこと。
それらは人々の口にのぼる。
だが、日々の暮らしに追われる者たちにとって、噂は噂のままだ。
パン屋は朝に窯を開け、市場には野菜が並び、仕立て屋の針は休みなく布を縫う。
王都が無事であるかぎり、人は生きるために今日を続けていく。
ホーリィー・メイデンは、そのことを少しも悪いとは思わなかった。
むしろ、その平凡さこそ守るべきものなのだと、今ははっきりわかっている。
その朝も、彼女は王城の高い塔にある小部屋へ向かっていた。
聖女のためにと新たに整えられた部屋だったが、豪奢というよりは静けさを重んじた造りだった。大きな窓があり、王都全体を見渡せる。
そこへ立つと、王都の空気がよくわかった。
ホーリィーは窓辺に立ち、ゆっくりと目を閉じる。
朝の気配。
城の中庭の水音。
遠くの市場のざわめき。
そして、そのすべてを包む、ごく薄い光の層。
王都の結界は、日に日に落ち着きを取り戻しつつあった。
けれどまだ完全ではない。
破れた箇所を縫い、歪んだ流れを整え、夜に侵された気配を少しずつ薄めていく必要がある。
その作業は、傍目には何も起きていないようにしか見えない。
ホーリィーは両手を胸の前で軽く重ねた。
意識を広げる。
王都を覆う見えない膜へ、静かに触れていく。
まるで乱れた糸を、ひとつずつ指先で結び直すような感覚だった。
痛みはない。
苦しさもない。
ただ、気を抜けばすぐに散ってしまう繊細さがある。
だから彼女は、ただそこに立っている。
何もしていないように見える姿のままで。
しばらくして、小さな足音が近づいてきた。
「お嬢様」
マリアだった。
手には湯気の立つ茶器を載せた盆を持っている。
「少し休まれてくださいませ」
ホーリィーは目を開けて振り返る。
「ありがとう」
マリアは机の上に茶器を置きながら、窓の外を見た。
「今日もよく晴れていますね」
「ええ」
「街も、すっかり落ち着いたみたいです」
その声音には安堵があった。
王城で夜ごと怯えていた侍女にとって、いまの穏やかな日々は何よりありがたいのだろう。
ホーリィーは茶器へ手を伸ばす。
湯気の向こうに、やわらかな茶の香りがした。
「昨夜は、誰も悪夢を見なかったそうです」
マリアが嬉しそうに言う。
「厨房の女中たちが話していました。最近は夜が怖くなくなったって」
ホーリィーは小さく微笑む。
それだけで十分だった。
見えなくても、知られなくても、誰かが安らかに眠れるなら、それでいい。
「でも」
マリアは少しだけ唇を尖らせた。
「街の方たちは、やっぱり“聖女様は何をしているのかしら”なんて話しているみたいです」
ホーリィーは茶をひと口含む。
あたたかさが喉を通る。
「そうでしょうね」
「悔しくないのですか?」
「どうして?」
「だって、本当はお嬢様が守っているのに」
マリアの声は、本人のこと以上に憤っているように聞こえた。
ホーリィーはカップを置く。
そして、窓の外に広がる王都を見た。
朝の光を受けて屋根がきらめいている。
人々の姿は小さく、声もここまでは届かない。
けれどその平穏だけは、たしかに感じられた。
「何も起きていないように見えるなら」
ホーリィーは静かに言う。
「それは、ちゃんと守れているということよ」
マリアは少し黙り、それから困ったように笑った。
「お嬢様は、本当にそういう方ですね」
呆れているようでもあり、誇らしげでもある声だった。
そのとき、扉が軽く叩かれた。
入ってきたのは、若い侍女だった。
あの恐ろしい夜を王城で過ごした者のひとりで、少し前まで顔色の悪さが抜けなかった娘だ。
今はまだ緊張した面持ちではあるが、それでもきちんと視線を上げている。
「ホーリィー様」
「どうしたの」
「城下からの献上品が届きまして……お持ちしてもよろしいかと」
「献上品?」
侍女はこくりとうなずいた。
「市場の者たちからです。最近、王都の空気がよくなったように思う、と……」
ホーリィーは目を瞬かせた。
城の外では、もうそんなふうに感じ取っている者がいるのかもしれない。
侍女は続ける。
「どなたのお力かはわからないけれど、王城へお礼を届けたい、と」
マリアが嬉しそうに顔を輝かせる。
だがホーリィーは、ふっと小さく笑った。
「そう」
王城へ。
聖女へ、ではなく。
それでいいのだと思う。
誰かが守られていると感じたなら、その感謝はそれぞれの届く場所へ向かえばいい。
「受け取りましょう」
ホーリィーが言うと、侍女はぱっと顔を明るくした。
「はい!」
彼女は一礼して出ていく。
その足取りは軽かった。
王城で働く者たちもまた、少しずつ夜の記憶から戻ってきているのだろう。
マリアがくすりと笑う。
「やっぱり、お嬢様のおかげです」
ホーリィーは返事の代わりに窓辺へ立った。
そして、もう一度だけ王都へ意識を広げる。
結界は静かに脈打っている。
誰にも見えない光が、王都を包んでいる。
その中心に自分がいるのだと、今はもう迷わない。
王太子妃ではなく。
飾りでもなく。
ただ、この街を守る者として。
ホーリィーは目を細めた。
空は高く、青い。
その下で、人々は今日も自分の一日を生きている。
店を開ける者。
洗濯物を干す者。
子どもの手を引いて歩く母親。
その誰も、自分の頭上に広がる結界を知らない。
知らなくていいのだと思う。
見えない守りが守りであるのは、それが壊れたときにしか気づかれないからだ。
だから今日もまた、彼女はそこに立つ。
何もしていないように見えるままで。
王都の空には、誰にも見えない聖なる結界が静かに広がっていた。
そして人々は知らない。
その穏やかな空の下で、追放されたはずの公爵令嬢が、今日もただ静かに王都を守っていることを。
公の場で名誉が回復されても、王都の日々は驚くほどいつも通りに流れていった。
それは当然のことだった。
王城で何が起きたのか、そのすべてを知る者は限られている。貴族たちの間で噂は駆け巡っていても、街へ下りれば話は少しずつ形を変え、やがて曖昧になっていく。
王太子が急逝したこと。
婚約者とされた伯爵令嬢が人ならざる魔性だったこと。
そして、追放されたはずの公爵令嬢が王城を救ったこと。
それらは人々の口にのぼる。
だが、日々の暮らしに追われる者たちにとって、噂は噂のままだ。
パン屋は朝に窯を開け、市場には野菜が並び、仕立て屋の針は休みなく布を縫う。
王都が無事であるかぎり、人は生きるために今日を続けていく。
ホーリィー・メイデンは、そのことを少しも悪いとは思わなかった。
むしろ、その平凡さこそ守るべきものなのだと、今ははっきりわかっている。
その朝も、彼女は王城の高い塔にある小部屋へ向かっていた。
聖女のためにと新たに整えられた部屋だったが、豪奢というよりは静けさを重んじた造りだった。大きな窓があり、王都全体を見渡せる。
そこへ立つと、王都の空気がよくわかった。
ホーリィーは窓辺に立ち、ゆっくりと目を閉じる。
朝の気配。
城の中庭の水音。
遠くの市場のざわめき。
そして、そのすべてを包む、ごく薄い光の層。
王都の結界は、日に日に落ち着きを取り戻しつつあった。
けれどまだ完全ではない。
破れた箇所を縫い、歪んだ流れを整え、夜に侵された気配を少しずつ薄めていく必要がある。
その作業は、傍目には何も起きていないようにしか見えない。
ホーリィーは両手を胸の前で軽く重ねた。
意識を広げる。
王都を覆う見えない膜へ、静かに触れていく。
まるで乱れた糸を、ひとつずつ指先で結び直すような感覚だった。
痛みはない。
苦しさもない。
ただ、気を抜けばすぐに散ってしまう繊細さがある。
だから彼女は、ただそこに立っている。
何もしていないように見える姿のままで。
しばらくして、小さな足音が近づいてきた。
「お嬢様」
マリアだった。
手には湯気の立つ茶器を載せた盆を持っている。
「少し休まれてくださいませ」
ホーリィーは目を開けて振り返る。
「ありがとう」
マリアは机の上に茶器を置きながら、窓の外を見た。
「今日もよく晴れていますね」
「ええ」
「街も、すっかり落ち着いたみたいです」
その声音には安堵があった。
王城で夜ごと怯えていた侍女にとって、いまの穏やかな日々は何よりありがたいのだろう。
ホーリィーは茶器へ手を伸ばす。
湯気の向こうに、やわらかな茶の香りがした。
「昨夜は、誰も悪夢を見なかったそうです」
マリアが嬉しそうに言う。
「厨房の女中たちが話していました。最近は夜が怖くなくなったって」
ホーリィーは小さく微笑む。
それだけで十分だった。
見えなくても、知られなくても、誰かが安らかに眠れるなら、それでいい。
「でも」
マリアは少しだけ唇を尖らせた。
「街の方たちは、やっぱり“聖女様は何をしているのかしら”なんて話しているみたいです」
ホーリィーは茶をひと口含む。
あたたかさが喉を通る。
「そうでしょうね」
「悔しくないのですか?」
「どうして?」
「だって、本当はお嬢様が守っているのに」
マリアの声は、本人のこと以上に憤っているように聞こえた。
ホーリィーはカップを置く。
そして、窓の外に広がる王都を見た。
朝の光を受けて屋根がきらめいている。
人々の姿は小さく、声もここまでは届かない。
けれどその平穏だけは、たしかに感じられた。
「何も起きていないように見えるなら」
ホーリィーは静かに言う。
「それは、ちゃんと守れているということよ」
マリアは少し黙り、それから困ったように笑った。
「お嬢様は、本当にそういう方ですね」
呆れているようでもあり、誇らしげでもある声だった。
そのとき、扉が軽く叩かれた。
入ってきたのは、若い侍女だった。
あの恐ろしい夜を王城で過ごした者のひとりで、少し前まで顔色の悪さが抜けなかった娘だ。
今はまだ緊張した面持ちではあるが、それでもきちんと視線を上げている。
「ホーリィー様」
「どうしたの」
「城下からの献上品が届きまして……お持ちしてもよろしいかと」
「献上品?」
侍女はこくりとうなずいた。
「市場の者たちからです。最近、王都の空気がよくなったように思う、と……」
ホーリィーは目を瞬かせた。
城の外では、もうそんなふうに感じ取っている者がいるのかもしれない。
侍女は続ける。
「どなたのお力かはわからないけれど、王城へお礼を届けたい、と」
マリアが嬉しそうに顔を輝かせる。
だがホーリィーは、ふっと小さく笑った。
「そう」
王城へ。
聖女へ、ではなく。
それでいいのだと思う。
誰かが守られていると感じたなら、その感謝はそれぞれの届く場所へ向かえばいい。
「受け取りましょう」
ホーリィーが言うと、侍女はぱっと顔を明るくした。
「はい!」
彼女は一礼して出ていく。
その足取りは軽かった。
王城で働く者たちもまた、少しずつ夜の記憶から戻ってきているのだろう。
マリアがくすりと笑う。
「やっぱり、お嬢様のおかげです」
ホーリィーは返事の代わりに窓辺へ立った。
そして、もう一度だけ王都へ意識を広げる。
結界は静かに脈打っている。
誰にも見えない光が、王都を包んでいる。
その中心に自分がいるのだと、今はもう迷わない。
王太子妃ではなく。
飾りでもなく。
ただ、この街を守る者として。
ホーリィーは目を細めた。
空は高く、青い。
その下で、人々は今日も自分の一日を生きている。
店を開ける者。
洗濯物を干す者。
子どもの手を引いて歩く母親。
その誰も、自分の頭上に広がる結界を知らない。
知らなくていいのだと思う。
見えない守りが守りであるのは、それが壊れたときにしか気づかれないからだ。
だから今日もまた、彼女はそこに立つ。
何もしていないように見えるままで。
王都の空には、誰にも見えない聖なる結界が静かに広がっていた。
そして人々は知らない。
その穏やかな空の下で、追放されたはずの公爵令嬢が、今日もただ静かに王都を守っていることを。
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