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第32話 ただそこにいる聖女
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第32話 ただそこにいる聖女
春は、いつの間にか王都へしっかりと根を下ろしていた。
王城の庭には柔らかな緑が増え、噴水の水音もどこか明るく聞こえる。市場では果物の色が濃くなり、人々の装いも少しずつ軽くなっていた。
吸血姫の夜が王都を覆ったことが、まるで遠い悪夢のように思えるほど、街は穏やかだった。
それはきっと、よいことなのだ。
恐ろしい夜をいつまでも生々しく覚えているより、日常の明るさに上書きされていくほうが、人はちゃんと生きていける。
ホーリィー・メイデンは、その日の午後も王城の回廊をゆっくり歩いていた。
王都の結界は、もうかなり安定している。
破れた箇所は閉じ、淀んでいた気配もほとんど消えた。鏡はどこも澄み、夜の城にも以前のような冷たさはない。
それでも彼女は、毎日少しずつ城と王都を巡る。
何か異変がないかを確かめるためでもあるが、それ以上に、そこにいること自体が結界を穏やかに支えるからだ。
誰にも見えない仕事だった。
けれど、いまのホーリィーはもう、それを空しいとは思わない。
回廊の途中で、庭師の老人が帽子を取って頭を下げた。
「聖女様」
以前なら、ただ公爵令嬢として礼を受けていた場面だろう。
ホーリィーは足を止め、やわらかく会釈を返す。
「お仕事中にごめんなさい」
「とんでもない」
老人は少し照れたように笑った。
「最近、花の付きがよい気がしまして」
「そうなのですか」
「ええ。夜の冷えが変わったのでしょうかねえ」
老人は深く考えて言ったわけではないのだろう。
ただ日々土と草木に触れている者の感覚として、何かが変わったと感じているだけだ。
ホーリィーはその言葉を聞き、ほんの少しだけ目を細めた。
人は案外、わからないようでいて、ちゃんと感じているのかもしれない。
見えない守りのことも。
朝の空気の違いも。
ただ、それを“聖女の力”とは結びつけないだけで。
「今年は、きれいに咲くといいですね」
ホーリィーがそう言うと、老人は嬉しそうに何度も頷いた。
「ええ、きっと」
別れ、再び歩き出す。
回廊の窓からは、王都の街並みが見える。
遠くに子どもたちが走っているのが見えた。城下まで声は届かないが、その動きだけで、無邪気な笑い声が聞こえてきそうだった。
ホーリィーはしばらく立ち止まり、その景色を眺める。
婚約破棄の夜、王城を去るときには、もう二度とこの景色を穏やかに見ることはないかもしれないと思った。
知らない罪で断じられ、面識もない令嬢に怯えられたと言われ、自分でも何が起きているのかわからないまま追い出された。
あのときの自分は、本当に何も見えなかった。
けれど今は違う。
ようやく、自分が何をしてきたのかを知っている。
何もしていなかったのではない。
何も起きないようにしていたのだ。
それだけだった。
それだけのことが、どれほど大事だったのか、ようやくはっきりわかった。
「お嬢様」
後ろから、慣れた声がする。
マリアだった。
手には小さな籠を持っている。
「また市場から届きました。焼き菓子だそうです」
ホーリィーが振り返ると、マリアはどこか呆れたように笑う。
「最近、皆さま何かと理由をつけては王城に届け物をなさいます」
「王城に、でしょう?」
「はい」
マリアはわざとらしくため息をついた。
「お嬢様へ、とはっきり言わないところがもどかしいです」
ホーリィーは思わず微笑む。
「それでいいのよ」
「でも……」
「王都が穏やかなら、それで十分」
マリアは口を尖らせかけたが、結局は笑った。
「そう仰ると思いました」
ふたりで回廊を歩く。
風はやわらかく、光は穏やかだった。
もう、どこにも吸血姫の甘い香りはない。
鏡に曇りもない。
長い夜は、本当に終わったのだ。
そのとき、回廊の向こうから若い侍女が駆けてきた。
少し前まで夜を恐れていた娘のひとりだ。
「ホーリィー様!」
「どうかしたの」
「いえ、その……」
侍女は息を整えてから、恥ずかしそうに笑った。
「城下で、小さな女の子が言っていたのです。最近は怖い夢を見なくなったって」
マリアがすぐに誇らしげな顔になる。
「ほら!」
ホーリィーは侍女を見つめる。
「そう」
「はい。だからきっと、王城の聖女様がちゃんといてくださるからだって」
その言葉に、ホーリィーは少しだけ驚いた。
子どもはときどき、大人より素直に本質へ触れる。
見えないからこそ、いるのだと感じ取ることがあるのだ。
侍女は言い終えると、照れくさそうに頭を下げて去っていった。
マリアがにこにこと言う。
「やっぱり、ちゃんと伝わる方には伝わるのですね」
ホーリィーは、去っていく侍女の背を見送りながら小さく息を吐く。
「……そうかもしれないわね」
それでも、大げさに知られなくていいと思う気持ちは変わらなかった。
聖女の奇跡が語られるより、誰かがぐっすり眠れたと笑う朝のほうが、ずっと大切だ。
回廊の先、陽のよく当たる窓辺でホーリィーは足を止めた。
王都の上には今日も、誰にも見えない聖なる結界が広がっている。
それは派手な光ではない。
誇るための奇跡でもない。
ただ、穏やかな日々を穏やかなまま保つための、静かな守りだ。
ホーリィーはその空を見上げる。
王太子妃になる未来は消えた。
婚約者としての立場も、昔の自分も、もう戻らない。
けれど代わりに、いまここにあるものは偽物ではない。
王都を守ること。
それが彼女自身の意思で選んだ、確かな役目だった。
「お嬢様?」
マリアが不思議そうに顔を覗き込む。
ホーリィーは、やわらかく笑う。
「何でもないわ」
そう答えて、再び前を向く。
今日もまた、何も起きない一日が始まっている。
だから人々は、聖女が何をしているのか知らないままで暮らすだろう。
市場は賑わい、花は咲き、子どもたちは笑い、夜が来れば安心して眠る。
それでいい。
それこそが、彼女の守っているものなのだから。
王都の空には、今日も静かな光が満ちていた。
そしてその中心で、何もしないように見える聖女が、ただそこにいる。
それだけで、十分だった。
春は、いつの間にか王都へしっかりと根を下ろしていた。
王城の庭には柔らかな緑が増え、噴水の水音もどこか明るく聞こえる。市場では果物の色が濃くなり、人々の装いも少しずつ軽くなっていた。
吸血姫の夜が王都を覆ったことが、まるで遠い悪夢のように思えるほど、街は穏やかだった。
それはきっと、よいことなのだ。
恐ろしい夜をいつまでも生々しく覚えているより、日常の明るさに上書きされていくほうが、人はちゃんと生きていける。
ホーリィー・メイデンは、その日の午後も王城の回廊をゆっくり歩いていた。
王都の結界は、もうかなり安定している。
破れた箇所は閉じ、淀んでいた気配もほとんど消えた。鏡はどこも澄み、夜の城にも以前のような冷たさはない。
それでも彼女は、毎日少しずつ城と王都を巡る。
何か異変がないかを確かめるためでもあるが、それ以上に、そこにいること自体が結界を穏やかに支えるからだ。
誰にも見えない仕事だった。
けれど、いまのホーリィーはもう、それを空しいとは思わない。
回廊の途中で、庭師の老人が帽子を取って頭を下げた。
「聖女様」
以前なら、ただ公爵令嬢として礼を受けていた場面だろう。
ホーリィーは足を止め、やわらかく会釈を返す。
「お仕事中にごめんなさい」
「とんでもない」
老人は少し照れたように笑った。
「最近、花の付きがよい気がしまして」
「そうなのですか」
「ええ。夜の冷えが変わったのでしょうかねえ」
老人は深く考えて言ったわけではないのだろう。
ただ日々土と草木に触れている者の感覚として、何かが変わったと感じているだけだ。
ホーリィーはその言葉を聞き、ほんの少しだけ目を細めた。
人は案外、わからないようでいて、ちゃんと感じているのかもしれない。
見えない守りのことも。
朝の空気の違いも。
ただ、それを“聖女の力”とは結びつけないだけで。
「今年は、きれいに咲くといいですね」
ホーリィーがそう言うと、老人は嬉しそうに何度も頷いた。
「ええ、きっと」
別れ、再び歩き出す。
回廊の窓からは、王都の街並みが見える。
遠くに子どもたちが走っているのが見えた。城下まで声は届かないが、その動きだけで、無邪気な笑い声が聞こえてきそうだった。
ホーリィーはしばらく立ち止まり、その景色を眺める。
婚約破棄の夜、王城を去るときには、もう二度とこの景色を穏やかに見ることはないかもしれないと思った。
知らない罪で断じられ、面識もない令嬢に怯えられたと言われ、自分でも何が起きているのかわからないまま追い出された。
あのときの自分は、本当に何も見えなかった。
けれど今は違う。
ようやく、自分が何をしてきたのかを知っている。
何もしていなかったのではない。
何も起きないようにしていたのだ。
それだけだった。
それだけのことが、どれほど大事だったのか、ようやくはっきりわかった。
「お嬢様」
後ろから、慣れた声がする。
マリアだった。
手には小さな籠を持っている。
「また市場から届きました。焼き菓子だそうです」
ホーリィーが振り返ると、マリアはどこか呆れたように笑う。
「最近、皆さま何かと理由をつけては王城に届け物をなさいます」
「王城に、でしょう?」
「はい」
マリアはわざとらしくため息をついた。
「お嬢様へ、とはっきり言わないところがもどかしいです」
ホーリィーは思わず微笑む。
「それでいいのよ」
「でも……」
「王都が穏やかなら、それで十分」
マリアは口を尖らせかけたが、結局は笑った。
「そう仰ると思いました」
ふたりで回廊を歩く。
風はやわらかく、光は穏やかだった。
もう、どこにも吸血姫の甘い香りはない。
鏡に曇りもない。
長い夜は、本当に終わったのだ。
そのとき、回廊の向こうから若い侍女が駆けてきた。
少し前まで夜を恐れていた娘のひとりだ。
「ホーリィー様!」
「どうかしたの」
「いえ、その……」
侍女は息を整えてから、恥ずかしそうに笑った。
「城下で、小さな女の子が言っていたのです。最近は怖い夢を見なくなったって」
マリアがすぐに誇らしげな顔になる。
「ほら!」
ホーリィーは侍女を見つめる。
「そう」
「はい。だからきっと、王城の聖女様がちゃんといてくださるからだって」
その言葉に、ホーリィーは少しだけ驚いた。
子どもはときどき、大人より素直に本質へ触れる。
見えないからこそ、いるのだと感じ取ることがあるのだ。
侍女は言い終えると、照れくさそうに頭を下げて去っていった。
マリアがにこにこと言う。
「やっぱり、ちゃんと伝わる方には伝わるのですね」
ホーリィーは、去っていく侍女の背を見送りながら小さく息を吐く。
「……そうかもしれないわね」
それでも、大げさに知られなくていいと思う気持ちは変わらなかった。
聖女の奇跡が語られるより、誰かがぐっすり眠れたと笑う朝のほうが、ずっと大切だ。
回廊の先、陽のよく当たる窓辺でホーリィーは足を止めた。
王都の上には今日も、誰にも見えない聖なる結界が広がっている。
それは派手な光ではない。
誇るための奇跡でもない。
ただ、穏やかな日々を穏やかなまま保つための、静かな守りだ。
ホーリィーはその空を見上げる。
王太子妃になる未来は消えた。
婚約者としての立場も、昔の自分も、もう戻らない。
けれど代わりに、いまここにあるものは偽物ではない。
王都を守ること。
それが彼女自身の意思で選んだ、確かな役目だった。
「お嬢様?」
マリアが不思議そうに顔を覗き込む。
ホーリィーは、やわらかく笑う。
「何でもないわ」
そう答えて、再び前を向く。
今日もまた、何も起きない一日が始まっている。
だから人々は、聖女が何をしているのか知らないままで暮らすだろう。
市場は賑わい、花は咲き、子どもたちは笑い、夜が来れば安心して眠る。
それでいい。
それこそが、彼女の守っているものなのだから。
王都の空には、今日も静かな光が満ちていた。
そしてその中心で、何もしないように見える聖女が、ただそこにいる。
それだけで、十分だった。
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