「復讐? そんな面倒なこと、するわけありませんわ。」

鍛高譚

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第1章

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 白亜の大広間に、鈍い靴音が反響した。高い天窓から降り注ぐ陽光を受け、王族の紋章が金糸で刺繍された赤い絨毯が眩しく輝く。――そこは、王都で最も格式高い「謁見の間」。
 その中央で、シャル・ド・ネ・アルベールは背筋を伸ばしていた。淡いミントグリーンのドレスは、春先に咲くスズランのように可憐でありながら、袖口や裾にあしらわれた銀糸が公爵令嬢としての威厳を放っている。だが、その美貌も気品も、今はまるで意味をなさなかった。なぜなら――

「公爵令嬢シャル・ド・ネ・アルベール。――本日をもって、そなたとの婚約を破棄する!」

 朗々と響く王太子アルフォンスの声は、宮廷楽団のファンファーレより派手だった。廷臣たちは目を見開き、女官たちは口元を押さえ、シャルの両親までもが凍りつく。対照的に、王太子の隣で小さく震えながらも寄り添う金髪の少女――レミィ・ブランシュだけが、勝ち誇ったようにうるんだ瞳を上げた。

 ……え、なにこれ。ドラマより茶番くさいんだけど。
 シャルは面白いほど冷静だった。むしろ、胸の奥で何かがはじける音がした。ぱぁん、と派手に。だって今の言葉は――

 ──自由、確定のお知らせ、ですわよね?

 思わず頬が緩みかける。しかし貴族令嬢としての長年の修練は伊達ではない。彼女はハンカチを口元に当て、儚げな声を作った。

「……殿下、まことに、でございますの?」

 絹糸のように震える声音。完璧だ、と内心自画自賛する。アルフォンスは罪悪感どころか、英雄のような顔で頷いた。

「うむ。私は真実の愛を見つけたのだ。レミィ嬢こそ我が運命の人……!」

 レミィがわざとらしくすすり泣き、廷臣の数名が拍手をしかけて慌てて手を下ろす。完全に茶番だ。だが観客は多い。シャルは観念したように肩を落とし、よろりと一歩下がった。――そう、大理石の階段の縁まで。

 すべる、転げ落ちる、悲鳴。
 高貴なレディが階段を転がる音は、思いのほか乾いていた。ドレスの裾がふわりと舞い、髪飾りが床に散らばる。重力に身を任せながら、シャルは密かにタイミングを計っていた。

(ここで頭を、コツン……はい、記憶フラッシュバック!)

 ――ブラック企業、終電逃し、上司の罵声。
 ――エナジードリンクとカップ麺で命を繋ぐ毎日。
 ――過労で意識が遠のき、机に突っ伏したまま動けなくなった夜――

「……あ、思い出しましたわ」

 視界にきらきら星が飛び散り、次いで宮廷医の慌てた声が飛び込んでくる。だが彼女の脳裏には“社畜OL・佐伯ゆかり”としての二十八年分の記憶が津波のように押し寄せていた。
 電卓、残業、深夜のコンビニ飯。失った休日。上司の「やる気出せ」が呪詛のように響く。

(もう、頑張るのなんて、こりごりですわ……!)

 ぎゅっと拳を握った瞬間、使用人たちが担架を運び込み、侍医が脈を取り、廷臣たちがざわめく。アルフォンスは「し、診療所へ運べ!」と叫んでいるが、シャルは担架の上で涼しい顔だった。
 自由への扉が開いた音が、確かに聞こえたのだ。

*  *  *

 応急処置を終えた後、彼女は宮殿の客室で目を覚ました。豪奢な天蓋ベッドのカーテン越しに差し込む光がまぶしい。隣では侍医が「安静に」と言いながら薬瓶を並べている。
 シャルはゆっくりと上半身を起こし、侍医に微笑んだ。

「先生、ご心配なく。わたくし、とても元気ですの」

 侍医が目を瞬かせる。階段から落ちたばかりの令嬢が“元気”なわけがない。だが彼女の瞳は、空色の湖面のように澄み切っていた。――解放感で輝いている。

 そのとき、扉が開き、公爵夫妻が駆け込んできた。母は泣き腫らした目で娘を抱きしめ、父は拳を震わせて怒号を上げる。

「王太子め! 我が娘を公衆の面前で辱めおって……!」

 しかし当の娘は、父の背後でぺこりと頭を下げる廷臣の姿に気づき、口元を隠して笑いを堪えた。
 ――ざまぁは、すでに始まっている。

「お父様、お母様。わたくし、婚約破棄を受け入れますわ」

 夫妻は同時に「なんだと!?」と叫んだ。
 シャルはベッドの上でスカートを整え、優雅に告げる。

「だって……自由ですもの。最高ですわ!」

 瞬間、部屋の空気が止まった。両親も侍医も廷臣も、目を丸くしてシャルを見つめる。
 彼女は社畜時代に覚えた“プレゼン笑顔”でウインクをひとつ。

「これからは、好きなだけ紅茶を飲み、好きなだけお菓子を食べ、好きなだけ寝ますわ。――以上、今後の方針です♪」

 公爵夫人が「あ、あの子、頭を強く……?」と囁くが、侍医は小声で「精神的ショックでしょう」と答える。しかしシャルの耳には届かない。
 なぜなら彼女はもう、ブラックな人生を卒業したのだ。貴族令嬢という最強のセーフティネットを盾に、“頑張らない”第二の人生を謳歌する覚悟を固めていた。

 窓の外では、春を告げる燕が旋回している。シャルはその姿を追い、ほほえんだ。

(あの子たちも自由に空を飛んでいる……わたくしも負けていられませんわね)

 その笑顔は、これから“ざまぁ”の嵐が巻き起こることなど露ほども知らない、――いや、むしろ楽しみにしている人間のそれだった。

 ティーカップを傾ける指先が、小刻みに震えている。喜びを隠し切れないのだ。
 窓辺に置かれた銀のティーポットから、ふわりと甘いアールグレイの香りが立ちのぼる。シャルは深く息を吸い込み、瞳を閉じた。

「さようなら、社畜人生。こんにちは、怠惰で優雅な令嬢ライフ――!」

 その宣言は、誰にも聞こえないほど小さな囁きだったが、確かに世界へ放たれた。
 そして彼女の“頑張らない大逆転劇”の幕が、いま静かに上がる。



 薄桃色の天蓋がゆらりと揺れる。豪奢な寝室──と言っても、今のシャル・ド・ネ・アルベールにとっては“療養個室”に早変わりしたそこは、外から差し込む陽光を絹のカーテンでやわらげ、静謐そのものだった。
 枕元にはラベンダーのポプリ、壁際のサイドテーブルには銀の水差しとクリスタルグラス。そして足音を殺して立つ侍女長マルグリットの姿。だがシャルは、そんな優雅な景色をほとんど認識していなかった。

 ──ガチャッ! プリンタ紙が雪崩を打つ。
 ──「今月も残業一〇〇時間超え? 甘えるな、ゆかり!」
 ──蛍光灯の下、インスタント味噌汁をすすりながら朝焼けを眺めたあのビルの屋上。

 階段落ちの衝撃でよみがえった“佐伯ゆかり”としての記憶が、脳裏を断続的にフラッシュバックしているのだ。過労死寸前まで働かされ、最後はデスクに突っ伏して意識を手放した──あの瞬間が走馬灯のように再生され、気づけばシャルの背中に冷たい汗がつたっていた。

(あれをもう一度? 絶対にイヤですわ!)

 シャルはシーツを握り締め、深呼吸。ここはブラック企業の監禁部屋ではない。立派な公爵令嬢の寝室、しかも“安静命令”付きという、最高にホワイトな空間である。
 そう悟った瞬間、全身から力が抜け、羽根布団に沈み込む。

「お嬢様、枕元のお水を──」

 マルグリットが差し出したグラスを受け取り、一口。ひんやりとした感触が喉を潤し、心のざわめきも落ち着いていく。ふう、と息をついたところで扉がノックされた。

「失礼いたします、執事ジャンでございます」

 長身の初老執事が恭しく一礼し、侍医からの診断書を差し出す。内容は“軽度の打撲と脳震盪、要安静”。シャルは紙をぱらりとめくり、確認するなりベッドサイドのゴミ箱へ投げ込んだ。

「安静? もちろんですわ。わたくし、もう一生頑張りませんもの」

 ジャンが「は?」と目を瞬く。マルグリットも「お嬢様、ご気分が優れませんか」と眉をひそめた。
 シャルは二人ににっこりと微笑む。

「わたくし決めましたの。──『働かない・怒らない・無理しない』。これが新しい家訓ですわ」

「……家訓?」

「ええ。わたくし、婚約破棄されましたでしょう? ということは、もう王太子妃の義務も公務も、ぜーんぶ無くなりましたの。自由ですわ!」

 両手を広げるシャル。その姿は、解放感に輝く小鳥のようだった。だが執事と侍女長の顔色は真剣そのもの。
 マルグリットは意を決したように膝をつき、低い声で囁く。

「お嬢様……復讐のご予定は?」

「ございませんわ」

 即答。
 侍女長は一瞬言葉を失い、やがて瞳を燃やす。

「王太子殿下は、わたくしどもにとっても許しがたいお方。陰ながら糾弾の手は──」

「マルグリット」

 シャルは軽く手を上げて制した。その指先には、過労死寸前まで働かされた社畜時代のタコも豆もない。柔らかく手入れされた貴族令嬢の肌があるだけだ。
 それがどれほど尊いことか。彼女は噛みしめるように言った。

「復讐は労力がかかりますわ。わたくし、もう疲れることは一切しないと誓いましたの。――それより、紅茶と焼き菓子をお願いできます?」

「……はい?」

「今すぐですわ♪」

 ぽかんとする侍女長をよそに、執事ジャンが咳払いし「かしこまりました」と退出。
 シャルはクッションを抱え込み、ベッドの中で体を丸める。そこへ“社畜メモリー”の続きが襲ってきた。

 ──深夜二時、上司の『すぐ出せ』メール。
 ──冷めたピザを頬張りながら作ったパワポは翌朝『やり直し』。
 ──眠気覚ましのエナドリで胃が荒れ、救急車に乗った同僚。

(もう絶対に頑張らない。絶対に)

 額にじんわり汗がにじむ。だが同時に、胸の奥で新しい火花が弾けた。
 頑張らない=寝て暮らす? それもいい。けれど貴族の身分と莫大な資産があるのだ。趣味くらいは楽しんでも罰は当たらないだろう。

(お菓子研究会……領地の農産物を活かした新作スイーツ……あ、前世で流行った“とろけるプリン”を再現したら?)

 思考が甘味方向に暴走する。社畜時代に唯一の癒やしだったコンビニスイーツの記憶が、彼女を突き動かしていた。

 そこへカチャリと扉が開き、香り高いアールグレイと、焼きたてのフィナンシェが乗ったワゴンが入ってくる。銀のポットから立ちのぼる湯気を見ただけで、シャルは頬がゆるんだ。

「ありがとうございます。マルグリットもご一緒に」

「お、お嬢様と同席など……」

「いいんですの。わたくしはもう、誰に気兼ねする必要もありませんわ」

 ティーカップに琥珀色の液体が満ち、ふわりとベルガモットの香りが広がる。シャルは一口すすり、目を細めた。
 その横で侍女長が恐る恐るフィナンシェをつまみ、目を丸くする。

「おいし……これ、厨房の試作品ですか?」

「ええ。わたくしが“もっとバターを焦がして”と頼んだもの。前世の記憶で得たコツですわ」

 マルグリットは息を呑み、やがてぽつり。

「……お嬢様、もしかして“前世の記憶”をお持ちで?」

「秘密ですわ♪」

 ウインク一発。侍女長は完全に翻弄され、呆然とフィナンシェを見つめる。その表情があまりに真剣で、シャルは吹き出しそうになった。
 と、テーブルの上に置かれたメモ帳が視界に入る。表紙には金色の家紋。シャルはペンを取り、さらさらと書き始めた。

 ――《怠惰令嬢の優雅な生活プラン》
 1.毎日ティータイム三回(朝・昼・夜)
 2.新作スイーツ開発(月に五品以上)
 3.午後は読書と昼寝を両立させる
 4.仕事は“趣味の範囲”に限定(疲れたら即中止)

 最後にハートマークを添えて満足げに頷く。マルグリットがのぞき込み、眉尻を下げた。

「お嬢様……これは“生活プラン”とおっしゃいましたが、領地経営や社交界のご予定は?」

「ありませんわ。あ、でも趣味でワインとジュースを作ろうかしら。お菓子と相性抜群ですもの」

「しゅ、趣味で……」

 侍女長は白目をむきかけ、執事ジャンが「失礼」とお冷やを差し出す。
 シャルはくすりと笑い、フィナンシェをもう一つ口に運んだ。

(頑張らない。でも楽しむ。結果? 知らなくてよろしい!)

 その瞬間、胸の奥にあった社畜時代の錆びついた鎖が、ぷつんと音を立てて切れた気がした。
 窓の外では、春の風が若葉を揺らし、遠くで小鳥がさえずる。シャルはティーカップを高く掲げ、囁く。

「わたくしの第二の人生に、乾杯ですわ──!」

 ベルガモットの香りが、彼女の宣言を祝福するかのようにふわりと広がった。

 翌日の午後――。
 公爵邸の二階、南向きの大窓から春光が降り注ぐサロンには、薔薇の香りが満ちていた。壁一面の書架と、淡金色の壁紙、深紅のベルベットソファ。どこを切り取っても「優雅」の一語に尽きる空間だが、今、その中心に立つシャル・ド・ネ・アルベールの笑顔が、家具よりも眩しく輝いていた。

「――というわけで、本日からのわたくしの方針を発表いたしますわ」

 きらりとティースプーンを掲げる仕草は、剣よりも凛としている。円卓を囲むのは、老執事ジャン、家令イザベル、領地管理官ロベール、そして好奇心を隠しきれない若手メイドたち。全員がメモと羽根ペンを構え、息を呑んだ。

「キーワードは、趣味・娯楽・昼寝。以上ですわ♪」

 ……沈黙。室内を渡る時計の音が、やけに大きく聞こえる。最初に我に返ったのは家令イザベルだった。中年女性らしい落ち着きを総動員し、咳払い。

「お嬢様、確認ですが――領地の公務や社交界のご予定は?」

「ございませんわ。必要になったら、わたくしの“気が向いたとき”に対応します」

 シャルは紅茶を一口。ベルガモットの香りが漂う。
 管理官ロベールが眉間に皺を寄せた。真面目一徹、領地の財政を預かる彼にとって、“気が向いたとき”ほど恐ろしい言葉はない。

「では、財務報告会議の日程は――」

「寝ていたら起こさないでくださいね?」

「…………!」

 ロベールが白目を剥きかけた瞬間、シャルはパンッと手を叩いた。

「さあ、暗い顔はやめましょう! 本題はここからですわ。わたくし、お菓子の新作研究会を開きます!」

 若手メイドの瞳がぱぁっと輝く。毎日厨房を覗いては菓子職人を手伝うのが密かな楽しみの彼女たちにとって、それは夢のような宣言だった。

「具体的には?」と家令。

「まずは“焦がしバターのフィナンシェ改”を完成させたいですわね。次に、とろけるプリン、ふわふわシフォン、三層仕立ての葡萄ジュレ……」

 立て板に水のごとく流れるスイーツ名。メイドたちはメモ帳を取る手が止まらない。ロベールが震える声で割って入る。

「し、しかし材料費が高騰しております。バターも砂糖も――」

「問題ありませんわ。すべてわたくしのお小遣いで賄います」

「お小遣い、で……?」

 思わずこぼれたロベールの呟きに、シャルは優雅に首を傾げる。

「だって使い道がありませんもの。宝石もドレスも今ある分で十分。ならば甘い物に変えて胃袋にしまい込む方が合理的ですわ♪」

 合理的――と微笑む令嬢に、執事ジャンは震える指でメモを取った。“胃袋に宝石”なる新概念。

 そこへ、待機していたメイドがティーワゴンを押し入室。銀蓋を開ければ、焼き立てのフィナンシェと苺をのせたミルフィーユ。バターの香ばしさが広がり、若手メイドが思わず喉を鳴らす。

「試作品第一号ですわ。皆さんも召し上がれ」

「し、しかし私どもが同席で頂くなど――」

「いいんですの。楽しく働くには、まず糖分補給から♪」

 メイドたちが遠慮がちに一口。次の瞬間、瞳を潤ませ歓声を上げる。

「な、なんて濃厚……でも後味が軽やかです!」
「外はカリッ、中はしっとり……お嬢様、天才ですか?」

 褒められてシャルは頬を染める。社畜時代、どれだけ頑張っても「当たり前」と片付けられた。今はただ、焼き菓子一つで“すごい”と言ってもらえる――その事実が胸を温めた。

「ありがとうございます。でも、これは序章。次は“領地特産の葡萄”を使ったジュレを作りますわ」

 ロベールがハッと顔を上げる。

「……もしや、それを商品化なさるお考えですか?」

「ええ、趣味の延長で」

「趣味で国を動かさないでくださいッ!」

 つい地が出た管理官の叫びに、サロンが爆笑の渦に包まれる。シャルもつられて笑い、テーブルに身を乗り出した。

「ロベール、わたくし頑張りませんわよ? でも楽しいことをしていたら、勝手にお金が増えた――それなら、誰も困りませんでしょう?」

「……確かに」

 管理官は頭を抱えたが、同時に確信する。
 ――このお嬢様、本気だ。しかも計算高くないようでいて、恐ろしく現実的だ。

 家令イザベルが静かに手を挙げた。

「お嬢様、厨房と畑に必要な人員を再配置いたしましょうか?」

「お願いするわ。あと、試食係を募集しておいて。メイド長には“太っても叱らない”って伝えておいてくださいね」

 若手メイドが「やったー!」と歓声を上げ、老執事ジャンはその様子を目を細めて見守る。シャルは満足げに紅茶を飲み干し、椅子から立ち上がった。

「では本日の会議はお開き。午後は読書と昼寝を両立させる予定ですの」

 堂々たる退室宣言。メイドたちが慌ててお辞儀をし、執事と家令が「ははっ」と頭を垂れる。その背中を見ながらシャルはふと思う。

(あら、意外と楽しいかも……“働かない”って決めたけど、頑張らずに遊ぶのは別物ですわね)

 サロンを出ると、廊下の大窓から爽やかな風が吹き込んだ。カーテンが揺れ、遠くで鐘の音が聞こえる。シャルは胸いっぱいに空気を吸い込み、そっとつぶやく。

「次はどんな甘い物を作ろうかしら……♪」

 その瞳は、これから始まる“趣味領地改革”の行く末を、楽しげに映していた。周囲はまだ戸惑いと期待を半々に抱えつつも、確かに一歩踏み出し始めている。

 そして誰も気づかない。
 この何気ない“開放宣言”が、後に王都を揺るがすワインとジュースの大ヒットへ繋がることを。
 だが今はただ、甘い香りと笑い声が満ちるサロンで、令嬢と使用人たちが同じテーブルを囲み、ほおばったフィナンシェの温もりを分かち合っている。

 それこそが、シャルの望む“頑張らないけれど最高に豊かな”新生活の、何よりの証なのだから。

 ――その日、王都の朝はいつになく騒がしかった。
 王太子アルフォンス殿下が「真実の愛」のために公爵令嬢との婚約を破棄した──そんなロマンチック(?)なニュースは、夜のうちに小鳥のさえずりより速く社交界へ拡散され、夜明けとともに噂好きの貴婦人たちを跳ね起こしたのである。

「まあ恐ろしい! あの完璧令嬢が“捨てられた”ですって?」
「衝撃で寝込んでいるらしいわよ。気丈に振る舞っていても、きっと心はズタズタに違いないわ」
「レミィ嬢? あの子、愛らしいけれど教養は……おほほ、まあ若いって素晴らしいわね」

 ──貴族街のティーサロン。
 羽根扇で口元を隠したご令嬢たちが、レース越しに毒を滴らせる。けれどその裏で、侍女たちは囁き合っていた。

「実は公爵邸から“特大の焼き菓子の香り”が漂ってくるんですって」
「えっ、寝込んでるんじゃないの?」
「むしろ厨房が戦場みたいに忙しいらしいわよ」

 情報が錯綜し、街はざわめきで沸騰寸前。王太子の“恋の革命”を称賛する記事を用意していた新聞社は、慌てて版を差し替えた。「公爵令嬢ショックで昏倒」の見出しを躍らせた途端、今度は「いや彼女は元気にお茶会を開いている」という新ネタが飛び込んできて編集長が倒れたとか倒れないとか──。

     ◆ ◆ ◆

 夜。
 そんな喧噪を他人事のように聞き流しながら、シャル・ド・ネ・アルベールは自室の巨大クッション山に埋もれていた。絹のナイトガウン姿で、片手には本、もう片手にはホットミルク。枕元には焼きたてのスコーンが盛られ、上質なクロテッドクリームが月光を受けて艶めいている。

「はぁ……極楽ですわ」

 社畜時代には深夜三時でもパワポを修正していた。今は同じ時刻、ふわふわの羽根布団で読書三昧。これ以上の勝ち組がいるだろうか。
 そこへ控えめなノック音。

「お嬢様、侍女長マルグリットです」

「どうぞ」

 入ってきたマルグリットは、手に書類束を抱えている。シャルは眉を上げた。

「また噂の火消し案? ご苦労さま。でも必要ありませんわ」

「ですが、お嬢様のお気持ちを憶測で語る下世話な新聞が――」

「放っておきましょう。明日には新しい話題を探しますわ。世間とはそういうものですもの」

 そう言ってシャルはページをめくり、さりげなく話題を変える。

「それより“とろけるプリン”の試作どうでした? カラメルの温度を二度下げたら滑らかさが増したでしょう?」

 マルグリットは目を丸くし、やがて微笑んだ。
「はい、お見事でございました。厨房の者たちが“革命”と騒いでおります」

「革命? いい響きですわね。王太子殿下のよりよほど甘美ですこと」

 くすくすと笑い、スコーンを齧る。バターと蜂蜜が舌の上でとろけ、幸福が体温を上げていく。
 侍女長は意を決したように口を開いた。

「お嬢様。……本当に、復讐なさらないのですか?」

「ええ。だって面倒ですもの」

「ですが世間は“可哀想な捨てられ令嬢”と決めつけ――」

「それも明日には“謎の菓子長者”に塗り替わりますわよ?」

 自信満々の宣言に、マルグリットは苦笑した。シャルは本を閉じ、カーテンを少し開けて夜空を見上げる。

「ご覧なさい。雲ひとつない満月。──わたくしは、あの月と同じくらい満ち足りていますの。だから余計な争いで欠ける必要なんてありませんわ」

 その横顔は静謐で、けれどどこか愉快そうでもある。
 侍女長は深々と頭を下げた。「……畏まりました。では、噂の対応は最小限に留めておきましょう」

「ありがとう。あ、明日は昼まで寝坊しますので起こさないでくださいね」

「……“昼”とは何時を指しますか?」

「わたくしが目を覚ました時刻。それが昼ですわ♪」

 マルグリットが「承知しました」と答え、扉を閉める。
 残された静寂の中、シャルはティーカップを掲げ、そっと呟いた。

「さあて……王都の皆様が“可哀想な令嬢”を演じてくださる間に、わたくしは夢の中で次のスイーツを考案しますわ」

 満月の光が絹のシーツを青白く照らし、彼女の笑みを柔らかく映す。
 その心は、社交界の動揺を子守唄にして揺らぐことなく──むしろほのかな高揚で脈打っていた。

     ◆ ◆ ◆

 翌朝。
 時計の針が十時を指しても、公爵令嬢は夢の国。邸宅の使用人たちは足音を潜め、居間の暖炉前には「お嬢様起床後に温め直す用」のティーセットがスタンバイしている。
 その一方で王都の市場では、早くも“アルベール家の新作フィナンシェ”が密かに取引されていた。高値でも飛ぶように売れ、買い逃した貴婦人が「今夜の舞踏会で恥をかく」と半泣きになっているという。

 王太子の側近は胃痛で医務室へ直行し、新聞社は三度目の差し替えで活版印刷機が悲鳴を上げた。
 ──しかし当の令嬢は、まだ夢の中である。

     ◆ ◆ ◆

 正午少し前。
 侍女がそっと寝室の扉を開けると、シャルは伸びをしながら起き上がった。

「おはようございます、お嬢様」
「ええ、おはよう……まだ眠いですわ」

 ふわふわの枕に顔を埋めながら、ちらりと窓辺の時計を確認し、にんまり。

「ふふ……誰よりも遅くまで起きて、誰よりも遅く起きる。公約達成ですわね」

 そう、これは社畜人生を終えた彼女が自らに課した“怠惰の誓い”。小さな勝利に胸を張る令嬢の髪に、朝(?)の日差しがきらめく。
 その瞬間、廊下の遠くでバタバタと駆け足の音がした。新聞配達員が最新号を届けたのだろう。

 ──一面見出し
 《公爵令嬢、婚約破棄の悲劇……だが邸宅には甘い香り? 真相やいかに》

 シャルはまだ知らない。自分が無言でいるほど、世間が勝手に騒ぎ、勝手にざまぁへ向かっていくことを。
 けれどそれでいい。いや、それがいい。

 彼女はパジャマ姿のまま、侍女が差し出した温かいミルクティーを受け取る。湯気の向こうで、紅茶の水面に映った自分の笑顔がどこか悪戯っぽい。

「今日も一日、頑張らずに楽しみますわよ」

 高貴な怠惰宣言。
 そしてシャル・ド・ネ・アルベールのティーカップが、軽やかな音を立てて皿に戻された瞬間──王都に吹く“ざまぁ旋風”は、さらに勢いを増していくのだった。

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