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第2章
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ぽかぽかと春の陽射しが降り注ぐ午後、アルベール領の丘陵地帯は一面の若草色に染まっていた。
シャル・ド・ネ・アルベールは、絹のパラソルを肩に乗せながら緩やかな坂道を下る。レースたっぷりのワンピースは野外散策にはいささか贅沢だが、彼女にとっては「昼寝前の腹ごなし散歩」なのである。――領地視察? いえいえ、ただの気まぐれ。
「お嬢様、足元にお気をつけて」
後ろから領地管理官ロベールが汗を拭きつつ追いすがる。真面目一徹な彼は、主君が突然「葡萄畑を見たい」と言い出したと聞き、慌てて随行を申し出たのだ。ところが当のシャルは、日傘をくるくる回して上機嫌。
「ふふ、いい風ですわ。お昼寝日和……もとい、ワインの香りがしますもの」
ロベールは心の中で額を押さえた。――ワインの香り? 今はまだ仕込み前。風に乗るのは発酵槽を洗う石鹸水の匂いくらいだ。
坂を下りきると、古い石造りの醸造所が現れた。葡萄の蔦が壁を覆い、窓辺に置かれた木樽が陽光を浴びている。出迎えたのは、白髭を蓄えた老醸造家ピエール。代々アルベール家のワインを仕切る職人だ。
「お嬢様直々にお越しとは光栄でございます」
「こんにちは、ピエール。今日は見学させていただけるかしら?」
にこりと微笑む令嬢に、老職人は頷いた。だがその眼差しには“貴族の道楽に付き合う面倒臭さ”がちらりと滲む。シャルはそれを見逃さず、くすっと笑った。
「安心して。わたくし、ただの観光客ではありませんわよ」
「はは……左様で」
ピエールは曖昧に笑い、発酵室へ案内する。並ぶ木樽からは微かに甘酸っぱい香りが漂い、若い農夫たちが攪拌作業に汗を流していた。シャルは鼻をひくつかせ、一つの樽の前で足を止める。
「……この香り、発酵温度が高すぎますわね?」
「え?」とロベール。老職人も目を瞬いた。シャルは樽栓を抜き、柄杓で液体をすくって香りを嗅ぐ。
「花の香りが飛んで、代わりに青臭いアルコール臭が強く出ている。二度、いえ三度ほど温度を下げてゆっくり発酵させれば、果実味が残りますわ」
淡々と告げる口調は、昼寝前とは思えぬプロフェッショナルぶり。職人たちがざわつく中、ピエールは咳払い。
「た、確かに今年は暖冬でして……ですが温度管理は例年通り――」
「例年通りが通じない年もありますの。気温も樽材も“生き物”ですから」
シャルはにっこり。続けて別の樽を指差した。
「こちらは樽材がスロヴェニアンオーク? タンニンが粗いせいで渋味が立ちすぎてますわ。フレンチオークに替えてみてはいかが?」
「ふ、フレンチオークは高価でして……」
「趣味ですもの。わたくしのお小遣いで買いますわ」
さらりと放たれた“私費投入”宣言に、ロベールが悲鳴を噛み殺す。老職人は開いた口が塞がらない。だが令嬢は気にせず、くるりと踵を返した。
「では試飲コーナーへ参りましょう。お昼寝前に少しだけ♪」
◆ ◆ ◆
テイスティングルーム。窓から射す光がグラスに反射し、宝石のような赤が机上に踊る。シャルは椅子に腰掛け、注がれた三種類のワインを順に口に含んだ。
「……一番は酸が尖りすぎ。二番は香り豊かだけど余韻が短い。三番はバランスが良いけれど、あと半年は寝かせたいところですわね」
まるで品評会の審査員。若手農夫が「マジか……」と呟く。ピエールが恐る恐る尋ねた。
「お嬢様、もしやワインにお詳しい?」
「前世でちょっと趣味だったの」
“前世”の意味を理解できず職人たちが首を傾げる中、シャルは続ける。
「でも安心して。わたくしは頑張りませんわ。ただ、昼寝のついでに美味しいワインが飲みたいだけ。だから、樽を替え、温度を管理し、瓶詰め前に微量の酸素を当てる――それだけで、ここのワインは国王陛下の食卓に並びますわ」
言い切った瞬間、部屋の空気が変わった。老職人の目に宿るのは、疑念ではなく熱。
「……陛下の、食卓に」
「ええ。やってみる?」
シャルがグラスを傾けると、赤い液体が宝石のように煌めく。ピエールは拳を握り、深々と頭を下げた。
「お嬢様のご指示、必ずや形にしてみせましょう!」
周囲の農夫たちもつられるように「おおーっ!」と歓声。ロベールは胸を撫で下ろしつつ、同時に戦慄した。――このお嬢様、ほんの散歩で国家事業を動かしてしまう!
◆ ◆ ◆
視察を終えた帰り道。シャルは丘の上で立ち止まり、夕陽に染まる葡萄畑を眺めた。
「綺麗ですわね……まるで緑の海」
風がレースの裾を揺らす。ロベールがそっと横に並んだ。
「お嬢様、本日は誠にお見事でした。ですが、投資額が大きく――」
「大丈夫。失敗したらわたくしが飲み干しますわ」
「……何千本になりますぞ?」
「毎日三回ティータイムがありますもの♪」
ロベールは絶句し、やがて吹き出した。主君の豪胆さに呆れ、しかし同時に不思議な安心感を覚える。――この人の“気まぐれ”は、なぜか世界を面白くする。
シャルは夕陽に手をかざし、眩しそうに目を細めた。
「ロベール、ワインが完成したら教えてくださいね。その頃には、わたくしの昼寝もきっと一段と深くなっていますわ」
「……は、はあ。深い昼寝とは?」
「つまり、起こさないでということですわ♪」
ころころと笑い、パラソルを肩に歩き出す令嬢。その背中を追いながら、ロベールは心に誓う。
――必ずや最高のワインを造り上げ、この人の“昼寝”に花を添えてみせよう、と。
夕暮れの空に、葡萄の葉擦れがさわさわと歌う。
アルベール領の新しい物語が、静かに、しかし確かに芽吹き始めていた。
アルベール公爵邸の裏庭にある温室は、王都でも指折りの規模を誇る。真冬でも熱帯花木が咲き乱れるその楽園で、シャル・ド・ネ・アルベールは木製ベンチに腰掛け、ゆらゆらと脚を揺らしていた。
手には領地産の完熟ぶどう──深紫の果実を一粒、二粒。噛むたびに甘酸っぱい果汁が舌の上で弾け、思わず目を細める。
「……やっぱり、この香りはワインだけに独占させるのは惜しいですわね」
独りごちた瞬間、通路の向こうから控えめな足音。侍女長マルグリットが現れ、後ろにはふくらんだお腹を支えた若い侍女ソフィアが続いていた。
「お嬢様、失礼いたします。ソフィアが体調報告に参りました」
「まあ、赤ちゃんは元気?」
シャルが笑いかけると、ソフィアは頬を染めて頷く。
「はい、でも……皆さんがワインで乾杯なさるとき、わたしだけ水なのが少し寂しくて」
その呟きに、シャルの瞳がきらりと光った。
「ならば作りましょう! ワインに負けない香りの、アルコールゼロ飲料を!」
「えっ?」
ソフィアは目を丸くし、マルグリットは「ああ、またお嬢様のスイッチが……」と額を押さえた。だが止まらない。シャルは勢いよく立ち上がり、手を叩く。
「厨房長アントンを呼んで! ついでに空き瓶と煮沸器、それと氷室の氷も!」
◆ ◆ ◆
数十分後、温室の一角は即席ラボと化していた。
長机の上に銅鍋、温度計、濾過布、氷を満たした桶。アントンは腕組みしつつも興味津々で覗き込む。
「お嬢様、ジュースなら普通に搾ればよろしいのでは?」
「ただ搾るだけでは香りが飛びますわ。ポイントは“低温殺菌”と“真空濃縮”!」
シャルは胸を張り、前世で見聞きした食品工場のうんちくを早口で披露する。
要は、果汁を60℃前後で短時間加熱して雑菌を殺し、すぐ氷水で急冷。その後、密閉容器の中で弱い真空をかけながら水分だけを飛ばし、香気成分を逃さず濃縮させるという手順だ。
「そんな魔法みたいな装置、うちにありますかね?」とアントン。
「真空ポンプは錬金術師ギルドから借りますわ。殺菌用の温度管理は……アントン、あなたの腕で何とかなりますでしょう?」
厨房長は豪快に笑った。
「面白い! やってやろうじゃねえか!」
こうして“ジュース革命”の実験がスタートした。
◆ ◆ ◆
まずは温室裏に仮設された搾汁場で、ぶどうを潰す。ソフィアをはじめ見習いメイドたちが素手で踏み踏み。「赤ちゃんのために!」と張り切るソフィアの笑顔に、現場の士気は最高潮だ。
搾った果汁は銅鍋へ。アントンが温度計をにらみ、60℃を超えないよう細心の火加減で温める。シャルは横で秒数をカウントし、適温になったところで氷水へドボン。
ジュワッ……。
銅鍋が鳴き、湯気が一気に白い霧へ変わる。立ち上る甘い芳香に、メイドたちの歓声が上がった。
「わあっ、ぶどう畑の真ん中にいるみたい!」
「これがジュースになるんですか!?」
次に真空濃縮だが、錬金術師ギルドから届いたのは、球形フラスコをくるくる回転させる妙な装置。シャルがホースでポンプを繋ぎ、内部を弱真空に保ちながら湯煎で軽く加熱する。
フラスコ内の果汁が薄膜を作って蒸発し、水分が別の受け器に凝縮。残った液体は少しずつ、とろみを帯びた深紅へ変わっていく。
「これ、まるで錬金術ですわね」
シャルが呟くと、ソフィアが笑った。
「お嬢様は“甘味の錬金術師”です」
言い得て妙だ、とアントンも頷く。やがて狙いの濃度に達し、冷却を終えた原液は、グラスに注がれる。琥珀色のワインとは異なる、濃い紫の輝き。
「さあ、テイスティングタイムですわ」
シャルは真剣な面持ちで香りを嗅ぎ、ひとくち含む。――途端、瞳が開いた。
「……ぶどうを丸かじりしたときの香りが、そのまま液体になってますわ!」
ソフィアが恐る恐る口に運び、瞬間、頬を緩めた。
「すごい……! お腹の赤ちゃんが踊ってるみたいに、体がぽかぽかします」
見習いメイドも「甘いけど後味が軽い!」と感嘆。アントンは腕を組み、深く頷く。
「こいつぁ、ワインに匹敵する高級品になりますぜ」
そこへマルグリットが帳簿を抱えて戻ってきた。
「お嬢様、原価計算が出ました。瓶代を含めても、市販の高級ジュースの三分の一で生産できます」
「素晴らしい! ならばラベルをデザインしなくては。名前は……“アルベール・レザン・ロワイヤル”なんていかが?」
フランス語めいた響きにメイドたちが拍手。ソフィアが両手を胸に当てる。
「そのジュースが王都に広まれば、妊婦さんも子どもたちも喜びますね」
シャルはにっこり。
「それが一番ですわ。利益は後からついてくるもの」
その言葉にロベールがどこかでくしゃみしていそうだが、今は気にしない。
◆ ◆ ◆
夕暮れ時、試作品の瓶が木箱に詰められ、馬車へ積み込まれる。行き先は王都の高級レストラン〈ル・グラン・ロワ〉。シェフに試飲してもらうためだ。
シャルは満足げに見送り、温室のベンチへ戻る。長い一日を振り返り、ふわぁと欠伸。
「ふむ……今日は頑張りすぎましたわね。明日は昼まで寝坊しなくちゃ」
マルグリットが苦笑しつつ毛布をかける。
「お嬢様、実験だけでなく名称、流通ルートまで……“頑張らない”はずが」
「これは趣味ですもの。頑張ったわけではなく、楽しんだだけ」
そう言い、シャルは葡萄ジュースの残りを一口。優しい甘さが喉を滑り、体に溶ける。
「ねえマルグリット。ワインで乾杯する人たちの横で、妊婦さんや子どもたちも同じグラスで“乾杯”できたら……素敵ですわよね」
「……はい。とても」
侍女長の目尻に、ほんのり涙が浮かぶ。シャルは照れ隠しに視線を逸らし、夕焼け色の温室天井を見上げた。
「ま、宣伝効果も抜群でしょうし?」
悪戯っぽく笑ったその横顔を、マルグリットは誇らしげに見つめる。
こうして生まれた“アルベール・レザン・ロワイヤル”は、後に“王妃の御前ジュース”として王都を席巻し、ワインと並ぶ看板商品へ成長する。けれど今はまだ、温室に甘い香りと笑い声が残るだけ。
シャルは毛布にくるまり、満足そうに目を閉じた。
夕闇の中、ランプの灯が揺らめき、ぶどうの葉影が天井に踊る。
彼女の小さな“趣味”は、静かに、けれど確実に世界を甘く塗り替え始めていた。
王都随一の高級レストラン〈ル・グラン・ロワ〉――。
夜の帳が降りる頃、そのファサードに掲げられた金獅子の紋章は、通りを行き交う馬車のランタンを映して煌々と輝いていた。宮廷料理長経験者であるギヨーム・ド・ラフィットが腕を振るう店内は、いつもなら予約半年待ちの貴族たちでぎゅうぎゅうだが、今夜はさらに熱気が違う。
理由はただ一つ。
「アルベール領から届いた“謎の新作ワイン”が試飲できるらしい」
――そんな噂が昼過ぎに飛び交い、瞬く間に王都じゅうのグルメマダムたちを騒然とさせたのだ。
「お待たせいたしました。本日の特別セレクション、ヴィーニュ・ド・ネージュ ’89・試験醸造ロットでございます」
ギヨームがそう告げると、シャンデリアの光を集めた深紅の液体が、まるで宝石のようにグラスへ注がれる。鼻を近づけた瞬間、花束を抱え込んだかのような芳香が弾け、客たちは息を呑んだ。
「……ローズとヴァイオレット、それに完熟プラム。なのに余韻は柑橘のように軽やか」
「樽香が主張しすぎない。酸とタンニンがこれほど優しく共存するなんて……」
熱心なワイン通たちが矢継ぎ早にテイスティングノートを囁く。ギヨームは満足げに頷き、ひそかに胸を張った。自分の舌が確かであったことを確信したからだ。
そこへ、王宮の給仕頭が血相を変えて駆け込んで来た。
「そのワイン、今夜の宮廷晩餐会に出したい! 至急、数ケース分けてくれ!」
ギヨームは「数ケース!? 試験ロットゆえ在庫は十数本しか……」と慌てたが、給仕頭は食い下がらない。結局、店が保有するボトルの半分が王宮へ搬入されることになった。
◆ ◆ ◆
夜八時、王宮大晩餐室。
天井画を飾る黄金の天使たちの下、国王グスタフ三世がグラスを掲げる。赤紫の液面が燭台の炎を映し、ゆらりと揺れた。
「ほう……香りだけで酔いそうだな」
囁くように言ってから一口。重厚な王の眉が、ふわりとほどけた。
「……これは、我が人生で最高のワインだ」
その一言が爆弾だった。参列していた大公、侯爵、そして各国の大使たちが一斉にソムリエを呼び止め、銘柄を尋ねる。
「アルベール公爵領産……? 聞いたことがないが」
「確保しろ、全樽だ! いや、畑ごと買収するか!?」
――情報戦が始まる。が、その裏で震える人物が一人。王太子アルフォンスだ。
彼はグラスのラベルに刻まれた雪の紋様を見た瞬間、顔から血の気が引いた。
(アルベール領……まさか、シャルの?)
気のせいだと思いたい。しかし口に含めば否応なく悟る。シャルがよく「花の香りが足りませんわね」と評していた、あの未完成の若いワイン――それが完全体となって眼前にある。
(逃した魚は……鯨だったか)
胸がきゅっと痛む。隣席のレミィ・ブランシュが「殿下、顔色が」と心配そうに覗き込むが、アルフォンスは作り笑いで誤魔化すしかなかった。
◆ ◆ ◆
一方その頃、王妃付きの控え室。
身重の王妃と、子ども連れの貴族夫人たちのテーブルには、赤ワインと同じボトル形状ながら、透き通った紫色の液体が並んでいた。
「まあ、ぶどうジュース? でも香りが尋常ではないわ」
王妃が恐る恐る口をつけ、瞳を丸くする。
「……果実をまるごと飲んでいるみたい!」
子どもたちは「おいしい!」「もう一杯!」と大はしゃぎ。妊婦も子どもも、王族も平民も隔てなく楽しめる――そのコンセプトは瞬時に王妃の心を射抜いた。
「製造元はどこ?」
「アルベール公爵領とのことです」
「追加で取り寄せなさい。王宮の常備品にします」
その場で“王妃御前ジュース”の称号が決定。これが翌日の新聞に踊り、さらに王都を沸かせるのだが、今はまだ静かな胎動に過ぎない。
◆ ◆ ◆
晩餐会終了後、王太子は給仕頭を捕まえ、必死に問いただした。
「このワイン、正真正銘アルベール領産なのか?」
「は、はい。公爵令嬢シャル・ド・ネ・アルベール様の個人レシピと伺っております」
答えを聞いた瞬間、アルフォンスの胃がきゅうっと攣った。後悔の念が津波のように押し寄せる。レミィが袖を引くが、彼は気付かない。
(俺は“真実の愛”を選んだ? 馬鹿な……!)
王太子は急ぎ自室へ戻り、胃薬を探した。けれど侍医に処方されたばかりの白い錠剤は、もう底をついている。
◆ ◆ ◆
翌朝の王都。
新聞の号外には《国王陛下絶賛! 新星ワイン、アルベール領から》と太字の見出し。別紙では《妊婦も子どもも乾杯! 王妃御前ジュース誕生》が躍る。
街の酒商は開店前から行列、ティーサロンでは「シャル令嬢は失意どころか天才醸造家だったらしいわよ」と話題沸騰。
かくして“王都バズり事件”は、瞬く間に全土を席巻した。
◆ ◆ ◆
その喧噪から遠く離れたアルベール公爵邸。
昼近く、シャルは例によってふかふかの羽根布団から這い出し、伸びをした。
「ん……よく寝ましたわ」
窓の外で小鳥がちゅんちゅん騒いでいる。何か良いことがあったらしいが、彼女にはまだ届かない。
侍女が差し出した葡萄ジュースを一口。
「やっぱり美味しいですわね。これ、王都でも売れるかしら?」
――その問いに、ロベール管理官は後で心臓を掴まれる思いをすることになる。売れるどころか、王都は今や“アルベール旋風”の真っただ中なのだから。
だが当の本人は、まだ知らない。
紅茶でもジュースでも、ティーカップを傾けるたび、周囲が勝手にざまぁされていく――そんな痛快な連鎖が、いままさに始まったばかりだということを。
夕陽が西の山稜に沈みかける頃、公爵邸二階のサロンは茜色のヴェールに包まれていた。
窓辺に置かれたロココ様式のソファ、その上でシャル・ド・ネ・アルベールはクッションに半身を預け、片膝を立てて分厚い菓子のレシピ帳をめくっている。膝の上には白猫柄の膝掛け。テーブルには湯気を上げるアールグレイと、焼きたてフィナンシェの山。
――そう、いつもと変わらぬ“怠惰令嬢”の夕べ。
ところが今日は、サロンの扉の向こうから殺気立った足音が近づいてきた。
ドン! と勢いよく開いた扉から飛び込んできたのは、領地管理官ロベール。額に玉の汗、手には革張りの帳簿。背後には執事ジャンが落ち着き払った表情で続き、侍女長マルグリットが「走らないでくださいませ!」と小声で窘めている。
「お、お嬢様ァァァァ!!」
ロベールの絶叫に、シャルはティーカップをそっとソーサーに戻し、ゆるりと視線を上げた。
「まぁロベール、室内で大声はお行儀が悪いですわ」
「し、失礼……しかし、一大事でございます!」
「またワイン樽が足りないとか?」
「いえ、売れすぎでございますッ!!」
ばさり、と帳簿が開かれ、卓上に数字の洪水が広がる。
「先月比、売上三百パーセント増! 利益は五倍! 在庫は王都の商会が奪い合い、生産が追いつきません!」
ロベールは早口でまくしたて、最後にはぜぇぜぇ肩で息をした。
シャルは眉をひそめ、レシピ帳の間に栞を挟む。
「……つまり、ワインとジュースが好評でお金がいっぱい入ったと。ならばわたくしの“昼寝予算”も増えますわね?」
「そ、そこです!」とロベールが指を突き出す。「増えすぎております! どう配分なさるおつもりで!?」
シャルはクッションに背を預け、紅茶を一口。
「うーん……では半分は領地の孤児院と療養院に寄付しましょう」
「……は?」
「残りの半分は“スイーツ研究開発費”として、厨房の拡張に充てますわ。あと猫型クッションを追加で十個ほど」
ロベールの顔から血の気が引き、そして真っ赤になった。
「お嬢様ッ! 寄付はともかく、猫型クッションに王都三棟分の建築費が消えます!」
「大事ですわよ? 質の良いクッションは快眠の鍵ですもの」
「快眠の鍵……」
管理官が遠い目をする横で、執事ジャンが咳払い。
「お嬢様、寄付の件は立派なお考えかと。ですが額が額ゆえ、詳細な計画書を――」
「ジャン、あなたが作っておいてくださる?」
「かしこまりました」
即答する老執事に、ロベールが崩れ落ちる。
侍女長マルグリットがロベールの背をさすりつつ、微笑を浮かべた。
「お嬢様、王都で“聖女アルベール”と噂が立っております。孤児院への寄付などなさったら、ますます――」
「やめてくださいまし。わたくし聖女じゃなくて“怠惰女”ですわ」
シャルは苦笑し、フォークでフィナンシェを割った。ほろりと崩れた断面から、焦がしバターの芳香が立ちのぼる。
「……でもね、マルグリット。世の中には甘い物より“甘い言葉”に飢えている子がたくさんいますわ。寄付はその子たちへの“宣伝費”みたいなもの。わたくしのワインやジュースが広まれば、領地の農家さんも潤いますもの」
さらりと言い放つ主人に、侍女長は胸を打たれたように目を潤ませた。
ロベールはというと、床に座り込んだまま帳簿を抱えて呟く。
「聖女でも怠惰でも……お嬢様は、お嬢様だ……」
シャルはクッションから身を起こし、ロベールの肩をぽんと叩く。
「そんなに心配しなくても大丈夫。あなたがしっかり計算してくれるから、わたくしは安心して昼寝できるのですもの」
「お、お嬢様……!」
管理官の目に光るものを見て、シャルは慌てて話題を変えた。
「さぁ数字の話はここまで。紅茶が冷めますわ。皆さんもフィナンシェをどうぞ」
メイドが追加の皿を運び、甘い香りがサロンに満ちる。ジャンがロベールの手にカップを握らせ、マルグリットが彼の前に菓子皿を置いた。
「……うまい」
ロベールが一口頬張り、ほろりと笑う。硬い管理官が崩れた瞬間、場の空気がふわりと和らいだ。
窓の外では、夕陽が最後の光を放ち、葡萄畑の向こうに沈んでいく。
シャルはカップを掲げ、夕焼けに透ける紅茶の琥珀を眺めた。
「今日も頑張らずに、いい日でしたわね」
その呟きに、誰もが頷く。
“頑張らない”主君が気まぐれで動けば、領地に富が流れ、人々が笑顔になる。数字に追われる管理官も、主君の気遣いと菓子一つで救われる。
――それがアルベール家の新しい日常。
シャルは背伸びをし、窓辺へ歩く。西の空が群青に変わり、最初の星が瞬いた。
「さて、夜は読書会ですわ。マルグリット、毛布と猫クッションを追加で」
「かしこまりました」
「ロベールは……今日はもうお休みなさいな。明日のために英気を養うのも、立派なお仕事ですわよ」
「……はい、ありがたき幸せ」
管理官が深々と頭を下げる。執事ジャンは静かに帳簿を回収し、侍女長は窓を閉めてランプに火を灯した。
ランプシェードが揺らすオレンジ色の光の中、シャルは再びソファへ戻り、猫クッションを抱きしめる。
ティーカップの中で小さく波立つ琥珀を眺めながら、ふと微笑んだ。
(寄付も売上も、結局は“美味しい昼寝”のスパイスですわね)
夜風がガラスをそっと叩き、遠くで街灯がともる。
シャル・ド・ネ・アルベールのティーカップが、カチリと皿に戻された瞬間――今日もまた、彼女の怠惰で優雅な一日が、静かに幕を閉じた。
シャル・ド・ネ・アルベールは、絹のパラソルを肩に乗せながら緩やかな坂道を下る。レースたっぷりのワンピースは野外散策にはいささか贅沢だが、彼女にとっては「昼寝前の腹ごなし散歩」なのである。――領地視察? いえいえ、ただの気まぐれ。
「お嬢様、足元にお気をつけて」
後ろから領地管理官ロベールが汗を拭きつつ追いすがる。真面目一徹な彼は、主君が突然「葡萄畑を見たい」と言い出したと聞き、慌てて随行を申し出たのだ。ところが当のシャルは、日傘をくるくる回して上機嫌。
「ふふ、いい風ですわ。お昼寝日和……もとい、ワインの香りがしますもの」
ロベールは心の中で額を押さえた。――ワインの香り? 今はまだ仕込み前。風に乗るのは発酵槽を洗う石鹸水の匂いくらいだ。
坂を下りきると、古い石造りの醸造所が現れた。葡萄の蔦が壁を覆い、窓辺に置かれた木樽が陽光を浴びている。出迎えたのは、白髭を蓄えた老醸造家ピエール。代々アルベール家のワインを仕切る職人だ。
「お嬢様直々にお越しとは光栄でございます」
「こんにちは、ピエール。今日は見学させていただけるかしら?」
にこりと微笑む令嬢に、老職人は頷いた。だがその眼差しには“貴族の道楽に付き合う面倒臭さ”がちらりと滲む。シャルはそれを見逃さず、くすっと笑った。
「安心して。わたくし、ただの観光客ではありませんわよ」
「はは……左様で」
ピエールは曖昧に笑い、発酵室へ案内する。並ぶ木樽からは微かに甘酸っぱい香りが漂い、若い農夫たちが攪拌作業に汗を流していた。シャルは鼻をひくつかせ、一つの樽の前で足を止める。
「……この香り、発酵温度が高すぎますわね?」
「え?」とロベール。老職人も目を瞬いた。シャルは樽栓を抜き、柄杓で液体をすくって香りを嗅ぐ。
「花の香りが飛んで、代わりに青臭いアルコール臭が強く出ている。二度、いえ三度ほど温度を下げてゆっくり発酵させれば、果実味が残りますわ」
淡々と告げる口調は、昼寝前とは思えぬプロフェッショナルぶり。職人たちがざわつく中、ピエールは咳払い。
「た、確かに今年は暖冬でして……ですが温度管理は例年通り――」
「例年通りが通じない年もありますの。気温も樽材も“生き物”ですから」
シャルはにっこり。続けて別の樽を指差した。
「こちらは樽材がスロヴェニアンオーク? タンニンが粗いせいで渋味が立ちすぎてますわ。フレンチオークに替えてみてはいかが?」
「ふ、フレンチオークは高価でして……」
「趣味ですもの。わたくしのお小遣いで買いますわ」
さらりと放たれた“私費投入”宣言に、ロベールが悲鳴を噛み殺す。老職人は開いた口が塞がらない。だが令嬢は気にせず、くるりと踵を返した。
「では試飲コーナーへ参りましょう。お昼寝前に少しだけ♪」
◆ ◆ ◆
テイスティングルーム。窓から射す光がグラスに反射し、宝石のような赤が机上に踊る。シャルは椅子に腰掛け、注がれた三種類のワインを順に口に含んだ。
「……一番は酸が尖りすぎ。二番は香り豊かだけど余韻が短い。三番はバランスが良いけれど、あと半年は寝かせたいところですわね」
まるで品評会の審査員。若手農夫が「マジか……」と呟く。ピエールが恐る恐る尋ねた。
「お嬢様、もしやワインにお詳しい?」
「前世でちょっと趣味だったの」
“前世”の意味を理解できず職人たちが首を傾げる中、シャルは続ける。
「でも安心して。わたくしは頑張りませんわ。ただ、昼寝のついでに美味しいワインが飲みたいだけ。だから、樽を替え、温度を管理し、瓶詰め前に微量の酸素を当てる――それだけで、ここのワインは国王陛下の食卓に並びますわ」
言い切った瞬間、部屋の空気が変わった。老職人の目に宿るのは、疑念ではなく熱。
「……陛下の、食卓に」
「ええ。やってみる?」
シャルがグラスを傾けると、赤い液体が宝石のように煌めく。ピエールは拳を握り、深々と頭を下げた。
「お嬢様のご指示、必ずや形にしてみせましょう!」
周囲の農夫たちもつられるように「おおーっ!」と歓声。ロベールは胸を撫で下ろしつつ、同時に戦慄した。――このお嬢様、ほんの散歩で国家事業を動かしてしまう!
◆ ◆ ◆
視察を終えた帰り道。シャルは丘の上で立ち止まり、夕陽に染まる葡萄畑を眺めた。
「綺麗ですわね……まるで緑の海」
風がレースの裾を揺らす。ロベールがそっと横に並んだ。
「お嬢様、本日は誠にお見事でした。ですが、投資額が大きく――」
「大丈夫。失敗したらわたくしが飲み干しますわ」
「……何千本になりますぞ?」
「毎日三回ティータイムがありますもの♪」
ロベールは絶句し、やがて吹き出した。主君の豪胆さに呆れ、しかし同時に不思議な安心感を覚える。――この人の“気まぐれ”は、なぜか世界を面白くする。
シャルは夕陽に手をかざし、眩しそうに目を細めた。
「ロベール、ワインが完成したら教えてくださいね。その頃には、わたくしの昼寝もきっと一段と深くなっていますわ」
「……は、はあ。深い昼寝とは?」
「つまり、起こさないでということですわ♪」
ころころと笑い、パラソルを肩に歩き出す令嬢。その背中を追いながら、ロベールは心に誓う。
――必ずや最高のワインを造り上げ、この人の“昼寝”に花を添えてみせよう、と。
夕暮れの空に、葡萄の葉擦れがさわさわと歌う。
アルベール領の新しい物語が、静かに、しかし確かに芽吹き始めていた。
アルベール公爵邸の裏庭にある温室は、王都でも指折りの規模を誇る。真冬でも熱帯花木が咲き乱れるその楽園で、シャル・ド・ネ・アルベールは木製ベンチに腰掛け、ゆらゆらと脚を揺らしていた。
手には領地産の完熟ぶどう──深紫の果実を一粒、二粒。噛むたびに甘酸っぱい果汁が舌の上で弾け、思わず目を細める。
「……やっぱり、この香りはワインだけに独占させるのは惜しいですわね」
独りごちた瞬間、通路の向こうから控えめな足音。侍女長マルグリットが現れ、後ろにはふくらんだお腹を支えた若い侍女ソフィアが続いていた。
「お嬢様、失礼いたします。ソフィアが体調報告に参りました」
「まあ、赤ちゃんは元気?」
シャルが笑いかけると、ソフィアは頬を染めて頷く。
「はい、でも……皆さんがワインで乾杯なさるとき、わたしだけ水なのが少し寂しくて」
その呟きに、シャルの瞳がきらりと光った。
「ならば作りましょう! ワインに負けない香りの、アルコールゼロ飲料を!」
「えっ?」
ソフィアは目を丸くし、マルグリットは「ああ、またお嬢様のスイッチが……」と額を押さえた。だが止まらない。シャルは勢いよく立ち上がり、手を叩く。
「厨房長アントンを呼んで! ついでに空き瓶と煮沸器、それと氷室の氷も!」
◆ ◆ ◆
数十分後、温室の一角は即席ラボと化していた。
長机の上に銅鍋、温度計、濾過布、氷を満たした桶。アントンは腕組みしつつも興味津々で覗き込む。
「お嬢様、ジュースなら普通に搾ればよろしいのでは?」
「ただ搾るだけでは香りが飛びますわ。ポイントは“低温殺菌”と“真空濃縮”!」
シャルは胸を張り、前世で見聞きした食品工場のうんちくを早口で披露する。
要は、果汁を60℃前後で短時間加熱して雑菌を殺し、すぐ氷水で急冷。その後、密閉容器の中で弱い真空をかけながら水分だけを飛ばし、香気成分を逃さず濃縮させるという手順だ。
「そんな魔法みたいな装置、うちにありますかね?」とアントン。
「真空ポンプは錬金術師ギルドから借りますわ。殺菌用の温度管理は……アントン、あなたの腕で何とかなりますでしょう?」
厨房長は豪快に笑った。
「面白い! やってやろうじゃねえか!」
こうして“ジュース革命”の実験がスタートした。
◆ ◆ ◆
まずは温室裏に仮設された搾汁場で、ぶどうを潰す。ソフィアをはじめ見習いメイドたちが素手で踏み踏み。「赤ちゃんのために!」と張り切るソフィアの笑顔に、現場の士気は最高潮だ。
搾った果汁は銅鍋へ。アントンが温度計をにらみ、60℃を超えないよう細心の火加減で温める。シャルは横で秒数をカウントし、適温になったところで氷水へドボン。
ジュワッ……。
銅鍋が鳴き、湯気が一気に白い霧へ変わる。立ち上る甘い芳香に、メイドたちの歓声が上がった。
「わあっ、ぶどう畑の真ん中にいるみたい!」
「これがジュースになるんですか!?」
次に真空濃縮だが、錬金術師ギルドから届いたのは、球形フラスコをくるくる回転させる妙な装置。シャルがホースでポンプを繋ぎ、内部を弱真空に保ちながら湯煎で軽く加熱する。
フラスコ内の果汁が薄膜を作って蒸発し、水分が別の受け器に凝縮。残った液体は少しずつ、とろみを帯びた深紅へ変わっていく。
「これ、まるで錬金術ですわね」
シャルが呟くと、ソフィアが笑った。
「お嬢様は“甘味の錬金術師”です」
言い得て妙だ、とアントンも頷く。やがて狙いの濃度に達し、冷却を終えた原液は、グラスに注がれる。琥珀色のワインとは異なる、濃い紫の輝き。
「さあ、テイスティングタイムですわ」
シャルは真剣な面持ちで香りを嗅ぎ、ひとくち含む。――途端、瞳が開いた。
「……ぶどうを丸かじりしたときの香りが、そのまま液体になってますわ!」
ソフィアが恐る恐る口に運び、瞬間、頬を緩めた。
「すごい……! お腹の赤ちゃんが踊ってるみたいに、体がぽかぽかします」
見習いメイドも「甘いけど後味が軽い!」と感嘆。アントンは腕を組み、深く頷く。
「こいつぁ、ワインに匹敵する高級品になりますぜ」
そこへマルグリットが帳簿を抱えて戻ってきた。
「お嬢様、原価計算が出ました。瓶代を含めても、市販の高級ジュースの三分の一で生産できます」
「素晴らしい! ならばラベルをデザインしなくては。名前は……“アルベール・レザン・ロワイヤル”なんていかが?」
フランス語めいた響きにメイドたちが拍手。ソフィアが両手を胸に当てる。
「そのジュースが王都に広まれば、妊婦さんも子どもたちも喜びますね」
シャルはにっこり。
「それが一番ですわ。利益は後からついてくるもの」
その言葉にロベールがどこかでくしゃみしていそうだが、今は気にしない。
◆ ◆ ◆
夕暮れ時、試作品の瓶が木箱に詰められ、馬車へ積み込まれる。行き先は王都の高級レストラン〈ル・グラン・ロワ〉。シェフに試飲してもらうためだ。
シャルは満足げに見送り、温室のベンチへ戻る。長い一日を振り返り、ふわぁと欠伸。
「ふむ……今日は頑張りすぎましたわね。明日は昼まで寝坊しなくちゃ」
マルグリットが苦笑しつつ毛布をかける。
「お嬢様、実験だけでなく名称、流通ルートまで……“頑張らない”はずが」
「これは趣味ですもの。頑張ったわけではなく、楽しんだだけ」
そう言い、シャルは葡萄ジュースの残りを一口。優しい甘さが喉を滑り、体に溶ける。
「ねえマルグリット。ワインで乾杯する人たちの横で、妊婦さんや子どもたちも同じグラスで“乾杯”できたら……素敵ですわよね」
「……はい。とても」
侍女長の目尻に、ほんのり涙が浮かぶ。シャルは照れ隠しに視線を逸らし、夕焼け色の温室天井を見上げた。
「ま、宣伝効果も抜群でしょうし?」
悪戯っぽく笑ったその横顔を、マルグリットは誇らしげに見つめる。
こうして生まれた“アルベール・レザン・ロワイヤル”は、後に“王妃の御前ジュース”として王都を席巻し、ワインと並ぶ看板商品へ成長する。けれど今はまだ、温室に甘い香りと笑い声が残るだけ。
シャルは毛布にくるまり、満足そうに目を閉じた。
夕闇の中、ランプの灯が揺らめき、ぶどうの葉影が天井に踊る。
彼女の小さな“趣味”は、静かに、けれど確実に世界を甘く塗り替え始めていた。
王都随一の高級レストラン〈ル・グラン・ロワ〉――。
夜の帳が降りる頃、そのファサードに掲げられた金獅子の紋章は、通りを行き交う馬車のランタンを映して煌々と輝いていた。宮廷料理長経験者であるギヨーム・ド・ラフィットが腕を振るう店内は、いつもなら予約半年待ちの貴族たちでぎゅうぎゅうだが、今夜はさらに熱気が違う。
理由はただ一つ。
「アルベール領から届いた“謎の新作ワイン”が試飲できるらしい」
――そんな噂が昼過ぎに飛び交い、瞬く間に王都じゅうのグルメマダムたちを騒然とさせたのだ。
「お待たせいたしました。本日の特別セレクション、ヴィーニュ・ド・ネージュ ’89・試験醸造ロットでございます」
ギヨームがそう告げると、シャンデリアの光を集めた深紅の液体が、まるで宝石のようにグラスへ注がれる。鼻を近づけた瞬間、花束を抱え込んだかのような芳香が弾け、客たちは息を呑んだ。
「……ローズとヴァイオレット、それに完熟プラム。なのに余韻は柑橘のように軽やか」
「樽香が主張しすぎない。酸とタンニンがこれほど優しく共存するなんて……」
熱心なワイン通たちが矢継ぎ早にテイスティングノートを囁く。ギヨームは満足げに頷き、ひそかに胸を張った。自分の舌が確かであったことを確信したからだ。
そこへ、王宮の給仕頭が血相を変えて駆け込んで来た。
「そのワイン、今夜の宮廷晩餐会に出したい! 至急、数ケース分けてくれ!」
ギヨームは「数ケース!? 試験ロットゆえ在庫は十数本しか……」と慌てたが、給仕頭は食い下がらない。結局、店が保有するボトルの半分が王宮へ搬入されることになった。
◆ ◆ ◆
夜八時、王宮大晩餐室。
天井画を飾る黄金の天使たちの下、国王グスタフ三世がグラスを掲げる。赤紫の液面が燭台の炎を映し、ゆらりと揺れた。
「ほう……香りだけで酔いそうだな」
囁くように言ってから一口。重厚な王の眉が、ふわりとほどけた。
「……これは、我が人生で最高のワインだ」
その一言が爆弾だった。参列していた大公、侯爵、そして各国の大使たちが一斉にソムリエを呼び止め、銘柄を尋ねる。
「アルベール公爵領産……? 聞いたことがないが」
「確保しろ、全樽だ! いや、畑ごと買収するか!?」
――情報戦が始まる。が、その裏で震える人物が一人。王太子アルフォンスだ。
彼はグラスのラベルに刻まれた雪の紋様を見た瞬間、顔から血の気が引いた。
(アルベール領……まさか、シャルの?)
気のせいだと思いたい。しかし口に含めば否応なく悟る。シャルがよく「花の香りが足りませんわね」と評していた、あの未完成の若いワイン――それが完全体となって眼前にある。
(逃した魚は……鯨だったか)
胸がきゅっと痛む。隣席のレミィ・ブランシュが「殿下、顔色が」と心配そうに覗き込むが、アルフォンスは作り笑いで誤魔化すしかなかった。
◆ ◆ ◆
一方その頃、王妃付きの控え室。
身重の王妃と、子ども連れの貴族夫人たちのテーブルには、赤ワインと同じボトル形状ながら、透き通った紫色の液体が並んでいた。
「まあ、ぶどうジュース? でも香りが尋常ではないわ」
王妃が恐る恐る口をつけ、瞳を丸くする。
「……果実をまるごと飲んでいるみたい!」
子どもたちは「おいしい!」「もう一杯!」と大はしゃぎ。妊婦も子どもも、王族も平民も隔てなく楽しめる――そのコンセプトは瞬時に王妃の心を射抜いた。
「製造元はどこ?」
「アルベール公爵領とのことです」
「追加で取り寄せなさい。王宮の常備品にします」
その場で“王妃御前ジュース”の称号が決定。これが翌日の新聞に踊り、さらに王都を沸かせるのだが、今はまだ静かな胎動に過ぎない。
◆ ◆ ◆
晩餐会終了後、王太子は給仕頭を捕まえ、必死に問いただした。
「このワイン、正真正銘アルベール領産なのか?」
「は、はい。公爵令嬢シャル・ド・ネ・アルベール様の個人レシピと伺っております」
答えを聞いた瞬間、アルフォンスの胃がきゅうっと攣った。後悔の念が津波のように押し寄せる。レミィが袖を引くが、彼は気付かない。
(俺は“真実の愛”を選んだ? 馬鹿な……!)
王太子は急ぎ自室へ戻り、胃薬を探した。けれど侍医に処方されたばかりの白い錠剤は、もう底をついている。
◆ ◆ ◆
翌朝の王都。
新聞の号外には《国王陛下絶賛! 新星ワイン、アルベール領から》と太字の見出し。別紙では《妊婦も子どもも乾杯! 王妃御前ジュース誕生》が躍る。
街の酒商は開店前から行列、ティーサロンでは「シャル令嬢は失意どころか天才醸造家だったらしいわよ」と話題沸騰。
かくして“王都バズり事件”は、瞬く間に全土を席巻した。
◆ ◆ ◆
その喧噪から遠く離れたアルベール公爵邸。
昼近く、シャルは例によってふかふかの羽根布団から這い出し、伸びをした。
「ん……よく寝ましたわ」
窓の外で小鳥がちゅんちゅん騒いでいる。何か良いことがあったらしいが、彼女にはまだ届かない。
侍女が差し出した葡萄ジュースを一口。
「やっぱり美味しいですわね。これ、王都でも売れるかしら?」
――その問いに、ロベール管理官は後で心臓を掴まれる思いをすることになる。売れるどころか、王都は今や“アルベール旋風”の真っただ中なのだから。
だが当の本人は、まだ知らない。
紅茶でもジュースでも、ティーカップを傾けるたび、周囲が勝手にざまぁされていく――そんな痛快な連鎖が、いままさに始まったばかりだということを。
夕陽が西の山稜に沈みかける頃、公爵邸二階のサロンは茜色のヴェールに包まれていた。
窓辺に置かれたロココ様式のソファ、その上でシャル・ド・ネ・アルベールはクッションに半身を預け、片膝を立てて分厚い菓子のレシピ帳をめくっている。膝の上には白猫柄の膝掛け。テーブルには湯気を上げるアールグレイと、焼きたてフィナンシェの山。
――そう、いつもと変わらぬ“怠惰令嬢”の夕べ。
ところが今日は、サロンの扉の向こうから殺気立った足音が近づいてきた。
ドン! と勢いよく開いた扉から飛び込んできたのは、領地管理官ロベール。額に玉の汗、手には革張りの帳簿。背後には執事ジャンが落ち着き払った表情で続き、侍女長マルグリットが「走らないでくださいませ!」と小声で窘めている。
「お、お嬢様ァァァァ!!」
ロベールの絶叫に、シャルはティーカップをそっとソーサーに戻し、ゆるりと視線を上げた。
「まぁロベール、室内で大声はお行儀が悪いですわ」
「し、失礼……しかし、一大事でございます!」
「またワイン樽が足りないとか?」
「いえ、売れすぎでございますッ!!」
ばさり、と帳簿が開かれ、卓上に数字の洪水が広がる。
「先月比、売上三百パーセント増! 利益は五倍! 在庫は王都の商会が奪い合い、生産が追いつきません!」
ロベールは早口でまくしたて、最後にはぜぇぜぇ肩で息をした。
シャルは眉をひそめ、レシピ帳の間に栞を挟む。
「……つまり、ワインとジュースが好評でお金がいっぱい入ったと。ならばわたくしの“昼寝予算”も増えますわね?」
「そ、そこです!」とロベールが指を突き出す。「増えすぎております! どう配分なさるおつもりで!?」
シャルはクッションに背を預け、紅茶を一口。
「うーん……では半分は領地の孤児院と療養院に寄付しましょう」
「……は?」
「残りの半分は“スイーツ研究開発費”として、厨房の拡張に充てますわ。あと猫型クッションを追加で十個ほど」
ロベールの顔から血の気が引き、そして真っ赤になった。
「お嬢様ッ! 寄付はともかく、猫型クッションに王都三棟分の建築費が消えます!」
「大事ですわよ? 質の良いクッションは快眠の鍵ですもの」
「快眠の鍵……」
管理官が遠い目をする横で、執事ジャンが咳払い。
「お嬢様、寄付の件は立派なお考えかと。ですが額が額ゆえ、詳細な計画書を――」
「ジャン、あなたが作っておいてくださる?」
「かしこまりました」
即答する老執事に、ロベールが崩れ落ちる。
侍女長マルグリットがロベールの背をさすりつつ、微笑を浮かべた。
「お嬢様、王都で“聖女アルベール”と噂が立っております。孤児院への寄付などなさったら、ますます――」
「やめてくださいまし。わたくし聖女じゃなくて“怠惰女”ですわ」
シャルは苦笑し、フォークでフィナンシェを割った。ほろりと崩れた断面から、焦がしバターの芳香が立ちのぼる。
「……でもね、マルグリット。世の中には甘い物より“甘い言葉”に飢えている子がたくさんいますわ。寄付はその子たちへの“宣伝費”みたいなもの。わたくしのワインやジュースが広まれば、領地の農家さんも潤いますもの」
さらりと言い放つ主人に、侍女長は胸を打たれたように目を潤ませた。
ロベールはというと、床に座り込んだまま帳簿を抱えて呟く。
「聖女でも怠惰でも……お嬢様は、お嬢様だ……」
シャルはクッションから身を起こし、ロベールの肩をぽんと叩く。
「そんなに心配しなくても大丈夫。あなたがしっかり計算してくれるから、わたくしは安心して昼寝できるのですもの」
「お、お嬢様……!」
管理官の目に光るものを見て、シャルは慌てて話題を変えた。
「さぁ数字の話はここまで。紅茶が冷めますわ。皆さんもフィナンシェをどうぞ」
メイドが追加の皿を運び、甘い香りがサロンに満ちる。ジャンがロベールの手にカップを握らせ、マルグリットが彼の前に菓子皿を置いた。
「……うまい」
ロベールが一口頬張り、ほろりと笑う。硬い管理官が崩れた瞬間、場の空気がふわりと和らいだ。
窓の外では、夕陽が最後の光を放ち、葡萄畑の向こうに沈んでいく。
シャルはカップを掲げ、夕焼けに透ける紅茶の琥珀を眺めた。
「今日も頑張らずに、いい日でしたわね」
その呟きに、誰もが頷く。
“頑張らない”主君が気まぐれで動けば、領地に富が流れ、人々が笑顔になる。数字に追われる管理官も、主君の気遣いと菓子一つで救われる。
――それがアルベール家の新しい日常。
シャルは背伸びをし、窓辺へ歩く。西の空が群青に変わり、最初の星が瞬いた。
「さて、夜は読書会ですわ。マルグリット、毛布と猫クッションを追加で」
「かしこまりました」
「ロベールは……今日はもうお休みなさいな。明日のために英気を養うのも、立派なお仕事ですわよ」
「……はい、ありがたき幸せ」
管理官が深々と頭を下げる。執事ジャンは静かに帳簿を回収し、侍女長は窓を閉めてランプに火を灯した。
ランプシェードが揺らすオレンジ色の光の中、シャルは再びソファへ戻り、猫クッションを抱きしめる。
ティーカップの中で小さく波立つ琥珀を眺めながら、ふと微笑んだ。
(寄付も売上も、結局は“美味しい昼寝”のスパイスですわね)
夜風がガラスをそっと叩き、遠くで街灯がともる。
シャル・ド・ネ・アルベールのティーカップが、カチリと皿に戻された瞬間――今日もまた、彼女の怠惰で優雅な一日が、静かに幕を閉じた。
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