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第一章:氷の令嬢、無慈悲に婚約破棄される
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その日のうちに、噂は王都に広まる。
「王太子は庶民出身の聖女にうつつを抜かして公爵令嬢を捨てた」
「しかも違約金として領地を差し出すハメに」
「リチャードソン公爵家の勝利か? いや、むしろ王家がひとり相撲を取っただけでは?」
ヴァレリーは侍女らと共に屋敷へ戻った後、部屋にこもって書類の確認を始めた。感情を吐き出すでもなく、淡々と与えられた義務を遂行している。その姿は、まるで一瞬たりとも乱れがない。
侍女たちはそんな彼女の冷静さに驚きと尊敬の念を抱きつつも、どこか心配そうに見守っていた。
「お嬢様、本日は大変なお疲れだったでしょう。お休みになられた方が……」
「ありがとう。でも、私は大丈夫。むしろ、この先どのように行動を取るべきか、整理しておかなくてはなりません」
ヴァレリーは書類の山を机の上に広げながら応える。今回の婚約破棄に関する契約事項を明確にし、公爵家と王家それぞれの取り分や責任を定める必要がある。
貴族社会において婚約は重要な政治的取引だ。感情にまかせて行動しては痛手を負うのは自分たちである。だからこそ、彼女は冷静沈着であろうと努める。
とはいえ、まったく何も感じていないわけではない。長年の婚約者だったエドワード殿下に対して「愛情」があったかどうかは別として、彼がここまで愚かだとは想定外だった。
もし王妃として未来を共にするなら、彼を立てつつ国に貢献しようと考えていたのに、それはあまりにも儚い幻想だったのかもしれない――。
ヴァレリーは手を止め、窓の外に視線を落とす。夜の帳が降りかけた庭園は静かで、月光に照らされた花々が仄かに揺れていた。
一つだけはっきりしているのは、彼女のこれからの人生は、先ほどまで思い描いていた未来とは全く違う道に進むだろうということ。そして、その道には苦難や陰謀が待ち受けている予感もする。王太子の軽率な行動が、すんなりと済むはずがない。公爵家に矛先を向ける勢力も出てくるだろう。
ふと、ノックの音が聞こえ、扉の向こうから父であるリチャードソン公爵の声がした。
「ヴァレリー、少しよろしいか?」
「はい、お父様。お入りください」
部屋に入ってきた公爵は、白髪混じりの髪を短く整え、背筋をぴんと伸ばした威厳ある男性だ。しかし、彼の瞳には優しい光が宿っており、娘を大切に思う父親であることが窺える。
公爵はヴァレリーの机に並んでいる書類の山を見つめ、安堵したように微笑んだ。
「お前なら、しっかり対応してくれると思っていたが……やはり頼もしいな。今回の件、私も王宮と交渉しなければならん。領地の正式な譲渡手続きについては、当然ながら彼らもゴネる可能性がある。だが、契約は絶対だ」
「はい。その点は既に整理を始めています。万一、王家が言い逃れをしようとした場合でも、証拠はすべて揃っていますから」
ヴァレリーの返答に、公爵は感心したように頷く。
「お前がいてくれて助かるよ。……しかし、本当にすまないと思っている。私がもっとエドワード殿下の人となりを見極められていれば、こんな事態にはならなかった」
実は、ヴァレリーを王太子妃に推薦したのは公爵家の方でもある。国のため、そして公爵家の繁栄のためと考えた結果だったが、王太子がこれほど早急に“真実の愛”とやらに転んでしまうとは、想定していなかったのだ。
ヴァレリーは穏やかな口調で父を慰める。
「お父様、謝る必要はありません。私もこの婚約には義務感しかなかったのです。いずれにせよ、こうして早めに破棄されて良かったのかもしれません」
「……そうか。お前がそう言うのなら。だが、王太子派の貴族の中には、どうにかしてこの破棄をお前の落ち度に仕立て上げようとする者もいるかもしれない。特に、あの聖女シエナの周囲に集まる者たちは侮れん」
「承知しています。ですから、私は自分の名誉を守るために、事実を淡々と提示し、正統性を主張していくだけです」
公爵は深く頷いた後、まるで何か思いついたかのように言葉を付け加える。
「そうだ。お前には近いうち、私の知り合いの……カイル・ヴァレンタインという男に会ってもらいたい」
「カイル……ヴァレンタイン? 確か第二王子の護衛隊長を務める騎士団長だったでしょうか」
「うむ。彼はしばらく前から何かと王太子の周辺を探っていたらしくてな。今回の件に関しても何か思うところがあるようだ。詳しいことは私もまだ聞いていないが、一度話をしてみる価値はあるだろう」
ヴァレリーは父の言葉を頭の片隅に置きながら、淡々と返事をする。
「わかりました。お父様がそうおっしゃるのなら、一度お話いたします」
公爵はそれで満足したのか、静かに部屋を出て行った。
ヴァレリーはふと、小さく息をつく。部屋には、再び静寂が戻る。
「王太子は庶民出身の聖女にうつつを抜かして公爵令嬢を捨てた」
「しかも違約金として領地を差し出すハメに」
「リチャードソン公爵家の勝利か? いや、むしろ王家がひとり相撲を取っただけでは?」
ヴァレリーは侍女らと共に屋敷へ戻った後、部屋にこもって書類の確認を始めた。感情を吐き出すでもなく、淡々と与えられた義務を遂行している。その姿は、まるで一瞬たりとも乱れがない。
侍女たちはそんな彼女の冷静さに驚きと尊敬の念を抱きつつも、どこか心配そうに見守っていた。
「お嬢様、本日は大変なお疲れだったでしょう。お休みになられた方が……」
「ありがとう。でも、私は大丈夫。むしろ、この先どのように行動を取るべきか、整理しておかなくてはなりません」
ヴァレリーは書類の山を机の上に広げながら応える。今回の婚約破棄に関する契約事項を明確にし、公爵家と王家それぞれの取り分や責任を定める必要がある。
貴族社会において婚約は重要な政治的取引だ。感情にまかせて行動しては痛手を負うのは自分たちである。だからこそ、彼女は冷静沈着であろうと努める。
とはいえ、まったく何も感じていないわけではない。長年の婚約者だったエドワード殿下に対して「愛情」があったかどうかは別として、彼がここまで愚かだとは想定外だった。
もし王妃として未来を共にするなら、彼を立てつつ国に貢献しようと考えていたのに、それはあまりにも儚い幻想だったのかもしれない――。
ヴァレリーは手を止め、窓の外に視線を落とす。夜の帳が降りかけた庭園は静かで、月光に照らされた花々が仄かに揺れていた。
一つだけはっきりしているのは、彼女のこれからの人生は、先ほどまで思い描いていた未来とは全く違う道に進むだろうということ。そして、その道には苦難や陰謀が待ち受けている予感もする。王太子の軽率な行動が、すんなりと済むはずがない。公爵家に矛先を向ける勢力も出てくるだろう。
ふと、ノックの音が聞こえ、扉の向こうから父であるリチャードソン公爵の声がした。
「ヴァレリー、少しよろしいか?」
「はい、お父様。お入りください」
部屋に入ってきた公爵は、白髪混じりの髪を短く整え、背筋をぴんと伸ばした威厳ある男性だ。しかし、彼の瞳には優しい光が宿っており、娘を大切に思う父親であることが窺える。
公爵はヴァレリーの机に並んでいる書類の山を見つめ、安堵したように微笑んだ。
「お前なら、しっかり対応してくれると思っていたが……やはり頼もしいな。今回の件、私も王宮と交渉しなければならん。領地の正式な譲渡手続きについては、当然ながら彼らもゴネる可能性がある。だが、契約は絶対だ」
「はい。その点は既に整理を始めています。万一、王家が言い逃れをしようとした場合でも、証拠はすべて揃っていますから」
ヴァレリーの返答に、公爵は感心したように頷く。
「お前がいてくれて助かるよ。……しかし、本当にすまないと思っている。私がもっとエドワード殿下の人となりを見極められていれば、こんな事態にはならなかった」
実は、ヴァレリーを王太子妃に推薦したのは公爵家の方でもある。国のため、そして公爵家の繁栄のためと考えた結果だったが、王太子がこれほど早急に“真実の愛”とやらに転んでしまうとは、想定していなかったのだ。
ヴァレリーは穏やかな口調で父を慰める。
「お父様、謝る必要はありません。私もこの婚約には義務感しかなかったのです。いずれにせよ、こうして早めに破棄されて良かったのかもしれません」
「……そうか。お前がそう言うのなら。だが、王太子派の貴族の中には、どうにかしてこの破棄をお前の落ち度に仕立て上げようとする者もいるかもしれない。特に、あの聖女シエナの周囲に集まる者たちは侮れん」
「承知しています。ですから、私は自分の名誉を守るために、事実を淡々と提示し、正統性を主張していくだけです」
公爵は深く頷いた後、まるで何か思いついたかのように言葉を付け加える。
「そうだ。お前には近いうち、私の知り合いの……カイル・ヴァレンタインという男に会ってもらいたい」
「カイル……ヴァレンタイン? 確か第二王子の護衛隊長を務める騎士団長だったでしょうか」
「うむ。彼はしばらく前から何かと王太子の周辺を探っていたらしくてな。今回の件に関しても何か思うところがあるようだ。詳しいことは私もまだ聞いていないが、一度話をしてみる価値はあるだろう」
ヴァレリーは父の言葉を頭の片隅に置きながら、淡々と返事をする。
「わかりました。お父様がそうおっしゃるのなら、一度お話いたします」
公爵はそれで満足したのか、静かに部屋を出て行った。
ヴァレリーはふと、小さく息をつく。部屋には、再び静寂が戻る。
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