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第二章:氷の令嬢、契約結婚の提案を受ける
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契約結婚――。
それは、表向きは夫婦であっても、互いの利益や利害のために行う形式的な結婚形態を指す。貴族社会では珍しくないが、さすがに公爵令嬢が、しかも婚約破棄直後に他家の人間と結婚するなど、普通ならあり得ない話だ。
「……冗談はおやめください。私にとっては、つい先日まで王太子の婚約者だったという事実もあります。そんな簡単に、別の男性と――」
「もちろん、これはあくまで打診です。あなたの立場からすれば、唐突すぎるでしょう。ですが、今後もし王太子派からの嫌がらせや陰謀が激しくなった場合、あなたは一人では対処しきれない可能性もある。公爵家が王太子派と真っ向から対立し続ければ、国政全体に波紋を広げかねない。
しかし、もしあなたが俺と結婚すれば、少なくとも第二王子派の後ろ盾が得られる。それは、この先の大きな保険になると考えませんか?」
カイルの口調はあくまで淡々としており、ヴァレリーを口説いているような甘い雰囲気は微塵も感じられない。あくまで政治的、もしくは戦略的な提案――それがよく伝わる。
ヴァレリーは一瞬思考を巡らせる。確かに、彼の言うとおり、今後リチャードソン家が王太子派と完全に敵対し続けるのは、国全体の情勢を揺るがす可能性がある。一方、第二王子と公爵家が手を結べば、王家の内紛をある程度抑制できる余地も出てくるだろう。
「……しかし、そのような理由での結婚は、世間からどう見られるでしょうか。私は王太子に婚約破棄された直後。貴方は第二王子に仕える騎士団長。あまりにも露骨に見えるのでは?」
「ええ。露骨と思われるかもしれない。実際、口さがない貴族連中は噂をするでしょう。『捨てられた公爵令嬢が次なる権力者に取り入った』とか、『騎士団長が名門公爵家の地位を狙った』などと」
それに対する批判や揶揄はきっと絶えないだろう。それでもカイルは、苦笑しつつもはっきりと言った。
「ですが、あなたと俺がそれを割り切った“契約結婚”だと公言してしまえばいい。それならば、世間も逆に納得する。もちろん、契約の内容は二人だけの秘密にしておきますが……少なくとも、“形だけの結婚”という認識を広めれば、王太子派も下手に絡みにくくなるはずです」
ヴァレリーは静かに息をついた。契約結婚という言葉が、まるで氷の刃のように胸に突き刺さる――感情を置き去りにした、合理的な提案。
しかし、その合理性は確かに無視できない。表向き夫婦という形をとることで、ヴァレリーは強力な後ろ盾を得る。実質的には公爵家と第二王子派が同盟を結ぶようなものだ。国全体の混乱を抑えるうえでも、有効な策になるかもしれない。
とはいえ、悩みは尽きない。
「もう男性との結婚というものが、こんなにも政治的な取引にしか感じられないのか……」
そう思うと、自分の人生がどこまでも冷たく、孤独なものに思えてくる。
少しの沈黙の後、カイルは続ける。
「すぐに答えを出す必要はありません。俺としては、あなたが望むならいつでも結婚手続きに応じる覚悟があるということだけ、今日はお伝えしたかった。
――ちなみに、あなた個人の心情には配慮するつもりです。夫婦とは名ばかりで、無理に関係を深めるようなことはしません。お互いに大人ですし、割り切った形で協力できるなら、それが一番ではないでしょうか」
どこまでも冷静で、かつ誠実な印象を受ける。
ヴァレリーはほんの少しだけ目を伏せ、やわらかい声で応じた。
「ありがとうございます。提案については、ありがたく検討させていただきます。ただ……私も少し、気持ちの整理が必要です」
「もちろんです。無理強いするつもりはありません。むしろ、こういった話はあなたのご家族――公爵様などともじっくり相談したうえで決めていただくのがいいでしょう。俺はいつでも、あなたのお力になります」
カイルはそう言って、一礼を示すように頭を下げた。その姿は騎士としての礼節をわきまえており、同時に一人の男としてヴァレリーを尊重しているように見えた。
ヴァレリーは返礼をしながらも、心のどこかで微かな安堵を覚える。先ほどまで感じていた“政治的な道具”にされる不快感が、彼の誠実な態度によって多少は和らいだのだろう。
しかし、同時に、まだ戸惑いはぬぐえない。
――エドワードとの婚約が破談になり、これからの人生がどうなるかわからない矢先に、また新たな結婚話。
しかも、今度はきっと「愛のない契約結婚」だ。公爵令嬢として生まれた宿命なのだろうが、ヴァレリーの胸中にはわずかな痛みが走った。
そのまま二人はしばらく庭園を歩いた。かすかな花の香りを感じながら、政治的な話ではない些細な会話を交わす。
カイルの口からは、第二王子の人柄や、騎士団での日々の訓練の話などが語られた。ヴァレリーもまた、公爵家の普段の様子や、趣味である花の栽培について少し語った。
互いに警戒心を解いたわけではないが、それでも先ほどより自然な空気が流れている。契約結婚の話はひとまず脇に置き、純粋に散策を楽しむかのように見える。
やがて、敷地の奥へと続く小道に差し掛かったところで、カイルがふと足を止めた。
「ここからは少し森の方に続いているんですね。立ち入り禁止ではありませんか?」
「いえ、裏手にちょっとした林がありますが、基本的にはどなたでも入れるようになっております。あまり利用者はいませんが、散歩道にはなっていますよ」
ヴァレリーがそう答えると、カイルは興味深げにその道を見つめる。
「いいですね。公爵家の庭園は広大だとは聞いていましたが、こんな自然の森まであるとは。さすがはリチャードソン家……」
そのとき、遠くから使用人の声が聞こえてきた。「お嬢様――、カイル様――」と呼びかけながら、庭を走ってきている。どうやら、公爵が再度呼んでいるらしい。
カイルはそちらの方向をちらりと見やってから、ヴァレリーに向き直った。
「どうやら、戻らなければいけないようですね」
「そうみたいですね。……今日はお話を聞かせてくださって、ありがとうございました。提案については、また改めて」
「ええ、いつでもどうぞ。あなたのお返事をお待ちしております」
そう言い終えると、二人は揃って庭の出口へと向かう。
胸の奥で、ヴァレリーは複雑な思いを抱いていた。これほど早く、次の結婚の可能性が浮上するとは――しかも、契約結婚という冷徹な関係。
ただ、不思議とカイルに対する不快感はない。それどころか、彼の態度には紳士的な誠実さを感じる。それがヴァレリーの心をわずかに揺さぶるのだ。
――一方、リチャードソン公爵家の執務室では、早くも王宮の役人たちが戻ってきて再度の交渉が始まっている。
午後の話し合いは、王太子派の面子を保とうとする者と、公爵家側の譲歩をなるべく引き出そうとする者が入り乱れ、収拾がつかないほど混乱を極めた。
それでも、公爵はヴァレリーや顧問官、法務担当らと共に粘り強く交渉を続ける。カイルも随所で助言を入れ、王太子派がいかに不利な状況かを冷静に示した。
やがて夕刻が近づく頃、王宮側は本日の結論を持ち帰り、再度王太子殿下に伺いを立てると言い残して退散していった。
その背中から漂う疲労感は相当なもので、彼らも今回の破断がどれほど大ごとなのかを痛感しているようだった。
部屋に残った公爵たちは、さすがに疲れの色を隠せない。
ヴァレリーもまた、立ち振る舞いに乱れは見せないが、長時間の交渉で心身にかなりの負担を感じていた。
だが、今日のところは勝利に近い形で終わったといっていい。王太子派にこちらが譲歩する理由は皆無だし、あちらはこれ以上事を荒立てるわけにもいかない。
「ヴァレリー、よく頑張ってくれたな。お前が冷静に反論してくれたおかげで、相手も簡単にはごまかせないと悟っただろう」
公爵がそう言って娘に労いの言葉をかける。ヴァレリーは静かに微笑んで一礼した。
「お父様こそ、一日中お疲れのところありがとうございました。これで一旦、領地譲渡の大筋は決まったようなものですね」
「うむ。細部の金額や範囲はまだ詰める必要があるが、あちらが主張できる要素はもはや少ない。……さて、問題は今後、王太子側がどんな報復をしてくるか、だな。やつらは体面を気にするあまり、下手な策略を仕掛けてくるかもしれない」
その言葉に、カイルが頷く。
「そうですね。俺も王宮の動向を探り、怪しい動きがあればすぐにお知らせします。……ところで公爵様、先ほどヴァレリーさんと少し話をさせていただきました」
カイルが意を決したように切り出すと、公爵は何かを察したのか、ゆるやかな笑みを浮かべた。
「ほう、早速あの話をしたか。ヴァレリー、どうだ? カイルの提案を聞いてみて」
ヴァレリーは、父の表情を見て合点がいく。やはり、父は初めからカイルにこの話をさせようと思っていたのだ。
それくらい、おそらく公爵家にとってもこの“契約結婚”は魅力的な策なのだろう。王太子派が追い詰められたときの保険になるだけでなく、第二王子の好印象を得ることもできる。
「……正直なところ、あまりに唐突です。私は昨日まで王太子の婚約者でしたし、さすがに“すぐ次の結婚”というのは気が引けます」
ヴァレリーがそう言うと、公爵は柔らかく微笑んだ。
「いや、もちろん急がせるつもりはない。だが、この先お前に危険が及ぶ可能性もある。王太子派からの陰湿な嫌がらせや、聖女シエナが何かしらの工作をするかもしれない。
そのとき、公爵家だけで対処するのは難しい場面もある。だがカイルがいてくれれば、いざというときにも心強い。少なくとも、あの第二王子がバックについているというだけで、敵は迂闊に手を出せなくなるからな」
公爵の言葉には、まるで契約結婚を後押ししているというよりも、娘の身を案じている父の気持ちがにじみ出ている。
ヴァレリーは迷いながらも、最後にはため息まじりに小さく頷いた。
「わかりました。少し時間をください。私としても、賢明な判断をしたいと思います」
「それでいい。カイル、お前もあまり焦らずにな」
「承知しました、公爵様。……ヴァレリーさん、あなたの決断をお待ちします」
こうして、“契約結婚”という言葉が現実味を帯び始める。
ヴァレリーはその夜、自室に戻ってからもカイルとの会話を思い返していた。彼の落ち着いた瞳の奥には、王国を憂慮し、公爵家を思いやる誠実さが確かにあった。
しかし、それと同時に、彼が「恋愛感情」を持っているようには見えなかった。あくまで打算的な提案――もっと言えば、「相互利益のための契約」 ということだ。
それを彼自身も否定しない。だが、不思議と不快感はなかった。王太子のように軽薄な態度で振り回すのではなく、最初から「契約」と割り切っている分、信頼できるのかもしれない。
――それでも。
ヴァレリーの中にはほんの少しだけ、「このまま私は誰とも“本当の愛”を得られないのだろうか」という諦念のようなものが広がっている。
そんな思いを抱きつつも、彼女は夜が更けるまで書類の確認を続け、疲れ切ったところでようやくベッドに身体を横たえた。
翌日。
昨日の交渉を踏まえて、王宮から新たな通達が届いたという知らせが入る。王太子殿下は一部の領地譲渡を渋りつつも、公爵家が提示する条件を大枠では呑む姿勢を見せているらしい。
ただし、“聖女シエナ”やその取り巻きの貴族たちが密かに何かを画策しているという噂もあり、予断は許さない。
そんな折、公爵からヴァレリーに、「数日後に開かれる王宮の晩餐会に出席してほしい」という要請が下る。もともと予定されていた公務的な催しだが、王太子派がどんな行動を取るか油断できない場でもある。
そこへ、カイルも第二王子の側近として出席する予定だという情報が入った。ヴァレリーとしては、すでに“契約結婚”の話が頭を離れず、どう振る舞うべきか思案を巡らせる毎日が続く。
果たして、この先の晩餐会で、王太子とシエナはどのような出方を見せるのか。そして、ヴァレリーとカイルは、本当に形だけの契約を結ぶことになるのか――。
ヴァレリーは自分の未来への不安を抱きながらも、氷の仮面を崩さぬまま、ただ毅然と歩みを進めていく。
――こうして、突然の婚約破棄から始まった波乱は、さらに大きな渦へと発展しようとしていた。
王太子の軽率な行動が呼び起こした王宮の混乱は、やがて聖女シエナを巡る疑惑や、第二王子派との暗闘をも引き寄せる。
冷徹で知られる公爵令嬢は、いったいどのような結末にたどり着くのか。
今はまだ、彼女も答えを持たない。けれど、胸に抱く決意だけは一つ。
――公爵家と自分の誇りを絶対に汚させはしない。
その決意が、やがて“白い結婚”とも言える契約結婚を選び取る大きな一歩となるかもしれない。あるいは、それが“本物の愛”に転じる可能性もないとは言い切れない。
どちらの未来へ進むにしても、ヴァレリー・リチャードソンという凛とした女性は、周囲に翻弄されながらも決して膝を屈しないだろう。
その姿こそが、貴族たちの間で「氷の令嬢」と呼ばれながらも、多くの者たちに一目置かれる理由なのだから――。
それは、表向きは夫婦であっても、互いの利益や利害のために行う形式的な結婚形態を指す。貴族社会では珍しくないが、さすがに公爵令嬢が、しかも婚約破棄直後に他家の人間と結婚するなど、普通ならあり得ない話だ。
「……冗談はおやめください。私にとっては、つい先日まで王太子の婚約者だったという事実もあります。そんな簡単に、別の男性と――」
「もちろん、これはあくまで打診です。あなたの立場からすれば、唐突すぎるでしょう。ですが、今後もし王太子派からの嫌がらせや陰謀が激しくなった場合、あなたは一人では対処しきれない可能性もある。公爵家が王太子派と真っ向から対立し続ければ、国政全体に波紋を広げかねない。
しかし、もしあなたが俺と結婚すれば、少なくとも第二王子派の後ろ盾が得られる。それは、この先の大きな保険になると考えませんか?」
カイルの口調はあくまで淡々としており、ヴァレリーを口説いているような甘い雰囲気は微塵も感じられない。あくまで政治的、もしくは戦略的な提案――それがよく伝わる。
ヴァレリーは一瞬思考を巡らせる。確かに、彼の言うとおり、今後リチャードソン家が王太子派と完全に敵対し続けるのは、国全体の情勢を揺るがす可能性がある。一方、第二王子と公爵家が手を結べば、王家の内紛をある程度抑制できる余地も出てくるだろう。
「……しかし、そのような理由での結婚は、世間からどう見られるでしょうか。私は王太子に婚約破棄された直後。貴方は第二王子に仕える騎士団長。あまりにも露骨に見えるのでは?」
「ええ。露骨と思われるかもしれない。実際、口さがない貴族連中は噂をするでしょう。『捨てられた公爵令嬢が次なる権力者に取り入った』とか、『騎士団長が名門公爵家の地位を狙った』などと」
それに対する批判や揶揄はきっと絶えないだろう。それでもカイルは、苦笑しつつもはっきりと言った。
「ですが、あなたと俺がそれを割り切った“契約結婚”だと公言してしまえばいい。それならば、世間も逆に納得する。もちろん、契約の内容は二人だけの秘密にしておきますが……少なくとも、“形だけの結婚”という認識を広めれば、王太子派も下手に絡みにくくなるはずです」
ヴァレリーは静かに息をついた。契約結婚という言葉が、まるで氷の刃のように胸に突き刺さる――感情を置き去りにした、合理的な提案。
しかし、その合理性は確かに無視できない。表向き夫婦という形をとることで、ヴァレリーは強力な後ろ盾を得る。実質的には公爵家と第二王子派が同盟を結ぶようなものだ。国全体の混乱を抑えるうえでも、有効な策になるかもしれない。
とはいえ、悩みは尽きない。
「もう男性との結婚というものが、こんなにも政治的な取引にしか感じられないのか……」
そう思うと、自分の人生がどこまでも冷たく、孤独なものに思えてくる。
少しの沈黙の後、カイルは続ける。
「すぐに答えを出す必要はありません。俺としては、あなたが望むならいつでも結婚手続きに応じる覚悟があるということだけ、今日はお伝えしたかった。
――ちなみに、あなた個人の心情には配慮するつもりです。夫婦とは名ばかりで、無理に関係を深めるようなことはしません。お互いに大人ですし、割り切った形で協力できるなら、それが一番ではないでしょうか」
どこまでも冷静で、かつ誠実な印象を受ける。
ヴァレリーはほんの少しだけ目を伏せ、やわらかい声で応じた。
「ありがとうございます。提案については、ありがたく検討させていただきます。ただ……私も少し、気持ちの整理が必要です」
「もちろんです。無理強いするつもりはありません。むしろ、こういった話はあなたのご家族――公爵様などともじっくり相談したうえで決めていただくのがいいでしょう。俺はいつでも、あなたのお力になります」
カイルはそう言って、一礼を示すように頭を下げた。その姿は騎士としての礼節をわきまえており、同時に一人の男としてヴァレリーを尊重しているように見えた。
ヴァレリーは返礼をしながらも、心のどこかで微かな安堵を覚える。先ほどまで感じていた“政治的な道具”にされる不快感が、彼の誠実な態度によって多少は和らいだのだろう。
しかし、同時に、まだ戸惑いはぬぐえない。
――エドワードとの婚約が破談になり、これからの人生がどうなるかわからない矢先に、また新たな結婚話。
しかも、今度はきっと「愛のない契約結婚」だ。公爵令嬢として生まれた宿命なのだろうが、ヴァレリーの胸中にはわずかな痛みが走った。
そのまま二人はしばらく庭園を歩いた。かすかな花の香りを感じながら、政治的な話ではない些細な会話を交わす。
カイルの口からは、第二王子の人柄や、騎士団での日々の訓練の話などが語られた。ヴァレリーもまた、公爵家の普段の様子や、趣味である花の栽培について少し語った。
互いに警戒心を解いたわけではないが、それでも先ほどより自然な空気が流れている。契約結婚の話はひとまず脇に置き、純粋に散策を楽しむかのように見える。
やがて、敷地の奥へと続く小道に差し掛かったところで、カイルがふと足を止めた。
「ここからは少し森の方に続いているんですね。立ち入り禁止ではありませんか?」
「いえ、裏手にちょっとした林がありますが、基本的にはどなたでも入れるようになっております。あまり利用者はいませんが、散歩道にはなっていますよ」
ヴァレリーがそう答えると、カイルは興味深げにその道を見つめる。
「いいですね。公爵家の庭園は広大だとは聞いていましたが、こんな自然の森まであるとは。さすがはリチャードソン家……」
そのとき、遠くから使用人の声が聞こえてきた。「お嬢様――、カイル様――」と呼びかけながら、庭を走ってきている。どうやら、公爵が再度呼んでいるらしい。
カイルはそちらの方向をちらりと見やってから、ヴァレリーに向き直った。
「どうやら、戻らなければいけないようですね」
「そうみたいですね。……今日はお話を聞かせてくださって、ありがとうございました。提案については、また改めて」
「ええ、いつでもどうぞ。あなたのお返事をお待ちしております」
そう言い終えると、二人は揃って庭の出口へと向かう。
胸の奥で、ヴァレリーは複雑な思いを抱いていた。これほど早く、次の結婚の可能性が浮上するとは――しかも、契約結婚という冷徹な関係。
ただ、不思議とカイルに対する不快感はない。それどころか、彼の態度には紳士的な誠実さを感じる。それがヴァレリーの心をわずかに揺さぶるのだ。
――一方、リチャードソン公爵家の執務室では、早くも王宮の役人たちが戻ってきて再度の交渉が始まっている。
午後の話し合いは、王太子派の面子を保とうとする者と、公爵家側の譲歩をなるべく引き出そうとする者が入り乱れ、収拾がつかないほど混乱を極めた。
それでも、公爵はヴァレリーや顧問官、法務担当らと共に粘り強く交渉を続ける。カイルも随所で助言を入れ、王太子派がいかに不利な状況かを冷静に示した。
やがて夕刻が近づく頃、王宮側は本日の結論を持ち帰り、再度王太子殿下に伺いを立てると言い残して退散していった。
その背中から漂う疲労感は相当なもので、彼らも今回の破断がどれほど大ごとなのかを痛感しているようだった。
部屋に残った公爵たちは、さすがに疲れの色を隠せない。
ヴァレリーもまた、立ち振る舞いに乱れは見せないが、長時間の交渉で心身にかなりの負担を感じていた。
だが、今日のところは勝利に近い形で終わったといっていい。王太子派にこちらが譲歩する理由は皆無だし、あちらはこれ以上事を荒立てるわけにもいかない。
「ヴァレリー、よく頑張ってくれたな。お前が冷静に反論してくれたおかげで、相手も簡単にはごまかせないと悟っただろう」
公爵がそう言って娘に労いの言葉をかける。ヴァレリーは静かに微笑んで一礼した。
「お父様こそ、一日中お疲れのところありがとうございました。これで一旦、領地譲渡の大筋は決まったようなものですね」
「うむ。細部の金額や範囲はまだ詰める必要があるが、あちらが主張できる要素はもはや少ない。……さて、問題は今後、王太子側がどんな報復をしてくるか、だな。やつらは体面を気にするあまり、下手な策略を仕掛けてくるかもしれない」
その言葉に、カイルが頷く。
「そうですね。俺も王宮の動向を探り、怪しい動きがあればすぐにお知らせします。……ところで公爵様、先ほどヴァレリーさんと少し話をさせていただきました」
カイルが意を決したように切り出すと、公爵は何かを察したのか、ゆるやかな笑みを浮かべた。
「ほう、早速あの話をしたか。ヴァレリー、どうだ? カイルの提案を聞いてみて」
ヴァレリーは、父の表情を見て合点がいく。やはり、父は初めからカイルにこの話をさせようと思っていたのだ。
それくらい、おそらく公爵家にとってもこの“契約結婚”は魅力的な策なのだろう。王太子派が追い詰められたときの保険になるだけでなく、第二王子の好印象を得ることもできる。
「……正直なところ、あまりに唐突です。私は昨日まで王太子の婚約者でしたし、さすがに“すぐ次の結婚”というのは気が引けます」
ヴァレリーがそう言うと、公爵は柔らかく微笑んだ。
「いや、もちろん急がせるつもりはない。だが、この先お前に危険が及ぶ可能性もある。王太子派からの陰湿な嫌がらせや、聖女シエナが何かしらの工作をするかもしれない。
そのとき、公爵家だけで対処するのは難しい場面もある。だがカイルがいてくれれば、いざというときにも心強い。少なくとも、あの第二王子がバックについているというだけで、敵は迂闊に手を出せなくなるからな」
公爵の言葉には、まるで契約結婚を後押ししているというよりも、娘の身を案じている父の気持ちがにじみ出ている。
ヴァレリーは迷いながらも、最後にはため息まじりに小さく頷いた。
「わかりました。少し時間をください。私としても、賢明な判断をしたいと思います」
「それでいい。カイル、お前もあまり焦らずにな」
「承知しました、公爵様。……ヴァレリーさん、あなたの決断をお待ちします」
こうして、“契約結婚”という言葉が現実味を帯び始める。
ヴァレリーはその夜、自室に戻ってからもカイルとの会話を思い返していた。彼の落ち着いた瞳の奥には、王国を憂慮し、公爵家を思いやる誠実さが確かにあった。
しかし、それと同時に、彼が「恋愛感情」を持っているようには見えなかった。あくまで打算的な提案――もっと言えば、「相互利益のための契約」 ということだ。
それを彼自身も否定しない。だが、不思議と不快感はなかった。王太子のように軽薄な態度で振り回すのではなく、最初から「契約」と割り切っている分、信頼できるのかもしれない。
――それでも。
ヴァレリーの中にはほんの少しだけ、「このまま私は誰とも“本当の愛”を得られないのだろうか」という諦念のようなものが広がっている。
そんな思いを抱きつつも、彼女は夜が更けるまで書類の確認を続け、疲れ切ったところでようやくベッドに身体を横たえた。
翌日。
昨日の交渉を踏まえて、王宮から新たな通達が届いたという知らせが入る。王太子殿下は一部の領地譲渡を渋りつつも、公爵家が提示する条件を大枠では呑む姿勢を見せているらしい。
ただし、“聖女シエナ”やその取り巻きの貴族たちが密かに何かを画策しているという噂もあり、予断は許さない。
そんな折、公爵からヴァレリーに、「数日後に開かれる王宮の晩餐会に出席してほしい」という要請が下る。もともと予定されていた公務的な催しだが、王太子派がどんな行動を取るか油断できない場でもある。
そこへ、カイルも第二王子の側近として出席する予定だという情報が入った。ヴァレリーとしては、すでに“契約結婚”の話が頭を離れず、どう振る舞うべきか思案を巡らせる毎日が続く。
果たして、この先の晩餐会で、王太子とシエナはどのような出方を見せるのか。そして、ヴァレリーとカイルは、本当に形だけの契約を結ぶことになるのか――。
ヴァレリーは自分の未来への不安を抱きながらも、氷の仮面を崩さぬまま、ただ毅然と歩みを進めていく。
――こうして、突然の婚約破棄から始まった波乱は、さらに大きな渦へと発展しようとしていた。
王太子の軽率な行動が呼び起こした王宮の混乱は、やがて聖女シエナを巡る疑惑や、第二王子派との暗闘をも引き寄せる。
冷徹で知られる公爵令嬢は、いったいどのような結末にたどり着くのか。
今はまだ、彼女も答えを持たない。けれど、胸に抱く決意だけは一つ。
――公爵家と自分の誇りを絶対に汚させはしない。
その決意が、やがて“白い結婚”とも言える契約結婚を選び取る大きな一歩となるかもしれない。あるいは、それが“本物の愛”に転じる可能性もないとは言い切れない。
どちらの未来へ進むにしても、ヴァレリー・リチャードソンという凛とした女性は、周囲に翻弄されながらも決して膝を屈しないだろう。
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