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10話 牢へ
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10話 牢へ
執務室の空気は、しんと張り詰めたままだった。
先ほどまで余裕の笑みを浮かべていた徴税請負人ボードランは、もはや別人のような顔をしている。額に汗が滲み、指輪のはまった指先がわずかに震えていた。
それでもなお、彼はすぐには崩れなかった。
長くこうしてきたのだろう。追い詰められた時に何を言うか、どう濁すか、それなりに慣れている顔だった。
「……誤解です」
ようやく絞り出したその声は、先ほどより少し低く、少しだけ慎重だった。
公爵アルフォンスは椅子にもたれたまま、表情を変えない。
「そうか」
「はい」
ボードランは一度咳払いをして、どうにか声音を立て直そうとした。
「若い娘御が数字をいじって、面白い結論を出したのでしょうが、徴税というものはそのように単純ではありません。村ごとの事情も違えば、道の状態も、馬の具合も、保管の都合も違う」
家令がわずかに眉をひそめる。
言っていること自体は間違っていない。だから厄介なのだ。もっともらしい言葉には、人を鈍らせる力がある。
だがキャル・キュレイションは、その“もっともらしさ”が嫌いだった。
「ええ」
キャルは静かに口を開いた。
「単純ではありませんね」
ボードランの視線が鋭く向く。
「ならば――」
「だから三年分を見たんです」
言葉を切って返すと、男は一瞬止まった。
キャルは整理した紙を机の上へ広げる。
「村ごとの事情が違うのは分かります。道の状態も、倉庫の空き具合も、天候も、たしかに毎月違うでしょう」
紙の端を指で揃える。
「でも、それならなおさら、変動の仕方にはもっと偏りが出るはずです」
「……」
「あなたの帳面は、その偏りが綺麗すぎるんです」
ボードランが鼻で笑おうとしたが、うまくいかなかった。口元が少し引きつっただけだった。
「綺麗すぎる、とは妙な言い草だ」
「自然に荒れていない、という意味です」
キャルはさらに一枚引き出した。
「春は輸送費。夏は保管費。秋は手数料。冬はまた輸送費。季節ごとに隠し場所を変えている」
「言いがかりだ!」
今度の声は大きかった。
執務室の扉の向こうで、控えていた使用人がびくりとした気配がする。
「帳面というものはな、紙の上の数字だけでは済まんのだ! 現場には現場の苦労がある!」
「そうでしょうね」
キャルはあっさり頷いた。
「だから、現場の苦労で説明のつく揺れ方かどうかを見ているんです」
ボードランの顔色がまた変わる。
「揺れ方、揺れ方と!」
「ええ」
キャルは平然としたまま言った。
「数字の癖を見るには、そこがいちばん分かりやすいので」
家令が紙を持ったまま、低く呟いた。
「端数処理も、か」
「はい」
キャルは答える。
「少ない月でも、最後だけ必ずご自分に有利な方へ寄せています」
「違う!」
「では、偶然ですか」
ボードランが息を詰まらせる。
キャルは容赦せず続けた。
「三年分、毎回ですけど」
その一言は、かなり効いたらしい。
男の肩が目に見えて落ちた。
長く続けてきた習慣というものは、だいたいこういうところに出る。大胆な不正は隠せても、小さな癖は消えない。だから帳面は面白い。面白いが、同時に人間の底が見えるので、あまり気分のいい面白さではない。
ボードランはそれでも必死に立て直そうとした。
「仮に、仮にだ」
声がかすれている。
「多少の誤差があったとしても、それは私欲のためではない。徴税請負というものは危険も大きい。前払いもある。人も馬も雇わねばならん。手間賃が少し厚くなるのは当然だろう」
「少し、ですか」
キャルは首を傾げた。
「三年で銀貨八百十二枚が?」
執務室に落ちる沈黙が、さっきより重くなった。
ボードランが今度こそ絶句する。
家令は整理表から目を離さず、低く言った。
「今のところ見えている分だけ、だな」
「はい」
キャルは頷いた。
「細部まで全部追えば、まだ増えると思います」
「十分だ」
公爵が短く言った。
その声が、今まででいちばん冷たかった。
ボードランがはっと顔を上げる。
「閣下――」
「村から余分に取り、我が家への上納を削り、その差額を懐に入れた」
アルフォンスはゆっくりと立ち上がった。
その動きだけで、部屋の空気が変わる。
「しかも一年二年ではない」
「ち、違います! それは誤解で!」
「三年だ」
公爵は一歩も近づいていないのに、ボードランは後ずさりしかけた。
「出来心では済まん」
「お、お慈悲を! 私は長年この領地に尽くして――」
「尽くした?」
その一言には、かすかな嘲りが混じっていた。
キャルは初めて見た。この公爵が、はっきりと相手を軽蔑する顔を。
「領民から余分に削り、公爵家への納めを削り、なお尽くしたと言うか」
「それは……!」
「黙れ」
短い一喝だった。
それだけで、ボードランの口が閉じる。
公爵は家令へ視線を向けた。
「身柄を押さえろ」
家令もまた、ためらわなかった。
「衛兵!」
扉の外に控えていた衛兵がすぐに入ってくる。執務室の緊張した空気を見て、事情はすぐ察したようだった。
ボードランが青ざめる。
「お待ちください! 閣下、私は――!」
「徴税請負権を剥奪する」
公爵の声は揺れなかった。
「領民への過徴収、公爵家への背任、帳簿改竄の疑い。罪を問う」
「ま、待ってくれ!」
さすがにここまで来ると、取り繕う顔も崩れた。
ボードランは机に片手をつき、半歩前へ出る。
「金なら返す! 返します! 不足分も、迷惑料も、全部!」
キャルはその言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。
やはりそういう人間か、と思う。
金で済むと思っている。抜いたのが数字だから、数字で戻せば終わると考えている。
でもそうではない。
少なくともキャルには、そうは思えなかった。
「返せば済む額ではありません」
自分でも少し意外なくらい、声は冷たかった。
ボードランがぎょっとしてこちらを見る。
キャルは静かに続けた。
「領民の冬を削っているんです。銀貨の枚数だけの話じゃないでしょう」
男の顔が引きつった。
「小娘が……!」
「三年続けて出来心とは言いません」
それだけ言って、キャルは口を閉じた。
もう十分だと思った。ここから先は、公爵の領分だ。
アルフォンスはうなずきもしなかったが、そのまま衛兵へ命じる。
「牢へ入れろ。申し開きはそのあと聞く」
「はっ」
衛兵が両脇からボードランを押さえる。
その瞬間、男はようやく本気で暴れた。
「離せ! 私はこの領地に必要な人間だぞ!」
じたばたと足を踏ん張る。
「私がいなければ徴税は回らん! 今さら私を外してどうするつもりだ!」
「代わりを立てるだけだ」
公爵は一息で言った。
「お前である必要はない」
それがとどめになった。
ボードランは顔を真っ赤にし、今度は見苦しいほど喚き始める。
「こんな小娘の帳面遊びを信じるのか!」
衛兵に腕を取られながら、なお叫ぶ。
「侍女上がりだぞ! 女だぞ! そんなものに三年の仕事を否定させるのか!」
家令の顔が険しくなる。
だが公爵は、むしろ冷えきった声で答えた。
「三年の仕事を否定したのではない」
一拍置く。
「三年の盗みを暴いただけだ」
執務室の空気が凍った。
ボードランは何か言い返そうとして、結局声にならなかった。
そのまま衛兵に引きずられるようにして扉へ向かう。最後にこちらを振り返り、怨毒のこもった目でキャルを睨みつけた。
「……小娘、貴様――」
キャルはその視線を受け止めて、少しだけ首を傾げた。
「ええ。小娘ですよ」
男の顔がさらに歪む。
「侍女で、子爵令嬢で、帳面を少し読むだけの」
そこで言葉を切る。
「でも、差額くらいは出せますので」
扉が閉まった。
ようやく、静けさが戻る。
戻ったというより、嵐が去ったあとの妙な静けさだった。
家令が長く息を吐く。
「……終わったか」
「まだだ」
公爵が即座に言った。
「請負権の整理、村側の確認、過徴収分の洗い直し、後任の手配。面倒はこれからだ」
その言葉に、キャルはこっそりと目を伏せた。
やはりだ。絶対にそうなると思っていた。
抜いた男がひとり牢へ入ったところで、仕事が終わるはずがない。不正を暴くのは入口で、その後始末の方がずっと長い。数字の不正というものは、壊れた棚みたいなものだ。一度崩れると、周りも全部並べ直しになる。
家令が額を押さえる。
「再計算が必要ですな」
「当然だ」
公爵はそう言ってから、キャルを見た。
「お前」
「嫌です」
問われるより早く、キャルは言った。
さすがに公爵も一瞬黙った。
「まだ何も言っていない」
「言わなくても分かります」
キャルは疲れた目で机上の紙を見た。
「再計算ですよね」
「そうだ」
「嫌です」
「そうだろうな」
「分かっているなら、なおさら別の方に」
「お前の方が早い」
公爵はまったく譲らない。
家令が横で、少しだけ申し訳なさそうな顔をした。だが口では否定しない。
つまり本当に、キャルがいちばん早いのだろう。
それが分かるから腹が立つ。
「……給金」
キャルはぼそりと呟いた。
「またですか」
公爵が言う。
「当然です」
キャルは真顔で答えた。
「面倒ごとが増えています」
「増えているな」
「人手不足の尻拭いもしています」
「しているな」
「なら」
そこで公爵は、ほんの少しだけ口元を動かした。
「家令」
「はい」
「記録補佐手当を上げろ」
「承知しました」
またあっさり決まった。
キャルは少しだけ警戒する。
「……ずいぶん話が早いですね」
「必要だからだ」
公爵はそれだけ言った。
その言い方は相変わらず不器用だったが、変に飾られるよりましだとも思う。
必要だから使う。
使うから払う。
少なくともこの人は、その筋だけは通してくる。
キャルは小さく息をつき、机上の紙へ目を戻した。
「では、どこから洗い直しますか」
「村別にだ」
家令がすぐに答える。
「徴収額、上納額、経費、差額。三年分を再確認する」
「……面倒ですね」
「面倒だ」
公爵も認めた。
「だがやる」
キャルはしばらく黙ってから、ぼそりと返した。
「知ってます」
そう言うしかない。
ここで逃げてもどうせ追いつかれるし、数字を見てしまった以上、途中で放る方が気持ち悪い。
それに――ほんの少しだけだが、キャルにも分かっていた。
これはただの帳面遊びではない。
この再計算で、領民がどれだけ余計に削られていたか、公爵家がどれだけ抜かれていたかが、きちんと形になる。そうなれば次に同じことをする人間は減るかもしれない。
そう思うと、完全に嫌だとも言い切れなかった。
嫌だが、やる。
その程度には、キャルもこの家に馴染み始めていたのかもしれない。
執務室を出る頃には、外はだいぶ陽が傾いていた。
廊下を歩いていると、マドレーヌが向こうから来た。顔を見た瞬間に、すべて悟ったような表情になる。
「……本当に牢へ?」
「行きました」
「そう」
一拍置いて、彼女は少しだけ眉を下げた。
「大変だったわね」
「ええ」
「でも終わった、とは思っていない顔ね」
「終わるはずがありません」
キャルは疲れた声で言った。
「ここから再計算です」
マドレーヌが天を仰いだ。
「やっぱり」
「やっぱりです」
「帰れる?」
「帰れません」
「可哀想に」
その言い方には、ちゃんと同情が混ざっていた。
だからキャルも少しだけ本音を漏らす。
「せめて夕食のパンくらい、増やしてほしいです」
マドレーヌは噴き出し、それから真面目な顔に戻った。
「後で厨房に言っておくわ」
「ありがとうございます」
「ついでに甘いものもつけてもらえるよう頼んでみる」
「それはぜひ」
その日のキャルにとって、牢へ落ちた徴税請負人よりも、その約束の方が少しだけ心を救った。
執務室の空気は、しんと張り詰めたままだった。
先ほどまで余裕の笑みを浮かべていた徴税請負人ボードランは、もはや別人のような顔をしている。額に汗が滲み、指輪のはまった指先がわずかに震えていた。
それでもなお、彼はすぐには崩れなかった。
長くこうしてきたのだろう。追い詰められた時に何を言うか、どう濁すか、それなりに慣れている顔だった。
「……誤解です」
ようやく絞り出したその声は、先ほどより少し低く、少しだけ慎重だった。
公爵アルフォンスは椅子にもたれたまま、表情を変えない。
「そうか」
「はい」
ボードランは一度咳払いをして、どうにか声音を立て直そうとした。
「若い娘御が数字をいじって、面白い結論を出したのでしょうが、徴税というものはそのように単純ではありません。村ごとの事情も違えば、道の状態も、馬の具合も、保管の都合も違う」
家令がわずかに眉をひそめる。
言っていること自体は間違っていない。だから厄介なのだ。もっともらしい言葉には、人を鈍らせる力がある。
だがキャル・キュレイションは、その“もっともらしさ”が嫌いだった。
「ええ」
キャルは静かに口を開いた。
「単純ではありませんね」
ボードランの視線が鋭く向く。
「ならば――」
「だから三年分を見たんです」
言葉を切って返すと、男は一瞬止まった。
キャルは整理した紙を机の上へ広げる。
「村ごとの事情が違うのは分かります。道の状態も、倉庫の空き具合も、天候も、たしかに毎月違うでしょう」
紙の端を指で揃える。
「でも、それならなおさら、変動の仕方にはもっと偏りが出るはずです」
「……」
「あなたの帳面は、その偏りが綺麗すぎるんです」
ボードランが鼻で笑おうとしたが、うまくいかなかった。口元が少し引きつっただけだった。
「綺麗すぎる、とは妙な言い草だ」
「自然に荒れていない、という意味です」
キャルはさらに一枚引き出した。
「春は輸送費。夏は保管費。秋は手数料。冬はまた輸送費。季節ごとに隠し場所を変えている」
「言いがかりだ!」
今度の声は大きかった。
執務室の扉の向こうで、控えていた使用人がびくりとした気配がする。
「帳面というものはな、紙の上の数字だけでは済まんのだ! 現場には現場の苦労がある!」
「そうでしょうね」
キャルはあっさり頷いた。
「だから、現場の苦労で説明のつく揺れ方かどうかを見ているんです」
ボードランの顔色がまた変わる。
「揺れ方、揺れ方と!」
「ええ」
キャルは平然としたまま言った。
「数字の癖を見るには、そこがいちばん分かりやすいので」
家令が紙を持ったまま、低く呟いた。
「端数処理も、か」
「はい」
キャルは答える。
「少ない月でも、最後だけ必ずご自分に有利な方へ寄せています」
「違う!」
「では、偶然ですか」
ボードランが息を詰まらせる。
キャルは容赦せず続けた。
「三年分、毎回ですけど」
その一言は、かなり効いたらしい。
男の肩が目に見えて落ちた。
長く続けてきた習慣というものは、だいたいこういうところに出る。大胆な不正は隠せても、小さな癖は消えない。だから帳面は面白い。面白いが、同時に人間の底が見えるので、あまり気分のいい面白さではない。
ボードランはそれでも必死に立て直そうとした。
「仮に、仮にだ」
声がかすれている。
「多少の誤差があったとしても、それは私欲のためではない。徴税請負というものは危険も大きい。前払いもある。人も馬も雇わねばならん。手間賃が少し厚くなるのは当然だろう」
「少し、ですか」
キャルは首を傾げた。
「三年で銀貨八百十二枚が?」
執務室に落ちる沈黙が、さっきより重くなった。
ボードランが今度こそ絶句する。
家令は整理表から目を離さず、低く言った。
「今のところ見えている分だけ、だな」
「はい」
キャルは頷いた。
「細部まで全部追えば、まだ増えると思います」
「十分だ」
公爵が短く言った。
その声が、今まででいちばん冷たかった。
ボードランがはっと顔を上げる。
「閣下――」
「村から余分に取り、我が家への上納を削り、その差額を懐に入れた」
アルフォンスはゆっくりと立ち上がった。
その動きだけで、部屋の空気が変わる。
「しかも一年二年ではない」
「ち、違います! それは誤解で!」
「三年だ」
公爵は一歩も近づいていないのに、ボードランは後ずさりしかけた。
「出来心では済まん」
「お、お慈悲を! 私は長年この領地に尽くして――」
「尽くした?」
その一言には、かすかな嘲りが混じっていた。
キャルは初めて見た。この公爵が、はっきりと相手を軽蔑する顔を。
「領民から余分に削り、公爵家への納めを削り、なお尽くしたと言うか」
「それは……!」
「黙れ」
短い一喝だった。
それだけで、ボードランの口が閉じる。
公爵は家令へ視線を向けた。
「身柄を押さえろ」
家令もまた、ためらわなかった。
「衛兵!」
扉の外に控えていた衛兵がすぐに入ってくる。執務室の緊張した空気を見て、事情はすぐ察したようだった。
ボードランが青ざめる。
「お待ちください! 閣下、私は――!」
「徴税請負権を剥奪する」
公爵の声は揺れなかった。
「領民への過徴収、公爵家への背任、帳簿改竄の疑い。罪を問う」
「ま、待ってくれ!」
さすがにここまで来ると、取り繕う顔も崩れた。
ボードランは机に片手をつき、半歩前へ出る。
「金なら返す! 返します! 不足分も、迷惑料も、全部!」
キャルはその言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。
やはりそういう人間か、と思う。
金で済むと思っている。抜いたのが数字だから、数字で戻せば終わると考えている。
でもそうではない。
少なくともキャルには、そうは思えなかった。
「返せば済む額ではありません」
自分でも少し意外なくらい、声は冷たかった。
ボードランがぎょっとしてこちらを見る。
キャルは静かに続けた。
「領民の冬を削っているんです。銀貨の枚数だけの話じゃないでしょう」
男の顔が引きつった。
「小娘が……!」
「三年続けて出来心とは言いません」
それだけ言って、キャルは口を閉じた。
もう十分だと思った。ここから先は、公爵の領分だ。
アルフォンスはうなずきもしなかったが、そのまま衛兵へ命じる。
「牢へ入れろ。申し開きはそのあと聞く」
「はっ」
衛兵が両脇からボードランを押さえる。
その瞬間、男はようやく本気で暴れた。
「離せ! 私はこの領地に必要な人間だぞ!」
じたばたと足を踏ん張る。
「私がいなければ徴税は回らん! 今さら私を外してどうするつもりだ!」
「代わりを立てるだけだ」
公爵は一息で言った。
「お前である必要はない」
それがとどめになった。
ボードランは顔を真っ赤にし、今度は見苦しいほど喚き始める。
「こんな小娘の帳面遊びを信じるのか!」
衛兵に腕を取られながら、なお叫ぶ。
「侍女上がりだぞ! 女だぞ! そんなものに三年の仕事を否定させるのか!」
家令の顔が険しくなる。
だが公爵は、むしろ冷えきった声で答えた。
「三年の仕事を否定したのではない」
一拍置く。
「三年の盗みを暴いただけだ」
執務室の空気が凍った。
ボードランは何か言い返そうとして、結局声にならなかった。
そのまま衛兵に引きずられるようにして扉へ向かう。最後にこちらを振り返り、怨毒のこもった目でキャルを睨みつけた。
「……小娘、貴様――」
キャルはその視線を受け止めて、少しだけ首を傾げた。
「ええ。小娘ですよ」
男の顔がさらに歪む。
「侍女で、子爵令嬢で、帳面を少し読むだけの」
そこで言葉を切る。
「でも、差額くらいは出せますので」
扉が閉まった。
ようやく、静けさが戻る。
戻ったというより、嵐が去ったあとの妙な静けさだった。
家令が長く息を吐く。
「……終わったか」
「まだだ」
公爵が即座に言った。
「請負権の整理、村側の確認、過徴収分の洗い直し、後任の手配。面倒はこれからだ」
その言葉に、キャルはこっそりと目を伏せた。
やはりだ。絶対にそうなると思っていた。
抜いた男がひとり牢へ入ったところで、仕事が終わるはずがない。不正を暴くのは入口で、その後始末の方がずっと長い。数字の不正というものは、壊れた棚みたいなものだ。一度崩れると、周りも全部並べ直しになる。
家令が額を押さえる。
「再計算が必要ですな」
「当然だ」
公爵はそう言ってから、キャルを見た。
「お前」
「嫌です」
問われるより早く、キャルは言った。
さすがに公爵も一瞬黙った。
「まだ何も言っていない」
「言わなくても分かります」
キャルは疲れた目で机上の紙を見た。
「再計算ですよね」
「そうだ」
「嫌です」
「そうだろうな」
「分かっているなら、なおさら別の方に」
「お前の方が早い」
公爵はまったく譲らない。
家令が横で、少しだけ申し訳なさそうな顔をした。だが口では否定しない。
つまり本当に、キャルがいちばん早いのだろう。
それが分かるから腹が立つ。
「……給金」
キャルはぼそりと呟いた。
「またですか」
公爵が言う。
「当然です」
キャルは真顔で答えた。
「面倒ごとが増えています」
「増えているな」
「人手不足の尻拭いもしています」
「しているな」
「なら」
そこで公爵は、ほんの少しだけ口元を動かした。
「家令」
「はい」
「記録補佐手当を上げろ」
「承知しました」
またあっさり決まった。
キャルは少しだけ警戒する。
「……ずいぶん話が早いですね」
「必要だからだ」
公爵はそれだけ言った。
その言い方は相変わらず不器用だったが、変に飾られるよりましだとも思う。
必要だから使う。
使うから払う。
少なくともこの人は、その筋だけは通してくる。
キャルは小さく息をつき、机上の紙へ目を戻した。
「では、どこから洗い直しますか」
「村別にだ」
家令がすぐに答える。
「徴収額、上納額、経費、差額。三年分を再確認する」
「……面倒ですね」
「面倒だ」
公爵も認めた。
「だがやる」
キャルはしばらく黙ってから、ぼそりと返した。
「知ってます」
そう言うしかない。
ここで逃げてもどうせ追いつかれるし、数字を見てしまった以上、途中で放る方が気持ち悪い。
それに――ほんの少しだけだが、キャルにも分かっていた。
これはただの帳面遊びではない。
この再計算で、領民がどれだけ余計に削られていたか、公爵家がどれだけ抜かれていたかが、きちんと形になる。そうなれば次に同じことをする人間は減るかもしれない。
そう思うと、完全に嫌だとも言い切れなかった。
嫌だが、やる。
その程度には、キャルもこの家に馴染み始めていたのかもしれない。
執務室を出る頃には、外はだいぶ陽が傾いていた。
廊下を歩いていると、マドレーヌが向こうから来た。顔を見た瞬間に、すべて悟ったような表情になる。
「……本当に牢へ?」
「行きました」
「そう」
一拍置いて、彼女は少しだけ眉を下げた。
「大変だったわね」
「ええ」
「でも終わった、とは思っていない顔ね」
「終わるはずがありません」
キャルは疲れた声で言った。
「ここから再計算です」
マドレーヌが天を仰いだ。
「やっぱり」
「やっぱりです」
「帰れる?」
「帰れません」
「可哀想に」
その言い方には、ちゃんと同情が混ざっていた。
だからキャルも少しだけ本音を漏らす。
「せめて夕食のパンくらい、増やしてほしいです」
マドレーヌは噴き出し、それから真面目な顔に戻った。
「後で厨房に言っておくわ」
「ありがとうございます」
「ついでに甘いものもつけてもらえるよう頼んでみる」
「それはぜひ」
その日のキャルにとって、牢へ落ちた徴税請負人よりも、その約束の方が少しだけ心を救った。
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