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18話 顔のいい邪魔な人
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18話 顔のいい邪魔な人
目が合った瞬間、キャル・キュレイションはひとつだけ理解した。
面倒が増えた。
それもかなり、質の悪い面倒だ。
監査室の扉の前に立っていたのは、どう見てもただの官吏ではなかった。服装は控えめでも、立ち方が違う。部屋の空気が、その人間を中心に少しだけ整ってしまうような、そういう種類の人間だった。
しかも顔が良すぎる。
良すぎる顔というのは、それだけで面倒の匂いがする。経験則ではなく、直感の話だが、キャルはその手の直感をあまり軽く見ていない。
だから、石を動かしていた指を止めたまま、ほんの少しだけ眉を寄せた。
監査室の面々の反応が、いつもと違う。
最年長の監査官は慌てて立ち上がり、若い書記官たちは一瞬で背筋を伸ばした。ルネ・ベルティエだけは「やはり来たか」という顔をしている。
つまり、この人は偉い。
かなり偉い。
そこまで分かれば十分だった。
「殿下」
最年長の監査官が、少し遅れて頭を下げる。
やはりそうか、とキャルは思った。
殿下。
王族だ。
しかもこの場所にこのタイミングで顔を出すような王族は、かなり限定される。
王太子シリル。
名前だけは聞いていた。王都随一の美貌だの、人当たりがいいだの、だが内側はなかなか切れるだの、侍女たちの雑談の端に何度か乗っていた。そのどれも、キャルにとっては別に役に立たない情報だったので、適当に聞き流していたのだが、どうやら本人らしい。
そして本人は、キャルを見ていた。
監査室にいる誰よりも、はっきりと。
その視線が少しうるさいな、とキャルは思う。
王太子は軽く室内を見回し、それから自然な顔で言った。
「邪魔をしたかな」
声までよくできている。
柔らかくて、よく通る。だが甘ったるくはない。作っているのか生まれつきなのか知らないが、こういう人間が気軽に部屋へ入ってくると、たいてい周囲が勝手に緊張する。
だから余計に面倒なのだ。
最年長の監査官が答える。
「いえ、ちょうど……確認が終わったところで」
「そう」
シリルはそこで視線をキャルへ戻した。
「君が」
たったそれだけの言葉なのに、監査室の空気がまた少し張る。
面倒だな、とキャルは思う。
「はい」
とりあえず返した。
「キャル・キュレイションです」
シリルは数歩、中へ入ってきた。
近づいてみると、やはり顔が良すぎた。整いすぎていて逆に落ち着かない。侍女たちがきゃあきゃあ言う理由は少し分かるが、だから何だとも思う。
「話は聞いたよ」
シリルは穏やかに言う。
「面白いことをするね」
その言い方に、キャルは少しだけ首を傾げた。
面白い。
その言葉が、あまり好きではない。
面白いと言われる時、人はたいてい、見世物か便利道具のどちらかとして見られている。
「そうでしょうか」
「板に溝を掘って、石を並べる」
シリルは机上の溝板を見た。
「初めて見た」
「私も、ここで初めて作りました」
「即席なのに、ずいぶん役に立ったようだけど」
「それは板の功績です」
キャルがそう返すと、シリルは少しだけ目を細めた。笑っているのか、もっとよく見ようとしているのか、判別しづらい顔だった。
ルネが横から補足する。
「殿下、こちらが差額の原因一覧です」
差し出された紙をシリルは受け取り、数行読む。読んでいる間も、どうにも余裕がある。字面だけ追っているのではなく、書いた人間ごと値踏みしている感じがした。
「綺麗だ」
ぽつりとそう言った。
それは字が、という意味ではないだろう。整理の順番の話だ。
キャルは少しだけ黙った。
分かる人間には分かるらしい。
だが分かるからといって、別に嬉しいとも限らない。
「見やすくしただけです」
「その“だけ”が難しいんだよ」
シリルは紙から目を上げた。
「数字が速い人間はいる。でも、人に見せる順まで整えられる人間はそう多くない」
監査室の何人かが、そこで揃って無言になった。おそらく、その言葉を否定できないのだろう。
キャルは素直に礼を言うより先に、別のことを考えた。
困るな、と。
こういうふうに正面から価値を言語化されると、逃げにくくなる。公爵アルフォンスも筋の通し方が厄介だが、この王太子も別方向で面倒そうだと、もう分かり始めていた。
「そうでしょうか」
だから返事は薄くした。
「ええ」
シリルはあっさり頷く。
「少なくとも、私の周りでは珍しい」
私の周り、という言い方がもう良くない。
王太子の周りがどの程度の人間で構成されているかを考えれば、その言葉には勝手に重みがつく。言った本人がどう思っていようと、受け取る側にとってはそういうものだ。
キャルは板の上に残っていた石を、小皿へ戻しながら言った。
「子爵程度の娘です。あまり気軽にお声がけなさらないほうがよろしいかと」
監査室の空気が、今度は別の意味で止まった。
最年長の監査官が、目に見えて固まっている。若い書記官は息を止めたままだ。ルネだけが、わずかに遠い目をした。
シリル本人は、すぐには返事をしなかった。
少しだけ意外そうな顔をして、それから困ったように笑う。
「そんなに警戒しなくてもいいだろう」
「よくありません」
キャルは即答した。
監査室の何人かが本気でこちらを見た。たぶん、ここまで迷いなく王太子へ言い返す人間は珍しいのだろう。
だがキャルとしては、ここを曖昧にする方が危険だった。
「どうして?」
シリルの口調は柔らかいままだった。
だからこそ余計に危ない。
キャルはまっすぐ相手を見た。
「殿下がどう思うかではありません。周りがどう見るかです」
笑みが少しだけ薄くなる。
けれど彼は黙って聞いていた。
「私は子爵令嬢であって、子爵ですらありません」
キャルは静かに続けた。
「高位の貴族から見れば、子爵令嬢なんて平民と大して変わりません」
監査室の空気がひやりと冷えた気がした。
口に出すべきでない本音だと感じた者もいただろう。けれど、それが本音であり、現実でもある。
「気軽に声をかけられれば、それだけで意味を持ちます」
キャルは言葉を選ばずに言った。
「私は断れませんし、言い訳も通りません」
シリルがほんの少しだけ目を細める。
「私がそう見ていなくても?」
「怖いのは、殿下ではありません」
一拍置く。
「貴族社会の残酷な現実です」
言ってしまってから、監査室が完全に静まり返っていることに気づいた。
ルネまで黙っている。
だがシリルだけは、表情を変えなかった。
変えなかったというより、たぶん変えられなかったのだろう。軽く受け流すには、キャルの言葉が予想より重かったはずだ。
「……なるほど」
ようやく出た言葉が、それだった。
怒りではない。
笑いでもない。
考え込むような声音だった。
キャルはそこで初めて、少しだけ肩の力を抜いた。
分かってもらえたとは思わない。だが少なくとも、適当に流されはしなかった。
シリルはしばらく黙っていたが、やがて少し困ったように口元を緩めた。
「君は、本当に私を歓迎していないんだね」
「はい」
即答だった。
若い書記官が本気でむせた。
キャルはそちらを見もしない。
「仕事が増えるので」
そう付け加えると、今度こそルネが顔を覆った。
たぶん笑いを堪えているのではない。たぶん、色々な意味で胃が痛いのだろう。
シリルは一瞬ぽかんとしたあと、ふっと声を立てずに笑った。
「面白いな」
「そう言われるのがいちばん困るんです」
キャルが言うと、シリルはまた少しだけ目を細めた。
「どうして?」
「便利に使われそうなので」
監査室の空気が、今度は妙な方向へ崩れた。
誰も声を上げて笑うことはできない。できないが、何人かの肩は明らかに震えている。王太子を前にして、便利に使われそうだから困る、はなかなか聞かないだろう。
シリル自身も、さすがに言葉を選び直すように少し間を置いた。
「……便利、か」
「はい」
「君は、私がそういう人間に見える?」
「見えます」
「随分だね」
「だって実際、監査室にまで来ているじゃないですか」
正論だった。
シリルはそこでとうとう笑いを隠さなかった。
監査室に王太子の笑い声が響くなど、たぶん滅多にないのだろう。最年長の監査官でさえ、少しだけどうしていいか分からない顔をしている。
「……なるほど」
シリルはようやくそう言った。
「よく分かった」
「なら助かります」
「いや、やめるつもりはないけれど」
キャルは本気で嫌そうな顔をした。
ルネが横で小さく頭を抱える。
やはりだ。
この人は危ない。
自分でもきちんと理解した上で、なお踏み込む気でいる。
だから嫌なのだ。
「最悪ですね」
思わず本音が漏れる。
シリルは少し楽しそうに首を傾げた。
「光栄だな」
「まったく褒めていません」
その返しに、ついに若い書記官の一人が下を向いたまま肩を震わせた。監査官に肘で小突かれている。
キャルはそれを横目に見ながら、心の中で深くため息をついた。
ただでさえ面倒な王宮監査室に来たというのに、ここへ来て王太子にまで目をつけられるなど、どう考えても良い展開ではない。
しかも相手は、気軽な興味ではなく、かなり本気で面白がっている。
公爵アルフォンスとは違う意味で厄介だ。
公爵は侍女だと知っていて、その枠の中で使う。だがこの王太子は、侍女だと知っていて、その枠ごと飛び越えさせそうな気配がある。
それが怖い。
シリルは最後に机上の溝板を見て、指先で軽く示した。
「それ、私にも見せてくれるかな」
「嫌です」
「即答だ」
「壊れると困るので」
これは半分本音だった。即席の妥協品とはいえ、今のところこれがないと長い計算が面倒すぎる。
シリルは素直に手を引いた。
「ではまた今度」
「今度もありません」
「そうかな」
この人、本当に引かないな、とキャルは思う。
監査室を出て行く後ろ姿まで余裕があるのが、余計に腹立たしい。
扉が閉まったあと、監査室には数秒の静寂が落ちた。
やがて、最年長の監査官がゆっくりと息を吐く。
「……生きた心地がしなかった」
その言葉に、若い書記官が今度こそ吹き出した。
ルネはまだ額を押さえている。
「私もです」
キャルは板の上の石を見下ろしながら、心から思った。
自分もだ、と。
目が合った瞬間、キャル・キュレイションはひとつだけ理解した。
面倒が増えた。
それもかなり、質の悪い面倒だ。
監査室の扉の前に立っていたのは、どう見てもただの官吏ではなかった。服装は控えめでも、立ち方が違う。部屋の空気が、その人間を中心に少しだけ整ってしまうような、そういう種類の人間だった。
しかも顔が良すぎる。
良すぎる顔というのは、それだけで面倒の匂いがする。経験則ではなく、直感の話だが、キャルはその手の直感をあまり軽く見ていない。
だから、石を動かしていた指を止めたまま、ほんの少しだけ眉を寄せた。
監査室の面々の反応が、いつもと違う。
最年長の監査官は慌てて立ち上がり、若い書記官たちは一瞬で背筋を伸ばした。ルネ・ベルティエだけは「やはり来たか」という顔をしている。
つまり、この人は偉い。
かなり偉い。
そこまで分かれば十分だった。
「殿下」
最年長の監査官が、少し遅れて頭を下げる。
やはりそうか、とキャルは思った。
殿下。
王族だ。
しかもこの場所にこのタイミングで顔を出すような王族は、かなり限定される。
王太子シリル。
名前だけは聞いていた。王都随一の美貌だの、人当たりがいいだの、だが内側はなかなか切れるだの、侍女たちの雑談の端に何度か乗っていた。そのどれも、キャルにとっては別に役に立たない情報だったので、適当に聞き流していたのだが、どうやら本人らしい。
そして本人は、キャルを見ていた。
監査室にいる誰よりも、はっきりと。
その視線が少しうるさいな、とキャルは思う。
王太子は軽く室内を見回し、それから自然な顔で言った。
「邪魔をしたかな」
声までよくできている。
柔らかくて、よく通る。だが甘ったるくはない。作っているのか生まれつきなのか知らないが、こういう人間が気軽に部屋へ入ってくると、たいてい周囲が勝手に緊張する。
だから余計に面倒なのだ。
最年長の監査官が答える。
「いえ、ちょうど……確認が終わったところで」
「そう」
シリルはそこで視線をキャルへ戻した。
「君が」
たったそれだけの言葉なのに、監査室の空気がまた少し張る。
面倒だな、とキャルは思う。
「はい」
とりあえず返した。
「キャル・キュレイションです」
シリルは数歩、中へ入ってきた。
近づいてみると、やはり顔が良すぎた。整いすぎていて逆に落ち着かない。侍女たちがきゃあきゃあ言う理由は少し分かるが、だから何だとも思う。
「話は聞いたよ」
シリルは穏やかに言う。
「面白いことをするね」
その言い方に、キャルは少しだけ首を傾げた。
面白い。
その言葉が、あまり好きではない。
面白いと言われる時、人はたいてい、見世物か便利道具のどちらかとして見られている。
「そうでしょうか」
「板に溝を掘って、石を並べる」
シリルは机上の溝板を見た。
「初めて見た」
「私も、ここで初めて作りました」
「即席なのに、ずいぶん役に立ったようだけど」
「それは板の功績です」
キャルがそう返すと、シリルは少しだけ目を細めた。笑っているのか、もっとよく見ようとしているのか、判別しづらい顔だった。
ルネが横から補足する。
「殿下、こちらが差額の原因一覧です」
差し出された紙をシリルは受け取り、数行読む。読んでいる間も、どうにも余裕がある。字面だけ追っているのではなく、書いた人間ごと値踏みしている感じがした。
「綺麗だ」
ぽつりとそう言った。
それは字が、という意味ではないだろう。整理の順番の話だ。
キャルは少しだけ黙った。
分かる人間には分かるらしい。
だが分かるからといって、別に嬉しいとも限らない。
「見やすくしただけです」
「その“だけ”が難しいんだよ」
シリルは紙から目を上げた。
「数字が速い人間はいる。でも、人に見せる順まで整えられる人間はそう多くない」
監査室の何人かが、そこで揃って無言になった。おそらく、その言葉を否定できないのだろう。
キャルは素直に礼を言うより先に、別のことを考えた。
困るな、と。
こういうふうに正面から価値を言語化されると、逃げにくくなる。公爵アルフォンスも筋の通し方が厄介だが、この王太子も別方向で面倒そうだと、もう分かり始めていた。
「そうでしょうか」
だから返事は薄くした。
「ええ」
シリルはあっさり頷く。
「少なくとも、私の周りでは珍しい」
私の周り、という言い方がもう良くない。
王太子の周りがどの程度の人間で構成されているかを考えれば、その言葉には勝手に重みがつく。言った本人がどう思っていようと、受け取る側にとってはそういうものだ。
キャルは板の上に残っていた石を、小皿へ戻しながら言った。
「子爵程度の娘です。あまり気軽にお声がけなさらないほうがよろしいかと」
監査室の空気が、今度は別の意味で止まった。
最年長の監査官が、目に見えて固まっている。若い書記官は息を止めたままだ。ルネだけが、わずかに遠い目をした。
シリル本人は、すぐには返事をしなかった。
少しだけ意外そうな顔をして、それから困ったように笑う。
「そんなに警戒しなくてもいいだろう」
「よくありません」
キャルは即答した。
監査室の何人かが本気でこちらを見た。たぶん、ここまで迷いなく王太子へ言い返す人間は珍しいのだろう。
だがキャルとしては、ここを曖昧にする方が危険だった。
「どうして?」
シリルの口調は柔らかいままだった。
だからこそ余計に危ない。
キャルはまっすぐ相手を見た。
「殿下がどう思うかではありません。周りがどう見るかです」
笑みが少しだけ薄くなる。
けれど彼は黙って聞いていた。
「私は子爵令嬢であって、子爵ですらありません」
キャルは静かに続けた。
「高位の貴族から見れば、子爵令嬢なんて平民と大して変わりません」
監査室の空気がひやりと冷えた気がした。
口に出すべきでない本音だと感じた者もいただろう。けれど、それが本音であり、現実でもある。
「気軽に声をかけられれば、それだけで意味を持ちます」
キャルは言葉を選ばずに言った。
「私は断れませんし、言い訳も通りません」
シリルがほんの少しだけ目を細める。
「私がそう見ていなくても?」
「怖いのは、殿下ではありません」
一拍置く。
「貴族社会の残酷な現実です」
言ってしまってから、監査室が完全に静まり返っていることに気づいた。
ルネまで黙っている。
だがシリルだけは、表情を変えなかった。
変えなかったというより、たぶん変えられなかったのだろう。軽く受け流すには、キャルの言葉が予想より重かったはずだ。
「……なるほど」
ようやく出た言葉が、それだった。
怒りではない。
笑いでもない。
考え込むような声音だった。
キャルはそこで初めて、少しだけ肩の力を抜いた。
分かってもらえたとは思わない。だが少なくとも、適当に流されはしなかった。
シリルはしばらく黙っていたが、やがて少し困ったように口元を緩めた。
「君は、本当に私を歓迎していないんだね」
「はい」
即答だった。
若い書記官が本気でむせた。
キャルはそちらを見もしない。
「仕事が増えるので」
そう付け加えると、今度こそルネが顔を覆った。
たぶん笑いを堪えているのではない。たぶん、色々な意味で胃が痛いのだろう。
シリルは一瞬ぽかんとしたあと、ふっと声を立てずに笑った。
「面白いな」
「そう言われるのがいちばん困るんです」
キャルが言うと、シリルはまた少しだけ目を細めた。
「どうして?」
「便利に使われそうなので」
監査室の空気が、今度は妙な方向へ崩れた。
誰も声を上げて笑うことはできない。できないが、何人かの肩は明らかに震えている。王太子を前にして、便利に使われそうだから困る、はなかなか聞かないだろう。
シリル自身も、さすがに言葉を選び直すように少し間を置いた。
「……便利、か」
「はい」
「君は、私がそういう人間に見える?」
「見えます」
「随分だね」
「だって実際、監査室にまで来ているじゃないですか」
正論だった。
シリルはそこでとうとう笑いを隠さなかった。
監査室に王太子の笑い声が響くなど、たぶん滅多にないのだろう。最年長の監査官でさえ、少しだけどうしていいか分からない顔をしている。
「……なるほど」
シリルはようやくそう言った。
「よく分かった」
「なら助かります」
「いや、やめるつもりはないけれど」
キャルは本気で嫌そうな顔をした。
ルネが横で小さく頭を抱える。
やはりだ。
この人は危ない。
自分でもきちんと理解した上で、なお踏み込む気でいる。
だから嫌なのだ。
「最悪ですね」
思わず本音が漏れる。
シリルは少し楽しそうに首を傾げた。
「光栄だな」
「まったく褒めていません」
その返しに、ついに若い書記官の一人が下を向いたまま肩を震わせた。監査官に肘で小突かれている。
キャルはそれを横目に見ながら、心の中で深くため息をついた。
ただでさえ面倒な王宮監査室に来たというのに、ここへ来て王太子にまで目をつけられるなど、どう考えても良い展開ではない。
しかも相手は、気軽な興味ではなく、かなり本気で面白がっている。
公爵アルフォンスとは違う意味で厄介だ。
公爵は侍女だと知っていて、その枠の中で使う。だがこの王太子は、侍女だと知っていて、その枠ごと飛び越えさせそうな気配がある。
それが怖い。
シリルは最後に机上の溝板を見て、指先で軽く示した。
「それ、私にも見せてくれるかな」
「嫌です」
「即答だ」
「壊れると困るので」
これは半分本音だった。即席の妥協品とはいえ、今のところこれがないと長い計算が面倒すぎる。
シリルは素直に手を引いた。
「ではまた今度」
「今度もありません」
「そうかな」
この人、本当に引かないな、とキャルは思う。
監査室を出て行く後ろ姿まで余裕があるのが、余計に腹立たしい。
扉が閉まったあと、監査室には数秒の静寂が落ちた。
やがて、最年長の監査官がゆっくりと息を吐く。
「……生きた心地がしなかった」
その言葉に、若い書記官が今度こそ吹き出した。
ルネはまだ額を押さえている。
「私もです」
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自分もだ、と。
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(小説家になろう様にも投稿しています)
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