公爵家の侍女見習い、王宮の帳簿を黙らせます―

鍛高譚

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17話 何者だ、あの娘は

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17話 何者だ、あの娘は

 王太子シリルがその報せを受けたのは、昼を少し回った頃だった。

 午前の執務を終え、次の会談までのわずかな時間に財務関係の摘要へ目を通していた時である。王族がそこまで細かい紙を見る必要はない、と周囲は何度も言う。だがシリルは、そういう“必要はない”と切り捨てられたところに、だいたい面倒ごとの芽が埋まっていることを知っていた。

 だから読む。

 読むからこそ、今こうして指先が止まっている。

「……実質三十分?」

 小さく呟いた声に、控えていた側近が反応する。

「何かございましたか」

「これだ」

 シリルは手元の紙を軽く持ち上げた。

 そこには、王宮財務局監査室からの簡潔な報告が記されている。

 数年分の補修費、納品控え、受領控えの不一致案件について、ヴァレール公爵家からの臨時協力者が整理。即席の補助計算道具を作成し、原因を特定。所要時間およそ一時間。ただし道具作成に三十分を含み、計算自体は実質三十分。

 そして最後に、協力者名。

 キャル・キュレイション。

 子爵令嬢。

 公爵家侍女見習い。

 肩書きの並びがおかしい、とシリルは改めて思う。

 子爵令嬢と侍女見習い。貴族と使用人。公爵家と王宮監査室。そのどれもが微妙に噛み合っていない。噛み合っていないのに、なぜか結果だけは妙に綺麗だ。

「ベルティエは?」

「監査室にまだ詰めているはずです」

「呼べるか」

 側近は一礼して出て行った。

 シリルはその間、もう一度紙へ目を落とす。

 実質三十分。

 その数字だけなら、盛っているようにも見える。だが監査室から上がる紙の癖を知っていれば、むしろ逆だと分かる。あそこは派手な言い方を嫌う。手柄を大きく見せることにも慣れていない。そこから出てくる「実質三十分」は、たぶんかなり本気の数字だ。

 しかも“即席の補助計算道具を作成し”とある。

 そこが気になる。

 王宮財務局の監査官たちが何日も噛み砕けなかった記録を、呼ばれてきた地方公爵家の侍女見習いが、わざわざ道具から作って解いた。

 面白い。

 とても面白い。

 ほどなくしてルネ・ベルティエが通された。

 いつも整っている男だが、今日はさすがに目の下に疲れが見える。だが顔つきそのものは、朝よりむしろはっきりしていた。終わるべき仕事がひとつ終わった人間の顔だ。

「お呼びと伺いました」

「うん」

 シリルは椅子に浅く座ったまま、紙を軽く振った。

「これだよ」

 ルネは一目見るなり、ああ、という顔をした。察しがいいというより、もう今日はその話しかないのだろう。

「監査室の件ですね」

「そう。実質三十分とは、どういう意味だい?」

 ルネは少しだけ間を置いてから答えた。

「そのままの意味です」

「盛っていない?」

「むしろ削っています」

 その返答に、シリルの口元がわずかに動く。

「削っている、か」

「道具を作る時間も含めて一時間でした。ですが計算自体は三十分ほどかと」

「本当にそんなものなのか」

「はい」

 ルネは真面目な顔で続けた。

「監査室の全員が見ていましたので、言い逃れはできません」

 そこまで言われると、かえって笑いそうになる。

 何の言い逃れだ、とシリルは思った。別に責めているわけではない。だがルネはたぶん、あまりに異様な光景だったので、報告の言葉を慎重に選ばないと自分の頭がおかしくなったと思われるとでも感じたのだろう。

「その道具というのは?」

「板です」

「板」

「薄い板に溝を掘り、小石を並べていました」

 シリルは数秒黙った。

 側近も黙っている。

 それからシリルは、確認するように言った。

「小石」

「はい」

「板に溝を」

「はい」

「王宮監査室で?」

「はい」

 ルネの返事は一切揺るがない。

 シリルはとうとう、声を立てずに笑った。

「なるほど」

 面白いを通り越している。

 だが、その光景を想像するとたしかに妙に腑に落ちる気もした。人が慣れたやり方で何日も詰まっていた場所へ、慣れていないやり方を持ち込んであっさり解く。そういう人間は時々いる。非常に少ないが。

 そしてたいてい、周囲から面倒がられる。

「彼女は何と言っていた?」

 シリルが問うと、ルネは一瞬だけ考え、それから答えた。

「……『これは面倒そうだ』と」

「最初に?」

「はい」

「いいね」

 シリルは即座に言った。

 ルネがわずかに目を瞬く。

「いい、ですか」

「うん。監査室でその第一声が出る人間は、信用できる」

 心から嫌そうな顔で仕事に入る実務家ほど、妙な見栄がない。少なくとも「王宮のために頑張ります」と空疎なことを言う人間よりはるかにいい。

「他には」

「板を作ったあと、『まあ……これで妥協するか……』と」

「妥協」

「はい」

 ルネの顔は真面目だった。

「全員、同じ顔をしていました」

「どんな顔?」

「これで妥協、とはどういう意味だ、という顔です」

 今度こそ、シリルは声を立てて笑った。

 側近が小さく咳払いをする。王太子が政務中にそこまで分かりやすく笑うのは珍しいのだろう。

 だが仕方ない。

 面白いではないか。

 何日も解けなかった監査案件を、一時間。しかも実質三十分。しかもその三十分の前に、板に溝を掘って小石を並べて「妥協」と言う。

「何者だ、あの娘は」

 それは、ほとんど独り言だった。

 ルネは答えられず、ただ少しだけ視線を伏せる。

 王宮財務局の中堅官吏としても、そう聞きたくなるのだろう。だからその沈黙は、十分な答えだった。

 シリルはもう一度紙を見た。

 キャル・キュレイション。

 子爵令嬢。

 侍女見習い。

 ヴァレール公爵家に仕える娘。

 地方の徴税不正を暴き、今度は王宮監査室の不一致まで片づけた。

 こういう人間は、紙の上で見るだけではつまらない。

 実物を見ないと意味がない。

「ベルティエ」

「はい」

「彼女は今、どこにいる」

「監査室の隣で、追加の確認を」

「まだ帰していないのか」

「……監査官たちが、念のため他の月も見てほしいと」

 ルネは少しだけ気まずそうだった。

 それを見て、シリルはまた笑いそうになる。

 助かった相手をすぐ手放せなくなるのは、現場の人間の悪い癖だ。そして多分、キャル本人は今ごろ本気で嫌がっている。

「なるほど」

 シリルは立ち上がった。

 側近がすぐに動く。

「どちらへ」

「監査室」

「今からですか」

「今がいい」

 側近はほんの少しだけ呆れた顔をしたが、止めはしなかった。たぶん止めても無駄だと知っているのだろう。

 ルネが一歩だけ前へ出る。

「殿下」

「何だい」

「……驚かれるかもしれません」

 その言い方が妙に真面目で、シリルは少しだけ目を細めた。

「私が?」

「はい」

「それは楽しみだな」

 そう答えると、ルネは本気で少しだけ困った顔をした。

 監査室へ向かう廊下を歩きながら、シリルはふと思った。

 自分は、こういう時に“面白い”という感情を隠すのがあまり上手くない。珍しい人材を見つけるとすぐ顔に出るし、欲しくなるとさらに出る。だから周囲からは時々、悪趣味だの執着質だの言われる。

 否定はしない。

 だが今回ばかりは仕方ない。

 公爵家の侍女見習い。

 板に溝を掘り、小石を並べて、王宮の実務官たちを帰宅寸前まで救った娘。

 そんなもの、興味を持たない方がおかしい。

 監査室の前まで来ると、扉の向こうから人の話し声が聞こえた。今朝の死んだような静けさとは違う。少なくとも、絶望だけに沈んだ声ではない。

 ルネが扉を開ける。

 その瞬間、シリルの目はまっすぐ一人の少女に向いた。

 地味な侍女見習いの装い。飾りの少ない髪。派手さのない顔立ち。だが机に向かう姿勢だけが妙にぶれない。板の上に並べた石を指で動かし、周囲のざわめきなどほとんど気にしていない様子で紙を見ている。

 ああ、とシリルは思った。

 紙の上の印象と、あまり違わない。

 余計なことを言わず、やるべきことだけ見ている顔だ。

 そしてその時、キャルがふいに顔を上げた。

 目が合う。

 ほんの一瞬だった。

 だがその一瞬で、シリルははっきり分かった。

 この娘は、自分が誰かを知らないか、知っていても大して興味がない。

 それが面白かった。

 とても。
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