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16話 実質三十分
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16話 実質三十分
監査室にいた誰もが、その時点ではまだ半信半疑だった。
変な娘が、変な板に溝を掘り、変な小石を並べている。
やっていることだけ見れば、冷静に考えなくても意味不明である。王宮財務局の監査室でなければ、追い出されても文句は言えない。
けれど、ここは王宮財務局の監査室で、しかも何日も帰れず同じ帳簿に殴られ続けていた人間ばかりが揃っていた。
だからこそ、誰も止めなかった。
止める元気も、たぶんなかった。
キャル・キュレイションは、即席の溝板を机の手前へ寄せ、右手で石を動かし、左手で帳簿をめくっていた。
補修費の月次推移。
納品控え。
受領控え。
別紙の覚え書き。
月ごとに見れば合っているようで、年をまたぐと急にずれる数字。
まったく人間は、どうしてこうも中途半端に帳尻を合わせるのが好きなのだろう。
途中までは誤魔化せる。途中までは。だから余計に面倒なのだ。最初から全部間違っていれば、むしろ楽だった。
「……ここだな」
小さく呟くと、若い書記官がびくりと肩を揺らした。
キャルは気にせず、もう一冊別の帳簿へ手を伸ばす。受領控えの書き手が変わるタイミングと、補修費の跳ねる月がずれている。けれど、そのずれ方が一定ではない。つまり書き手の変更そのものが原因ではない。
なら、何かが途中で混ざっている。
石を右へ二つ。左へ一つ。繰り上げて戻し、別の列へ。
頭の中で追うだけなら、ここで一度ほどける。だが今は違う。目の前に数が残っている。だから、ほどける前に次へ進める。
「納品時期が二つありますね」
ぽつりと言うと、最年長の監査官が身を乗り出した。
「二つ?」
「はい。帳簿上では同じ月の補修費として処理されていますけど、実際には前月納品分と当月納品分が混ざっています」
「それだけで?」
「それだけではありません」
キャルはすぐに否定する。
「でも入口です。入口がずれていると、後ろも全部ずれます」
若い監査官が食いつくように訊いた。
「どこだ」
「ここ」
キャルは補修費帳の端を指した。
「この月だけ、納品控えは二回に分かれているのに、受領控えでは一度にまとめて処理されています」
監査官が慌てて帳簿を引き寄せる。ページをめくり、もう一冊と照らし合わせる。
「……本当だ」
「そのせいで、前月分の受領が次月へずれ込んでいます。だからこの月は余計に膨らんで見える」
「では不明金ではなく」
「一部は見かけ上のずれです」
キャルは石をさらに二つ動かす。
「でも全部ではありません」
その一言で、また空気が張った。
そうだろうな、とルネ・ベルティエは思った。
今の段階で「すべて記録のずれでした」で終わる顔ではない。キャルは、そういう時はもっとあっさりした顔をする。今はむしろ、嫌なものを見つけた時の顔だ。
彼はいつの間にか、自分がその表情の違いを見分け始めていることに気づき、少しだけ変な気分になった。
「全部ではない、とは?」
ルネが問うと、キャルは石から目を離さず答えた。
「納品時期のずれを除いても、まだ合わない月があります」
「原因は」
「今見ています」
短い返答だった。
監査室の面々はもはや気を悪くする元気もないらしく、誰もそこへ噛みつかなかった。
キャルは次の帳簿を開く。
今度は納品控えの品目一覧。補修布、釘、金具、樹脂、磨き粉。補修費と言っても、単純な布代だけではない。部屋ごとの補修名目で細かく割られている。その中に、一つだけ妙に目立たない項目が混ざっていた。
運搬補助手数料。
また便利な言葉だな、とキャルは思う。
中身の見えない名目は、大抵ろくでもない。
「……これか」
「何だ」
最年長の監査官が、椅子から半分立ち上がる。
キャルは指先で紙を叩いた。
「この“運搬補助手数料”、途中から増えています」
「補助手数料が?」
「はい。前は補修費に含めていたのを、途中から別項目に出しています」
「だから何だ」
「別に出すのは構いません」
キャルは淡々と続ける。
「でも、補修費本体からきちんと抜けていません」
監査官たちが止まる。
ルネも思わず身を乗り出した。
「二重計上か」
「一部は」
キャルは頷いた。
「前月までは補修費に込み。次月からは別項目。そこまではいいんですけど、切り替えの三ヶ月だけ両方に残っています」
最年長の監査官が紙を奪うように見た。
ページを繰る音が荒い。別の監査官が控えを広げ、若い書記官が数字を口に出して追い始める。
「……あ」
「本当だ」
「ここだけ、残っている」
小さなざわめきが起きた。
それは、疲れきっていた人間たちの中に初めて生まれた種類のざわめきだった。苛立ちではない。絶望でもない。
出口が見えかけた時のざわめきだ。
キャルはその音を背に、さらに板の上の石を動かした。
まだ終わらない。二重計上だけで差額は全部埋まらない。けれど、大きな塊が一つ外れた。残りはもっと細かいはずだ。
細かいということは、面倒だ。
だが面倒なものほど、分ければ済む。
キャルはひとつ息をつき、次の列へ石を移した。
どのくらい時間が経ったのか、自分でも曖昧だった。
最初の三十分は板を作るのに使った。そこから先、計算自体にどれほどかかったのか、いちいち数えていない。だが窓の外の光は、さっきより少しだけ傾いている。
少なくとも、何日も机に縛りつけられている人間たちの感覚からすれば、一瞬に近いのだろう。
キャルはふいに手を止めた。
「終わりました」
その一言が落ちた瞬間、監査室にいた全員が本当に止まった。
誰もすぐには反応できない。
若い書記官が、まばたきだけを二度した。
「……は?」
最初に声を出したのは、最年長の監査官だった。
「終わった?」
「はい」
キャルは平然と答えた。
「今見えている範囲では、差額の主な原因は三つです」
板の横へ整理した紙を置き、一つずつ指で示す。
「ひとつ目。前月納品分と当月納品分の受領処理の混在。見かけ上のずれです」
次の紙へ。
「ふたつ目。運搬補助手数料の切り替え時の二重計上。ここでかなり膨らんでいます」
さらに次。
「三つ目。受領控えの書き手が変わった月に、補修用金具の単位処理が一部ずれています。箱単位と本数単位が混ざっている」
監査官たちの顔が、順番に変わっていく。
怪訝。
理解。
驚愕。
ルネは思わず、ぽつりと漏らした。
「……本当に終わったのか」
キャルは少しだけ首を傾げる。
「確認すれば分かりますよ」
それはそうだ。
だが、あまりに早すぎた。
最年長の監査官が最初に動いた。補修費帳、納品控え、受領控えを引き寄せ、キャルの示した箇所を追う。若い書記官も慌てて別紙を出し、数字を照らし合わせる。
数分後。
「……合っている」
呟きのような声だった。
別の監査官も追いかけるように言う。
「本当に合っているぞ」
さらに別の者が、まるで信じられないものを見るように紙と板を見比べた。
「やっと……」
その声に、誰かが我に返ったように椅子から立ち上がる。
「やっと帰れる!」
監査室の空気が一気に弾けた。
「終わった!」 「終わったぞ!」 「本当に!?」 「この月も合う!」 「こっちもだ!」 「何日も……何日も詰まってたのに!」
疲れきっていた役人たちが、本気で喜んでいた。
大の大人が、王宮財務局の監査室で、「帰れる」と叫んでいる。少し情けない光景かもしれないが、キャルにはその気持ちが少し分かった。終わらない数字ほど人を削るものはない。
ルネだけは騒がずにいたが、その代わり長く息を吐いていた。
「……助かりました」
それはたぶん、かなり本音だった。
キャルは板の上の小石を見下ろしながら答える。
「一時間くらいでしたし」
すると最年長の監査官が、半ば呆然とした声で言った。
「一時間……」
「はい」
キャルは少し考えてから訂正した。
「いえ、違いますね」
全員の視線がまた集まる。
「道具を作るのに三十分かかりました」
一拍置く。
「計算そのものは、三十分くらいです」
今度こそ、監査室は完全に黙った。
若い書記官が口を開き、閉じ、また開く。
「……三十分?」
「はい」
「この量を?」
「だから板を作ったんです」
キャルは即席の溝板を指で軽く叩いた。
「これがないと、もっと遅いので」
最年長の監査官は、しばらく何も言えなかったらしい。
やがて額を押さえて、低く呻くように言った。
「何日も……何日も、我々は何を……」
「頑張っておられたんだと思います」
キャルは本気でそう思って言った。
「この記録、かなり読みにくいので」
その慰めになっているのか、なっていないのかは分からなかった。
若い監査官が、おそるおそる板を見た。
「それは……何なんだ」
「計算道具のつもりです」
「つもり?」
「即席なので」
キャルは少しだけ眉を寄せた。
「溝が浅いですし、石の大きさも揃っていません。あまり良くありません」
その言葉に、監査室の面々はまた変な顔をした。
今この場にいる誰にとっても、それは十分どころか異様な道具なのだろう。けれどキャルにとっては、まだ全然足りない。頭の中の動きに、指の方が追いついていない。もう少し形になれば、もっと早く、もっと崩れずに済むのにと、さっきからそればかり思っている。
「……何者なんだ、お前は」
最年長の監査官の問いは、心底からのものだった。
キャルは少しだけ考え、それからいつもの答えを返した。
「公爵家の侍女見習いですが」
「侍女見習いがこんなことをするか!」
「私もそう思います」
それには、さすがに何人かが吹き出した。
張りつめきっていた空気がようやくほどけたのだろう。疲れと安堵と笑いが、変な形で一緒に噴き出したようだった。
ルネが横で、少し困ったような、少し感心したような顔をしている。
「……これを、王宮に持ち帰れたらいいんですが」
ぼそりとそう漏らしたのが聞こえて、キャルは思わずそちらを見た。
「嫌です」
即答だった。
ルネが目を瞬く。
「まだ何も」
「考えている顔をしています」
「……そんなに分かりやすいですか」
「かなり」
ルネは少し黙って、それからごく小さく笑った。
疲れていたせいか、その笑みは昨日までよりずっと人間らしく見えた。
監査室では、まだ何人かが本気で「帰れる」と繰り返していた。
その声を聞きながら、キャルは板の上の石を回収し、小刀を机の端へ寄せた。
板に掘った溝を指でなぞる。
浅い。不揃い。即席。妥協だらけ。
でも、確かに役に立った。
「……次は、もう少しましにしたいな」
小さく漏れた呟きに、隣にいたルネが反応する。
「次?」
「こういうの、またあるんでしょう」
キャルが言うと、ルネは返事に困った顔をした。
その顔だけで、答えは十分だった。
キャルは心の中でだけ、深く、長くため息をついた。
監査室にいた誰もが、その時点ではまだ半信半疑だった。
変な娘が、変な板に溝を掘り、変な小石を並べている。
やっていることだけ見れば、冷静に考えなくても意味不明である。王宮財務局の監査室でなければ、追い出されても文句は言えない。
けれど、ここは王宮財務局の監査室で、しかも何日も帰れず同じ帳簿に殴られ続けていた人間ばかりが揃っていた。
だからこそ、誰も止めなかった。
止める元気も、たぶんなかった。
キャル・キュレイションは、即席の溝板を机の手前へ寄せ、右手で石を動かし、左手で帳簿をめくっていた。
補修費の月次推移。
納品控え。
受領控え。
別紙の覚え書き。
月ごとに見れば合っているようで、年をまたぐと急にずれる数字。
まったく人間は、どうしてこうも中途半端に帳尻を合わせるのが好きなのだろう。
途中までは誤魔化せる。途中までは。だから余計に面倒なのだ。最初から全部間違っていれば、むしろ楽だった。
「……ここだな」
小さく呟くと、若い書記官がびくりと肩を揺らした。
キャルは気にせず、もう一冊別の帳簿へ手を伸ばす。受領控えの書き手が変わるタイミングと、補修費の跳ねる月がずれている。けれど、そのずれ方が一定ではない。つまり書き手の変更そのものが原因ではない。
なら、何かが途中で混ざっている。
石を右へ二つ。左へ一つ。繰り上げて戻し、別の列へ。
頭の中で追うだけなら、ここで一度ほどける。だが今は違う。目の前に数が残っている。だから、ほどける前に次へ進める。
「納品時期が二つありますね」
ぽつりと言うと、最年長の監査官が身を乗り出した。
「二つ?」
「はい。帳簿上では同じ月の補修費として処理されていますけど、実際には前月納品分と当月納品分が混ざっています」
「それだけで?」
「それだけではありません」
キャルはすぐに否定する。
「でも入口です。入口がずれていると、後ろも全部ずれます」
若い監査官が食いつくように訊いた。
「どこだ」
「ここ」
キャルは補修費帳の端を指した。
「この月だけ、納品控えは二回に分かれているのに、受領控えでは一度にまとめて処理されています」
監査官が慌てて帳簿を引き寄せる。ページをめくり、もう一冊と照らし合わせる。
「……本当だ」
「そのせいで、前月分の受領が次月へずれ込んでいます。だからこの月は余計に膨らんで見える」
「では不明金ではなく」
「一部は見かけ上のずれです」
キャルは石をさらに二つ動かす。
「でも全部ではありません」
その一言で、また空気が張った。
そうだろうな、とルネ・ベルティエは思った。
今の段階で「すべて記録のずれでした」で終わる顔ではない。キャルは、そういう時はもっとあっさりした顔をする。今はむしろ、嫌なものを見つけた時の顔だ。
彼はいつの間にか、自分がその表情の違いを見分け始めていることに気づき、少しだけ変な気分になった。
「全部ではない、とは?」
ルネが問うと、キャルは石から目を離さず答えた。
「納品時期のずれを除いても、まだ合わない月があります」
「原因は」
「今見ています」
短い返答だった。
監査室の面々はもはや気を悪くする元気もないらしく、誰もそこへ噛みつかなかった。
キャルは次の帳簿を開く。
今度は納品控えの品目一覧。補修布、釘、金具、樹脂、磨き粉。補修費と言っても、単純な布代だけではない。部屋ごとの補修名目で細かく割られている。その中に、一つだけ妙に目立たない項目が混ざっていた。
運搬補助手数料。
また便利な言葉だな、とキャルは思う。
中身の見えない名目は、大抵ろくでもない。
「……これか」
「何だ」
最年長の監査官が、椅子から半分立ち上がる。
キャルは指先で紙を叩いた。
「この“運搬補助手数料”、途中から増えています」
「補助手数料が?」
「はい。前は補修費に含めていたのを、途中から別項目に出しています」
「だから何だ」
「別に出すのは構いません」
キャルは淡々と続ける。
「でも、補修費本体からきちんと抜けていません」
監査官たちが止まる。
ルネも思わず身を乗り出した。
「二重計上か」
「一部は」
キャルは頷いた。
「前月までは補修費に込み。次月からは別項目。そこまではいいんですけど、切り替えの三ヶ月だけ両方に残っています」
最年長の監査官が紙を奪うように見た。
ページを繰る音が荒い。別の監査官が控えを広げ、若い書記官が数字を口に出して追い始める。
「……あ」
「本当だ」
「ここだけ、残っている」
小さなざわめきが起きた。
それは、疲れきっていた人間たちの中に初めて生まれた種類のざわめきだった。苛立ちではない。絶望でもない。
出口が見えかけた時のざわめきだ。
キャルはその音を背に、さらに板の上の石を動かした。
まだ終わらない。二重計上だけで差額は全部埋まらない。けれど、大きな塊が一つ外れた。残りはもっと細かいはずだ。
細かいということは、面倒だ。
だが面倒なものほど、分ければ済む。
キャルはひとつ息をつき、次の列へ石を移した。
どのくらい時間が経ったのか、自分でも曖昧だった。
最初の三十分は板を作るのに使った。そこから先、計算自体にどれほどかかったのか、いちいち数えていない。だが窓の外の光は、さっきより少しだけ傾いている。
少なくとも、何日も机に縛りつけられている人間たちの感覚からすれば、一瞬に近いのだろう。
キャルはふいに手を止めた。
「終わりました」
その一言が落ちた瞬間、監査室にいた全員が本当に止まった。
誰もすぐには反応できない。
若い書記官が、まばたきだけを二度した。
「……は?」
最初に声を出したのは、最年長の監査官だった。
「終わった?」
「はい」
キャルは平然と答えた。
「今見えている範囲では、差額の主な原因は三つです」
板の横へ整理した紙を置き、一つずつ指で示す。
「ひとつ目。前月納品分と当月納品分の受領処理の混在。見かけ上のずれです」
次の紙へ。
「ふたつ目。運搬補助手数料の切り替え時の二重計上。ここでかなり膨らんでいます」
さらに次。
「三つ目。受領控えの書き手が変わった月に、補修用金具の単位処理が一部ずれています。箱単位と本数単位が混ざっている」
監査官たちの顔が、順番に変わっていく。
怪訝。
理解。
驚愕。
ルネは思わず、ぽつりと漏らした。
「……本当に終わったのか」
キャルは少しだけ首を傾げる。
「確認すれば分かりますよ」
それはそうだ。
だが、あまりに早すぎた。
最年長の監査官が最初に動いた。補修費帳、納品控え、受領控えを引き寄せ、キャルの示した箇所を追う。若い書記官も慌てて別紙を出し、数字を照らし合わせる。
数分後。
「……合っている」
呟きのような声だった。
別の監査官も追いかけるように言う。
「本当に合っているぞ」
さらに別の者が、まるで信じられないものを見るように紙と板を見比べた。
「やっと……」
その声に、誰かが我に返ったように椅子から立ち上がる。
「やっと帰れる!」
監査室の空気が一気に弾けた。
「終わった!」 「終わったぞ!」 「本当に!?」 「この月も合う!」 「こっちもだ!」 「何日も……何日も詰まってたのに!」
疲れきっていた役人たちが、本気で喜んでいた。
大の大人が、王宮財務局の監査室で、「帰れる」と叫んでいる。少し情けない光景かもしれないが、キャルにはその気持ちが少し分かった。終わらない数字ほど人を削るものはない。
ルネだけは騒がずにいたが、その代わり長く息を吐いていた。
「……助かりました」
それはたぶん、かなり本音だった。
キャルは板の上の小石を見下ろしながら答える。
「一時間くらいでしたし」
すると最年長の監査官が、半ば呆然とした声で言った。
「一時間……」
「はい」
キャルは少し考えてから訂正した。
「いえ、違いますね」
全員の視線がまた集まる。
「道具を作るのに三十分かかりました」
一拍置く。
「計算そのものは、三十分くらいです」
今度こそ、監査室は完全に黙った。
若い書記官が口を開き、閉じ、また開く。
「……三十分?」
「はい」
「この量を?」
「だから板を作ったんです」
キャルは即席の溝板を指で軽く叩いた。
「これがないと、もっと遅いので」
最年長の監査官は、しばらく何も言えなかったらしい。
やがて額を押さえて、低く呻くように言った。
「何日も……何日も、我々は何を……」
「頑張っておられたんだと思います」
キャルは本気でそう思って言った。
「この記録、かなり読みにくいので」
その慰めになっているのか、なっていないのかは分からなかった。
若い監査官が、おそるおそる板を見た。
「それは……何なんだ」
「計算道具のつもりです」
「つもり?」
「即席なので」
キャルは少しだけ眉を寄せた。
「溝が浅いですし、石の大きさも揃っていません。あまり良くありません」
その言葉に、監査室の面々はまた変な顔をした。
今この場にいる誰にとっても、それは十分どころか異様な道具なのだろう。けれどキャルにとっては、まだ全然足りない。頭の中の動きに、指の方が追いついていない。もう少し形になれば、もっと早く、もっと崩れずに済むのにと、さっきからそればかり思っている。
「……何者なんだ、お前は」
最年長の監査官の問いは、心底からのものだった。
キャルは少しだけ考え、それからいつもの答えを返した。
「公爵家の侍女見習いですが」
「侍女見習いがこんなことをするか!」
「私もそう思います」
それには、さすがに何人かが吹き出した。
張りつめきっていた空気がようやくほどけたのだろう。疲れと安堵と笑いが、変な形で一緒に噴き出したようだった。
ルネが横で、少し困ったような、少し感心したような顔をしている。
「……これを、王宮に持ち帰れたらいいんですが」
ぼそりとそう漏らしたのが聞こえて、キャルは思わずそちらを見た。
「嫌です」
即答だった。
ルネが目を瞬く。
「まだ何も」
「考えている顔をしています」
「……そんなに分かりやすいですか」
「かなり」
ルネは少し黙って、それからごく小さく笑った。
疲れていたせいか、その笑みは昨日までよりずっと人間らしく見えた。
監査室では、まだ何人かが本気で「帰れる」と繰り返していた。
その声を聞きながら、キャルは板の上の石を回収し、小刀を机の端へ寄せた。
板に掘った溝を指でなぞる。
浅い。不揃い。即席。妥協だらけ。
でも、確かに役に立った。
「……次は、もう少しましにしたいな」
小さく漏れた呟きに、隣にいたルネが反応する。
「次?」
「こういうの、またあるんでしょう」
キャルが言うと、ルネは返事に困った顔をした。
その顔だけで、答えは十分だった。
キャルは心の中でだけ、深く、長くため息をついた。
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