公爵家の侍女見習い、王宮の帳簿を黙らせます―

鍛高譚

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15話 板切れが一枚ありませんか?

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15話 板切れが一枚ありませんか?

 監査室の空気は、きれいに止まっていた。

 紙をめくる音も、椅子のきしみも、さっきまでかすかに聞こえていた溜め息さえ消えている。

 王宮財務局の監査室に集まっていた役人たちは、揃ってキャル・キュレイションを見ていた。

 その視線の意味はだいたい分かる。

 何を言い出したんだこの娘は、である。

「……板切れ?」

 最年長の監査官が、ようやくそう繰り返した。

「はい」

 キャルはまっすぐ頷いた。

「なるべく平たくて、薄いものがいいです。あと、小刀か、彫るものがあれば」

 沈黙が続く。

 ルネ・ベルティエが控えめに口を開いた。

「理由を聞いても?」

「計算します」

 キャルは簡潔に答えた。

「さすがに、これだけ長いと暗算だけでは面倒ですので」

「板で?」

「はい」

 そこまで言ってから、キャルは少し考えた。

 たぶん、言葉だけでは通じない。そもそもこの世界では、珠算のようなものは一般的ではないのだ。石を使って数を置くという発想はあっても、計算道具として意識されていない。

 だから、説明するより見せた方が早い。

「小石もあれば助かります」

「……小石」

 監査官の一人が、疲れた顔のまま額を押さえた。

 その様子を見て、キャルは少しだけ付け加える。

「なければ豆でも何でも構いませんが、小さくて転がりすぎないものが良いです」

「転がりすぎない」

「はい」

「……」

 また止まる。

 だが、ここで止まっていても何も進まないのは、監査室の面々も分かっているのだろう。最終的に、最年長の監査官が深く息を吐いた。

「誰か、持ってこい」

 若い書記官の一人が、半ば夢遊病者のような足取りで出ていく。

「本当にやるんですか」

 別の監査官が呟く。

「解けるなら何でもいいだろう」

 最年長の監査官は吐き捨てるように言った。

 それは、諦めに近い言葉だった。

 何日も同じ数字を追いかけて、まだ出口が見えていない人間の声だ。変な娘が変な道具を欲しがっても、もう笑う元気もないのだろう。

 キャルはその気配を感じ取りながら、机の上に広げられた帳簿をもう一度見た。

 三年分の補修費。

 納品控え。

 受領控え。

 しかも途中で書き手が変わっている。単位も揃っていない。継ぎ足しの記録も多い。帳簿上で合う月と、合わない月が混ざっているのが余計に悪い。

 こういうものは、人間の頭の中だけで追い続けると、途中でほどける。

 短い計算なら暗算で片づく。二桁三桁、足して引いて、掛けて割るくらいなら問題ない。けれど、長い記録の照合は別だ。必要なのは計算速度だけではなく、数を途中で逃がさないことだ。

 だから、本当は最初から欲しかった。

 数を置いておける場所が。

 ほどなくして、書記官が戻ってきた。手には古い薄板と、小刀と、小皿に入った小石がいくつか。

 監査室の全員が、また妙なものでも見るような目でそれを見ている。

 キャルは小さく頷いた。

「ありがとうございます」

「それで、何をするつもりだ」

 最年長の監査官の問いに、キャルは板を受け取りながら答えた。

「計算道具の改良です」

「改良?」

「石のままだと逃げるので」

「……逃げる」

 この辺りから、たぶん半分くらいは何を言われているか理解を諦めている顔だった。

 キャルは気にしなかった。

 気にしても仕方ない。

 板を机の端へ置き、小刀で表面に細い溝を刻み始める。

 一本。

 二本。

 三本。

 四本。

 まっすぐとは言いがたい。深さも少しばらつく。職人仕事とは程遠い。だが今はそんなことを言っていられない。

「……何の真似だ」

 若い監査官が、とうとう訊いた。

 キャルは溝を掘る手を止めずに答える。

「計算です」

「板を削って?」

「複雑な計算は、暗算だけでは少し面倒ですので」

 それは前に一度、誰かにも言った気がする。たぶん家令だったか。あの時も妙な顔をされた。

 だが、妙な顔をされることに慣れているのは悪いことばかりでもない。説明を削れる。

 小刀を置き、溝の深さを指で確かめる。

 浅い。かなり浅い。

 でも、石がその辺に転がるよりはましだ。

 キャルは皿から小石を取り、溝の上にいくつか並べた。右へ、左へ。軽く動かしてみる。まだ少し落ち着きが悪いが、何もないよりはずっといい。

「……まあ」

 キャルは小さく呟いた。

「これで妥協するか……」

 部屋の空気がまた止まった。

 監査官たちの顔に、同じような疑問が浮かんでいるのが分かる。

 これで妥協?

 たぶん、そういう意味だろう。

 キャルとしては本気だった。理想を言えば、もっと滑らかで、もっと数を固定しやすくて、もっと指の動きに素直な形が欲しい。けれど、今あるのは古い薄板と小石だけだ。ならその条件でやるしかない。

 完璧ではない。

 だから妥協だ。

「……始めても?」

 キャルがそう言うと、最年長の監査官がようやく頷いた。

「好きにしろ」

 投げやりに聞こえるが、半分は本心だろう。

 キャルは板を自分の手元へ引き寄せ、帳簿を左に置いた。

 最初は補修費の月次推移。次に納品控え。受領控え。石を一つ右へ。二つ左へ。繰り上がる。戻す。また置く。帳簿をめくる。別の帳簿を見る。数字を拾う。ずれを留める。

 頭の中だけでやっていた時より、ずっと楽だった。

 数が目の前に留まっている。

 逃げない。

 だから、ようやく次へ行ける。

 キャルは小さく口の中で数字をつぶやいた。

「七、四十九……違うな。こっちは春補修分か」

 また石を動かす。

「四十八、繰り上げ。二重。……いや、ここは納品時期がずれてる」

 監査室の面々は、誰も口を挟まなくなっていた。

 最初は怪訝そうに見ていた若い書記官も、今は机の端に手をついたまま、石の動きをじっと見ている。

 ルネだけは、最初から最後までほとんど表情を変えずに見ていた。だがその目だけは、さっきよりずっと真剣になっている。

 キャルは気にせず、帳簿をめくる。

 途中で、一箇所、石の位置を戻した。

「……やっぱりそこか」

 ぽつりと呟く。

 最年長の監査官が耐えかねたように問う。

「何が見えた」

「まだ全部では」

 キャルは短く答える。

「でも、補修費そのものより、納品と受領の間で崩れています」

「間?」

「はい」

 帳簿から目を離さないまま言う。

「補修費が膨らんでいるように見える月がありますが、実際にはその前月に納品済みの分が、受領控えでは次月扱いになっています」

 監査官のひとりが身を乗り出した。

「それだけであの差額になるものか」

「全部ではありません」

 キャルは石を三つ動かす。

「でも入口です。たぶん、そこから別のずれに繋がっています」

 若い書記官が息を呑む音がした。

 キャルはさらに別の帳簿へ手を伸ばす。

 目が疲れる。肩も少し重い。けれど、板に溝があるだけでここまで違うのかと、自分でも少し驚いていた。小石をそのまま並べるだけでは、少し肘が当たったり、紙を動かしたりしただけで数が散る。散るたびに頭の中の列も崩れる。それが嫌で仕方なかった。

 だが今は違う。

 まだ不完全だが、逃げ場が減っている。

 だから続けられる。

「……なるほど」

 今度はルネが、小さく呟いた。

 キャルはようやく一瞬だけ顔を上げる。

「何か」

「いえ」

 ルネは少しだけ目を細めた。

「板が必要だった理由が分かった気がしまして」

「転がると面倒なので」

「はい」

 彼は頷いた。

「それも、今ならよく分かります」

 監査官たちの方は、まだ半分ほどしか分かっていない顔をしていたが、それでももう「何の真似だ」とは言わなかった。

 石を動かしながら、キャルは思う。

 人間は、理解できないものを嫌う。けれど、それで本当に数字が整っていくのを目の前で見せられると、嫌うより先に黙る。

 それは案外、便利なことかもしれない。

 少なくとも今この監査室では、そうだった。

 キャルは板の上の石をさらに一つ動かし、次の帳簿を引き寄せた。

 まだ終わらない。

 でも、さっきまでの「何日かけても出口が見えない」感じは、少しだけ薄れてきている。

 その感覚が、部屋の空気を変えていた。疲れきって死んでいた監査室が、ようやく「もしかしたら今日終わるかもしれない」と思い始めた時の、あの妙に張った静けさだ。

 最年長の監査官が、低く言う。

「……本当に解けるのか」

 キャルは帳簿から目を離さず答えた。

「解けるかどうかは知りません」

「おい」

「でも、少なくとも今までよりはましです」

 その返事に、ルネがごく小さく笑った気配がした。

 キャルは板の上の石を見つめながら、もう一度だけ心の中で呟いた。

 これで妥協するしかない。

 でも、次はもう少しましなものが欲しい。

 その時点で、彼女はまだ知らなかった。

 この即席の溝板が、ただのその場しのぎではなく、彼女自身の仕事の形を変えていく最初の一歩になることを。
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