公爵家の侍女見習い、王宮の帳簿を黙らせます―

鍛高譚

文字の大きさ
23 / 32

23話 王太子の執着

しおりを挟む
23話 王太子の執着

 王宮財務局での仕事が四日目に入った頃には、キャル・キュレイションはひとつの事実を認めざるを得なくなっていた。

 王太子シリルは、本気でこちらを気にしている。

 気にしている、というのは、何となく目をかけているとか、たまに面白がって覗きに来るとか、そういう軽い意味ではない。もっと継続的で、もっと始末が悪い。

 朝に一度、顔を出す。

 昼の前にも、別の用事のついでを装って立ち寄る。

 夕刻、帰る頃合いにも、また現れる。

 しかもそのどれもが、完全に口実だと分かる程度には分かりやすい。

 最悪だった。

「今日も来ましたね」

 控え室代わりの小部屋で紙をめくりながら、キャルは心底うんざりした声で言った。

 扉口には、ちょうど今しがた現れたシリルが立っている。今日も服装は控えめだが、どう控えても顔が目立つ。王太子という肩書きがなくても、こういう人はどうせ目立つのだろうと思うと、少しだけ不公平だ。

「来たね、ではなく?」

 シリルはいつもの調子で言う。

「来ましたね、です」

 キャルは紙から目を離さない。

「しかも、また“通りかかっただけ”と言うつもりでしょう」

「言おうとしていた」

「やめてください」

「どうして?」

「嘘だからです」

 即答すると、シリルは少しだけ笑った。

 この人は本当に、こういうやりとりを楽しんでいる。楽しんでいるのが分かるから余計に困る。

 ルネ・ベルティエが部屋の隅で書類を整理していたが、その手が一瞬だけ止まった。もはやこの会話に慣れてきたのか、止まっても何も言わない。

「今日は何をしているの?」

 シリルが机の上を覗き込む。

「南棟と西棟の補修費の比較です」

「面白そうだ」

「そう思うなら、かなり変わっていますよ」

 キャルは顔を上げずに言った。

「補修費の比較なんて、普通は面白くありません」

「君が見ていると、少し面白く見える」

「褒めても何も出ません」

「じゃあ、何なら出る?」

 その問いに、キャルは一拍だけ考えた。

「静かな時間ですかね」

 ルネが咳払いをした。

 笑いを堪えたのか、気まずくなったのかは分からない。

 シリルはほんの少しだけ目を細める。

「手厳しいな」

「事実です」

「でも、私は邪魔をしているつもりはないよ」

「そこが一番困るんです」

 キャルはそこでようやく顔を上げた。

 シリルの表情は軽いままだが、目だけはこちらをよく見ている。好奇心だけではない。品定めとも違う。何かを確かめるような、やけに真剣な目だ。

 その目が、嫌だった。

 嫌というのは、悪意を感じるからではない。むしろ逆だ。悪意がないから嫌なのだ。善意や興味や、そういうものは立場の弱い人間にとって時々、悪意よりずっと面倒になる。

「困る?」

 シリルが聞き返す。

「はい」

「どうして?」

「またその話をしますか」

「大事な話だろう?」

 それをさらりと言うのが、この人の良くないところだとキャルは思う。大事だからこそ、そんなに軽く口にしないでほしい。

 キャルは手元の紙を閉じた。

 どうせ何も言わなければ、また同じように何度でも来るのだ。なら、少しははっきりさせた方がましかもしれない。

「殿下は」

 キャルは静かに言った。

「気軽に見に来ているつもりかもしれません」

「気軽、というわけでもないけど」

「どちらでも同じです」

 言葉を切る。

「周りにはそうは見えません」

 シリルは一瞬だけ黙った。

 キャルは続ける。

「財務局の中で、殿下が日に何度も顔を出すだけで、もう十分意味があります」

「……」

「それが全部、私に紐づくんです」

 言い切ると、部屋の空気が少しだけ重くなった。

 ルネは何も言わない。助け舟を出さないのは、たぶんその通りだと思っているからだろう。

 シリルは少しだけ視線を落とした。

「そこまで、か」

「そこまでです」

 キャルはきっぱり言った。

「子爵令嬢なんて、高位の貴族から見れば半端者です。侍女見習いならなおさらです」

「私はそんなふうには」

「殿下がどう思うかではありません」

 遮るように言ってしまってから、キャルは小さく息をついた。

 同じことを何度も言わせないでほしい。

「周りがどう見るかです」

 その一言は、前にも言った。

 けれどたぶん、この人には何度でも必要なのだろう。王太子という立場にいると、本人の気持ちと周囲の受け取り方の差が、日常になりすぎて見えなくなるのかもしれない。

 シリルは今度こそ、しばらく沈黙した。

 軽い笑みもない。ただ机の上の紙と、キャルの顔を交互に見ている。

 やがて、小さく言った。

「……君は、本当に一貫しているね」

「そこは褒められているんでしょうか」

「たぶん」

「たぶん、では困ります」

「困らせてばかりだな」

「はい」

 キャルは遠慮なく頷いた。

「主に殿下が」

 それにルネが今度こそ肩を震わせた。

 書類整理の手を止めないままなのが、さすがというべきかもしれない。

 シリルは小さく息を吐き、壁際の椅子へ腰を下ろした。

 帰る気配がない。

 やはり最悪だ。

「まだいらっしゃるんですか」

「いたら駄目かな」

「よくありません」

 キャルは本気で言った。

「さっきの話を聞いていましたか」

「聞いていたよ」

「なら」

「だからといって、すぐやめられるとも限らない」

 その返答に、キャルは少しだけ眉を寄せた。

 やはりこの人は引かない。しかも、自分が引かないことを誤魔化しもしない。

 そこが厄介で、そして少しだけ、公爵アルフォンスに似ているとも思った。似ているが、やはり質が違う。公爵は必要だから使う。王太子は必要に加えて、個人的な興味まで乗せてくる。

 その違いが怖い。

 シリルは机上の紙束に目を向けた。

「でも、君はここで嫌がりながらもちゃんと働いている」

「働かないと終わらないので」

「それだけ?」

「それだけで十分です」

 キャルはそう言って、また紙を開いた。

 補修費一覧の端に、昨日まで気づかなかった書き手の癖が見つかる。三月と六月だけ、“補修済み”の印が少し違う。別人だ。そこから下へ辿れば、担当変更の月が見える。

 石を一つ動かしたい気分だったが、今日はそこまで長い計算ではない。頭の中で足せる程度だ。

 紙を見ている間も、シリルの視線はときどきこちらへ来ているのが分かった。だが前みたいに口を挟まない。何か考えているのだろう。

 その沈黙が、逆に落ち着かない。

 しばらくして、シリルがぽつりと言った。

「公爵は、君をどう扱っている?」

 その問いに、キャルは手を止めた。

「急に何ですか」

「気になった」

「そういうのが良くないんです」

「知ってる」

 知っていて聞くのだから質が悪い。

 だが、答えないと終わらなそうでもある。キャルは少しだけ考えてから、できるだけ短く答えた。

「便利に使っています」

「はっきり言うね」

「事実ですので」

「嫌じゃない?」

「嫌です」

「でも離れない」

「公爵様は、侍女だと知っていて、その範囲で使っておられます」

 キャルは紙の端を揃えながら続けた。

「無茶はしますけど、まだ読めます」

「読める?」

「どこまで踏み込んでくるかが、です」

 シリルはそこで少しだけ表情を変えた。

「私は読めない?」

 キャルは一拍置いた。

 そこはたぶん、濁した方が大人なのだろう。だが今さら濁したところで意味もない。

「読みにくいです」

 正直に言う。

「だろうね」

 シリルは意外にも、すぐに頷いた。

 その素直さに、逆に少しだけ拍子抜けした。

「分かっているなら、なおさら近づかないでほしいんですが」

「難しいな」

「どうして」

「君が面白いから」

 その一言に、キャルは本気で嫌そうな顔をした。

「それです」

「何が?」

「それが一番困るんです」

 シリルは少しだけ目を細める。

「どうして?」

「好奇心で近づかれると、こちらに拒否権がありません」

 キャルは静かに言った。

「命じられれば断れない立場ですので」

 その言葉は、今までより少しだけ重く落ちた。

 ルネの手がまた止まる。

 シリルも、今度は笑わなかった。

 たぶんそれが本音の核だと、さすがに分かったのだろう。

 王太子の興味は、ただの会話では済まない。必要とあれば命令に変わる。だからキャルは、好意や興味の形をしたものほど警戒する。

 それを言葉にされると、軽くは扱えない。

「……なるほど」

 シリルはゆっくりと言った。

「君にとっては、私の好奇心も脅威になるわけだ」

「はい」

 即答だった。

「怖いのは、殿下が悪い方だからではありません」

 キャルは続ける。

「殿下という立場が、周りを動かしてしまうからです」

 その言葉を聞いた時のシリルの顔は、少しだけ珍しかった。

 困っているようで、考えているようで、少しだけ痛いところを突かれた人間の顔でもあった。

 やがて彼は小さく息をついた。

「……私は、そういうつもりじゃなかった」

「でしょうね」

「でも、結果としてそうなっている」

「はい」

 キャルは頷いた。

「だから警戒しています」

 そこまで言うと、部屋の中はしばらく静かだった。

 シリルが何かを考えているのは分かったが、その答えを待つ義理もない。キャルはまた紙へ視線を戻す。

 補修費一覧の不自然なずれは、やはり担当変更の月に集中していた。書き方だけ変わっている。中身はそこまででもない。整理すれば済む類だ。

 紙に短くメモを書きつける。

 すると、シリルがふいに立ち上がった。

「今日は帰るよ」

 キャルは思わず顔を上げた。

「……そうですか」

「意外そうだね」

「少し」

 少しどころではなかったが、そこは控えた。

 シリルは扉のところまで歩き、そこで一度だけ振り返る。

「でも、また来る」

 キャルは本気で頭が痛くなった。

「やっぱり最悪ですね」

「そう言われるのも、そろそろ癖になりそうだ」

「ならなおさら困ります」

 その返しに、シリルはようやく少しだけ笑い、今度こそ出ていった。

 扉が閉まる。

 しばらくしてから、ルネが静かに言った。

「……殿下、今日は少し静かでしたね」

「そのようですね」

 キャルは紙を見たまま答えた。

「少し考えていたんだと思います」

「そうでしょうね」

 ルネはそこで手元の書類を揃えた。

「意外でした」

「何がですか」

「あなたが、あそこまで正面から言うことが」

 キャルは一瞬だけ考えた。

 そうかもしれない。相手は王太子で、自分は子爵令嬢で侍女見習い。普通ならもっと言葉を濁すべきなのだろう。

 だが、濁したところで伝わらないなら意味がない。

「……言わないと、たぶん分からない方だと思ったので」

 そう答えると、ルネは少しだけ笑った。

「それは、たしかに」

 紙の山は相変わらず減らない。

 仕事も、面倒も、視線も増えたままだ。

 けれどその日の午後、キャルは少しだけ変化を感じていた。

 シリルの目が、ただ面白がっているだけのものではなくなっていたこと。

 それが良いことか悪いことかは、まだ分からない。

 分からないが、少なくとも前よりは厄介になった気がして、キャルは静かにため息をついた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

妹の方が好きらしい旦那様の前からは、家出してあげることにしました

睡蓮
恋愛
クレアとの婚約関係を結んでいたリビドー男爵は、あるきっかけからクレアの妹であるレイアの方に気持ちを切り替えてしまう。その過程で、男爵は「クレアがいなくなってくれればいいのに」とつぶやいてしまう。その言葉はクレア本人の耳に入っており、彼女はその言葉のままに家出をしてしまう。これで自分の思い通りになると喜んでいた男爵だったのだが…。

ブスすぎて嫁の貰い手がないから閨勤侍女になれと言われたので縁を切ります、完全に!完全縁切りの先にあったのは孤独ではなくて…

ハートリオ
恋愛
ルフスは結婚が決まった従姉の閨勤侍女になるよう父親に命令されたのをきっかけに父に無視され冷遇されて来た日々を終わらせようとブラコン父と完全に縁を切る決意する。 一方、従姉の結婚相手はアルゲンテウス辺境伯とのことだが、実は手違いがあって辺境伯が結婚したいのはルフス。 そんなこんなの異世界ファンタジーラブです。 読んでいただけると嬉しいです。 2/26 番外編を投稿しました。 読んでいただけると嬉しいです。 思っていたよりずっとたくさん読んでいただいていてとても嬉しいです。 とてもとてもありがとうございます!!   

愛人の生活費も、お願いします 〜ATM様、本日もよろしくてよ〜【完結】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
政略結婚で結ばれた王子ザコットと、氷のように美しい公爵令嬢ビアンカ。だが、ザコットにはすでに愛する男爵令嬢エイミーがいた。 結婚初夜、彼はビアンカに冷酷な宣言を突きつける。 「お前を愛することはない。俺には愛する人がいる。このエイミーだ」 だが、ビアンカは静かに微笑み、こう返す。 「では、私の愛人の生活費も、お願いします」 ──始まったのは、王子と王子妃の熾烈な政略バトル。 愛人を連れて食卓に現れるビアンカ。次々と辞表を出す重臣たち、そしてエイミーの暴走と破滅……。 果たして、王子ザコットの運命やいかに!? 氷の王子妃と炎の愛人が織りなす、痛快逆転宮廷劇! ⚠️ 本作は AI の生成した文章を一部に使っています。 コメディーです。

【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました

いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。 子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。 「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」 冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。 しかし、マリエールには秘密があった。 ――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。 未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。 「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。 物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立! 数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。 さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。 一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて―― 「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」 これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、 ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー! ※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。

【書籍化決定】アシュリーの願いごと

ましろ
恋愛
「まあ、本当に?」 もしかして。そう思うことはありました。 でも、まさか本当だっただなんて。 「…それならもう我慢する必要は無いわね?」 嫁いでから6年。まるで修道女が神に使えるが如くこの家に尽くしてきました。 すべては家の為であり、夫の為であり、義母の為でありました。 愛する息子すら後継者として育てるからと産まれてすぐにとりあげられてしまいました。 「でも、もう変わらなくてはね」 この事を知ったからにはもう何も我慢するつもりはありません。 だって。私には願いがあるのだから。 ✻基本ゆるふわ設定です。 気を付けていますが、誤字脱字などがある為、あとからこっそり修正することがあります。 ✻1/19、タグを2つ追加しました ✻1/27、短編から長編に変更しました ✻2/2、タグを変更しました

婚約者チェンジ? 義理の妹は公爵令嬢の地位もチェンジされました』 ~三日で破談、家ごと褫奪の末路です~

ふわふわ
恋愛
「お姉様の婚約者、私がいただきますわ。だって“公爵令嬢”ですもの」 義理の妹コンキュはそう言って、王太子との婚約を奪いました。 父はそれを容認し、私は静かに受け入れます。 けれど―― 公爵令嬢とは“地位”ではなく、“責任”の継承者。 王宮で礼儀も実務も拒み、「未来の王太子妃」を名乗った義妹は、わずか三日で婚約破棄。 さらに王家への不敬と統治能力の欠如が問題視され、父の監督責任が問われます。 そして下されたのは――家ごとの褫奪。 一方で私は、領地を守り、帳簿を整え、静かに家を支え続ける。 欲しがったのは肩書。 継いだのは責任。 正統は叫びません。 ただ、残るだけ。 これは、婚約を奪われた公爵令嬢が “本当に継がれるべきもの”を証明する物語。

【完結】6人目の娘として生まれました。目立たない伯爵令嬢なのに、なぜかイケメン公爵が離れない

朝日みらい
恋愛
エリーナは、伯爵家の6人目の娘として生まれましたが、幸せではありませんでした。彼女は両親からも兄姉からも無視されていました。それに才能も兄姉と比べると特に特別なところがなかったのです。そんな孤独な彼女の前に現れたのが、公爵家のヴィクトールでした。彼女のそばに支えて励ましてくれるのです。エリーナはヴィクトールに何かとほめられながら、自分の力を信じて幸せをつかむ物語です。

冷遇妃マリアベルの監視報告書

Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。 第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。 そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。 王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。 (小説家になろう様にも投稿しています)

処理中です...