公爵家の侍女見習い、王宮の帳簿を黙らせます―

鍛高譚

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24話 怖いのは、貴族社会の残酷な現実です

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24話 怖いのは、貴族社会の残酷な現実です

 王宮財務局での五日目、キャル・キュレイションは朝から少しだけ空気の違いを感じていた。

 視線は相変わらず多い。紙も減らない。監査室も財務局本体も、役に立つと分かった相手を遠慮なく使う方向へ順調に育っている。

 そこまではいつも通りだ。

 違うのは、王太子シリルが朝いちばんには現れなかったことだった。

「珍しいですね」

 控え室代わりの小部屋で書類を揃えながら、キャルはぼそりと呟いた。

 向かいで書類を整理していたルネ・ベルティエが顔を上げる。

「何がですか」

「いえ」

 キャルは紙を一つの山に揃えた。

「今日は、まだいらしていないなと」

 ルネは少しだけ目を瞬いたあと、わずかに口元を緩めた。

「気にしていたんですか」

「していません」

 即答だった。

「いないならいないで、その方が静かで助かります」

「そうですか」

「そうです」

 自分でも少しだけ言い訳がましい気はしたが、本音でもあった。シリルが来ると、部屋の空気ごと余計な意味を持つ。仕事の紙に集中したい時には、あの人はひどく邪魔だ。

 ただ、その邪魔さにいちいち備えてしまっている自分がいるのも事実で、それはあまり面白くなかった。

 午前のうちは、南棟の雑費一覧と西棟の客間補修費の照合に追われた。どちらも記録の付け方が微妙に悪い。隠す気があるというより、書き手が「後で誰かが分かるだろう」と思っている種類の雑さだ。

 後で分かる誰かの方は、たいてい迷惑である。

「キュレイション嬢」

 呼ばれて顔を上げると、昨日とは別の年配官吏が立っていた。財務局本体の中でも中堅より上の位置にいる人間だと、服の質と周囲の距離感で分かる。

「何でしょう」

「この一覧を」

 差し出されたのは、王宮東棟の消耗備品まとめだった。

「先に見てもらえるか」

 先に。

 その言葉が、もう完全に根づいている。

 こういうのは、彼女を通せ。

 王宮でもそれが回り始めたのだと、キャルはうんざりしながら理解した。

「構いませんが」

「助かる」

 官吏は短くそう言って紙を置き、すぐに去った。

 以前なら「侍女風情が」とでも言いそうな年代の男が、今はごく自然に紙を置いていく。その変化自体は、ある意味では気持ちがいいはずなのだろう。

 だがキャルには、気持ちよさより先に面倒が見えた。

「完全に入口扱いですね」

 ルネが言う。

「嫌ですね」

 キャルは素直に答える。

「でも断っていない」

「断っても減らないので」

 むしろ積まれる。だったら見るしかない。そこが自分の悪いところだと、キャルはかなり本気で思っていた。

 昼を少し回った頃、ルネが別件で呼ばれて部屋を出た。キャルは一人になり、ようやく少しだけ静かになった空気の中で紙を整える。

 項目順。

 月別。

 倉庫別。

 臨時雑費の発生箇所。

 整理していると、外から足音が近づいてきた。

 軽くはない。けれど急いてもいない。止まる位置が迷いなく、この部屋の前だと分かる。

 やはり来たか、とキャルは思った。

「入るよ」

 返事を待たずに扉が開く。

 王太子シリルが立っていた。

 今日はいつもより少しだけ静かな顔をしている。軽い笑みはある。だが前ほど露骨に面白がっている感じは薄い。その代わり、妙に真っ直ぐだ。

 それはそれで嫌な予感しかしない。

「今日は遅かったですね」

 キャルは紙を閉じながら言った。

「待っていた?」

「まさか」

「即答だ」

「当然です」

 シリルは部屋へ入り、机の向かいに立った。

 今日は椅子に座らない。そこが少しだけ違った。

「少し考えていたんだ」

「何をですか」

「君の言葉を」

 その返答に、キャルは一瞬だけ黙った。

 何を考えたのか。どういう結論を出したのか。聞きたくない気持ちと、聞いておかないと余計に面倒になる気持ちが半分ずつあった。

「殿下がどう思うかではありません。周りがどう見るかです、だったかな」

 シリルが静かに言う。

「はい」

「君はずっと、そこを警戒している」

「しています」

「私個人ではなく、私の立場が怖い」

「そうです」

 今日のキャルは、もう濁さなかった。

 ここで曖昧にすると、たぶんまた全部が最初に戻る。だから正面から言うしかない。

「私は子爵令嬢であって、子爵ですらありません」

 キャルは静かに続けた。

「高位の貴族から見れば、子爵令嬢なんて平民と大して変わりません」

 シリルは何も挟まない。

「殿下が少し気にかける。それだけで、周囲は勝手に意味をつけます」

「……」

「持ち上げられるかもしれない。利用されるかもしれない。敵を作るかもしれない」

 言葉にしながら、キャルは自分の声が思ったより静かなことに気づいていた。

 怒っているわけではない。ただ、これが現実だと知っているだけだ。

「私は、そういうのに抗える立場ではありません」

 そこで一度言葉を切る。

 シリルの目がこちらを見ている。いつものように軽くなく、けれど逃げてもいない目だった。

 だからキャルも、最後まで言った。

「怖いのは、貴族社会の残酷な現実です」

 部屋がしんと静まる。

 窓の外の音まで少し遠く聞こえた。

 シリルはすぐには何も言わなかった。たぶん、軽く返せる言葉ではないと分かっているのだろう。

 やがて彼は小さく息を吐いた。

「……君は、自分を低く見積もりすぎている」

 その返答に、キャルは首を振る。

「違います」

「違う?」

「高くも低くも見ていません」

 キャルはきっぱりと言った。

「立場の話をしているだけです」

 一拍置く。

「殿下がどう思うかではありません。周りがどう見るかです」

 同じ言葉を、もう一度。

 今度は前より重く落ちた気がした。

 シリルが目を伏せる。

 それが珍しく見えた。王太子という立場にいる人間が、自分の“どう思うか”を否定されることなど、あまりないのかもしれない。

「私は、君を困らせたいわけじゃない」

 小さくそう言った声には、今までより少しだけ本音が混じっていた。

「でしょうね」

 キャルは即答した。

「だから余計に厄介なんです」

 シリルが顔を上げる。

 キャルは視線をそらさなかった。

「悪意がある方が、まだ分かりやすいです」

「……」

「でも殿下は、たぶん本気で良かれと思っているでしょう」

 そこが一番困るのだ。

 良かれと思って近づき、気にかけ、必要と判断すれば手を伸ばす。そのすべてが、王太子という立場のまま行われる。

 立場の弱い側からすれば、それは善意でも十分に脅威になる。

 シリルはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。

「君は、私が気まぐれで近づいていると思っている?」

 少しだけ問いの色が変わった。

 キャルはそこで初めて、ほんの少しだけ迷った。

 気まぐれか、と言われると、たぶん違う。

 この人は面白がってはいるが、それだけではない。紙の読み方や、数字の拾い方を見ている時の目は、好奇心以上に真剣だ。

 だからこそ余計に厄介なのだが。

「……気まぐれだけではないんでしょうね」

 そう答えると、シリルの目がわずかに動いた。

 少しだけ意外そうだった。

「でも」

 キャルは続ける。

「本気ならなおさら困ります」

「どうして?」

「本気の方が止まりませんから」

 その答えに、シリルはとうとう何も返せなかった。

 図星だったのだろう。

 キャルはそれを見て、少しだけ疲れた気分になった。

 この人はたぶん、止まらない。本気で必要だと思ったら、周囲の都合や立場を見た上で、それでも取りに来る種類の人だ。

 公爵アルフォンスも必要なら遠慮がない。だが公爵は、公爵家の中という枠内で使う。王太子は違う。枠ごと飛び越えさせる。

 そこが怖い。

 そこをずっと説明しているのに、相手が王太子である以上、完全に理解されても状況が楽になるとは限らない。

 それが貴族社会の残酷さでもある。

「……分かった」

 長い沈黙のあと、シリルがそう言った。

 キャルは少しだけ眉を上げた。

「何がですか」

「君が、どうしてそこまで警戒するのか」

「それはよかったです」

「でも」

 やはり続きがある。

「やめるつもりは、まだない」

 キャルは本気で頭が痛くなった。

「最悪ですね」

 今日だけで何度目か分からないその言葉に、シリルは今度は笑わなかった。

 ただ、少しだけ苦い顔をする。

「そうだろうね」

 その返しは、初めて少しだけまともだった。

 初めて、というのもおかしいが、少なくとも今まではもっと余裕があった。今日は余裕ではなく、理解した上で踏み込む顔をしている。

 それはそれで、やはり怖い。

 シリルはやがて扉の方へ向かった。

「今日はもう帰るよ」

「そうしてください」

 即答すると、彼は振り返り、ほんの少しだけ口元を動かした。

「君は本当に容赦がない」

「必要なことしか言っていません」

「それが容赦ないんだ」

 そう言い残して、今度こそ部屋を出ていった。

 扉が閉まる。

 しばらくしてから、キャルは大きく息を吐いた。

 疲れる。

 数字の方がよほど楽だ。

 紙は嘘をついても、少なくともどう嘘をついているかが見える。だが人間はそうではない。特に、地位も権力もある人間ほど、言葉と影響力がずれる。

「……本当に、最悪」

 もう一度だけ呟いた時、ちょうどルネが戻ってきた。

 キャルの顔と、閉まったばかりの扉を見て、だいたい察したらしい。

「いかがでしたか」

「いかがも何も」

 キャルは紙の束へ視線を落とした。

「分かっていただけたようで、分かっていただけないままでした」

 ルネが少しだけ苦笑する。

「それは、何となく想像できます」

「でしょうね」

「ですが、殿下なりに考えてはいると思います」

「考えているでしょうね」

 キャルは頷いた。

「だからこそ怖いんです」

 ルネはそれには反論しなかった。

 反論できないのだろう。

 キャルは机上の紙をもう一度開き、乱れた項目を見た。

 補修費、雑費、備品、手数料。

 この辺りはまだ分かりやすい。見れば整うし、整えれば済む。

 問題はその外側だ。

 身分。

 視線。

 意味。

 王太子の興味。

 そういうものは、整理表を作って済ませるわけにはいかない。

 だから余計に面倒だった。

 それでも目の前の紙は待ってくれない。

 キャルは小さく息をつき、ペンを持ち直した。

 少なくとも数字の方は、自分のやり方で片づけられる。

 今はそれで十分だと思うしかなかった。
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