公爵家の侍女見習い、王宮の帳簿を黙らせます―

鍛高譚

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25話 戦場の数字

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25話 戦場の数字

 王宮財務局に詰めるようになってから十日ほどが過ぎた頃、キャル・キュレイションは、自分の仕事が少しずつ変質しているのを感じていた。

 最初は監査室の未整理案件だった。

 次に財務局本体の読みにくい一覧。

 そのあと、各棟の雑費や補修費の照合。

 そこまでは、まだ「帳簿が読みにくい」「項目が揃っていない」「人が後から困る書き方をしている」という範囲で済んでいた。

 だが最近は違う。

 紙の向こうにいる人数が増えている。

 帳面の数字が、屋敷ひとつや棟ひとつではなく、もっと大きなものを背負い始めている。

 その兆しが、朝いちばんに来た。

「キュレイション嬢」

 呼びに来たのはルネ・ベルティエではなかった。財務局付きの若い補佐官でもない。見覚えのない、軍服姿の男だった。

 肩章の位置と靴の磨き方だけで、現場叩き上げではなく、王宮内で兵站か補給を扱う側だと分かる。

 嫌な予感しかしない。

「はい」

「財務局からお話が」

「その前に、何の話か伺っても?」

 男は一瞬だけ詰まったが、すぐ答えた。

「国境方面の補給計画についてです」

 やはり来たか、とキャルは思った。

 監査室や雑費一覧に飽き足らず、今度は補給である。

 嫌だな、と心の底から思ったが、ここで露骨に顔へ出すのももう面倒だった。

「どなたが?」

「兵站局の補給責任官と、財務局側の連絡役が」

 つまり、もう半分決まっているのだろう。

 キャルは机の上の紙を揃え、インク壺の蓋を閉めた。

「戻ってきたら、これも残っていますかね」

 独り言のつもりだったが、軍服の男が少しだけ困ったように言う。

「たぶん」

「でしょうね」

 部屋を出ると、廊下でルネが待っていた。

 顔を見るなり、少しだけ気まずそうに口を開く。

「すみません」

「またそれですか」

「今回は本当に、少し急で」

「急でなかったことがありました?」

 ルネは黙った。

 ないのだろう。

 この人は真面目だが、真面目であることと、巻き込まないことは別らしい。

「国境で何かありましたか」

「小競り合いです」

 ルネは歩きながら低く言う。

「大きな戦ではありません。ただ、補給計画が後手に回っていて」

「それを財務局が?」

「兵站局だけで回しきれない部分を、こちらが計算面で支える形です」

 支える、という言い方は綺麗だが、要するに兵站局の数字が崩れているのだろう。

 キャルはそれ以上何も言わず、案内された先へ入った。

 部屋の中には三人いた。

 ひとりは軍服姿の中年男。日に焼けた顔に疲労が濃い。ひとりは財務局の中堅官吏。そして、もうひとりは地図の前に立つ若い将校で、こちらを見た瞬間に露骨に眉をひそめた。

 ああ、こういう反応か、とキャルは思う。

 侍女見習いの格好をした娘が、国境補給の部屋へ入ってくるのだから当然ではある。

「こちらが?」

 若い将校が言う。

「はい」

 ルネが答える。

「キャル・キュレイション嬢です」

 軍服の中年男が、椅子から立ち上がることもなくキャルを見た。

「財務局から話は聞いている」

 声は低く、無駄がなかった。

「だが先に言っておく。これは王宮の雑費一覧とは違う」

 牽制だろう。

 たしかにその通りでもある。

 キャルは静かに頷いた。

「分かっています」

「本当に?」

 若い将校が口を挟む。

「兵糧、馬、矢、火薬、補修材、人足。ひとつずれれば死ぬのは帳簿ではなく人間だ」

 その言い方には棘があった。

 見下しというより、警戒だ。

 それならまだましだと、キャルは思う。身分だけで軽く見てくるより、何がかかっているかを知っている人間の方が話は早い。

「そうでしょうね」

 キャルは答えた。

「だから数字を見ます」

 若い将校がむっとした顔をする。

「見れば済む話では」

「見なければ済まない話でしょう」

 少しだけ部屋が静まった。

 ルネが横で、心の中だけでため息をついたような顔をしている。

 中年の責任官はそのやり取りを数秒見ていたが、やがて机上の紙を示した。

「見ろ」

 そう言われたので、キャルは近づいた。

 地図。行軍日程。部隊数。兵糧消費見積もり。馬の飼葉。矢束と補充予定。火薬樽の搬入日。さらに、その横には途中まで書き込まれた簡単な集計表。

 見た瞬間に分かった。

 これはすでに崩れかけている。

 数字の大きさではない。項目の置き方だ。歩兵、騎兵、補助兵、人足が一列に並んでいるのに、消費計算だけは別紙へ飛び、しかも馬の分が途中から一日遅れで加算されている。

「……ひどいですね」

 思わず出た本音に、若い将校が反応した。

「何だと」

「読みにくいです」

 キャルは紙から目を離さずに言った。

「これで途中まで合わせていた方がすごいと思います」

 中年の責任官が低く問う。

「どこが悪い」

「全部、とは言いませんが」

 キャルは指先で紙を追った。

「歩兵と騎兵の消費を分けるのは正しいです。でも馬の飼葉を別紙に飛ばしたせいで、補給日程との照合が途中で崩れています」

「別紙の方が見やすいと思った」

 中年男は不機嫌そうに言う。

「そこだけならそうかもしれません」

 キャルは淡々と答える。

「でも、飼葉は馬だけの問題じゃありません。馬が動けなければ荷も止まります」

 若い将校が何か言い返しかけて、止まった。

 たぶん図星だったのだろう。

 キャルはもう一枚、集計表を引き寄せる。

「あと、この行軍日程」

「何だ」

「補給が少し楽観的です」

 部屋の空気が変わった。

 今のは、さっきまでの「読みにくい」とは重さが違う。

 財務局の中堅官吏が身を乗り出す。

「どの程度だ」

 キャルは紙と地図を見比べた。

 距離そのものは無茶ではない。だが、日ごとの消費見積もりに対して、補給到着の余裕が薄い。しかも途中で“現地調達”という便利な一文が入っている。

 この言葉も嫌いだ。

 中身のない期待ほど数字を崩す。

「計算上、あと三日で尽きます」

 そう言った瞬間、部屋が完全に止まった。

「何?」

 若い将校の声がひっくり返る。

 中年の責任官も、今度は隠さず顔をしかめた。

「どこを見て言っている」

「ここです」

 キャルは紙の列を指した。

「現地調達分を見込みに入れていますけど、そこが全部入らなかった場合、三日で切れます」

「全部入らないなど」

「ありえますよ」

 キャルは即答した。

「国境の小競り合いで、相手が黙って畑を残してくれる保証でも?」

 若い将校が言葉に詰まる。

 中年の責任官が低く問う。

「三日、という根拠は」

「歩兵と騎兵の消費を分けた上で、馬の飼葉を補給列へ戻して、火薬樽の搬送遅れを半日見込み、現地調達を半分で切ると、この辺りです」

 キャルは紙の端に素早く計算を書きつけた。

「人足が予定より減れば、二日半まで縮みます」

 財務局の官吏が青ざめる。

「そこまで危ういのか」

「今の紙だと分かりにくいですけど」

 キャルは本気で言った。

「分け方が悪いので」

 若い将校が顔を強張らせたまま、地図へ向き直った。

「……撤退しろと言うのか」

「私は戦の判断をする立場ではありません」

 キャルはきっぱり言った。

「でも、数字はそう言っています」

 その言葉が落ちると、今度は誰もすぐには口を開かなかった。

 中年の責任官が机へ両手をつき、しばらく紙を見下ろしている。若い将校は地図から目を離さない。ルネは横でじっとキャルの書いた簡易計算を追っていた。

 やがて責任官が顔を上げる。

「もう一度やれ」

 声は低いが、先ほどまでとは少し違っていた。

「歩兵、騎兵、人足、馬、飼葉、火薬、補修材。全部分けてだ」

「今ですか」

「今だ」

 当然、そうなる。

 キャルは心の中で深くため息をついたが、表には出さなかった。

「紙をください」

 差し出された紙へ、今度は最初から項目を揃えて書いていく。歩兵、騎兵、補助兵、人足。馬。飼葉。火薬。補修材。日ごとの消費。到着予定。余裕日数。

 数字を並べ直した瞬間、さっきまで曖昧だった危うさがはっきり顔を出した。

「……やっぱり」

 若い将校が低く言う。

「三日、か」

「今のままなら」

 キャルは答える。

「現地調達が想定通り入らなければ、そうなります」

 責任官が長く息を吐く。

「補給を前倒しするにも、もう間に合わんな」

「なら撤退を進言するしか」

 財務局の官吏が言いかける。

 若い将校が苦い顔で、しかし否定はしなかった。

 それだけでも十分だった。

 数字はもう出ている。

 あとは、誰がその数字をどう使うかの話だ。

 キャルはそこでようやく、少しだけ肩の力を抜いた。

 戦場のことは分からない。

 だが補給が尽きればどうなるかくらいは分かる。

 数字の先にあるのは帳簿ではなく、人間だ。

 その重さだけは、さすがに見誤りたくなかった。

 部屋の空気が、最初とは別物になっていた。

 侍女見習いを見ていた目ではない。

 数字を持ってきた人間を見る目だ。

 それが嬉しいというより、ひどく重かった。
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