公爵家の侍女見習い、王宮の帳簿を黙らせます―

鍛高譚

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27話 通貨の歪み

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27話 通貨の歪み

 兵站の数字が一度通ってしまうと、その余波は予想よりずっと長く残った。

 国境方面で全軍が補給切れになる前に退き、被害を抑えられたという報告が入ったのは三日後だった。王宮の空気は一応落ち着いた。だが落ち着いたのは表向きだけで、財務局の中では逆に、キャル・キュレイションを見る目がまた一段変わった。

 監査室の帳面を解いた娘。

 王宮の雑費の癖を拾う娘。

 そして今度は、兵站の数字で撤退判断の根拠を出した娘。

 そうなれば、もう「地方の侍女見習い」というだけでは済まなくなる。

 済まなくなるからこそ、キャルは朝から本気で嫌だった。

「視線が増えましたね」

 控え室代わりの小部屋で紙を整えながら言うと、ルネ・ベルティエがあまり愉快ではなさそうな顔で頷いた。

「増えました」

「嫌ですね」

「嫌ですね」

 最近このやり取りが多い。

 だが事実なので仕方がない。財務局の廊下を歩くだけで、前より明らかに人が止まる。若い書記官たちは露骨に目を輝かせ、高官たちは前ほど軽く見ない代わりに、別の種類の値踏みをしてくる。

 どちらも面倒だ。

「今日は何ですか」

 キャルが問うと、ルネは手元の紙束を軽く持ち上げた。

「造幣局絡みです」

 その一言で、キャルは少しだけ顔をしかめた。

 造幣局。

 つまり通貨だ。

 兵糧や雑費も面倒だが、通貨の話はもっと面倒である。なぜなら人は、金そのものの話になると、急に顔つきまで変わるからだ。

「嫌な予感しかしません」

「私もです」

「今日はどなたが」

 そう聞いたところで、扉が叩かれた。

 返事をするより先に、少しだけ性急な動きで入ってきたのは、財務局の中堅官吏だった。見覚えはある。造幣局とのやり取りを主に担当している男だ。今日に限って妙に眉間の皺が深い。

「ベルティエ殿、キュレイション嬢。少し」

「造幣局ですか」

 キャルが言うと、官吏は驚いたように瞬きをした。

「……分かるのか」

「顔を見ればだいたいは」

 そしてその“だいたい”が当たっていても、別に嬉しくはない。

 案内されたのは、監査室とも兵站室とも違う、もっと乾いた雰囲気の部屋だった。机の上には通貨見本の小皿、比価一覧、造幣量の記録、市場流通量の報告。壁際には市場価格の推移表まで掛けられている。

 うん、とキャルは心の中で思った。

 これは面倒だ。

 かなり、面倒だ。

 部屋には三人いた。財務局側の高官がひとり、造幣局の職人上がりらしい中年男がひとり、それと帳簿を抱えた若い書記官がひとり。全員が疲れた顔をしている。

「来たか」

 財務局高官が言う。

 以前なら、この一言の中に「侍女風情が」という空気が混じっていたはずだ。今は違う。信用しているわけではないが、とりあえず紙を見せる相手としては認めている顔だ。

 それもそれで、面倒だった。

「何を見れば」

 キャルが訊くと、高官は机の上の紙を指した。

「流通銀貨と銅貨の動きだ」

「はい」

「市中で妙な歪みが出ている」

 造幣局の中年男が不機嫌そうに鼻を鳴らす。

「商人どもが騒いでいるだけだ」

「騒ぐには理由があるでしょう」

 キャルは紙を引き寄せながら言った。

「ないなら放っておけばいいんですし」

 中年男はむっとした顔をしたが、何も言わなかった。

 通貨見本を見る。

 銀貨、半銀貨、銅貨、青銅貨。さらに古い年度の打刻が違う貨も混ざっている。数字を見る前に、見本そのものがすでに面倒だった。

 次に比価一覧。

 銀貨一枚に対し銅貨何枚、といった一覧が年度ごとに微妙に揺れている。さらに市場での交換率が別にあり、そこが帳簿上の標準比価と少しずつずれていた。

「……ああ」

 キャルは思わず小さく声を漏らした。

「何だ」

 高官が問う。

「歪んでいますね」

「だからそう言っている」

「いえ、そういう意味じゃなくて」

 キャルは紙を並べ替えた。

「通貨単位そのものが、人によって頭の中で揃っていません」

 造幣局の男が顔をしかめる。

「何だと」

「銀貨一枚に対して、銅貨をきっちり何枚と見るかが、場によって違っています」

 キャルは市場流通の報告へ指を置いた。

「造幣局はここを基準にしている。でも市場では少し違う。さらに地方では、古い貨の混ざり方でまた変わっている」

「それは当然だろう」

「当然ではあります」

 キャルは頷く。

「でも、当然のまま放っておくと、抜かれます」

 部屋が少し静かになる。

 高官が身を乗り出した。

「抜かれる?」

「はい」

 キャルは整理表の余白に簡単な計算を書き始めた。

「市場で銀貨を銅貨へ換え、別の場所でまた戻す。その時、標準比価と市中比価のずれが一定以上あると、何も作らなくても少しずつ増える」

 若い書記官が息を呑む。

「そんなことが?」

「起きますよ」

 キャルは平然と答えた。

「しかも、きちんと計算できる人ほど起こします」

 高官が紙を引き寄せた。

「つまり」

「比価のずれが儲けになるんです」

 造幣局の男が露骨に眉を寄せる。

「机上の話だ」

「そうですか?」

 キャルは市場価格の推移表を叩いた。

「なら、ここ半年で銀貨の戻りが悪くなっている理由は何です」

 中年男が黙る。

 キャルは続けた。

「銅貨は流れているのに、銀貨だけが寝ています。しかも古い打刻の貨だけ市場に多く残る」

 高官の顔色が少し変わった。

「……本当だ」

「儲かる貨だけ抜かれ、割の悪い貨だけ残っている動き方です」

 ルネが横で、低く言う。

「商人が気づいている」

「気づいているでしょうね」

 キャルは答える。

「気づく人から順に抜いているはずです」

 造幣局の男はまだ納得しきらない顔だったが、その不機嫌さの向きはもうキャルではなく、紙へ向き始めていた。

「だが、比価などそう簡単に動かせるものではない」

「動かさないと、そのうちもっと抜かれます」

 キャルは見本の銀貨へ目を落とした。

「しかも今の数え方、無駄が多いです」

 高官が問う。

「無駄?」

「はい。銀貨、半銀貨、銅貨、青銅貨。市場ごとに頭の中で換算しているでしょう」

 それはこの世界では普通のことだ。普通のことだが、普通であることと効率がいいことは別だ。

「面倒ですし、ずれます」

 キャルははっきり言った。

「十のまとまりに寄せた方が早いです」

 その一言で、今度は部屋が本当に止まった。

 ルネがゆっくりとキャルを見る。

 高官も、造幣局の男も、言っている意味を一瞬では掴めなかった顔をした。

 キャルは自分でも、少しだけ先走ったかと思った。

 だが引っ込めても仕方ない。見えた以上は言うしかない。

「……つまり」

 高官が慎重に言う。

「通貨単位そのものを整理しろと?」

「整理、というより」

 キャルは少し考えた。

「数える側が迷わない形にした方がいいです」

「十で?」

「十が楽です」

 即答だった。

「少なくとも、今の“人によって頭の中の換算が違う”よりは、ずっと」

 造幣局の男が信じられないものを見る顔をした。

「そんなこと、簡単に」

「簡単ではありません」

 キャルはあっさり認めた。

「でも、今のままでも簡単ではないですよね」

 それはたぶん、今日いちばん効いた。

 誰も否定しなかったからだ。

 高官は紙を見下ろし、やがて低く言った。

「……面白い」

 その言葉に、キャルは少しだけ嫌そうな顔をした。

「それ、あまり好きではないです」

「そうか」

「はい。大体そこから仕事が増えるので」

 ルネが横で小さく息を吐いた。

 もう止める気もないらしい。

 高官は紙を数枚まとめて、キャルへ渡した。

「市場流通の報告を、もう一度並べ直せるか」

 来た。

 やはりそうなる。

「できますけど」

「今日中に」

「……頑張ります」

 その返事に、造幣局の男が少しだけ顔をしかめた。

「そんな小娘に」

 だがその言葉には、初日のような見下しの力がもうなかった。むしろ「本当にやるのか」という戸惑いが多い。

 キャルは紙を受け取りながら答える。

「小娘でも差額は出せますので」

 その一言に、高官の口元がわずかに動いた。

 笑ったのだろうか。

 だがすぐに真面目な顔へ戻る。

「ルネ」

「はい」

「キュレイション嬢の整理表を、造幣局側の調整会議にも回せ」

「承知しました」

 調整会議。

 その単語に、キャルは本気で嫌な顔をした。

「また広がるんですか」

「広がるな」

 ルネが疲れたように答える。

「そういう紙です」

 それが良いことか悪いことかは、もう聞かなくても分かった。

 役に立つ紙は広がる。

 広がるから、役に立つ相手も増える。

 つまり仕事が増える。

 最悪である。

 それでも紙を持ったまま部屋を出る頃には、キャルはもう頭の中で項目を並べ始めていた。

 市中比価。

 標準比価。

 銀貨の寝方。

 古い打刻の偏り。

 商人の抜き方。

 全部、数字で見える。

 見えるなら、整理した方が早い。

 その性分が、今日も自分を休ませてくれないのだと、キャルは少しだけ腹立たしく思った。
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