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29話 国家の知性の象徴
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29話 国家の知性の象徴
新しい計算道具を使い始めて三日ほどで、王宮財務局の空気はまた少し変わった。
正確には、変わってしまった。
これまでキャル・キュレイションが見ていたのは、「読みにくい書類を整理する」「ずれた数字を拾う」「誰かが後で困る帳簿を人が読める形に直す」という仕事だった。そこに新しい道具が入ったことで、長く複雑な計算の速度が一気に上がった。
その結果どうなったか。
紙が、さらに集まるようになった。
最悪である。
「増えましたね」
控え室代わりの小部屋で、キャルは机の上の紙束を見ながら本気でうんざりした声を出した。
通貨比価の整理表。
造幣局の鋳造量一覧。
市場流通の報告。
さらに、財務局本体から回された別件の雑費一覧まで混ざっている。
昨日までなら後回しだったはずの紙が、「ついでにこちらも」という顔で当然のように机に積まれているのだ。
向かいで書類を整理していたルネ・ベルティエが、少しだけ気の毒そうな顔をした。
「造幣局の方で、かなり話題になってしまったようで」
「でしょうね」
キャルは新しい道具の珠を指で軽く弾いた。
乾いた小さな音が鳴る。
「見れば分かるくらいには、前より早いですし」
「ええ」
「だから余計に最悪なんです」
ルネはそれには反論しなかった。
しないということは、たぶん本気でその通りなのだろう。
新しい道具――木の枠と軸を持つ、珠を通した完成形の算具――は、今やキャルの机の上の主役だった。即席の溝板と小石に比べて、指の動きに対する返りが圧倒的に良い。数が崩れない。途中で散らない。だから長い換算が頭の中から逃げない。
その結果、通貨の歪みは以前よりずっとはっきり見えるようになった。
市場ごとのずれ。
銀貨の寝方。
古い貨の偏り。
比価の差を抜いている動き。
そして、それを放置するとどれだけ王都の流通が歪んでいくか。
数字にすると、いやなほど分かる。
だからこそ、造幣局も財務局も放っておけなくなったのだろう。
「キュレイション嬢」
扉の向こうから声がした。
もう最近は、いちいち誰かを推測するのも面倒になってきている。高官か、中堅官吏か、造幣局の誰かか、あるいはまた王太子か。
「どうぞ」
返すと、入ってきたのは造幣局側の高官だった。通貨比価の件で最初にキャルへ紙を回してきた、年配の男だ。今日はいつもよりもさらにきっちりした顔をしている。
「少し来てもらえるか」
「何でしょう」
「陛下の前だ」
その一言に、キャルの指が止まった。
部屋が静まる。
ルネまで動きを止めた。
「……は?」
間の抜けた声が出たのは不可抗力だと思う。
陛下。
つまり国王。
それはさすがに、今までの“高官に紙を見せる”とは次元が違う。
「なぜですか」
キャルは本気で訊いた。
「造幣局と財務局で、通貨の比価整理と新しい計算道具について説明を求められた」
高官は淡々と言う。
「その整理表を作ったのがお前だ」
「だからといって」
「私もそう思う」
高官がそこで小さく言ったので、キャルは少しだけ顔を上げた。
言外に「だが決まった」と続く顔だった。
最悪である。
「断ってください」
思わず口に出る。
ルネがわずかに目を閉じた。たぶん“また始まった”と思ったのだろう。
高官は、しかし予想外に正直だった。
「できるならしている」
その返しに、キャルは本気で嫌な顔をした。
「最近そればかりですね」
「本当にそうなんだ」
高官は淡々としているが、嘘ではなさそうだった。
王宮という場所は、立場が上がるほど断れないことも増えるらしい。そこは少しだけ気の毒だが、気の毒だからといってこちらが嬉しいわけではない。
「……私は」
キャルは少し言葉を選んだ。
「子爵令嬢であって、子爵ですらありません」
「知っている」
「国王陛下の前に出るような立場では」
「それも知っている」
高官は即答する。
「だが今回は、お前が作った紙と、お前の道具が呼ばれた」
その言い方は、少しだけ厄介だった。
功績を奪っていない。立場の弱さも分かった上で言っている。だから反論しにくい。
ルネが横から、控えめに口を挟んだ。
「同行は私がします」
「それは別に安心材料ではないんですが」
「でしょうね」
最近、ルネはそういう返しが妙に上手くなってきた気がする。仕事上の付き合いとはいえ、あまり嬉しくない成長だった。
結局、拒否権はなかった。
紙を持ち、道具を持ち、ルネと造幣局高官に挟まれるようにして、キャルは王宮の奥へ向かった。
財務局の一角とは違う。
廊下の幅、敷かれた絨毯、兵の立ち方、そして何より、人の視線の質が違う。ここから先は、ただの実務の場所ではない。権威そのものが形になっている場所だ。
歩きながら、キャルは本気で帰りたくなった。
「今からでも駄目でしょうか」
「何がですか」
ルネが小声で訊く。
「失礼して帰るの」
「駄目です」
即答だった。
分かっていたが、やはり最悪だ。
通されたのは、謁見の間ほど大げさではないが、それでも十分すぎるほど重々しい部屋だった。国王が、財務や造幣に関する報告を受けるための小会議室らしい。
中にはすでに数人の高官が揃っていた。
財務局長。
造幣局長。
それと、王宮の中枢にいるのだろうと一目で分かるような年配貴族たち。
全員がキャルを見た。
その一瞬で、いつもの感覚が胸の奥を走る。
高位の貴族から見れば、子爵令嬢など平民と大差ない。
その現実が、こういう場所では特に濃くなる。
だが今さら逃げても意味はない。
少し遅れて、国王が入室した。
部屋の空気が、音もなく張る。
王太子シリルのような軽やかな圧ではない。もっと静かで、もっと逃げ場のない重さだ。
キャルは頭を下げながら、ひどく妙なことを思った。
この人の前では、逆に警戒の形が定まりやすい。
王太子は距離が近い。だから怖い。
国王は最初から遠い。だからかえって、どこへ立てばいいかが分かる。
「面を上げよ」
声は思ったより落ち着いていた。
威圧で押すというより、座っているだけで場が整う人の声だ。
キャルはゆっくり顔を上げた。
「其方がキュレイション嬢か」
「はい」
「通貨の比価整理を見た」
国王の視線は、まっすぐ紙の方へ向いていた。そこに少しだけ救われる。
「面白い」
その言葉に、キャルは一瞬だけ顔をしかめそうになったが、こらえた。
ここで「それ好きじゃないです」と言うのは、さすがにまずい。
国王は続けた。
「抜く者の動きを、貨の流れで拾うか」
「数字の偏りが見えましたので」
キャルは静かに答える。
「比価のずれが積もると、利になる方へ貨が流れます」
「うむ」
国王は頷いた。
「そして、その計算にこれを使ったと」
視線が、キャルの持ってきた新しい算具へ落ちる。
部屋の高官たちも揃ってそれを見る。
まだ王宮の中では珍しい物だ。木の枠に軸を通し、揃えた珠を動かす。即席の溝板とは比べものにならないが、それでもこの世界では見慣れない形だろう。
造幣局長が口を開く。
「陛下、この道具により、長い換算が著しく速くなっております」
国王は手を伸ばした。
「見せてみよ」
キャルは一瞬だけ迷ったが、すぐに差し出した。
国王は道具を受け取り、指先で珠を一つ動かす。乾いた音が、静かな部屋に小さく響いた。
「……軽い」
「はい」
「だが留まる」
「留まらないと困りますので」
思わず本音で答えてから、少しだけまずかったかもしれないと思った。
だが国王は気を悪くした様子もなく、むしろわずかに口元を動かした。
「其方らしい」
何がらしいのかは分からないが、たぶん悪い意味ではない。
財務局長がそこで言った。
「この道具があれば、換算と整理の速度が上がります。特に市場比価や複数貨の比較では顕著かと」
国王は珠を二つ三つ弾いてから、静かにキャルを見た。
「其方は、これを何と考えている」
道具の名前、という意味だろうか。
キャルは少しだけ考えた。
前世の名前をそのまま言うわけにもいかない。だが、今の自分にとっての本質なら分かる。
「……数を留めるための道具です」
そう答えると、国王は小さく頷いた。
「よい」
一拍置く。
「国家の知性の象徴として、認めよう」
部屋の空気が変わった。
財務局長も、造幣局長も、年配の高官たちも、一瞬だけ息を止めたのが分かった。
キャル自身も、さすがに言葉を失った。
そこまで話が飛ぶとは思っていなかった。
単に便利な道具として扱われるくらいならまだ分かる。だが国家の知性の象徴とは、あまりにも大きい。
最悪である。
いや、最悪とだけ言い切るには少し違うかもしれない。重い。とても重い。そういう感覚だった。
国王は続ける。
「造幣局、財務局、必要とあらば学舎にも回せ」
高官たちが一斉に頭を下げる。
「はっ」
キャルはその光景を見ながら、頭の片隅でぼんやりと思った。
ああ、これでもう後戻りはしないのだろうな、と。
溝板に小石を並べて「まあ……これで妥協するか……」と呟いていたところから、ずいぶん遠くまで来てしまった。
会議が終わって部屋を辞すると、廊下へ出たところでルネがようやく長く息を吐いた。
「……驚きました」
「私もです」
キャルは即答した。
「国家の知性の象徴、って」
「ええ」
「そんな大げさな話でしたか」
ルネは少しだけ考える顔をした。
「大げさ、ではあります」
「ですよね」
「でも、間違ってもいません」
その返答に、キャルは少しだけ黙った。
間違っていない、と言われると、それはそれで困る。
造幣局高官が横から言う。
「これで職人側も堂々と形を整えられる」
「整えるんですか」
「当然だろう。陛下のお言葉だ」
また面倒ごとが増える。
そう思ったのに、その言葉を口には出さなかった。
代わりに、指先で自分の算具の枠を軽くなぞる。
ようやく妥協しなくて済むと思った矢先に、今度は国の顔にされそうになっている。
人生とは本当に、少しも静かに進まない。特に数字が絡むと余計にそうだ。
その日の夕方、財務局へ戻ると、部屋の空気がもう昨日までと違っていた。
噂はあっという間に回る。
国王の前で、比価整理を説明した娘。
新しい計算道具を認められた娘。
つまり、また余計に目立つ。
控え室へ入った途端、キャルは机に向かって深くため息をついた。
「……また増えますね」
ルネが苦笑する。
「たぶん」
「嫌ですね」
「そうですね」
そのやり取りだけは、今日もぶれなかった。
新しい計算道具を使い始めて三日ほどで、王宮財務局の空気はまた少し変わった。
正確には、変わってしまった。
これまでキャル・キュレイションが見ていたのは、「読みにくい書類を整理する」「ずれた数字を拾う」「誰かが後で困る帳簿を人が読める形に直す」という仕事だった。そこに新しい道具が入ったことで、長く複雑な計算の速度が一気に上がった。
その結果どうなったか。
紙が、さらに集まるようになった。
最悪である。
「増えましたね」
控え室代わりの小部屋で、キャルは机の上の紙束を見ながら本気でうんざりした声を出した。
通貨比価の整理表。
造幣局の鋳造量一覧。
市場流通の報告。
さらに、財務局本体から回された別件の雑費一覧まで混ざっている。
昨日までなら後回しだったはずの紙が、「ついでにこちらも」という顔で当然のように机に積まれているのだ。
向かいで書類を整理していたルネ・ベルティエが、少しだけ気の毒そうな顔をした。
「造幣局の方で、かなり話題になってしまったようで」
「でしょうね」
キャルは新しい道具の珠を指で軽く弾いた。
乾いた小さな音が鳴る。
「見れば分かるくらいには、前より早いですし」
「ええ」
「だから余計に最悪なんです」
ルネはそれには反論しなかった。
しないということは、たぶん本気でその通りなのだろう。
新しい道具――木の枠と軸を持つ、珠を通した完成形の算具――は、今やキャルの机の上の主役だった。即席の溝板と小石に比べて、指の動きに対する返りが圧倒的に良い。数が崩れない。途中で散らない。だから長い換算が頭の中から逃げない。
その結果、通貨の歪みは以前よりずっとはっきり見えるようになった。
市場ごとのずれ。
銀貨の寝方。
古い貨の偏り。
比価の差を抜いている動き。
そして、それを放置するとどれだけ王都の流通が歪んでいくか。
数字にすると、いやなほど分かる。
だからこそ、造幣局も財務局も放っておけなくなったのだろう。
「キュレイション嬢」
扉の向こうから声がした。
もう最近は、いちいち誰かを推測するのも面倒になってきている。高官か、中堅官吏か、造幣局の誰かか、あるいはまた王太子か。
「どうぞ」
返すと、入ってきたのは造幣局側の高官だった。通貨比価の件で最初にキャルへ紙を回してきた、年配の男だ。今日はいつもよりもさらにきっちりした顔をしている。
「少し来てもらえるか」
「何でしょう」
「陛下の前だ」
その一言に、キャルの指が止まった。
部屋が静まる。
ルネまで動きを止めた。
「……は?」
間の抜けた声が出たのは不可抗力だと思う。
陛下。
つまり国王。
それはさすがに、今までの“高官に紙を見せる”とは次元が違う。
「なぜですか」
キャルは本気で訊いた。
「造幣局と財務局で、通貨の比価整理と新しい計算道具について説明を求められた」
高官は淡々と言う。
「その整理表を作ったのがお前だ」
「だからといって」
「私もそう思う」
高官がそこで小さく言ったので、キャルは少しだけ顔を上げた。
言外に「だが決まった」と続く顔だった。
最悪である。
「断ってください」
思わず口に出る。
ルネがわずかに目を閉じた。たぶん“また始まった”と思ったのだろう。
高官は、しかし予想外に正直だった。
「できるならしている」
その返しに、キャルは本気で嫌な顔をした。
「最近そればかりですね」
「本当にそうなんだ」
高官は淡々としているが、嘘ではなさそうだった。
王宮という場所は、立場が上がるほど断れないことも増えるらしい。そこは少しだけ気の毒だが、気の毒だからといってこちらが嬉しいわけではない。
「……私は」
キャルは少し言葉を選んだ。
「子爵令嬢であって、子爵ですらありません」
「知っている」
「国王陛下の前に出るような立場では」
「それも知っている」
高官は即答する。
「だが今回は、お前が作った紙と、お前の道具が呼ばれた」
その言い方は、少しだけ厄介だった。
功績を奪っていない。立場の弱さも分かった上で言っている。だから反論しにくい。
ルネが横から、控えめに口を挟んだ。
「同行は私がします」
「それは別に安心材料ではないんですが」
「でしょうね」
最近、ルネはそういう返しが妙に上手くなってきた気がする。仕事上の付き合いとはいえ、あまり嬉しくない成長だった。
結局、拒否権はなかった。
紙を持ち、道具を持ち、ルネと造幣局高官に挟まれるようにして、キャルは王宮の奥へ向かった。
財務局の一角とは違う。
廊下の幅、敷かれた絨毯、兵の立ち方、そして何より、人の視線の質が違う。ここから先は、ただの実務の場所ではない。権威そのものが形になっている場所だ。
歩きながら、キャルは本気で帰りたくなった。
「今からでも駄目でしょうか」
「何がですか」
ルネが小声で訊く。
「失礼して帰るの」
「駄目です」
即答だった。
分かっていたが、やはり最悪だ。
通されたのは、謁見の間ほど大げさではないが、それでも十分すぎるほど重々しい部屋だった。国王が、財務や造幣に関する報告を受けるための小会議室らしい。
中にはすでに数人の高官が揃っていた。
財務局長。
造幣局長。
それと、王宮の中枢にいるのだろうと一目で分かるような年配貴族たち。
全員がキャルを見た。
その一瞬で、いつもの感覚が胸の奥を走る。
高位の貴族から見れば、子爵令嬢など平民と大差ない。
その現実が、こういう場所では特に濃くなる。
だが今さら逃げても意味はない。
少し遅れて、国王が入室した。
部屋の空気が、音もなく張る。
王太子シリルのような軽やかな圧ではない。もっと静かで、もっと逃げ場のない重さだ。
キャルは頭を下げながら、ひどく妙なことを思った。
この人の前では、逆に警戒の形が定まりやすい。
王太子は距離が近い。だから怖い。
国王は最初から遠い。だからかえって、どこへ立てばいいかが分かる。
「面を上げよ」
声は思ったより落ち着いていた。
威圧で押すというより、座っているだけで場が整う人の声だ。
キャルはゆっくり顔を上げた。
「其方がキュレイション嬢か」
「はい」
「通貨の比価整理を見た」
国王の視線は、まっすぐ紙の方へ向いていた。そこに少しだけ救われる。
「面白い」
その言葉に、キャルは一瞬だけ顔をしかめそうになったが、こらえた。
ここで「それ好きじゃないです」と言うのは、さすがにまずい。
国王は続けた。
「抜く者の動きを、貨の流れで拾うか」
「数字の偏りが見えましたので」
キャルは静かに答える。
「比価のずれが積もると、利になる方へ貨が流れます」
「うむ」
国王は頷いた。
「そして、その計算にこれを使ったと」
視線が、キャルの持ってきた新しい算具へ落ちる。
部屋の高官たちも揃ってそれを見る。
まだ王宮の中では珍しい物だ。木の枠に軸を通し、揃えた珠を動かす。即席の溝板とは比べものにならないが、それでもこの世界では見慣れない形だろう。
造幣局長が口を開く。
「陛下、この道具により、長い換算が著しく速くなっております」
国王は手を伸ばした。
「見せてみよ」
キャルは一瞬だけ迷ったが、すぐに差し出した。
国王は道具を受け取り、指先で珠を一つ動かす。乾いた音が、静かな部屋に小さく響いた。
「……軽い」
「はい」
「だが留まる」
「留まらないと困りますので」
思わず本音で答えてから、少しだけまずかったかもしれないと思った。
だが国王は気を悪くした様子もなく、むしろわずかに口元を動かした。
「其方らしい」
何がらしいのかは分からないが、たぶん悪い意味ではない。
財務局長がそこで言った。
「この道具があれば、換算と整理の速度が上がります。特に市場比価や複数貨の比較では顕著かと」
国王は珠を二つ三つ弾いてから、静かにキャルを見た。
「其方は、これを何と考えている」
道具の名前、という意味だろうか。
キャルは少しだけ考えた。
前世の名前をそのまま言うわけにもいかない。だが、今の自分にとっての本質なら分かる。
「……数を留めるための道具です」
そう答えると、国王は小さく頷いた。
「よい」
一拍置く。
「国家の知性の象徴として、認めよう」
部屋の空気が変わった。
財務局長も、造幣局長も、年配の高官たちも、一瞬だけ息を止めたのが分かった。
キャル自身も、さすがに言葉を失った。
そこまで話が飛ぶとは思っていなかった。
単に便利な道具として扱われるくらいならまだ分かる。だが国家の知性の象徴とは、あまりにも大きい。
最悪である。
いや、最悪とだけ言い切るには少し違うかもしれない。重い。とても重い。そういう感覚だった。
国王は続ける。
「造幣局、財務局、必要とあらば学舎にも回せ」
高官たちが一斉に頭を下げる。
「はっ」
キャルはその光景を見ながら、頭の片隅でぼんやりと思った。
ああ、これでもう後戻りはしないのだろうな、と。
溝板に小石を並べて「まあ……これで妥協するか……」と呟いていたところから、ずいぶん遠くまで来てしまった。
会議が終わって部屋を辞すると、廊下へ出たところでルネがようやく長く息を吐いた。
「……驚きました」
「私もです」
キャルは即答した。
「国家の知性の象徴、って」
「ええ」
「そんな大げさな話でしたか」
ルネは少しだけ考える顔をした。
「大げさ、ではあります」
「ですよね」
「でも、間違ってもいません」
その返答に、キャルは少しだけ黙った。
間違っていない、と言われると、それはそれで困る。
造幣局高官が横から言う。
「これで職人側も堂々と形を整えられる」
「整えるんですか」
「当然だろう。陛下のお言葉だ」
また面倒ごとが増える。
そう思ったのに、その言葉を口には出さなかった。
代わりに、指先で自分の算具の枠を軽くなぞる。
ようやく妥協しなくて済むと思った矢先に、今度は国の顔にされそうになっている。
人生とは本当に、少しも静かに進まない。特に数字が絡むと余計にそうだ。
その日の夕方、財務局へ戻ると、部屋の空気がもう昨日までと違っていた。
噂はあっという間に回る。
国王の前で、比価整理を説明した娘。
新しい計算道具を認められた娘。
つまり、また余計に目立つ。
控え室へ入った途端、キャルは机に向かって深くため息をついた。
「……また増えますね」
ルネが苦笑する。
「たぶん」
「嫌ですね」
「そうですね」
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