婚約破棄されたので頑張るのをやめました 〜昼寝と紅茶だけの公爵令嬢なのに、なぜか全部うまくいきます〜あ

鍛高譚

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2話

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 応急処置を終えた後、彼女は宮殿の客室で目を覚ました。豪奢な天蓋ベッドのカーテン越しに差し込む光がまぶしい。隣では侍医が「安静に」と言いながら薬瓶を並べている。
 シャルはゆっくりと上半身を起こし、侍医に微笑んだ。

「先生、ご心配なく。わたくし、とても元気ですの」

 侍医が目を瞬かせる。階段から落ちたばかりの令嬢が“元気”なわけがない。だが彼女の瞳は、空色の湖面のように澄み切っていた。――解放感で輝いている。

 そのとき、扉が開き、公爵夫妻が駆け込んできた。母は泣き腫らした目で娘を抱きしめ、父は拳を震わせて怒号を上げる。

「王太子め! 我が娘を公衆の面前で辱めおって……!」

 しかし当の娘は、父の背後でぺこりと頭を下げる廷臣の姿に気づき、口元を隠して笑いを堪えた。
 ――ざまぁは、すでに始まっている。

「お父様、お母様。わたくし、婚約破棄を受け入れますわ」

 夫妻は同時に「なんだと!?」と叫んだ。
 シャルはベッドの上でスカートを整え、優雅に告げる。

「だって……自由ですもの。最高ですわ!」

 瞬間、部屋の空気が止まった。両親も侍医も廷臣も、目を丸くしてシャルを見つめる。
 彼女は社畜時代に覚えた“プレゼン笑顔”でウインクをひとつ。

「これからは、好きなだけ紅茶を飲み、好きなだけお菓子を食べ、好きなだけ寝ますわ。――以上、今後の方針です♪」

 公爵夫人が「あ、あの子、頭を強く……?」と囁くが、侍医は小声で「精神的ショックでしょう」と答える。しかしシャルの耳には届かない。
 なぜなら彼女はもう、ブラックな人生を卒業したのだ。貴族令嬢という最強のセーフティネットを盾に、“頑張らない”第二の人生を謳歌する覚悟を固めていた。

 窓の外では、春を告げる燕が旋回している。シャルはその姿を追い、ほほえんだ。

(あの子たちも自由に空を飛んでいる……わたくしも負けていられませんわね)

 その笑顔は、これから“ざまぁ”の嵐が巻き起こることなど露ほども知らない、――いや、むしろ楽しみにしている人間のそれだった。

 ティーカップを傾ける指先が、小刻みに震えている。喜びを隠し切れないのだ。
 窓辺に置かれた銀のティーポットから、ふわりと甘いアールグレイの香りが立ちのぼる。シャルは深く息を吸い込み、瞳を閉じた。

「さようなら、社畜人生。こんにちは、怠惰で優雅な令嬢ライフ――!」

 その宣言は、誰にも聞こえないほど小さな囁きだったが、確かに世界へ放たれた。
 そして彼女の“頑張らない大逆転劇”の幕が、いま静かに上がる。



 薄桃色の天蓋がゆらりと揺れる。豪奢な寝室──と言っても、今のシャル・ド・ネ・アルベールにとっては“療養個室”に早変わりしたそこは、外から差し込む陽光を絹のカーテンでやわらげ、静謐そのものだった。
 枕元にはラベンダーのポプリ、壁際のサイドテーブルには銀の水差しとクリスタルグラス。そして足音を殺して立つ侍女長マルグリットの姿。だがシャルは、そんな優雅な景色をほとんど認識していなかった。

 ──ガチャッ! プリンタ紙が雪崩を打つ。
 ──「今月も残業一〇〇時間超え? 甘えるな、ゆかり!」
 ──蛍光灯の下、インスタント味噌汁をすすりながら朝焼けを眺めたあのビルの屋上。

 階段落ちの衝撃でよみがえった“佐伯ゆかり”としての記憶が、脳裏を断続的にフラッシュバックしているのだ。過労死寸前まで働かされ、最後はデスクに突っ伏して意識を手放した──あの瞬間が走馬灯のように再生され、気づけばシャルの背中に冷たい汗がつたっていた。

(あれをもう一度? 絶対にイヤですわ!)

 シャルはシーツを握り締め、深呼吸。ここはブラック企業の監禁部屋ではない。立派な公爵令嬢の寝室、しかも“安静命令”付きという、最高にホワイトな空間である。
 そう悟った瞬間、全身から力が抜け、羽根布団に沈み込む。

「お嬢様、枕元のお水を──」

 マルグリットが差し出したグラスを受け取り、一口。ひんやりとした感触が喉を潤し、心のざわめきも落ち着いていく。ふう、と息をついたところで扉がノックされた。

「失礼いたします、執事ジャンでございます」

 長身の初老執事が恭しく一礼し、侍医からの診断書を差し出す。内容は“軽度の打撲と脳震盪、要安静”。シャルは紙をぱらりとめくり、確認するなりベッドサイドのゴミ箱へ投げ込んだ。

「安静? もちろんですわ。わたくし、もう一生頑張りませんもの」

 ジャンが「は?」と目を瞬く。マルグリットも「お嬢様、ご気分が優れませんか」と眉をひそめた。
 シャルは二人ににっこりと微笑む。

「わたくし決めましたの。──『働かない・怒らない・無理しない』。これが新しい家訓ですわ」

「……家訓?」

「ええ。わたくし、婚約破棄されましたでしょう? ということは、もう王太子妃の義務も公務も、ぜーんぶ無くなりましたの。自由ですわ!」

 両手を広げるシャル。その姿は、解放感に輝く小鳥のようだった。だが執事と侍女長の顔色は真剣そのもの。
 マルグリットは意を決したように膝をつき、低い声で囁く。

「お嬢様……復讐のご予定は?」

「ございませんわ」

 即答。
 侍女長は一瞬言葉を失い、やがて瞳を燃やす。

「王太子殿下は、わたくしどもにとっても許しがたいお方。陰ながら糾弾の手は──」

「マルグリット」

 シャルは軽く手を上げて制した。その指先には、過労死寸前まで働かされた社畜時代のタコも豆もない。柔らかく手入れされた貴族令嬢の肌があるだけだ。
 それがどれほど尊いことか。彼女は噛みしめるように言った。

「復讐は労力がかかりますわ。わたくし、もう疲れることは一切しないと誓いましたの。――それより、紅茶と焼き菓子をお願いできます?」

「……はい?」

「今すぐですわ♪」

 ぽかんとする侍女長をよそに、執事ジャンが咳払いし「かしこまりました」と退出。
 シャルはクッションを抱え込み、ベッドの中で体を丸める。そこへ“社畜メモリー”の続きが襲ってきた。

 ──深夜二時、上司の『すぐ出せ』メール。
 ──冷めたピザを頬張りながら作ったパワポは翌朝『やり直し』。
 ──眠気覚ましのエナドリで胃が荒れ、救急車に乗った同僚。

(もう絶対に頑張らない。絶対に)

 額にじんわり汗がにじむ。だが同時に、胸の奥で新しい火花が弾けた。
 頑張らない=寝て暮らす? それもいい。けれど貴族の身分と莫大な資産があるのだ。趣味くらいは楽しんでも罰は当たらないだろう。

(お菓子研究会……領地の農産物を活かした新作スイーツ……あ、前世で流行った“とろけるプリン”を再現したら?)

 思考が甘味方向に暴走する。社畜時代に唯一の癒やしだったコンビニスイーツの記憶が、彼女を突き動かしていた。

 そこへカチャリと扉が開き、香り高いアールグレイと、焼きたてのフィナンシェが乗ったワゴンが入ってくる。銀のポットから立ちのぼる湯気を見ただけで、シャルは頬がゆるんだ。

「ありがとうございます。マルグリットもご一緒に」

「お、お嬢様と同席など……」

「いいんですの。わたくしはもう、誰に気兼ねする必要もありませんわ」

 ティーカップに琥珀色の液体が満ち、ふわりとベルガモットの香りが広がる。シャルは一口すすり、目を細めた。
 その横で侍女長が恐る恐るフィナンシェをつまみ、目を丸くする。

「おいし……これ、厨房の試作品ですか?」

「ええ。わたくしが“もっとバターを焦がして”と頼んだもの。前世の記憶で得たコツですわ」

 マルグリットは息を呑み、やがてぽつり。

「……お嬢様、もしかして“前世の記憶”をお持ちで?」

「秘密ですわ♪」

 ウインク一発。侍女長は完全に翻弄され、呆然とフィナンシェを見つめる。その表情があまりに真剣で、シャルは吹き出しそうになった。
 と、テーブルの上に置かれたメモ帳が視界に入る。表紙には金色の家紋。シャルはペンを取り、さらさらと書き始めた。

 ――《怠惰令嬢の優雅な生活プラン》
 1.毎日ティータイム三回(朝・昼・夜)
 2.新作スイーツ開発(月に五品以上)
 3.午後は読書と昼寝を両立させる
 4.仕事は“趣味の範囲”に限定(疲れたら即中止)

 最後にハートマークを添えて満足げに頷く。マルグリットがのぞき込み、眉尻を下げた。

「お嬢様……これは“生活プラン”とおっしゃいましたが、領地経営や社交界のご予定は?」

「ありませんわ。あ、でも趣味でワインとジュースを作ろうかしら。お菓子と相性抜群ですもの」

「しゅ、趣味で……」

 侍女長は白目をむきかけ、執事ジャンが「失礼」とお冷やを差し出す。
 シャルはくすりと笑い、フィナンシェをもう一つ口に運んだ。

(頑張らない。でも楽しむ。結果? 知らなくてよろしい!)

 その瞬間、胸の奥にあった社畜時代の錆びついた鎖が、ぷつんと音を立てて切れた気がした。
 窓の外では、春の風が若葉を揺らし、遠くで小鳥がさえずる。シャルはティーカップを高く掲げ、囁く。

「わたくしの第二の人生に、乾杯ですわ──!」

 ベルガモットの香りが、彼女の宣言を祝福するかのようにふわりと広がった。

 翌日の午後――。
 公爵邸の二階、南向きの大窓から春光が降り注ぐサロンには、薔薇の香りが満ちていた。壁一面の書架と、淡金色の壁紙、深紅のベルベットソファ。どこを切り取っても「優雅」の一語に尽きる空間だが、今、その中心に立つシャル・ド・ネ・アルベールの笑顔が、家具よりも眩しく輝いていた。

「――というわけで、本日からのわたくしの方針を発表いたしますわ」

 きらりとティースプーンを掲げる仕草は、剣よりも凛としている。円卓を囲むのは、老執事ジャン、家令イザベル、領地管理官ロベール、そして好奇心を隠しきれない若手メイドたち。全員がメモと羽根ペンを構え、息を呑んだ。

「キーワードは、趣味・娯楽・昼寝。以上ですわ♪」

 ……沈黙。室内を渡る時計の音が、やけに大きく聞こえる。最初に我に返ったのは家令イザベルだった。中年女性らしい落ち着きを総動員し、咳払い。

「お嬢様、確認ですが――領地の公務や社交界のご予定は?」

「ございませんわ。必要になったら、わたくしの“気が向いたとき”に対応します」

 シャルは紅茶を一口。ベルガモットの香りが漂う。
 管理官ロベールが眉間に皺を寄せた。真面目一徹、領地の財政を預かる彼にとって、“気が向いたとき”ほど恐ろしい言葉はない。

「では、財務報告会議の日程は――」

「寝ていたら起こさないでくださいね?」

「…………!」

 ロベールが白目を剥きかけた瞬間、シャルはパンッと手を叩いた。

「さあ、暗い顔はやめましょう! 本題はここからですわ。わたくし、お菓子の新作研究会を開きます!」

 若手メイドの瞳がぱぁっと輝く。毎日厨房を覗いては菓子職人を手伝うのが密かな楽しみの彼女たちにとって、それは夢のような宣言だった。

「具体的には?」と家令。

「まずは“焦がしバターのフィナンシェ改”を完成させたいですわね。次に、とろけるプリン、ふわふわシフォン、三層仕立ての葡萄ジュレ……」

 立て板に水のごとく流れるスイーツ名。メイドたちはメモ帳を取る手が止まらない。ロベールが震える声で割って入る。

「し、しかし材料費が高騰しております。バターも砂糖も――」

「問題ありませんわ。すべてわたくしのお小遣いで賄います」

「お小遣い、で……?」

 思わずこぼれたロベールの呟きに、シャルは優雅に首を傾げる。

「だって使い道がありませんもの。宝石もドレスも今ある分で十分。ならば甘い物に変えて胃袋にしまい込む方が合理的ですわ♪」

 合理的――と微笑む令嬢に、執事ジャンは震える指でメモを取った。“胃袋に宝石”なる新概念。

 そこへ、待機していたメイドがティーワゴンを押し入室。銀蓋を開ければ、焼き立てのフィナンシェと苺をのせたミルフィーユ。バターの香ばしさが広がり、若手メイドが思わず喉を鳴らす。

「試作品第一号ですわ。皆さんも召し上がれ」

「し、しかし私どもが同席で頂くなど――」

「いいんですの。楽しく働くには、まず糖分補給から♪」

 メイドたちが遠慮がちに一口。次の瞬間、瞳を潤ませ歓声を上げる。

「な、なんて濃厚……でも後味が軽やかです!」
「外はカリッ、中はしっとり……お嬢様、天才ですか?」

 褒められてシャルは頬を染める。社畜時代、どれだけ頑張っても「当たり前」と片付けられた。今はただ、焼き菓子一つで“すごい”と言ってもらえる――その事実が胸を温めた。

「ありがとうございます。でも、これは序章。次は“領地特産の葡萄”を使ったジュレを作りますわ」

 ロベールがハッと顔を上げる。

「……もしや、それを商品化なさるお考えですか?」

「ええ、趣味の延長で」

「趣味で国を動かさないでくださいッ!」

 つい地が出た管理官の叫びに、サロンが爆笑の渦に包まれる。シャルもつられて笑い、テーブルに身を乗り出した。

「ロベール、わたくし頑張りませんわよ? でも楽しいことをしていたら、勝手にお金が増えた――それなら、誰も困りませんでしょう?」

「……確かに」

 管理官は頭を抱えたが、同時に確信する。
 ――このお嬢様、本気だ。しかも計算高くないようでいて、恐ろしく現実的だ。

 家令イザベルが静かに手を挙げた。

「お嬢様、厨房と畑に必要な人員を再配置いたしましょうか?」

「お願いするわ。あと、試食係を募集しておいて。メイド長には“太っても叱らない”って伝えておいてくださいね」

 若手メイドが「やったー!」と歓声を上げ、老執事ジャンはその様子を目を細めて見守る。シャルは満足げに紅茶を飲み干し、椅子から立ち上がった。

「では本日の会議はお開き。午後は読書と昼寝を両立させる予定ですの」

 堂々たる退室宣言。メイドたちが慌ててお辞儀をし、執事と家令が「ははっ」と頭を垂れる。その背中を見ながらシャルはふと思う。

(あら、意外と楽しいかも……“働かない”って決めたけど、頑張らずに遊ぶのは別物ですわね)

 サロンを出ると、廊下の大窓から爽やかな風が吹き込んだ。カーテンが揺れ、遠くで鐘の音が聞こえる。シャルは胸いっぱいに空気を吸い込み、そっとつぶやく。

「次はどんな甘い物を作ろうかしら……♪」

 その瞳は、これから始まる“趣味領地改革”の行く末を、楽しげに映していた。周囲はまだ戸惑いと期待を半々に抱えつつも、確かに一歩踏み出し始めている。

 そして誰も気づかない。
 この何気ない“開放宣言”が、後に王都を揺るがすワインとジュースの大ヒットへ繋がることを。
 だが今はただ、甘い香りと笑い声が満ちるサロンで、令嬢と使用人たちが同じテーブルを囲み、ほおばったフィナンシェの温もりを分かち合っている。

 それこそが、シャルの望む“頑張らないけれど最高に豊かな”新生活の、何よりの証なのだから。

 ――その日、王都の朝はいつになく騒がしかった。
 王太子アルフォンス殿下が「真実の愛」のために公爵令嬢との婚約を破棄した──そんなロマンチック(?)なニュースは、夜のうちに小鳥のさえずりより速く社交界へ拡散され、夜明けとともに噂好きの貴婦人たちを跳ね起こしたのである。

「まあ恐ろしい! あの完璧令嬢が“捨てられた”ですって?」
「衝撃で寝込んでいるらしいわよ。気丈に振る舞っていても、きっと心はズタズタに違いないわ」
「レミィ嬢? あの子、愛らしいけれど教養は……おほほ、まあ若いって素晴らしいわね」

 ──貴族街のティーサロン。
 羽根扇で口元を隠したご令嬢たちが、レース越しに毒を滴らせる。けれどその裏で、侍女たちは囁き合っていた。

「実は公爵邸から“特大の焼き菓子の香り”が漂ってくるんですって」
「えっ、寝込んでるんじゃないの?」
「むしろ厨房が戦場みたいに忙しいらしいわよ」

 情報が錯綜し、街はざわめきで沸騰寸前。王太子の“恋の革命”を称賛する記事を用意していた新聞社は、慌てて版を差し替えた。「公爵令嬢ショックで昏倒」の見出しを躍らせた途端、今度は「いや彼女は元気にお茶会を開いている」という新ネタが飛び込んできて編集長が倒れたとか倒れないとか──。
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