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第2章:揺れ動く王都と、隣国の誘い
5話
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王太子アルベルトとの婚約を破棄されてから数日後。
以前なら朝食を食べながら侍女たちと今日のスケジュールを確認し、午後には王宮に行くか、あるいは社交界の集まりに顔を出すかしていたはずなのに――今は公爵家の屋敷で、静かな時間を過ごすことが多くなった。
「セイラお嬢様、よろしければ朝の紅茶をお持ちいたしますね」
使用人の優しい声に、小さく微笑んで返事をする。私の部屋には、寝台や化粧台のほかに、少しばかり書物を置くためのスペースがあり、そこを簡易的な書斎のようにして古い文献を読んでいることが多い。――そう、最近は時間だけは有り余るほどあるのだ。
元々、王太子妃候補として動いていた頃は、あれほど嫌になるほど詰め込まれていた日々の予定が、今は嘘のように空白だらけである。貴族の集まりに招かれることもあるが、今の私を呼んでくれるのは「セイラは本当に悪女なの?」と興味本位で探りを入れたい者か、あるいは逆に「王太子に破棄された娘を慰めたい」と同情で声をかけてくれる者くらい。どちらにせよ、あまり愉快な空間ではないし、ここしばらくは招待をすべて断っていた。
そのため、私は家にこもり、久しく触れられなかった本の世界にどっぷり浸かっている。幼い頃から学問を学ぶことは好きだったし、特に歴史や魔法学の古文書を読むのは性に合っている。王太子妃にならないのなら、むしろこうした暮らしも悪くない――と、内心思ってしまうほどだ。
しかし、私以外の家族はそうもいかない。特に父・アークライト公爵は、王太子による一方的な婚約破棄を許せないらしく、ここ数日は毎日のように王宮への抗議や、他の貴族への根回しに大忙しだった。
波紋を広げる破棄騒動
その日の朝、私は執事から「当主がお呼びです」という伝言を受け取った。父はたいてい執務室で来客や書類の処理をしているが、私のことをわざわざ呼び出すのは久しぶりだ。何やら不安が胸をよぎるが、私は上等な生地のドレスに袖を通し、書物を一旦閉じてから執務室へ向かった。
扉をノックすると、怒号にも似た声が中から聞こえる。――大方、父が執事か顧問官に当たり散らしているのだろう。最近はずっと機嫌が悪い。私が部屋に入ると、父は机から身を乗り出すようにして、私を睨みつけてきた。
「……セイラ。おまえ、どうして自分から何も動かんのだ」
まるでため息を吐き捨てるかのような、その重苦しい声に、一瞬息が詰まる。けれど、気圧されてばかりもいられない。私はなるべく落ち着いた声で答えた。
「何か動く必要がありますか? 婚約はすでに破棄されましたし、私としては、このままでも構わないのですが」
「馬鹿なことを言うな! 王太子にあそこまで侮辱されて、黙って引き下がるなど、公爵家の名誉に関わる問題だ。私だって必死に動き回っているというのに、おまえはもう少し危機感を持てないのか?」
父の言うことも分からなくはない。私が何も言わなければ、まるで公爵家が王家の好き勝手を受け容れたように見えてしまうだろう。下手をすれば「公爵家は王家に恭順の姿勢を示した」と取られかねない。父は公爵としてのプライドを守りたいのだ。
だが、私は今さらアルベルトのもとに戻りたくはない。それだけははっきりしている。
「お父様、私はもう殿下のもとへ戻る気はありません。あの方がリリアを選んだのなら、それで結構です。……ですから、どうか私をこのままにしておいてはもらえませんか?」
そう言うと、父は怒りを堪え切れない様子で机を叩いた。
「……おまえには分からんのだ! おまえ一人の問題ではない。公爵家が王太子に梯子を外されたとあっては、我が家の立場にも影響が出る。いずれは爵位や領地の扱いにも響くかもしれんのだぞ?」
確かに、それは私も心配していた。王家と密接な関係を築いてきた公爵家が、王太子から一方的に婚約を破棄されれば、政治的にも少なからずダメージを受ける可能性はある。だが、それでも私は自分を偽ってまで王太子とやり直す気にはなれない。そこまで強く結婚を望んでいたわけではないからだ。
「お父様……お気持ちはわかりますが、私は今さら王太子殿下とどうこうしたいとは思いません。今は少しでも心身を休めたいと考えていますので、どうかご理解ください」
言葉を尽くして説明しても、父の表情からは怒りの色が消えない。やがて、彼は苛立たしげに机の上に散らばっている書類を掴み、バサリと乱暴に放り投げた。
「……ならば、おまえ自身が何をするか、しっかり考えておけ。私は私で公爵家の体面を守るために最善を尽くす。それだけだ」
そう言い放たれると、私ももう言葉を重ねる余地はなかった。父が抱える怒りや焦燥感を、軽々しく否定できるわけでもない。私は静かに頭を下げ、部屋を後にする。――こうして私の中でも、新たな迷いが生じた。果たして私は本当に、ただ「何もしない」ままでいいのだろうか?
以前なら朝食を食べながら侍女たちと今日のスケジュールを確認し、午後には王宮に行くか、あるいは社交界の集まりに顔を出すかしていたはずなのに――今は公爵家の屋敷で、静かな時間を過ごすことが多くなった。
「セイラお嬢様、よろしければ朝の紅茶をお持ちいたしますね」
使用人の優しい声に、小さく微笑んで返事をする。私の部屋には、寝台や化粧台のほかに、少しばかり書物を置くためのスペースがあり、そこを簡易的な書斎のようにして古い文献を読んでいることが多い。――そう、最近は時間だけは有り余るほどあるのだ。
元々、王太子妃候補として動いていた頃は、あれほど嫌になるほど詰め込まれていた日々の予定が、今は嘘のように空白だらけである。貴族の集まりに招かれることもあるが、今の私を呼んでくれるのは「セイラは本当に悪女なの?」と興味本位で探りを入れたい者か、あるいは逆に「王太子に破棄された娘を慰めたい」と同情で声をかけてくれる者くらい。どちらにせよ、あまり愉快な空間ではないし、ここしばらくは招待をすべて断っていた。
そのため、私は家にこもり、久しく触れられなかった本の世界にどっぷり浸かっている。幼い頃から学問を学ぶことは好きだったし、特に歴史や魔法学の古文書を読むのは性に合っている。王太子妃にならないのなら、むしろこうした暮らしも悪くない――と、内心思ってしまうほどだ。
しかし、私以外の家族はそうもいかない。特に父・アークライト公爵は、王太子による一方的な婚約破棄を許せないらしく、ここ数日は毎日のように王宮への抗議や、他の貴族への根回しに大忙しだった。
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その日の朝、私は執事から「当主がお呼びです」という伝言を受け取った。父はたいてい執務室で来客や書類の処理をしているが、私のことをわざわざ呼び出すのは久しぶりだ。何やら不安が胸をよぎるが、私は上等な生地のドレスに袖を通し、書物を一旦閉じてから執務室へ向かった。
扉をノックすると、怒号にも似た声が中から聞こえる。――大方、父が執事か顧問官に当たり散らしているのだろう。最近はずっと機嫌が悪い。私が部屋に入ると、父は机から身を乗り出すようにして、私を睨みつけてきた。
「……セイラ。おまえ、どうして自分から何も動かんのだ」
まるでため息を吐き捨てるかのような、その重苦しい声に、一瞬息が詰まる。けれど、気圧されてばかりもいられない。私はなるべく落ち着いた声で答えた。
「何か動く必要がありますか? 婚約はすでに破棄されましたし、私としては、このままでも構わないのですが」
「馬鹿なことを言うな! 王太子にあそこまで侮辱されて、黙って引き下がるなど、公爵家の名誉に関わる問題だ。私だって必死に動き回っているというのに、おまえはもう少し危機感を持てないのか?」
父の言うことも分からなくはない。私が何も言わなければ、まるで公爵家が王家の好き勝手を受け容れたように見えてしまうだろう。下手をすれば「公爵家は王家に恭順の姿勢を示した」と取られかねない。父は公爵としてのプライドを守りたいのだ。
だが、私は今さらアルベルトのもとに戻りたくはない。それだけははっきりしている。
「お父様、私はもう殿下のもとへ戻る気はありません。あの方がリリアを選んだのなら、それで結構です。……ですから、どうか私をこのままにしておいてはもらえませんか?」
そう言うと、父は怒りを堪え切れない様子で机を叩いた。
「……おまえには分からんのだ! おまえ一人の問題ではない。公爵家が王太子に梯子を外されたとあっては、我が家の立場にも影響が出る。いずれは爵位や領地の扱いにも響くかもしれんのだぞ?」
確かに、それは私も心配していた。王家と密接な関係を築いてきた公爵家が、王太子から一方的に婚約を破棄されれば、政治的にも少なからずダメージを受ける可能性はある。だが、それでも私は自分を偽ってまで王太子とやり直す気にはなれない。そこまで強く結婚を望んでいたわけではないからだ。
「お父様……お気持ちはわかりますが、私は今さら王太子殿下とどうこうしたいとは思いません。今は少しでも心身を休めたいと考えていますので、どうかご理解ください」
言葉を尽くして説明しても、父の表情からは怒りの色が消えない。やがて、彼は苛立たしげに机の上に散らばっている書類を掴み、バサリと乱暴に放り投げた。
「……ならば、おまえ自身が何をするか、しっかり考えておけ。私は私で公爵家の体面を守るために最善を尽くす。それだけだ」
そう言い放たれると、私ももう言葉を重ねる余地はなかった。父が抱える怒りや焦燥感を、軽々しく否定できるわけでもない。私は静かに頭を下げ、部屋を後にする。――こうして私の中でも、新たな迷いが生じた。果たして私は本当に、ただ「何もしない」ままでいいのだろうか?
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