『公爵令嬢アルタイは離婚のために旦那を看病します』

鍛高譚

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1.開宴前夜――静寂に潜む鼓動

 年末の大宴会を翌日に控えた夜、ヴェルノア公爵邸の中はいつにも増して慌ただしかった。
 明日の準備に追われる使用人たちが、廊下を忙しなく行き交い、膨大な量の食材や装飾品、贈答品などが各所に運び込まれている。
 その様子を見ながら、私は落ち着かない気持ちを抱えていた。

 ――昨夜、ベガが「宴が終わったら、お前と話したい」と言ってくれた。
 彼がどんな言葉を伝えたいのか、私にはまだわからない。けれど、恐らく“離婚”という二文字が絡む話になることは間違いないだろう。
 仮面夫婦として始まった私たちが、いまや互いに相手の存在を強く意識するようになっている。その変化に気づいたからこそ、私たちは新しい関係へ進むのか、それとも元の約束通り離婚という道へ踏み出すのか――。

「……落ち着かないわね」

 自室の窓から外の暗い景色を見下ろしながら、私はぽつりと呟いた。
 今宵は雲が低く垂れ込め、星は見えない。遠くから一瞬だけかすかな雷鳴のようなものが聞こえたが、雨足は弱く、そこまでひどい天気にはなっていない。
 宴の当日は晴れてほしいけれど、こればかりは天に祈るしかない。

 背後でノックの音がする。

「アルタイ様、お茶をお持ちしました」

 侍女のリュネが銀のトレーを抱えて入室してくる。甘いハーブティーの香りがふわりと漂った。

「ありがとう。ちょうど喉が渇いていたところよ」

 私は机の傍に腰を下ろし、リュネが淹れてくれた温かな茶を一口すする。ほっとする甘さと、心身を落ち着ける香りが広がった。

「明日は大変な一日になりますわね。アルタイ様もベガ様も、ついにお披露目のような形ですし、周囲からはさまざまな視線が向けられるでしょう」

「そうね……。これまでも私たちは“公爵令嬢と辺境伯”として社交界で噂にはなっていたけれど、明日は大勢の目の前で並んで立つことになる。きっと隅々まで観察されるでしょうね」

 リュネは気遣わしげに顔を曇らせる。

「噂話をなさる方々は、どうしても面白半分に話を膨らませようとしますもの。ですが、アルタイ様は堂々としておられればよいのです。ご主人様方の本当の気持ちまでは、誰にもわかりませんものね」

「リュネ……そうね、ありがとう」

 私は穏やかに微笑んだ。
 近頃の私は、いざというとき気持ちが揺らぐことが多い。でも、リュネの言葉通り、最後に何を選ぶかは自分で決めるしかない。周囲がどれほど騒ごうとも、私の思いを自分で見極めたい。

「失礼します。アルタイ様、ベガ様からお言付けがございます」

 ドアの外から別の侍女が控えめに告げる。続けて聞こえた内容に、私の胸は少し高鳴った。

「“そろそろ休め。あまり無理をして体調を崩すな”……と。それから、『自分も早めに寝るから心配するな』ともおっしゃっていました」

「ふふ、わかりました。……ありがとう」

 なんだか可笑しくて、私は微かに笑ってしまう。わざわざ人を介して伝えるなんて、まるで素直ではないけれど、要は「お前のことが心配だ」ということだろう。

(本当に、らしくないのに。けれど、それが嬉しい)

 私は心の中でそう呟きながら、お茶を飲み干し、明日に備えて早めに就寝の準備を進めることにした。

2.大宴会の幕開け

 翌日。
 天気は夜半に少し荒れたようだが、朝を迎えてみれば嘘のように晴れ渡っていた。冷たい冬の空気に澄み切った青空。公爵邸の庭に差し込む陽光が、きらきらと輝いている。

 日が傾きはじめるとともに、貴族や重臣、その家族たちが次々と公爵邸へ到着し、華やかな衣装に身を包んだ使用人たちがお出迎えをする。玄関ホールや大広間には、あっという間に豪華な来客が溢れかえった。
 音楽隊が優雅な曲を奏で、テーブルには贅を尽くした料理が並ぶ。私たちが用意した花々やキャンドルの装飾は、想像以上に華やかで、さながら王宮の舞踏会を彷彿とさせるほどだ。

「アルタイ! 素晴らしいおもてなしだよ。さすがヴェルノア公爵家というべきか」

 父のガイド・ヴェルノア公爵が上機嫌な声を上げ、私に労いの言葉をかける。
 既に王宮や重臣たちへの挨拶は一通り済ませ、今は開宴前のごく短い休息をとっているところだ。

「ありがとうございます、父様。まだまだ至らない点もあるかもしれませんが、皆様に楽しんでいただければ幸いです」

「ははは、こんなに見事な準備をしてくれたのだから、きっと誰もが満足するさ。……ベガ殿はどうだ? 体調に問題はなさそうか?」

 宴が始まる直前、ベガは私とともに大広間の奥へ姿を見せ、来客へ挨拶をしていた。
 その姿は堂々としており、一見すると負傷者には見えないほどだ。とはいえ、治療師からはまだ無理をするなと釘を刺されているし、何より痛みが全快したわけではないはず。
 しかし彼は、私の隣でにこやかに会話を交わしてくれている。ときどき微妙に顔をしかめるような仕草を見せるときもあったが、周囲にはほとんど悟らせない。

「大丈夫そうに見えますわ。……そういえば、ベガ様はまだ? 先ほどまでこちらにいらしたはずですが」

 私は周囲を見回すが、いつのまにかベガの姿が見当たらなくなっている。
 すると、父は何かを察したような顔で、近くの従者に軽く尋ねる。

「辺境伯様は何処へ?」

「はい、少しお身体が痛むようで、控えの小部屋にて休まれております。すぐに戻ってこられるとのことです」

「なるほど、やはり無理をしているのか。アルタイ、お前からも適度に休むよう言ってやれ。勝手はさせないほうがいい」

「わかりました」

 父に一礼してから、私はベガがいるという小部屋へ向かった。扉の前で控える従者たちが、私の姿を見ると扉を開けてくれる。
 部屋の中には豪華な椅子と小さなテーブルがあり、ベガがうっすらと額に汗を浮かべながら背凭れにもたれかかっていた。傍らではレオが心配そうに付き添っている。

「ベガ様……大丈夫ですか?」

 私の声に気づいたベガはゆっくりと顔を上げる。その表情には少し痛みが滲んでいたが、彼は無理に笑おうとした。

「悪い、少し痛みが……。だが、ひと息つけば大丈夫だ。すぐに戻る」

「戻らなくてもいいんですよ。今は公爵家の宴ですし、私や父様が場を繋いでおきますから。どうか無理をなさらずに」

 そう言いながら、私は彼のそばに近寄った。
 レオが「申し訳ありません、俺が不注意でした」と言い添える。どうやら先ほど人混みの中で誰かに軽くぶつかられ、その衝撃で傷口に響いたらしい。

「別にレオのせいじゃない。俺がボーッとしていたからだ」

「ですけど、無理は禁物です。貴方が倒れでもしたら大変ですわ。……ほら、傷に負担がかからないように座っていてください。私が必要な連絡は取り次ぎますから」

 私は少し語気を強めて言う。それを見たベガは、観念したように小さく息を吐いた。

「……わかった。お前がそう言うなら、少しだけ休ませてもらおう」

 その素直な態度に、私はほんのりと嬉しくなる。つい数か月前までは、こんな風に彼が私の言葉に素直に頷いてくれるなど、想像もしなかったのだから。

「いい子ですね」

 思わず口にしてしまうと、ベガは怪訝そうに眉をひそめた。

「俺は子どもか?」

「はいはい、そういう意味ではありませんよ。……では、私は失礼します。落ち着いたら大広間に戻ってきてください」

 くすりと笑いながら踵を返すと、後ろから「ガキ扱いしやがって……」とぼそっと呟く声が聞こえる。それにまた笑みがこぼれそうになるのを堪え、部屋を出た。

3.渦巻く思惑と、噂の主

 大広間に戻ると、父が来客たちと談笑している場面に遭遇する。周囲にはなじみのある貴族だけでなく、普段あまり接点がないような地方領主の姿もちらほら見受けられる。
 私が軽く会釈しながら視線を巡らせていると、ひとりの貴婦人が近づいてきた。艶やかな紫のドレスを纏い、首元には豪華な宝石をふんだんにあしらっている。

「まあ、アルタイ様。お忙しそうですわね。先ほどは辺境伯様の姿が見えなかったけれど、どこかへ行かれていたのかしら?」

 その問いかけは、一見何気ない世間話のようでいて、底に探るような意図が透けている。私は瞬時に警戒を覚えた。

(この人……確か、ブランシュ・ディスカール男爵夫人。噂好きとして有名な方だわ)

 男爵夫人は優雅な笑みを浮かべながら、私の返答を待っている。

「少しお身体の具合が思わしくないので、控え室で休んでおられます。怪我が完治していませんから、無理をさせたくはないのです」

「あら、それは大変。戦地での傷はそう簡単には治りませんものね。……でも、まあ、辺境伯様がお戻りになったのは幸いですわ。戦場で“新たな恋人”を連れて来られていたら、アルタイ様も困るでしょう?」

 明らかな挑発だった。
 近くで聞き耳を立てている貴婦人たちから、くすくすと笑う気配が伝わる。どうやら、例の「戦地で女を作ったかもしれない」という噂をわざわざ私の前で口にしたいらしい。
 私はあくまで冷静に振る舞い、微笑を湛えて言葉を返す。

「そんな心配は無用ですわ。ベガ様はそのような暇などなかったと、私が知っていますから」

「まあまあ、実際に無かったかどうかは、わかりませんわよ? だって、このところ辺境伯様は長く帰っていらっしゃらなかったもの。それに、周囲の方々も随分とおかしな噂を立てていましたわ。私も、どちらが本当なのか気になって仕方ありませんのよ」

 悪びれる様子もなく、底意地の悪い微笑を続ける男爵夫人。
 私は心の中で(なんて厄介な方なの)と呟く。大勢が集まる場では必ずこういう人物がいるものだが、今日は特に目立つ。

「ディスカール男爵夫人。これは私の個人的なお願いなのですが、できればそういった“ご懸念”はご自身の胸の内に秘めておいていただけませんか? 私があなたの立場でしたら、お話をするにしても、もう少し言葉を選びますわ」

 やんわりと牽制する私に、男爵夫人は微妙に顔をこわばらせる。そして周囲に視線を巡らせ、少し甲高い笑い声を立てた。

「おほほ、失礼。アルタイ様にしてみれば、言われたくないことですものね。けれど、お気になさらないで。私たちはただ、真実を知りたいだけですわ。もし本当に離婚なさるのなら、“公爵令嬢が夫を見捨てた”などという噂も困りますものね?」

 はっきり“離婚”という単語を出されると、周囲の貴婦人たちも敏感に反応する。そこここで「まあ、やっぱりそうなの?」「可哀想に」とささやき声が上がる。
 私は笑みを絶やさないまま、意図的に一拍おいてから、静かに口を開いた。

「失礼ながら、男爵夫人――私はベガ様を“見捨てる”つもりなどありません。どこからそんなお話が出たのかはわかりませんが、間違った噂によってお騒がせしているなら、申し訳なく思いますわ」

「へえ、では離婚の予定はないとおっしゃるのね?」

「少なくとも、私がそう望んでいるわけではありません」

 ――嘘ではない。私自身が明確に「離婚したい」と思わなくなったのは事実だ。ただし、ベガの意向がどうなるのかは、まだわからない。
 男爵夫人はその言葉を聞き、面白くなさそうに唇を曲げる。

「あらあら、それなら安心しましたわ。これ以上、変な噂が飛び交っては皆様にご迷惑ですものね。……では、失礼いたしますわ、アルタイ様」

 彼女はつんと鼻を上げ、周囲の貴婦人たちを引き連れて去っていく。その背中を見ながら、私は(まったく、何がしたいのかしら)と内心でため息をついた。
 もしかすると、私とベガの関係が破綻するところを面白おかしく傍観したいのかもしれない。貴族社会では他人の不幸やスキャンダルが格好の娯楽だから。
 ああいう相手に取り合うだけ時間の無駄だ。私は気を取り直して、大広間の中央へ視線を移した。そろそろ、来客の前で父や私たちが挨拶を行う時間が近づいている。

4.宣言と凱旋報告

 大広間の奥へと続く大きな階段の上段には、父ガイド・ヴェルノア公爵と、王族の代理として出席している第三王子イリオン殿下が並んで立っていた。
 周囲が静まり返り、音楽が止む。いよいよ宴の始まりを告げる公式の挨拶の時間だ。
 私は階段の脇に控え、父や王子の様子を窺う。果たしてベガは間に合うだろうか――と思った矢先、私の背後に人影が近づく。

「アルタイ。遅れてすまない、もう始まるか?」

「ベガ様……痛みは大丈夫なの?」

「ああ、さっきレオに肩を揉んでもらったら少し楽になった。大丈夫だ」

 囁くような声でそう告げるベガに、私は安堵を覚える。とにかく、ここに来られるだけの体調があれば十分だ。
 すると、父が壇上から私たちに向けて視線を走らせ、そっとうなずく。どうやら、予定通り私たちにも一言ずつ挨拶をする機会を設けてくれているらしい。

「諸君、本日は年末も迫る忙しき折に、よくぞ我がヴェルノア公爵家の宴にお集まりいただいた。まずは感謝を申し上げるとともに、王国の安寧に尽力してくれた多くの人々へ、我々一同の謝意を表したい」

 声量たっぷりに話す父。彼は若い頃から演説じみた場は慣れており、堂々とした姿勢はさすがとしか言いようがない。
 続けて第三王子イリオン殿下が「王家を代表して礼を述べたい」と発言し、最後にベガへ向けて「戦地での働き、まことに見事だった」と称賛を贈る。

「ベガ・アルシェール辺境伯侯爵よ。汝の奮戦がなければ、北方の防衛は成り立たなかったかもしれぬ。王家を代表し、深く感謝する」

「恐れ多いお言葉、ありがたく頂戴いたします」

 ベガは片膝をつくように礼をとろうとするが、傷を考慮してか深くは屈まず、イリオン殿下は「よい、立ち上がれ」と促す。
 こうして、ベガの凱旋は公的にも祝福される形となった。大広間を埋め尽くす来賓からは拍手と歓声が沸き起こる。

 私も胸を撫で下ろしながら、はにかむように笑った。彼が正式に称えられることは、私にとっても誇らしいことだからだ。

「では、これより宴を始めよう。皆、どうぞ楽しんでいってくれたまえ」

 父がそう宣言すると、再び音楽が流れ出し、会場は活気に満ちた雰囲気へと一変する。ワインの瓶が次々と開けられ、華やかな舞踏や談笑が始まった。

5.二人で踊るということ

 私たち貴族の社交界では、宴会の場において「夫婦で一曲踊る」という風習がある。もちろん絶対ではないが、上流階級の場合は自然とそうなることが多い。
 しかし、私とベガは“仮面夫婦”であり、これまでほとんど公の場で一緒に踊ったことがなかった。元々、彼が社交ダンスなど得意なわけもないし、私もそこまでダンスが好きというわけではない。
 けれど、今日はどうやら周囲の流れがそう簡単には許してくれないらしい。

「アルタイ様! ベガ様! せっかくの機会ですもの、ぜひご夫婦で一曲踊られてはいかがですか?」

「お二人が踊られたら、この会場も一層盛り上がることでしょう!」

 そんな声があちらこちらから飛んできて、私たちを逃がさない。周囲の期待に応えないまま無視を決め込むのも不自然だし、何より父や王子も「ぜひ踊ってほしい」と賛同の姿勢を見せている。
 ベガは少し困惑気味に私を見つめ、視線で「どうする?」と問いかけてきた。

(――ここで踊らなければ、またいらぬ噂を立てられるだろうし。彼の傷が本調子でないのは心配だけど、ショートダンス程度なら……)

 私は意を決して、ベガに向かって手を差し出す。

「ベガ様、踊りましょうか。無理をしない範囲で、短い曲だけでも」

「……わかった。よろしく頼む」

 そうして、私たちはメインフロアへと歩み出た。
 音楽隊が気を利かせて、あまりテンポの速くない、しっとりとした曲を奏で始める。華やかながらもゆったりとした旋律が流れる中、ベガはぎこちなく私の腰に手を添えてきた。

「すまない、あまり得意じゃないんだ。足を踏んだら許せ」

「ふふ、大丈夫です。私も上手とは言えませんから、おあいこですよ」

 ほんの短い会話を交わすと、私たちはステップを踏み出した。
 周囲からはたくさんの視線が向けられている。普段ならそれだけで萎縮してしまいそうだけれど、今の私はなぜだか不思議と落ち着いていた。
 ――目の前にいる彼のことだけを感じていればいい。そう思うと、どことなく心が安らぐのだ。

 最初はどうにも噛み合わず、ベガの動きに合わせきれず足がもつれかけることもあった。しかし、少し経つとお互いリズムに慣れ、言葉を交わさなくても呼吸が合ってきた。

「……アルタイ」

「はい?」

 小さく呼ばれ、耳を近づける。すると、彼の低い声が柔らかな音楽に溶け込むようにして伝わってきた。

「ありがとう。お前が隣にいてくれたから、今の俺があるんだと思う」

「そんな……。私は何もしていませんわ。むしろ、貴方が私のことを気遣ってくれたから、こうして一緒にいられるのでしょう?」

 顔を上げると、ベガは少し照れくさそうに視線を逸らす。
 その横顔を見たら、胸がぎゅっと苦しくなった。私はこの人が好きなのかもしれない――そう、はっきり自覚させられる。

 けれど、私は同時に不安にも襲われる。もしこの想いを告げても、彼はどう受け止めてくれるのだろう。“妻を自由にしたい”と言っていたのは過去の話だが、彼の本心は本当にどうなのか、聞くのが怖い。

 短い曲が終わり、私たちは最後のステップを踏む。自然と体が近づき、互いの体温が触れ合う距離に。
 湧き上がる拍手の音に包まれながら、私たちは名残惜しげに距離を開く。

「……大丈夫か? 傷、痛まない?」

 ダンスを終えたあと、私は思わず彼を気遣う。彼はわずかに呼吸を乱しながらも、大丈夫だ、と言いたげに微笑んだ。

「平気だ。お前に迷惑をかけずに済んだなら、上出来だろう」

 その言葉に、私も微笑みを返す。そして、私たちは観客席へ身を引き、他の貴族たちにフロアを譲った。

6.仮面の裏側を暴く者

 ダンスのあとは、軽食や会話を楽しむ時間に入る。私は来客たちと挨拶を交わしながら、父や王子の動向を確認し、必要なところでサポートをする。
 そんな中、少し離れたテーブルのほうで、何やらトラブルが起きているようだった。男爵夫人や数人の貴婦人たちが集まって、ひそひそ声を立てている。

(また面倒な話になっていなければいいのだけれど……)

 と警戒していると、案の定、その渦中から男爵夫人が私のほうへと声をかけてきた。

「アルタイ様! ぜひこちらへ……ちょっと聞いていただきたいことがあるのです」

 嫌な予感を覚えながらも、社交辞令として無視はできない。私は礼儀正しく近づくと、彼女は待ち構えていたかのように話を始めた。

「先ほど、ある方からこんなお話を伺いましてね。なんでも“辺境伯様が北方の戦地で見初めた女性がいて、その方をこちらへ呼び寄せる気がある”のだとか。まあ、信じがたいことですわよね?」

 その場の貴婦人たちが一斉に私を見る。まるで「ほら、本当にそうなの?」と問い詰められているようだった。
 私はまっすぐに男爵夫人の目を捉え、冷静に返す。

「先ほども申し上げましたが、私はベガ様からそのような話を聞いたことがありません。そもそも、そんな暇などなかったと本人も言っています。どこから出たデマなのか、私も気になりますが……」

「まあ、アルタイ様たちが公にしないだけかもしれませんもの。実際、離婚が決まっていれば、そのように言えないのも当然でしょう?」

 ここにいる貴婦人たちは、私がどんな返答をするか面白がっている気配がある。
 どうやら噂を煽り立てて、私たちの“仮面”を剥がそうという魂胆らしい。

(いい加減にしてほしいけれど……ここで激昂したら、相手の思う壺ね)

 私は苦笑しながら、あえて落ち着いた声色で返す。

「仮に、ベガ様が北方で誰かを見初めていたとして、今ここに連れてくる理由があるのです? 私には想像がつきません。あの方は領地を守ることに全力を尽くしてこられたからこそ、いまも右肩に大きな傷を負っている。少なくとも私の見解では、“浮ついた気持ちを抱く余裕などなかった”と断言できますわ」

「まあ……随分と旦那様を信頼していらっしゃるのね? でも、女というものは、隠しておきたいことほど必死に否定するものですわよ?」

 男爵夫人の言葉に、周囲の婦人たちからクスクスと笑いがこぼれる。
 ――くどい。いい加減にしてもらえないだろうか。私は内心で苛立ちを覚えつつ、それを押し殺す。

「私が否定してもしなくても、きっとあなた方は面白い話として噂を広めるのでしょう? ならば、もう私から言えることはありません。お好きにご想像なさってくださいませ」

 そう言い放ち、私は踵を返す。しかし、そのとき男爵夫人の舌鋒は一層鋭くなった。

「お待ちなさいな! そんなに余裕ぶっていられるのも今のうちかもしれませんわよ? もし、本当に辺境伯様が別の女性をお連れになったら、あなたはどうするのかしら? まさか“自由にどうぞ”なんて器の大きいことは言えないでしょう?」

 一瞬、私は足を止めた。
 ――“自由にどうぞ”それは、かつて私がベガに対して放った言葉に酷似している。戦地へ向かう直前、「戦地で女でも作ってくれたら、心置きなく別れられます」と言った、あのときの自分の言葉。
 それを思い出してしまい、胸の奥がひやりとする。

「……失礼します」

 私はそれ以上は何も言わず、その場を離れた。周囲の貴婦人たちの視線を背中に感じながら、溜息を噛み殺す。
 (ああ、本当に面倒な人たち……。でも、あの言葉を思い出すと自分が腹立たしい。あのときは本気でそう思っていたのに、いまはどうなのだろう?)

7.広まる動揺と、アルタイの決断

 その後も、私は公爵令嬢としての務めを果たしながら会場を行き来し、来客たちに挨拶を交わす。
 しかし、先ほどの男爵夫人とのやり取りが頭から離れない。どこか苛立ちと不安が入り交じり、せっかくの宴なのに気が晴れない。

「アルタイ様、失礼いたします。少しよろしいでしょうか?」

 侍女のリュネが慌てた様子で近づいてきた。彼女の顔には焦りの色が浮かんでいる。

「どうしたの、リュネ? そんなに急いで」

「じつは、先ほどレオさん(ベガ様の従者)が、辺境伯様がまた傷の痛みを感じているかもしれないと仰っていて……。それなのにご本人は“平気だ”とおっしゃって、大広間でお客様方とお話されているようです。もしまた痛みが酷くなると大変ですので、アルタイ様からも少し休むように促していただけませんか?」

「わかりました。すぐに向かいます」

 私はリュネに礼を言い、急いで大広間の中央付近へと足を運んだ。
 すると、そこにはやはりベガがいて、軍部の偉い方々と談笑している。彼の顔には笑みが浮かんでいるものの、肩のあたりにわずかな違和感が見て取れた。

(やっぱり無理をしているのでは……)

 私は彼らの会話に割って入らぬよう近づき、タイミングを図る。すると、軍の高官の一人が「ああ、アルタイ様。ちょうどいいところに!」と手招きした。

「ベガ殿には、北方戦役での奮戦ぶりを詳しく伺っておるのですよ。公爵令嬢としても誇らしいでしょうな」

「ええ、私などが言うまでもなく、ベガ様は立派に任務を全うされました。……その功績を今夜讃えることができて、私も嬉しく思います」

 そう答えながら、私はベガの横顔を覗き込む。すると、やはりどこか苦しげな表情を浮かべているのがわかった。
 私が少し視線で「大丈夫?」と問いかけると、彼は「大丈夫だ」と首を小さく振る。だが、その額にはうっすらと汗がにじんでいる。

 周囲に人が多すぎるので、迂闊に「休んでください」と言い出すこともできない。私は気を揉みつつも、話がひと段落するのを待つしかなかった。
 しかし、軍高官の興味は尽きず、さらに話を続けようとしている。ベガがそれに応じているうちに、刻一刻と彼の負担は増しているはずだ。

(もう我慢できない。ベガ様の体が優先だわ)

 意を決して私は口を開き、さりげなく会話を遮る。

「皆様、楽しげにお話しされているところ恐縮なのですが、どうか少し私どもにお時間をいただけませんか? せっかくの機会ですし、私ども夫婦も別室で来客対応をしなくてはならないものですから」

「おお、そうだったのか。これは失礼した。……ベガ殿、また改めて話を聞かせていただけるとありがたい」

 高官たちが快く応じてくれたので、私はほっと安堵する。軽く会釈をしてから、ベガの腕をそっと取り、なるべく自然な動作で彼を人混みの外へと誘った。

「……すまない、アルタイ。助かった」

「いいえ。そろそろ休んでください。顔が青ざめていますわ」

「そうか? ……ああ、少し肩が疼くが、まだ我慢できないほどではない」

 彼は強がっているが、その声は微かに震えているように感じる。私は焦る気持ちを抑えながら、使用人に頼んで先ほどの控え室を空けてもらうよう手配した。

8.二人だけの小部屋で

 控え室へ入ると、ベガは先ほどよりもしんどそうな表情をして、ソファに身体を沈めた。
 私はすぐに医療道具を持って来るようリュネに頼む。彼女は「かしこまりました」と足早に部屋を出ていった。

「すみません、我慢しすぎです。痛むなら痛むって、ちゃんと言ってください」

「皆の前でそんな顔はできないだろう。……けど、さすがに限界が近かったな」

 ベガは苦笑しながら、奥歯を噛みしめるようにして肩を押さえる。私はそっと彼のマントを外し、上半身を軽く支えるようにして背を預けさせた。

「呼吸が苦しいですか?」

「いや、そうでもない。肩と背中に鈍い痛みがあるだけだ。……少し横になると楽になるかもしれん」

「わかりました。今、クッションを持ってきますね」

 私はソファに重ねるクッションを取ろうと少し離れかけた。しかし、その瞬間、彼は私の手首を掴む。驚いて振り向くと、切なそうな視線が向けられていた。

「アルタイ……少し、そばにいてくれないか?」

 その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。
 この“無骨な辺境伯”が、弱いところを見せながらも私を頼ってくれている。それが妙に愛おしくて、私は小さく頷いた。

「ええ、わかりました。……すぐ隣に座りますから」

 クッションを彼の背中に当てながら、私もソファの端に座る。彼は苦しげな息をつきながらも、私の手を離さない。
 しばらくのあいだ、私たちは言葉も交わさず、ただ静かに呼吸のリズムを整えていく。

「……すまないな。せっかくの宴会なのに、こんな状態で」

「謝らないでください。戦地で大きな傷を負ったのだから、無理は禁物です。そもそも私のほうが、もう少し気遣って差し上げるべきでした」

「お前は十分すぎるほど俺を気遣ってくれているよ。むしろ、俺がもっと早く休めばよかったんだ。……ほんと、こんな風に誰かに心配されるのに慣れてなくてな」

 自嘲気味に言うベガを見て、私は心が痛んだ。
 彼はずっと北方の荒れ果てた戦場で暮らし、絶えず危険と隣り合わせの生活を送ってきた。そんな場所では、弱音を吐くことなど許されなかったに違いない。

「ベガ様、私は貴方の妻ですよ。貴方が弱い姿を見せても、私は軽蔑したりしません。……むしろ、いつでも頼ってほしいと思っています」

 その言葉に、ベガは微かに目を見開く。そして、少しだけ力を込めて私の手を握りしめる。

「……ありがとう、アルタイ。お前がいなかったら、俺はとっくに心が折れていたかもしれない」

 一瞬、言葉に詰まる。ここまで率直に感謝の気持ちを向けられると、胸が熱くなる。
 私たちは、これまで“仮面夫婦”として距離をとりながら歩んできた。でも、その仮面の下には確実に何かが芽生えている――そう確信させられた。

 やがてリュネが治療師と薬箱を運んできて、私たちは少し離れる。治療師が彼の肩をチェックし、鎮痛の薬を投与してくれる手筈だ。
 その間、私は「大丈夫ですよ」とベガに微笑みかけながら部屋の片隅へ移動する。

(もし彼が完治したら、私はどうするのだろう? このまま離婚せずに一緒にいるなら、北方の領地へ行く道もある。だけど、公爵家の事情もあるし……)

 頭がぐるぐると回り始める。しかし、今はとにかく彼に無理をさせたくない。大きな決断は宴が終わってからでも遅くはない――そう自分に言い聞かせていた。

9.宴の終わり、そして

 治療師の手当てのおかげで、ベガの痛みはどうにか落ち着いた。
 とはいえ、もう表に出るのは辛いだろうということで、彼はそのまま部屋で静養を続けることになった。父や第三王子にも事情を伝えると、彼らは「仕方ない、よく頑張った」と労わってくれた。

 一方で宴会そのものは、私や父が中心となって最後まで盛り上げ、無事に幕を下ろした。夜半を過ぎても会場には余韻が漂い、興奮冷めやらぬ空気のまま来客たちが帰宅していく。
 私も最終的な見送りを終え、ようやく自室へ戻ったときにはすでに深夜を回っていた。

「……疲れたわね。けど、なんとかうまくいった」

 鏡台に腰を下ろし、乱れた髪を軽く解きほぐす。ドレスも重く、首周りが凝っているのを感じた。
 こんな大規模な宴を仕切るのは骨が折れるけれど、王族や貴族たちの反応は総じて好評だったようだ。父も喜んでいるに違いない。

(ベガ様は、今夜は静かに休めているかしら)

 そう考えると、急に胸が締めつけられる。あの人が痛みに耐えてまで人前に立とうとしていたのは、きっと周囲に弱みを見せたくなかったからだろう。
 でも、もうそんな意地を張らなくてもいい。少なくとも、私は彼がどんな姿になろうと受け止めるつもりなのだから。

 ――コンコン、と控えめなノックの音。

「どなた?」

「アルタイ様、リュネです」

「どうぞ」

 扉を開けて入ってきたリュネは、どこか微妙に照れくさそうにしている。

「ええと、先ほどベガ様の部屋を覗いてきたのですが、そこにレオさんがいらして、ベガ様が“アルタイを呼んでくれ”と仰っているそうです」

「ベガ様が私を?」

「はい。お休みの時間に申し訳ないのですが、どうなさいますか?」

 私の心臓は一気に鼓動を早める。
 先日、ベガは「宴が終わったら話したいことがある」と言っていた。それを実行に移すつもりなのだろうか。

「もちろん、すぐに行きます。少しドレスを着替えてからでも、間に合います?」

「お急ぎでなくても大丈夫だと思いますが……ベガ様も、ある程度は落ち着いておられるようですし。ただ、『なるべく早く』とは言われました」

「わかったわ。ありがとう、リュネ。着替えの手伝いをお願いできる?」

「かしこまりました。すぐにご用意いたしますわ」

 リュネと手早くドレスを脱ぎ、楽な部屋着に着替える。薄暗い夜を歩くことを考慮して、肩にケープを羽織ってから部屋を出た。
 廊下を進むうちに、さっきまでの疲れが吹き飛ぶような緊張と期待が入り混じった気分に包まれていく。

(……今夜、私たちは何を語り合うのだろう。もしも、もしもあの人が“離婚はしない”と言ってくれたら、私は――)

 そう考えるだけで、胸がドキドキする。だけど反面、万一「お前を自由にしてやる」と告げられたらどうしよう、という恐怖もある。
 さまざまな思いを抱きながら、私はそっとベガの部屋の扉をノックした。

「……アルタイです。入ってよろしいでしょうか?」

「どうぞ」

 くぐもった声が返り、扉を開ける。そこには、ベガがベッドに腰かけたまま私を見つめていた。灯りは控えめにともされ、部屋の中は静寂に包まれている。

「失礼します。体の具合は……もうよろしいですか?」

 私が声をかけると、彼はゆっくりと息を吐き、僅かに口元を歪めた。

「正直、まだ痛む。だが、今は不思議と頭が冴えているんだ。だから、お前と話したい。……あのとき言っただろう、“宴が終わったら、お前と話がしたい”って」

「はい。私も、そのつもりできました」

 そう言って、私は彼のそばへ歩み寄り、隣に腰を下ろす。すぐ至近距離に彼の体温を感じると、心臓の鼓動がいっそう早まった。

 果たして、これから彼は何を言うのだろう――私は息を呑んで、彼の言葉を待つ。



1.妙な噂のはじまり

 ベガ・アルシェール辺境伯侯爵が戦傷を負って帰還してから、すでにひと月が経過した。
 公爵邸にて静養を続ける彼は、幸いにもかなり回復が進み、いまや日常生活に支障が出ないほどに体力を取り戻しつつある。もっとも、まだ激しい運動や長時間の移動は厳禁だが、それでも最悪の事態を免れたことは喜ばしい。

 私は“妻”として、彼の看護を日々続けていた。侍女や治療師の手を借りることはあっても、最低限の身の回りの世話には自分も直接関わるようにしている。

 なぜそこまでしているのか――自問自答するたびに、はっきりとした答えが出せない。
 だが、放っておくことがどうにも気がかりでならないのだ。以前の私であれば「看病は侍女たちに任せておけばいい」と割り切れていたはず。それなのに、彼が苦しむ姿を見ると、どうしても手を貸さずにはいられない。

 そんな私たちの様子を、周囲の人々はどう見ているのか。
 王都の社交界においては、近頃こんな噂がささやかれ始めていた。

> 「辺境伯様は、どうやら戦地で誰かに心を移して戻ってきたらしい」
「戻ってきても離婚されると聞いたけれど、公爵令嬢アルタイ様はよほど冷たいお方なのでしょうか?」



 なぜそんな根拠のない話が広まっているのか、私には皆目見当もつかない。
 だが、それはおそらく“ベガがずっと帰ってこなかった理由”と“私たちの間に子どもがいないこと”などを結びつけた、下世話な憶測なのだろう。
 実際、私はいずれ離婚が避けられないと承知していたし、彼だって「戦地で女を作ったらそれを理由に離婚してくれ」というようなことを口にしていた。
 ――とはいえ、今の彼を見る限り、そんな相手を本当に連れ帰るはずもなかったのだけれど。

「夫人、今日の午後はアンナール子爵夫人の茶会がございます。どのように振る舞われますか?」

 朝食を済ませたあと、侍女のリュネが予定を確認しに来た。
 私は少し考え込んでから、微笑して答える。

「もちろん行くわ。こういう機会を逃すと余計に変な噂が広まるかもしれないし、最近はあまり顔を出していなかったものね」

「かしこまりました。ただ……おそらく、茶会の場で色々と詮索される可能性が高いかと思います」

「ええ、わかってる。むしろ先手を打って、自分から情報を出しておいたほうがいいかもしれないわ」

 私は意を決して出かける支度に取りかかった。こういうときには毅然とした態度でいるほうが、周りの好奇の視線に振り回されずに済む。
 それに、私は公爵令嬢として“王都の貴族社会の一角”を担う身でもあるのだ。政略結婚であれなんであれ、辺境伯夫人という立場は今の私にとって揺るぎないものであるはず。
 まったくの無視を決め込むよりも、事態をコントロールするほうが建設的だろう。


---

2.貴婦人たちの探り合い

 アンナール子爵夫人の邸宅は、王都中心部の華やかな街並みの一角に立っている。
 そこへ姿を見せた私は、さっそくたくさんの貴婦人たちに囲まれてしまった。彼女たちは上品な笑顔を浮かべながらも、目は好奇心に輝いている。

「まあまあ、アルタイ様。お久しぶりですわ。最近はあまり顔を出されないから、どうしていらっしゃるかと思っていましたのよ」

「辺境伯様がお帰りになったそうですね。ご負傷なされたとか……まあ、お気の毒ですわ」

 口々に言われる言葉は、一見すると同情を装っている。だが、その裏側には「本当のところはどうなの?」「あの噂は本当なのかしら?」という意図が透けて見える。
 私はそれを承知の上で、丁寧に微笑み返す。

「ええ、おかげさまで随分と回復しましたの。戦地での負傷ですから心配しましたけれど、今は治療師や侍女たちの力もあって、歩くことは支障なくできるようになりました。ほっとしておりますわ」

「まあ、それは何よりですわね。そろそろ、アルシェール侯爵様も公の場にお顔を出されるのでしょう?」

「そうですわね。まだしばらく静養が必要と言われていますが、いずれは王宮にも挨拶に行く予定ですわ」

 そんな風に、穏やかなやり取りで会話を進めていく。
 しかし、貴婦人たちの目的は私たち夫婦の近況報告では終わらなかった。質問はどんどん深いところへ踏み込もうとしてくる。

「ところで……その、離縁なさるとかいう噂を耳にしたのですけれど、まさか、そんなことはありませんわよね?」

「ええ、本当に。まことしやかな噂が飛び交っておりますけれど、私たちには信じられなくて……」

 ふわりと広がる甘いハーブティーの香りとは裏腹に、空気がピリッと張り詰める。
 私は一瞬、口元の笑みを崩さぬまま心の中で深呼吸をした。ここは慌てず、堂々と返したほうがいい。

「ご心配をおかけしているようですが、現時点で私たち夫婦にそのような予定はございませんわ。確かに、辺境伯様は長らく戦地にいらっしゃいましたから、中には妙な勘違いをされる方もいるのでしょう」

「まあ……そうだったのですか。安心しましたわ」

「けれど、実際に戦地で新しい恋人を作っていらっしゃった、なんて噂もありますものね?」

「噂は噂ですわ、皆様。お気になさらなくてよ」

 私は笑顔を湛えたままさらりと流す。そして、あえて何も否定も肯定もしないまま、次の話題へと移ってしまう。
 貴婦人たちにとって、この程度の明言しない返答は「探ってもこれ以上、何も出ないかもしれないわね」と思わせる効果がある。変にうろたえたり否定しすぎると、逆に怪しまれるからだ。

 そうして、ひとしきり周囲の質問を受け流した後、私は席を立つ前にわざとこう付け加えた。

「皆様、ベガ様へのご心配とお気遣い、本当にありがとうございます。もし辺境伯様が社交界に戻られましたら、ぜひまた皆様とご一緒させていただきたいですわ。では、失礼いたしますわね」

 遠回しに「もうすぐ夫は公式の場に復帰するので、噂話はほどほどに」というメッセージを暗に伝えたつもりだ。
 こうして、表立っての探り合いは一応の収束を迎えた――が、もちろん噂が完全に消えるわけもない。


---

3.夫人の帰宅と、不満げな夫

 茶会を早めに辞去して公爵邸へ帰ってみると、ちょうど回廊の先にベガの姿が見えた。
 リハビリを兼ねて建物内を散策しているらしく、数人の従者に付き添われながら歩いている。といっても、だいぶ足取りはしっかりしてきている印象だ。

「おかえり、アルタイ。……ずいぶん早い戻りだな?」

 私に気づいた彼は、少し驚いた様子で声をかけてきた。
 その表情を見る限り、まだ痛みはあるものの、以前のような疲弊感は薄れているようだ。

「ええ、あまり居心地の良い場でもありませんでしたし、さっさと切り上げてきましたわ。無理して長居すると、私の方が疲れてしまいそうだったので」

「……そうか。やはり、例の噂について色々聞かれたのか?」

 ベガの声には、わずかに苛立ちが混ざっている。こういうところを見ると、彼も無関心というわけではないのだろう。
 私はかすかに微笑んで、肯定の意を示す。

「仕方ありませんわ。戦地へ行っていた男性が重傷を負って帰ってきたうえ、長年にわたり不在……そういう状況ですもの。周りも面白がって騒ぎ立てたがるのでしょうね」

「そうかもしれん。だが、俺は別に“戦地で女を作った”わけでもなんでもない。……まあ、お前に説明する必要もない話だが」

「貴方が作ったかどうかは別にいいんです。でも、周りには『本当に作ったかもしれない』という可能性だけで十分なのでしょうね」

 私はわざと飄々とした口調で返す。そこには少しばかりの皮肉が混ざっていたが、ベガはそれを汲み取ったのか、気まずそうに視線を逸らした。

「……言ったはずだ、“もし俺が女を作ったら心置きなく離婚してくれ”と。だが、実際にはそんな相手などいないし、むしろお前と離婚する理由が見当たらなくなっている、というのが今の状況だな」

 その言葉に、私は一瞬ドキッとした。
 “離婚する理由が見当たらない”――ならば、どうするのだろう。
 彼は自分なりの義務感や責任感から「妻を解放しよう」と言っていたのに、今やそれが曖昧になってきている。私もまた、彼との離婚を本当に望んでいるかどうか、自分の気持ちがわからなくなっていた。

「……噂は放っておきましょう。どうせすぐに別の話題に移り変わります。私たちは私たちなりに振る舞えばよいのですから」

 そう言い残して、私は彼に背を向けるように踵を返した。
 その背中に向かって、ベガは何か言いたげだったが、結局声を上げることはなかった。


---

4.主従の思惑と幼馴染の登場

 公爵邸では、私の侍女のリュネや、治療師、それにベガの従者であるレオと呼ばれる青年などが、毎日のように彼の身辺を世話している。
 レオは元々、北方でベガと行動を共にしてきた武官らしく、その忠誠心は高い。しかし、ベガにとっては親友に近い存在でもあるらしく、主君に対して砕けた口調で接することもしばしばだ。

 ある日の午前、私は廊下でレオと出くわした。彼は少し困ったような表情で頭をかいている。

「アルタイ様、こんにちは。……あの、ベガ様のことなんですが、最近どうも落ち着かないご様子で」

「落ち着かない?」

「ええ。リハビリにも真面目に取り組んではおられるのですが、夜になると溜息ばかりついているんです。俺が“どうなさったのです?”と聞いても、“いや、何でもない”と返されるばかりで……」

 私はその話を聞きながら、(夜に溜息、ね……)と首を傾げた。
 確かに、私が寝室を訪れるのはせいぜい寝る前までで、そのあとは彼を一人にしていることが多い。看護にかこつけて長居するのも、かえって気が引けるからだ。

「なるほど、もしかすると傷の痛みがぶり返しているのかもしれませんね。治療師に相談してみましょうか?」

「いや、その可能性は低いかと。痛み止めの薬もちゃんと飲んでおられるし、何よりベガ様は痛みに強い男です。傷が痛む程度で溜息をつくとは思えません」

「では、一体どういう理由で……」

 そこまで言いかけたところで、邸の玄関あたりが騒がしくなった。誰かの来訪があったようだ。

「失礼します! ルイーゼ・ディルフェン侯爵令嬢が、アルタイ様にお会いしたいと……」

 使用人の声が響き、私は思わず目を瞬かせる。ルイーゼ・ディルフェン令嬢といえば、私の幼馴染ではないか。長らく地方の領地に引きこもっていたと聞いていたが、なぜ急に?

「ルイーゼが? 珍しいわね……。すぐに客間へ通してください」

 そう指示すると、使用人は慌ただしく走り去っていった。
 私はレオに向かって小さく会釈してから、ルイーゼを迎えるために急ぎ足で客間へ向かう。


---

5.再会と懐かしき友情

「アルタイ! 本当にお久しぶりね、元気だった?」

 客間の扉を開けると、そこには鮮やかなグリーンのドレスを身にまとったルイーゼ・ディルフェン令嬢がいた。明るい栗色の髪と、はじけるような笑顔は昔と変わらない。
 私は自然と頬が緩み、幼い頃の思い出が蘇る。

「本当に、久しぶりね。王都に来ているとは聞かなかったけれど?」

「そうなの。実はあまり公にできない事情があって、しばらく地方に引きこもっていたの。でも、その話はいいの。今日はあなたにどうしても会いたくて、我慢できずに来てしまったわ」

 ルイーゼは私の手をしっかり握りしめる。
 昔から彼女は社交界の噂話に疎く、むしろ自分の興味あることだけに熱中するマイペースな性格だった。公爵家や王族との関わりも特に気にせず、自由奔放に生きているイメージが強い。
 だからこそ、私も彼女との会話は気を張らずに済むのだ。

「それで、あなたは今……辺境伯夫人なのよね? 聞いたわ、ベガ・アルシェール侯爵って、あの北方の勇者様でしょう? まさかアルタイが彼と結婚しているなんて、びっくりしたわ!」

「ええ、まあ。色々と事情があったのよ。ご存じのとおり、私にはあまり恋愛とかそういうロマンチックな要素は縁がないし」

「あら、それはどうかしら。あなたがそう思い込んでいるだけかもしれないわよ?」

 意外に鋭いことをさらりと言う彼女に、私はむしろ笑ってしまう。
 ほどなくして使用人がティーセットを運び込み、私たちは懐かしい話題を交えながらお茶を楽しんだ。

 しばらく近況報告に花を咲かせていたが、ルイーゼはふと真剣な面持ちになり、声を潜める。

「ねえ、アルタイ。実は私、ある事情で王都に戻ってきたんだけど……聞くところによると、あなたとベガ侯爵が離縁するかもしれないって話が広まっているみたいね?」

「……そちらにも届いてるのね。確かに、そんな噂があるわ」

 私は曖昧に笑ってやり過ごそうとしたが、ルイーゼの目は真っ直ぐにこちらを見据えている。

「やっぱり、そうなんだ。でも、本当に離婚するの? あなたはそれでいいの?」

「……正直、自分でもよくわからないの。これまで私は、政略結婚なんてこんなものだって思って割り切ってきたから」

「そっか……」

 ルイーゼは目を伏せ、しばらく考え込むように沈黙する。
 私はその間、ティーカップを持ち上げて一口飲み、心を落ち着けようとした。

(離婚か……。いずれはそうなると、最初から思っていたのに、どうして今さら迷っているのかしら)

 ルイーゼはやがて顔を上げ、柔らかな笑みを浮かべる。

「私が口出しするようなことではないかもしれないけど、あなたには幸せになってほしいの。昔から一歩引いて物事を見てしまうアルタイが、いつか本当の意味で心から笑えるといいなって」

「……ありがとう。ルイーゼ」

 その言葉は素直に嬉しかった。私は幼馴染に向かってうなずき、その手を取り返す。
 それからしばらく、ルイーゼはほかの話題に移り、私たちは昔話に花を咲かせた。
 やがて彼女は「また近いうちに会いましょうね」と言い残して邸を後にした。


---

6.揺れる心と、“妻”の役目

 ルイーゼと再会したことで、私の中の迷いはさらに深まった。
 以前は「どうせ離婚するのだから、仮面夫婦でいるほうが楽」という思考だったのに、今は“仮面の下”で何かが形を成し始めている。
 彼のことを気にかけて、傷の回復を願って、少しでも笑顔でいてほしいと思っている自分がいるのだ。

 夜の寝室を訪れると、ベガは薄暗がりの中で手紙を読んでいた。リハビリが進み、肩の痛みもだいぶ和らいだようで、少しの時間なら姿勢を保って机に向かえるようになったらしい。

「……どなたからの手紙ですか?」

 私は遠慮がちに声をかける。すると、ベガは少し驚いたように顔を上げ、手紙をたたむ。

「北方の領地からだ。残党狩りがまだ続いているらしく、俺が戻るのはいつ頃か、と聞いてきている。王宮からの正式な許可が出れば、近いうちに向かうことになるだろう」

「……そうなんですね」

 心の奥で微かな痛みが走る。
 そうだ、彼は辺境伯として本来の領地へ戻るのが当たり前だ。王都での治療は一時的なものに過ぎない。彼の傷が回復すれば、彼は再び北方へ帰ることになるのだ。
 そうなれば、私たちはどうするのか。このまま離婚して別れるのか、あるいは私も北方へ同行するのか――いや、そんな話は今まで一度もしていない。

「アルタイ、お前こそ珍しいな。こんな時間に俺の部屋へ来るなんて。何かあったのか?」

 ベガが怪訝そうに尋ねる。私は少しだけ躊躇してから、椅子に腰を下ろし、正面から彼を見つめた。

「……私、貴方に聞きたいことがあるのです」

「何だ?」

「たとえば、もし貴方が北方へ戻ったら……貴方の“妻”として、私
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