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第7話 蒼乃④【期待と記憶と溺れる夜】
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温度を肌で感じるような、むき出しの、躍動する筋肉。
見ないように眼を反らしても、優吾くんの滑らかな素肌が何度も視界に入り、頬が火照る。
そんなことを繰り返す私は、どうしようもなくはしたない。
そして、そんな私に気が付かないふりをしてくれていた優吾くんの視線が……どろりと重たくなる瞬間を見てしまった。
手を、伸ばされる。
大きくて、知らない男の人みたいな手。
指先に触れて、関節をなぞり、絡まる。
たったそれだけの接触で、引いていたはずの一線が、波紋のように揺らめいた。
「あの、さ……蒼乃ちゃん……キスしていい?」
熱っぽい視線を正面から向けられて、言葉を失う。
「あ……」
咄嗟に、答えることができなかった。
じっとりと湿度を上げるような、空気そのものが重たく……男女の匂いがたち込める。
「気、の迷い、じゃないかな」
喉から振り絞るように出た言葉は、明確に、優吾くんを傷つける。
わかっていても、止められない。
「……は?」
「私のこと、あ……憧れていてくれたのは知ってるよ? でも、こういうことをする相手は、わ、私じゃだめなんじゃ……」
彼の眼を、見ることができない。
私と優吾くんを取り巻く空気が、急速に冷え込む。
「間違えてない」
「ちょっと、冷静に……」
「ただの据え膳で襲ってやろうなんて思ってねぇよ」
乱暴な口調を、初めて向けられた。
優吾くん、怒ってる。
どうしよう。
怒らせた。
わかっている。
なにもかも私が悪い。
年頃の男の子を夜に家にあげて、こんな距離で、こんな状況をつくって……。
そもそも、思わせぶりなデートに乗ったのだって悪い。
約束を守るだけの名目なら、普通に、もっと、お互いを意識しないようにすることだって……!
「蒼乃ちゃんは、俺が怖いの?」
この場から逃げることしか考えていない私に、優吾くんが投げかけた言葉は、深く、突き刺さる。
「大人の男になった俺じゃ、だめ?」
静寂を破る優吾くんの鋭い眼は、どこか遠くを、私を通り越した、その先を見つめているみたいだった。
ふっと、緩むように笑う。
切なさを、噛み締めたような顔。
「昔のままの、俺がいい?」
優吾くんが、心の機微に敏感なのはわかっていた。だからこそ、その一言は、私の中で深く刺ささり、どろりと肉まで沁み込むんだ。
違う、違うよ。
私は、あなたを、可愛がるだけの、都合のいい男の子になんかしたくない。
そう、続けたいのに。
言葉が形にならない。
制御しきれない願望が、べたべたと私の脳裏を這い回る。
だって、
昔から無条件に私を慕ってくれた男の子ならば、
言い寄っては離れていく不愉快で不躾な男たちのように……
私の価値を損なわせることに躍起だった父のように、
露骨に棘のある言葉で私を傷つけたりしないんじゃないかって……
再会した日からずっと思ってしまったから。
「……俺は、どんな形であっても蒼乃ちゃんのいちばん近くにいたい。だから、どんな風にでも求めて欲しい」
私の眼を覗き込み、私の手のひらに顔を寄せる。
すり、と。滑らかな肌。
少し硬い髪。
猫を真似たようなその仕草は、まるで愛玩動物のようでーーぞくっと。
背徳と欲望が湧き上がる。
雄々しくも、大人しく「待て」をする。そんな彼に、貪られたら、どれほど気持ち良いだろう。
ふっと、照明が落ちるように、どこまでも昏く、深い夜のような双眸が私を射抜く。
「嫌がることはしないから。逃げないで。お願い。俺から、逃げたりしないで」」
……知らない。
優吾くんの、一縷も見逃さないような獣のように鋭い眼も。
組み敷こうと思えば簡単な状況で、歯を食いしばり理性を手繰り寄せる扇状的な表情も。
知らない男の人になった優吾くんが、そこにいる。
「言いたくないなら、深くは聞かない……でもさ、蒼乃ちゃん。ひとつだけ聞かせて。蒼乃ちゃんが踏み止まるのは、相手が俺だから? それとも前に、……誰か、他の男に嫌なことをされたの?」
なんで。
なんで、なんで、なんで!
隠していたはずのものを、いちばん知られたくないあなたが、剥がしてしまうの……?
喉が渇いた。ひりひりと、痛い程。
言わなきゃ。言いたくない。
知って欲しい。知られたくない。
触れて欲しい。触れないで。
私を、拒絶しないで。
言葉の成れの果てが、いつまでも形成できない。そのくせ、涙だけは溢れそうになる。
「……蒼乃ちゃんは、本当は、なにが怖いの?」
優吾くんの手は、私の頬に伸びて、耳を伝い、うなじへゆき、髪に埋まる。
優吾くんの匂いがする。お日様みたいに、暖かい。
あんなに雨に打たれたのに、優しくて……その手で触れられた場所、全部が、気持ち良くてたまらない。
誰かの温度が怖くてたまらない私が、あなたのことだけは怖くない。
我慢しなくてはいけないのに、弁えなくてはならないのに。
喉から手が出るほど、あなたに傍に、いてほしい。
「お、男の人……大人の、男の人は、怖い……。な、なじられるのも、思ったのと違うって、期待外れって言われるのも、怖い……」
喉の奥が、ぐぅって、嫌な音を立てた。
夏、そう、あの日もうんざりするほど暑い日で。
耳の奥で日暮の声が聞こえる。
自身の二の腕に這う、あの温度が蛇のようにとぐろを巻いて……ぎゅぅっと、優吾くんにしがみつく。
肺一杯に、優吾くんの匂いを感じるまで、ぞわぞわと湧き上がる、あの男の……。
「こ、高校生のとき、父の、会社の人がうちに来て……庭でバーベキューをしていたの……そのうちのひとりがね、距離が近いのが、ずっと、ずっと嫌だった……それとなく逃げても、ヘラヘラ笑いながら迫ってきて……」
苦しい。
息が、続かなくなりそう。
苦しい、苦しい、ダメだ、吐き出せ。全部、全部!
「う、腕……腕をなぞられたの。日焼けしているの、勿体無いって……に、逃げたの! 逃げたのに、いきなり、覆いかぶさって、それで……! ひ、必死に逃げて、父に抗議して……」
舌が重たい。
胃がひっくり返りそう。
アルコールの臭い、焼けた肉の臭い、饐えた汗の……ちがう、ここにいるのは、優吾くんだ。お日様と、私と同じシャンプー、柔軟剤……優吾くんの匂い……。
溢れる。
私の中の、膿と泥が。
「『ちょっとふざけただけだろう』『それくらいのことで騒ぎ立てるな』『シラけさせるなよ』『腕を掴まれたくらいで』矢継ぎ早に、父に言われたの。…………あの日から、私、男の人の、体温が苦手で……。け、警察学校に入校してから、だいぶ落ち着いてきたから、治ったと思っていて……でも、その後、私、私に告白してくれた人と、手を、繋げなくて……!」
醜いものがぼろぼろとこぼれていくような、ひどい臭いがした。
虚勢の臭いだ。
あなたの前では、頼りになるお姉さんな、蒼乃ちゃんでいたかったのに。
「『それでもいい』って言ってくれたのに、いつのまにか『思ったのと違う』って……。がっかりされて、不機嫌になって、機嫌を取り戻すまで、謝り続けるのも、顔色を伺い続けるのも、もう嫌……」
溢れた本音は、盆には帰れない。
こんなこと、言うはずじゃなかったのに。
「い、痛いのは耐えられるの。性行為が……いつまでも受け入れられないのは、私の問題だから。でも、でもね、それを、『きみは不感症だ』って、『誰のことも受け入れられない身体なんだな』って、拒絶されたのが……しんどくて……」
私に好意を寄せてくれた相手を、自分も好きだと感じた時。
多幸感にまどろみ、世界が明るくなるというのに。
むき出しの皮膚が近くなると、あんなにも離れがたかった存在が、たちまちに一遍してしまう。
呼吸が浅くなり、緊張感が指先まで支配して、皮膚はゴムみたいに無機質で、触れられた場所がぞわぞわした。
最初は「はじめてなんでしょ?」で、済まされた。
二回目は「男に慣れていないんだね。可愛いね」。
三回目は「緊張しているんだね」。
四回、五回……「ねぇ、まだ?」
やがて、吐き気がする。
恋人を受け入れられない私に?
潤わない私に、乾いた指を突き立てるあの人に?
あの人の後ろに……私の腕を掴み、覆いかぶさる、悍ましい男を重ねてしまったから?
あの人の、不機嫌で私を支配しようとする顔が父に似ていたから?
わかっているーー全部、だ。
私は、後に、こっぴどくフラれる。
別れ際
『君は結局、俺のことなんて好きじゃなかったんだよ』
と、吐き捨てられる。
そんなことない、と。
私は追い縋ることができなかった。
きっと、彼はそんな私を、許せなかったんだ。
可愛げがない。
不感症。
誰のことも受け入れられない身体。
君みたいな人間は、恋人なんてつくっちゃいけない。
打ち込まれた言葉の銃弾は、私の体内でどろりと溶けて、指先の隅々まで犯す。
私があの人を好きになったのは、「お前の容姿に価値なんてない」と、呪いをかけ続ける父と真逆のことを言ってくれたからなのに。
もう二度と、私は私のまま、誰かと添い遂げる夜は来ないんだって。
泣いて、泣いて、自分の涙で溺れるくらい、泣いて……夜を一つ、また一つ迎えのに。
私の意識は、あの日に取り残されたまま、じっと蹲ったままなんだ。
★
ーーどれくらい時間が経ったんだろう。
そっと私を引き寄せて、抱きしめてくれる優吾くんに甘えて、彼の肩口に額を置いてしまった。
触れた箇所も、そうでない場所も。
蕩けるように甘く、ふわふわと気持ち良い。
そろそろ、離れなきゃ。
ごめん、か。
ありがとう、か。
惑う私が身を引こうとしたときだ。
「あ……」
ぎゅう、と。
きつくきつく、抱きしめられた。
慰めるために寄り添うそれではなくて、胸が、触れ合って、形をかえてしまうほど、強く。
「優吾、くん……?」
「痛いのは耐えられたって、なに」
「え?」
「耐えなきゃできないようなことは、やっちゃだめだろ。そんなん、ただの暴力じゃねぇか」
顔は見えないけれど、震えるような声音でわかる。
優吾くんは、怒っている。
「あー……クッソ……ごめん、泣かせるつもりはなかった。けどさ……あー、なんだろ、言葉にならんわ」
困惑する私をよそに、ぎゅうぎゅうと抱きしめて、そして
「蒼乃ちゃん……俺のことは、怖い?」
絞り出すような声音に、心臓がきゅっとした。
私が、あなたを、拒絶する日なんて一生来ないのに。
「……怖くない」
「本当に? 男だし、そこら辺の野郎より、体格もいいよ?」
「怖くない。優吾くんのことだけは、いちども、怖かったことなんてない」
再会したあの時ですら、ずっと。
あなたのことだけは、私の全身が肯定している。
優吾くんは「そっか」と頷いた。
「よかった」とも。
そして、すぅううう、と思い切り深呼吸をして……。
がばっと、身体を放し、正面から向き直るんだ。
「あのね。俺、童貞なの」
「……うん?」
待って。
それは、告白……?
驚き過ぎて涙が引っ込んだ。
「テクニックとか、磨きようもないというか、素人です。でもね、蒼乃ちゃんのことは元カ……歴代クソ野郎どもの誰よりも絶対好きです」
「歴代というほどいないよ……」
「俺、男として、魅力ない?」
「それはない! すごく優しいし、格好いいし、でも……」
「年齢差とか、幼馴染だから刷り込み効果なんじゃとか。そういうの聞きたくねぇよ? この期に及んで俺の気持ちを疑わないで」
「あ……ごめ……ん」
「……とはいえ、信用はないと思う。だから、蒼乃ちゃんがさ、欲しいって、本気で思って、身体がそうなるまで、絶対に本番は我慢するから……蒼乃ちゃんに触れさせて欲しい。蒼乃ちゃんが『誰のことも好きになれない身体』じゃないって、俺に証明させて」
こういうとき、わかりやすく弱くなれたらいいのに。可愛く甘えて、彼を喜ばせられたらいいのに。
どういう顔をしたらいいんだろう。
どうしたら、優吾くんは……。
震える唇に、彼のそれが、重なった。
「……俺に、好かれようとか、考えないで」
一瞬、触れるだけの、柔らかいキス。
「どんな蒼乃ちゃんのことも好き。俺がいちばん、絶対に」
空気の一切も許さない、重たいキス。
角度を変えて、やわらかく、沈むように、深く……。
交わるということが、どういうことなのか、触れ合う微熱に身体が教え込まれる。
「ん……ふ、……んぅ……」
食まれた唇が熱い。
ふにふにと弄ばれるようにすると、下腹部がじんわりと火照る。
すり、と皮膚がふれあうと、恥ずかしいのに、確かな気持ち良さを求めてしまって、じんじんとした疼きに眼が潤んだ。
「……可愛い……口、あけて?」
キスの最中も、じっと見つめられていたんだって、このときわかった。
やめて、見ないでって、言いたいのに、熱っぽい視線に逆らえない。
私を見る目が幸せそうだなんて、ずるい。
拒むことなんて、できなくなる。
「ん……」
恐る恐る口を開ければ、ぬるりと口内に入ってくる。
初めて触れた優吾くんの舌は厚く、すごく太く感じた。
「あけて?」なんて、可愛くおねだりしたくせに、口内を蹂躙するように這いまわり、歯列をなぞって……上顎をすり、と擦る。
「ふ、ん、んんっ……!」
びり、って。
くすぐったいような、気持ちいいような、ちょっとぞわってする、甘い痺れが背筋に走る。
なんで? 触れられているのは上顎なのに、背筋と、お腹の下が、じんじんするの……?
「あ、む……んぁ……あぁっ」
口の端から溢れる唾液がぬぐえない。
それどころか、優吾くんが全部からめ取ってしまう。
舌先でこちゅこちゅとほじるように舐められるのも、舌の腹ですりすりと擦られるのも、腰が砕けそうになって……!
ぢゅう、と。
キツく舌を吸われた瞬間に、身体の奥がひどく、きゅんって……収縮した。
暴れる心臓の鼓動は、苦しいのに気持ちいい。
優吾くんの汗の匂いにくらくらして、皮膚の温度に興奮している。潜められた眉間の皺が……求められていることがわかる表情に心臓がきゅんと甘く痛むの。
「蒼乃ちゃん……可愛い……キス、下手なの、すげぇ興奮する……」
耳元で囁かれた瞬間、もうだめだって思った。
私、優吾くんに食べられたくて、たまらないんだ……。
見ないように眼を反らしても、優吾くんの滑らかな素肌が何度も視界に入り、頬が火照る。
そんなことを繰り返す私は、どうしようもなくはしたない。
そして、そんな私に気が付かないふりをしてくれていた優吾くんの視線が……どろりと重たくなる瞬間を見てしまった。
手を、伸ばされる。
大きくて、知らない男の人みたいな手。
指先に触れて、関節をなぞり、絡まる。
たったそれだけの接触で、引いていたはずの一線が、波紋のように揺らめいた。
「あの、さ……蒼乃ちゃん……キスしていい?」
熱っぽい視線を正面から向けられて、言葉を失う。
「あ……」
咄嗟に、答えることができなかった。
じっとりと湿度を上げるような、空気そのものが重たく……男女の匂いがたち込める。
「気、の迷い、じゃないかな」
喉から振り絞るように出た言葉は、明確に、優吾くんを傷つける。
わかっていても、止められない。
「……は?」
「私のこと、あ……憧れていてくれたのは知ってるよ? でも、こういうことをする相手は、わ、私じゃだめなんじゃ……」
彼の眼を、見ることができない。
私と優吾くんを取り巻く空気が、急速に冷え込む。
「間違えてない」
「ちょっと、冷静に……」
「ただの据え膳で襲ってやろうなんて思ってねぇよ」
乱暴な口調を、初めて向けられた。
優吾くん、怒ってる。
どうしよう。
怒らせた。
わかっている。
なにもかも私が悪い。
年頃の男の子を夜に家にあげて、こんな距離で、こんな状況をつくって……。
そもそも、思わせぶりなデートに乗ったのだって悪い。
約束を守るだけの名目なら、普通に、もっと、お互いを意識しないようにすることだって……!
「蒼乃ちゃんは、俺が怖いの?」
この場から逃げることしか考えていない私に、優吾くんが投げかけた言葉は、深く、突き刺さる。
「大人の男になった俺じゃ、だめ?」
静寂を破る優吾くんの鋭い眼は、どこか遠くを、私を通り越した、その先を見つめているみたいだった。
ふっと、緩むように笑う。
切なさを、噛み締めたような顔。
「昔のままの、俺がいい?」
優吾くんが、心の機微に敏感なのはわかっていた。だからこそ、その一言は、私の中で深く刺ささり、どろりと肉まで沁み込むんだ。
違う、違うよ。
私は、あなたを、可愛がるだけの、都合のいい男の子になんかしたくない。
そう、続けたいのに。
言葉が形にならない。
制御しきれない願望が、べたべたと私の脳裏を這い回る。
だって、
昔から無条件に私を慕ってくれた男の子ならば、
言い寄っては離れていく不愉快で不躾な男たちのように……
私の価値を損なわせることに躍起だった父のように、
露骨に棘のある言葉で私を傷つけたりしないんじゃないかって……
再会した日からずっと思ってしまったから。
「……俺は、どんな形であっても蒼乃ちゃんのいちばん近くにいたい。だから、どんな風にでも求めて欲しい」
私の眼を覗き込み、私の手のひらに顔を寄せる。
すり、と。滑らかな肌。
少し硬い髪。
猫を真似たようなその仕草は、まるで愛玩動物のようでーーぞくっと。
背徳と欲望が湧き上がる。
雄々しくも、大人しく「待て」をする。そんな彼に、貪られたら、どれほど気持ち良いだろう。
ふっと、照明が落ちるように、どこまでも昏く、深い夜のような双眸が私を射抜く。
「嫌がることはしないから。逃げないで。お願い。俺から、逃げたりしないで」」
……知らない。
優吾くんの、一縷も見逃さないような獣のように鋭い眼も。
組み敷こうと思えば簡単な状況で、歯を食いしばり理性を手繰り寄せる扇状的な表情も。
知らない男の人になった優吾くんが、そこにいる。
「言いたくないなら、深くは聞かない……でもさ、蒼乃ちゃん。ひとつだけ聞かせて。蒼乃ちゃんが踏み止まるのは、相手が俺だから? それとも前に、……誰か、他の男に嫌なことをされたの?」
なんで。
なんで、なんで、なんで!
隠していたはずのものを、いちばん知られたくないあなたが、剥がしてしまうの……?
喉が渇いた。ひりひりと、痛い程。
言わなきゃ。言いたくない。
知って欲しい。知られたくない。
触れて欲しい。触れないで。
私を、拒絶しないで。
言葉の成れの果てが、いつまでも形成できない。そのくせ、涙だけは溢れそうになる。
「……蒼乃ちゃんは、本当は、なにが怖いの?」
優吾くんの手は、私の頬に伸びて、耳を伝い、うなじへゆき、髪に埋まる。
優吾くんの匂いがする。お日様みたいに、暖かい。
あんなに雨に打たれたのに、優しくて……その手で触れられた場所、全部が、気持ち良くてたまらない。
誰かの温度が怖くてたまらない私が、あなたのことだけは怖くない。
我慢しなくてはいけないのに、弁えなくてはならないのに。
喉から手が出るほど、あなたに傍に、いてほしい。
「お、男の人……大人の、男の人は、怖い……。な、なじられるのも、思ったのと違うって、期待外れって言われるのも、怖い……」
喉の奥が、ぐぅって、嫌な音を立てた。
夏、そう、あの日もうんざりするほど暑い日で。
耳の奥で日暮の声が聞こえる。
自身の二の腕に這う、あの温度が蛇のようにとぐろを巻いて……ぎゅぅっと、優吾くんにしがみつく。
肺一杯に、優吾くんの匂いを感じるまで、ぞわぞわと湧き上がる、あの男の……。
「こ、高校生のとき、父の、会社の人がうちに来て……庭でバーベキューをしていたの……そのうちのひとりがね、距離が近いのが、ずっと、ずっと嫌だった……それとなく逃げても、ヘラヘラ笑いながら迫ってきて……」
苦しい。
息が、続かなくなりそう。
苦しい、苦しい、ダメだ、吐き出せ。全部、全部!
「う、腕……腕をなぞられたの。日焼けしているの、勿体無いって……に、逃げたの! 逃げたのに、いきなり、覆いかぶさって、それで……! ひ、必死に逃げて、父に抗議して……」
舌が重たい。
胃がひっくり返りそう。
アルコールの臭い、焼けた肉の臭い、饐えた汗の……ちがう、ここにいるのは、優吾くんだ。お日様と、私と同じシャンプー、柔軟剤……優吾くんの匂い……。
溢れる。
私の中の、膿と泥が。
「『ちょっとふざけただけだろう』『それくらいのことで騒ぎ立てるな』『シラけさせるなよ』『腕を掴まれたくらいで』矢継ぎ早に、父に言われたの。…………あの日から、私、男の人の、体温が苦手で……。け、警察学校に入校してから、だいぶ落ち着いてきたから、治ったと思っていて……でも、その後、私、私に告白してくれた人と、手を、繋げなくて……!」
醜いものがぼろぼろとこぼれていくような、ひどい臭いがした。
虚勢の臭いだ。
あなたの前では、頼りになるお姉さんな、蒼乃ちゃんでいたかったのに。
「『それでもいい』って言ってくれたのに、いつのまにか『思ったのと違う』って……。がっかりされて、不機嫌になって、機嫌を取り戻すまで、謝り続けるのも、顔色を伺い続けるのも、もう嫌……」
溢れた本音は、盆には帰れない。
こんなこと、言うはずじゃなかったのに。
「い、痛いのは耐えられるの。性行為が……いつまでも受け入れられないのは、私の問題だから。でも、でもね、それを、『きみは不感症だ』って、『誰のことも受け入れられない身体なんだな』って、拒絶されたのが……しんどくて……」
私に好意を寄せてくれた相手を、自分も好きだと感じた時。
多幸感にまどろみ、世界が明るくなるというのに。
むき出しの皮膚が近くなると、あんなにも離れがたかった存在が、たちまちに一遍してしまう。
呼吸が浅くなり、緊張感が指先まで支配して、皮膚はゴムみたいに無機質で、触れられた場所がぞわぞわした。
最初は「はじめてなんでしょ?」で、済まされた。
二回目は「男に慣れていないんだね。可愛いね」。
三回目は「緊張しているんだね」。
四回、五回……「ねぇ、まだ?」
やがて、吐き気がする。
恋人を受け入れられない私に?
潤わない私に、乾いた指を突き立てるあの人に?
あの人の後ろに……私の腕を掴み、覆いかぶさる、悍ましい男を重ねてしまったから?
あの人の、不機嫌で私を支配しようとする顔が父に似ていたから?
わかっているーー全部、だ。
私は、後に、こっぴどくフラれる。
別れ際
『君は結局、俺のことなんて好きじゃなかったんだよ』
と、吐き捨てられる。
そんなことない、と。
私は追い縋ることができなかった。
きっと、彼はそんな私を、許せなかったんだ。
可愛げがない。
不感症。
誰のことも受け入れられない身体。
君みたいな人間は、恋人なんてつくっちゃいけない。
打ち込まれた言葉の銃弾は、私の体内でどろりと溶けて、指先の隅々まで犯す。
私があの人を好きになったのは、「お前の容姿に価値なんてない」と、呪いをかけ続ける父と真逆のことを言ってくれたからなのに。
もう二度と、私は私のまま、誰かと添い遂げる夜は来ないんだって。
泣いて、泣いて、自分の涙で溺れるくらい、泣いて……夜を一つ、また一つ迎えのに。
私の意識は、あの日に取り残されたまま、じっと蹲ったままなんだ。
★
ーーどれくらい時間が経ったんだろう。
そっと私を引き寄せて、抱きしめてくれる優吾くんに甘えて、彼の肩口に額を置いてしまった。
触れた箇所も、そうでない場所も。
蕩けるように甘く、ふわふわと気持ち良い。
そろそろ、離れなきゃ。
ごめん、か。
ありがとう、か。
惑う私が身を引こうとしたときだ。
「あ……」
ぎゅう、と。
きつくきつく、抱きしめられた。
慰めるために寄り添うそれではなくて、胸が、触れ合って、形をかえてしまうほど、強く。
「優吾、くん……?」
「痛いのは耐えられたって、なに」
「え?」
「耐えなきゃできないようなことは、やっちゃだめだろ。そんなん、ただの暴力じゃねぇか」
顔は見えないけれど、震えるような声音でわかる。
優吾くんは、怒っている。
「あー……クッソ……ごめん、泣かせるつもりはなかった。けどさ……あー、なんだろ、言葉にならんわ」
困惑する私をよそに、ぎゅうぎゅうと抱きしめて、そして
「蒼乃ちゃん……俺のことは、怖い?」
絞り出すような声音に、心臓がきゅっとした。
私が、あなたを、拒絶する日なんて一生来ないのに。
「……怖くない」
「本当に? 男だし、そこら辺の野郎より、体格もいいよ?」
「怖くない。優吾くんのことだけは、いちども、怖かったことなんてない」
再会したあの時ですら、ずっと。
あなたのことだけは、私の全身が肯定している。
優吾くんは「そっか」と頷いた。
「よかった」とも。
そして、すぅううう、と思い切り深呼吸をして……。
がばっと、身体を放し、正面から向き直るんだ。
「あのね。俺、童貞なの」
「……うん?」
待って。
それは、告白……?
驚き過ぎて涙が引っ込んだ。
「テクニックとか、磨きようもないというか、素人です。でもね、蒼乃ちゃんのことは元カ……歴代クソ野郎どもの誰よりも絶対好きです」
「歴代というほどいないよ……」
「俺、男として、魅力ない?」
「それはない! すごく優しいし、格好いいし、でも……」
「年齢差とか、幼馴染だから刷り込み効果なんじゃとか。そういうの聞きたくねぇよ? この期に及んで俺の気持ちを疑わないで」
「あ……ごめ……ん」
「……とはいえ、信用はないと思う。だから、蒼乃ちゃんがさ、欲しいって、本気で思って、身体がそうなるまで、絶対に本番は我慢するから……蒼乃ちゃんに触れさせて欲しい。蒼乃ちゃんが『誰のことも好きになれない身体』じゃないって、俺に証明させて」
こういうとき、わかりやすく弱くなれたらいいのに。可愛く甘えて、彼を喜ばせられたらいいのに。
どういう顔をしたらいいんだろう。
どうしたら、優吾くんは……。
震える唇に、彼のそれが、重なった。
「……俺に、好かれようとか、考えないで」
一瞬、触れるだけの、柔らかいキス。
「どんな蒼乃ちゃんのことも好き。俺がいちばん、絶対に」
空気の一切も許さない、重たいキス。
角度を変えて、やわらかく、沈むように、深く……。
交わるということが、どういうことなのか、触れ合う微熱に身体が教え込まれる。
「ん……ふ、……んぅ……」
食まれた唇が熱い。
ふにふにと弄ばれるようにすると、下腹部がじんわりと火照る。
すり、と皮膚がふれあうと、恥ずかしいのに、確かな気持ち良さを求めてしまって、じんじんとした疼きに眼が潤んだ。
「……可愛い……口、あけて?」
キスの最中も、じっと見つめられていたんだって、このときわかった。
やめて、見ないでって、言いたいのに、熱っぽい視線に逆らえない。
私を見る目が幸せそうだなんて、ずるい。
拒むことなんて、できなくなる。
「ん……」
恐る恐る口を開ければ、ぬるりと口内に入ってくる。
初めて触れた優吾くんの舌は厚く、すごく太く感じた。
「あけて?」なんて、可愛くおねだりしたくせに、口内を蹂躙するように這いまわり、歯列をなぞって……上顎をすり、と擦る。
「ふ、ん、んんっ……!」
びり、って。
くすぐったいような、気持ちいいような、ちょっとぞわってする、甘い痺れが背筋に走る。
なんで? 触れられているのは上顎なのに、背筋と、お腹の下が、じんじんするの……?
「あ、む……んぁ……あぁっ」
口の端から溢れる唾液がぬぐえない。
それどころか、優吾くんが全部からめ取ってしまう。
舌先でこちゅこちゅとほじるように舐められるのも、舌の腹ですりすりと擦られるのも、腰が砕けそうになって……!
ぢゅう、と。
キツく舌を吸われた瞬間に、身体の奥がひどく、きゅんって……収縮した。
暴れる心臓の鼓動は、苦しいのに気持ちいい。
優吾くんの汗の匂いにくらくらして、皮膚の温度に興奮している。潜められた眉間の皺が……求められていることがわかる表情に心臓がきゅんと甘く痛むの。
「蒼乃ちゃん……可愛い……キス、下手なの、すげぇ興奮する……」
耳元で囁かれた瞬間、もうだめだって思った。
私、優吾くんに食べられたくて、たまらないんだ……。
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三ツ森涼夏
24歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』営業戦略部勤務
背が低く、振り返ったら忘れられるくらい、特徴のない顔がコンプレックス。
小1の時に両親が離婚して以来、母親を支えてきた頑張り屋さん。
たまにその頑張りが空回りすることも?
恋愛、苦手というより、嫌い。
淋しい、をちゃんと言えずにきた人。
×
八雲仁
30歳
大手菓子メーカー『おろち製菓』専務
背が高く、眼鏡のイケメン。
ただし、いつも無表情。
集中すると周りが見えなくなる。
そのことで周囲には誤解を与えがちだが、弁明する気はない。
小さい頃に母親が他界し、それ以来、ひとりで淋しさを抱えてきた人。
ふたりはちゃんと義兄妹になれるのか、それとも……!?
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千里専務のその後→『絶対零度の、ハーフ御曹司の愛ブルーの瞳をゲーヲタの私に溶かせとか言っています?……』
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表紙画像 湯弐様 pixiv ID3989101
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※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
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