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ティー〈第一部〉

〈8〉

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凪は駐車違反の取り締まりに勤しんでいた。駐車禁止の標識が堂々と立っているのにもかかわらず、多くの観光客が掘に沿ってこれでもかというほど車を並べていた。
凪に紙を貼りつけられた車達が、その紙について凪の隣にいたスイに不思議そうに尋ねている。スイはそのたびに、
「これは駐車違反をしている車に貼られるもので……」と丁寧に説明していた。
凪はまだまだある違反車を見てため息をついた。今時、駐車違反の取り締まりをするのは駐車監視員だというのに……。
「なんで私が……」
ぶつぶつ言う凪にスイが笑いかける。
「まあまあ、たまにはこういうのもいいんじゃないですか?毎回毎回事故現場なんて見ていたら気分が落ち込んじゃいますよ」
スイの言葉に「それもそうね」と凪は納得した。
顔を上げて乱れてきた前髪を払えば、堀に沿って観光客がのんびりと歩いてくのが見えた。
堀には水の代わりに菜の花が咲き、桜と手を組んで観光客の目を楽しませている。
(今日はいいお花見日和だなあ)
目にしみるほどの青空を見ながら思う。こんな日に仕事をしている自分が恨めしくなったが仕方ない。さっさと終らせてしまおう、と次の車に目を移したとき「あ」とスイが声を上げたのが聞こえた。
不思議に思って振り返ればスイが堀の方を見て口を開けている。視線の先には歩道を歩いている二人の観光客がいた。
凪はじっとその二人を見つめる。見たことのない人たちだ。
「彼等がどうかしたの?スイ」
不思議に思ってスイに話しかけた凪の声が聞こえたのだろう、歩いていた二人のうち女性の方がこちらを見た。
そして、目を丸くした。
「……あ、あのときの警官さん」
ティーがそう言って足をとめた。その隣で朝陽がいぶかしげな顔をして立ち止まる。
スイは何も言わず駐車している車の間をすり抜けてティーの前に立った。お辞儀をするティーを見て、彼も帽子を取ってお辞儀を返す。
「お元気そうでなによりです」
帽子を被り直しながら笑うスイを見ながら朝陽は、
(こいつも車か)と考えていた。
彼は凪と同じ警察の制服を身につけていた。
車が人型になるとき、彼等の服装は所有者に影響を受ける。性別や性格、見た目がどのように決まるのかはよく分かっていないのだが。
「お前、パトカーか」
スイの服を眺めて朝陽が言う。それを聞いてスイは朝陽の方を向くと、人当たりのよさそうな笑みを見せた。
「ええ。私、愛知県警交通部交通捜査課のパトカーのスイと申します。そして……」
スイが後ろを見やる。スイと同じように車の間をすり抜けて凪が歩いてきた。そして隣に並び会釈をする。
「初めまして。愛知県警交通部交通捜査課の凪愛昼と言います」
それを聞いて朝陽が
「あー……交通部ねえ」とやっかいそうな顔をする。
「そうです」とスイが朝陽のぶしつけな視線を気にせず微笑した。
朝陽は今度は愛昼を見る。短髪で精悍なたたずまいのため一瞬男かと思ったが、前髪につけられたピンクの髪留めを見たところどうやら女のようだ。また、彼女は少々つり目できつい顔をしていた。歳は朝陽より下だろうが、愛昼の方がしっかりしているように見える。
何も言わず二人を眺めている朝陽におずおずとティーが話しかける。
「えっと、朝陽さん。以前、私はこの方達にとてもお世話になったのです」
そして今度は愛昼とスイの方を見る。
「それで、愛昼さん、スイさん。この人は朝陽さんと言って……私にティーという名前をつけてくださった方です」
そう照れくさそうに言うティーに愛昼が微笑む。
「素敵な名前で良かったわね、ティー。それにしても、あなたの人間姿を今日初めて見たわ。声から想像した通り可愛らしいわね」
愛昼に言われティーが恥ずかしそうな顔をする。そして照れながら「あ、ありがとうございます」とお礼を言った。
「それにしても、ティーが自分から人間の前に姿を現すなんて思いもしませんでしたよ」
そう言うスイに朝陽が
「いや、俺が頼んで人間型で出てきて貰ったんだ」と言った。
それを聞いてスイが目を丸くする。そして信じられないと言ったように口を開く。
「まさか、愛昼以外に車の声が聞こえる人間がいるとは……」
「まあ、ほとんどいないけどな。俺もそんな人間に会うのはあんたが初めてだ」
朝陽が楽しそうに愛昼を見る。彼女は別段驚きもせずに朝陽を見ている。
「でも、良かったですね。車の言葉が分かる人が持ち主になってくれて」
にこにこ笑いながら発せられたスイの言葉にティーが残念そうに首を振った。朝陽を気まずそうに見るティーを、スイと愛昼がきょとんとして眺める。
「俺はこいつの持ち主じゃないよ。“修理”のために持ち主から借りてるんだ」
「修理?」と愛昼がいぶかしげに尋ねる。
「ティーはどこも壊れていなかったはずだけど」
「ああ、体はな」
そう言う朝陽にさらに愛昼は不審そうな目を向けた。その視線を受けて、朝陽は口を開く。
「今、時間あるか?」
ちらりと後ろの車両を見ながら朝陽が尋ねる。視線の意味がすぐに分かり、愛昼は首を振る。
「だろうな」
朝陽はそう言い終わるや否や素早く鞄からメモ帳を取り出すと何かを書き殴った。そして乱暴に一枚を切り離し愛昼に渡す。
「俺の電話番号だ。仕事が終わって暇になったらかけて欲しい」
「何故?」と愛昼は警戒しながら尋ねた。
「ティーのことで聞きたいことがある」
朝陽の言葉にティーが不思議そうに顔を上げる。
愛昼はじっと朝陽の事を見ていた。その顔は真意を探っているようだった。
朝陽は愛昼に信頼されるためにとりあえず何か言おうと思い、頭をフル回転させた。そして、なんとか彼が考えた“もっとも女性を安心させる言葉”をひねり出した。
「……ナンパじゃないから安心してくれ」
それを聞いて愛昼がぽかんとした。その隣でスイが吹き出す。
くつくつと笑うスイに、何故笑われているか分からない朝陽が首をひねる。
「愛昼、受け取ってあげましょうよ。彼はきっと悪い人じゃありませんよ」
そう言って笑いを押し殺しているスイを横目に見て、愛昼は仕方なくといった様子でメモ帳をポケットに畳んで入れた。
「じゃあ、頼む」
朝陽はそう言うと踵を返して歩き出した。ティーは二人にお辞儀をした後、おいていかれないよう朝陽の後を追った。
スイと愛昼は彼等の後ろ姿を暫く眺めていた。
「なんだか変わった人でしたね」とスイが目尻に浮かんだ涙を拭いながら言う。
「まったくだわ」と愛昼がため息をついて言う。
そして回れ右をするとどこまでも並ぶ駐車違反車両を見た。まだまだやることはたくさんある。くじけそうになっている自分を愛昼は奮い立たせた。
「スイ。さっさと終らせちゃいましょう」
愛昼の言葉にスイは「そうですね」と大きく頷いた。
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