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リュー

〈9〉

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西平安名崎は宮古島の端ではあるが、着くまでにそんなに時間はかからない。少しずつ車の揺れにも慣れてきて、朝陽はシートにもたれかかり振動に身を任せた。
次第に地図に表示される陸地が狭くなってきた。海を示す青色の部分が左右を大きく占め、陸地が中心の三分の一くらいに追いやられている。
西平安名崎に近づくにつれ、風力発電機の大きなプロペラがいくつも見えてきた。いきなり目の前に現れた巨人のような風力発電機に驚き、朝陽が身をすくませた。
「よし、ついたぞ」
車を駐車場に停めて、磯部が息をつく。
車から降りると今までとは比べ物にならないほどの強い風が吹き付けてきた。(なるほど、これは発電が捗りそうだ)と朝陽は回転するプロペラを見る。
「この風、体にこたえるぜ……」
びゅうびゅうとボディーに吹き付けてくる風を受けて、リューが苦しそうに呟いた。
「大丈夫か?所有者に返すまでは壊れるなよ」
小声で朝陽がリューに話しかける。
「言われなくても分かってるよ。まだ壊れる気はない」
リューがそうつっけんどんに言った。
とはいえ、風にあおられて今にもドアやルーフがもげて飛んでいってしまいそうだ。
(大丈夫だろうか……)
朝陽は不安を感じつつも車を後にした。

細い道を歩くと、ゴツゴツの岩肌が露出した場所に出た。そして一段と強い潮の匂いが二人を包んだ。その先にはもう、陸地はなかった。
「まあ、ここ全体が西平安名崎って感じだ。あそこまで行ってみるか?」
海にせり出している二つの崖のうち、端まで行けそうな片方を磯部は指差す。
危ないとは分かっていたが、ここまで来たなら行っておきたいと思った。朝陽は頷く。
「よし。お前、気を付けろよ。落ちても俺は助けにいけないからな」
「先輩こそ」と朝陽が言った。そしてでこぼこの岩が散乱する地面のうち、歩きやすそうな平坦な場所を見つけて慎重に前に進み始めた。

だんだん道幅が狭くなってきた。二人はゆっくりと確実に歩みを進める。
強い風が髪をかき乱す。岩壁に波があたり、砕ける音が低く響く。
足元に目を落としながら先端までいき、朝陽は少し上半身を傾けて下を覗きこんだ。
崖に荒々しくぶつかる波が、まるで朝陽達に手を伸ばすかのように岩肌をかけのぼる。それを目の当たりにして体がしびれ、足がすくんだ。ぞくりと鳥肌がたつ。
「おおー、すごいな」
磯部が朝陽の斜め後ろに立つ。そして少しばかり首を伸ばして、朝陽の見ている場所と同じところを覗きこんだ。
こんなところに落ちたら、と考えて朝陽は唾を飲み込んだ。どれだけ朝陽がもがいたとしても、それを嘲笑うかのように海は朝陽を弄ぶだろう。
「自然というのは本当にすごいよな。絶対に勝てる気がしない」
磯部が崖下を眺めながらぽつりと呟いた。
「……そうですね」
朝陽も目を釘付けにして頷いた。
(……メルダーは飛び込む寸前、何を考えたのだろう)
朝陽は荒れ狂う海を上から見下ろす今の自分と、最期を迎えようとするかつての所有車の姿を重ね合わせた。自分が狂ってしまい、"直らない"ことに気づいた彼女は、広大な海を前にして飛び込むことに躊躇することはなかったのだろうか。
もし躊躇していたとしたら、そのときに朝陽が肩を叩いて引き留めていれば、未来は違っていたかもしれない。今更悔やんでも仕方ないとは分かっているが、朝陽はその可能性を考えずにはいられなかった。
きりりと胸が痛くなり、締め付けられ苦しくなった。
「……」
しかし、と朝陽は思い直す。もしメルダーが朝陽の所有車としてずっと一緒にいたなら、リオンは"直っていない"ままレンタカーとして壊れるまで働き続けたかもしれない。しかも速度違反をするという、彼にとってもっともつらい規則違反に目をつぶり続けながら。それは彼にとって不幸なことだった。
(いや、でも)と朝陽はまた思い直す。
朝陽はリオンに会って、車を"直せ"なくてもいいということを学んだ。リオンはいまだ規則違反を気にするが、そのお陰で朝陽は規則違反によって警察に捕まることはない。逆に"直さない"ことが正しいことだったのだ。
とはいえ全ての車がそうである訳ではない。ティーのように"直ら"なければ困る車もいる。
しかしティーは次第に"直って"きている。だからメルダーだってきっと"直った"はずなのだ。
つめて停車すれば朝陽の家の駐車場にはぎりぎり車が二台入る。リオンとメルダーの両車を“直す”ために停めておいても、全く問題は無かったのだ。
あのときメルダーを引き留めていたら、彼女がどこに行ったか分かっていたら、そもそも彼女が出ていかないよう気を配っていれば、メルダーを救うことが出来たかもしれないのに。
「……」
朝陽は口を真横に結んで歯を食い縛った。一際大きな波が壁に打ち付け、白いしぶきが辺りにちらばった。

二人は黙って歩いて車に戻った。朝陽は座席に腰を下ろすと、乱れた髪を整えながらコーヒーを口に含む。
「さて、今度は池間島に行くか」
ハンドルを握りながら言った磯部の言葉に「そうですね」と朝陽が頷いた。
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