上 下
126 / 142
ファイ

〈2〉

しおりを挟む
「『車なんでも相談所』の関朝陽さん、ですか……」
フードコートの椅子に座って、女性がじっと名刺を見つめて呟いた。
「ええ。車の調子が悪いのに車屋に行っても直らないときの最終手段として皆様には利用していただいております」と朝陽が営業口調で言う。
女性は興味をもったように朝陽を見ると、思い出したように作業服のポケットを探り、名刺を取り出した。
「そういえば、私の自己紹介がまだでしたね。私の名前は辻雨音と言います。トラック運転手をしています」
受け取った名刺を見て(トラック運転手か)と朝陽は内心舌を巻く。トラックのような大きな車を運転出来るとは、彼女は運転がかなりうまいに違いない。
朝陽は名刺をしまいこむついでに隣に腰掛けているティーを見る。朝陽と目があったティーが首をかしげた。
「ティー。仕事の話になるから、リオンのところに戻っていていいぞ」
朝陽の言葉にティーはどうしようかとためらったあと、頷き席を立った。階段の方に歩いて行くティーを見送った後、朝陽は雨音の方を向いた。
「あの……。デートの邪魔をしてすみません」
雨音が遠慮がちに謝る。朝陽は一瞬ぽかんとしたあと、ティーとのことを誤解されていることに気づいて
「いえ、彼女とはそういう関係ではないので気にしないでください」と笑いながら言った。
そう言うと、雨音は少しほっとした顔をした。
「ところで、車が変な挙動をするという話についてですが……」
朝陽がそう言うと「あ、はい!」と雨音が思い出したように言った。
「変な挙動とは、一体どのようなことですか?」
メモ帳を取り出しながら朝陽が尋ねる。
「えっと、普通に動くは動くんですけど、運転中にハンドルをきっていないほうに突然車が曲がったり、隣の車線の車に幅寄せしたりするんです。なんとか車体を立て直すんですけど、あんなことをしていたらあおり運転だと思われてしまいますし、ましてや高速道路で立て直すのを失敗したら大事故につながってしまうので……。いつもヒヤヒヤしながら運転しているんです」
それを聞いて朝陽はメルダーのことを思い出し、表情を暗くした。
あえて危険な行動をする車。メルダーの場合は人を轢く快感に目覚めてしまったからであったが、今回も同じなのだろうか。
それにしても、ただでさえ高速道路での運転は気が張るというのに、車がそんな制御が効かない状態ではさらに大変だ。
(それは疲れるわけだ)と朝陽は雨音の疲弊した顔を見て気の毒に思う。
「雨音さん。そのトラックですが……。中古車か事故車か何かですか?」
そう尋ねると雨音が驚いた顔をした。
「えっ!?朝陽さん、どうしてファイが事故車だって分かったんですか?」
そう言ってからはっとしたように雨音が口を塞いだ。
「ファイ?」と朝陽が聞き返す。
雨音は照れくさそうに下を向いた後、もじもじしながら口を開いた。
「あの、私、昔から無機物も人間のように扱っちゃう癖があって。あの車のことは、車種名からとって勝手にファイって呼んでいるんです。……すみません、変なことを言って」
彼女の言葉を聞いて、朝陽はきょとんとした後微笑んだ。
「いえ、大丈夫ですよ。名前をつけてもらえるなんて、随分と愛されている車なんですね。きっとファイも喜んでいると思いますよ」
「そ、そうだといいんですけど」と雨音が照れくさそうに頬を掻いた。
「ところで、話を戻しますが……。ファイは事故車なのですか?」
朝陽の言葉に雨音が頷く。
「はい。……以前うちの会社で働いていた運転手さんがファイに乗って高速道路を走っていたときに、居眠りしていた別のトラックにぶつかられて、亡くなってしまったんです」
「そうだったんですか」と朝陽が表情を曇らせて相づちを打つ。高速道路を走るような速度でぶつかったら、どんなに大きな衝撃が来るだろうか。それは想像しただけでも恐ろしいことだった。
「そんなことがあったので、ファイは運転席のドアがへこんでいたんですけど、一応まだ走れるからという理由で、そこだけ直されてまた利用されることになったんです。……まあ、ファイにあえて乗りたがる人なんていませんでしたけどね」
そう言って雨音が笑う。(それはそうだろうな)と朝陽は水筒のコーヒーをすすった。
人が亡くなった事故車に乗りたいなんて思う物好きはいないだろう。そこまで考えて、どうして雨音がファイに乗っているのか疑問に思った。
「雨音さん。あなたは、どうして事故車のファイを担当車にすることにしたんですか?」
朝陽に言われ、雨音は困ったように頬を掻いた。
「私が選んだわけではなくて、会社がむりやり……」
「なるほど」と朝陽は苦笑いをした。
「私、最初はファイが事故車だなんて知らなかったんです。その事故は、私が会社に入る前に起きたものでしたから。後から先輩達に聞いて事故のことを知ったのです」
「でも、それを知っても担当車を変更するよう申し出なかったんですね」
朝陽の言葉に雨音が頷いた。
「しても無駄だと分かっていましたし……。それに」
雨音が机の上で組んだ手を見つめてふっと微笑んだ。
「……なんだか、ファイが寂しそうでしたから。……ふふ、車が寂しそう、って変な表現なんですけど」
そう言って照れくさそうに笑う雨音を朝陽は静かに見つめた。
「それに、私がファイに乗らなかったら、きっとファイは処分されてしまう。それは嫌だったんです。『まだ走れるのだから、乗ってあげないと』って。……変な使命感なんですけど」
そこまで言って、雨音はちらりと朝陽の顔を見た。そして何も言わずこちらを眺めている彼の視線を受けて、体を縮こめた。
「す、すみません!変なことしゃべってばかりで……。あはは、変な挙動をしているのはファイだけじゃなくて私もかも……」
そう言う雨音に朝陽は首を振った。
「変なことではありませんよ。……あなたのような素敵な運転手に乗ってもらえて、ファイは本当に幸せな車だと思います」
そう言うと雨音は驚いた顔をした。そしてもじもじしながら小さな声で
「……ありがとうございます」と言った。
朝陽は今静かに驚いていた。見た所彼女は車の声が聞こえる人間ではなさそうだ。それなのに、車を“生き物”のように扱っている。こんな人間と、朝陽は一度も会ったことがなかった。そのため、雨音は朝陽にとって非常に新鮮で興味深い人間であった。
雨音は紙コップに口をつけ、水を一口飲むと再び口を開いた。
「朝陽さんにそう言ってもらえるのは嬉しいんですが、ファイは私のことを運転手とは認めてくれていないようなんです」
雨音の言葉に朝陽は首をひねる。
「どうしてそう思うんですか?」
そう尋ねると雨音が困ったように微笑んだ。
「何回私の誕生日を入れても全然登録されないんです。前の運転手さんの誕生日は登録されているみたいなんですけど」
雨音の言葉を朝陽が黙って聞く。
「もしかしたら、二つは登録出来ないんですかね?まあ、前の運転手さんの誕生日を消そうとは思いませんけど」
雨音はから笑いをしてそう言ってから息をついた。
「この前、前の運転手さんのお誕生日を祝っていたのを聞いたときには、なんだか悲しくなってしまいました。『ああ、この車はまだ自分の運転手がいなくなってしまったことに気づいていないんだな』って。……それはそうですよね。車が、運転手が代わったことが分かるはずがないんですから」
雨音の話を聞きながら朝陽はコーヒーを口に含んだ。
ファイがどう思っているか。それはファイと“話して”みないと分からない。
ファイもティー、メルダーのように事故に遭って心が傷ついてしまったのだろう。それをなんとか癒やしてやらなければ変な挙動を止めることは出来ない。
前の運転手のことを忘れろとは言わないし、ファイにはファイの言い分があるに決まっている。けれど、新しい運転手が前の運転手に負けないほど素敵な運転手であることはなんとしてでも伝えねばならない。
朝陽は決心したように立ち上がると、急に立ち上がったことに驚いている雨音を見た。
「雨音さん、色々教えてくださってありがとうございました。後は、私にお任せください」
そう力強く言うと雨音はぺこりと頭を下げた。
「あ、ありがとうございます!お願いします」
そう言って雨音が立ち上がったのを見計らって朝陽が口を開いた。
「とりあえず、私をファイのところに連れていってもらえないでしょうか?」
「は、はい、勿論です!……あの、私に何かお手伝い出来ることはあるでしょうか?」
雨音に尋ねられ、朝陽は少し考えこんだ。
「今のところは特にありませんが……。もしかしたら、あなたの手を借りなければならないときが来るかもしれません。そのときはお助け願います」
朝陽の言葉に「はい!私でよければ」と雨音が大きく頷いた。
しおりを挟む

処理中です...