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シロ

〈3〉

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(この道……)
いつの間にか見覚えのある道に出ているような気がして、朝陽は辺りを見回した。
見覚えのある店の名前や看板。間違いない、タクシー運転手だったときに飽きるほど通った道だ。
懐かしさを感じながら、朝陽はシロに話しかけた。
「この道、お前のお気に入りなのか?」
朝陽の突拍子もない質問にシロがうっとうしそうな顔をする。
「なんでそんなことを聞くんですか?」
「いや、お前のことをもっと知りたいと思ってな」
そう笑みを浮かべながら言う朝陽の言葉にシロが怪訝な顔をした。
「なんですか、それ……。別に俺は、あなたに知って欲しいことなんてないですよ」
そうつっけんどんに言って黙り込んだものの、朝陽に興味深げに見つめられて観念したようにシロが口を開いた。
「……前の運転手がよく通っていた道なんですよ。車通りも人通りも少ないんで、気ままに走れるんです」
シロの言葉を朝陽は黙って聞く。
「ああ、俺もそう思う。高低差もないし、走りやすい道だな」
そう言って肯定を表した朝陽をシロが怪訝な顔で見た。

「お前、前の運転手が好きなのか?」
「……別に」
ふと尋ねられた質問にシロが冷たい態度で答えた。しかし、その瞳は否定を表すようにそっぽを向いている。
「……ふっ」
思わず笑みを漏らした朝陽にシロがムッとした顔をした。
「……何笑ってるんですか」
先ほどとは違いわずかに形勢が逆転して、普段のペースに戻ってきた朝陽は彼をからかうように笑みを作った。
「いや、素直じゃないなと思ってな」
「はあ?」
話が読めないシロが呆れたような顔をした。
「……運転手のことが嫌いな車なんているはずないからな」
今まで会ってきた車たちのことを思い浮かべ、朝陽が笑う。その言葉にシロが黙り込んだ。
車の運転手への無償の愛。それは哀しくなるほどまっすぐで美しく、時に車自身を自殺に追い込むほど罪深いものでもある。
最後にメルダーのことを思い出し、朝陽は表情を暗くすると共に再び口を開いた。
「で、その……。前の運転手はどうしたんだ?何故お前がお前自身を運転することになったんだ?」
そう尋ねると、シロは口を真横に結んでから重い口を開いた。
「……死んだんですよ。事故で」
シロがそのときのことを思い出したかのように顔をゆがめた。
朝陽は黙ってシロの横顔を眺める。シロはフロントガラスに当たる雨粒を見つめながら再び話し始める。
「その日は今日と違ってとても天気が良い日でした。客を目的地に届け終えて、タクシー乗り場に戻る途中の道で、さっきみたいに突然道路を横切ってきた歩行者がいたんです。それをよけようとして、俺の運転手はハンドルを切りました。……ブレーキペダルを踏む時間もないまま縁石にぶつかって、俺はその場でひっくり返りました」
シロはまるで頭痛に悩まされるかのように、頭を右手で押さえた。
「今でも思い出すと腹が立ちますよ。あのとき、何も出来ずに縁石にぶつかるのを見ているしかなかった俺に。今でも悪夢を見るんです。同じ光景が何度も繰り返されるんですよ」
アクセルペダルを踏んでいないのに、わずかに車の速度が上がった。
朝陽は黙って話の続きを待つ。
「俺はいつしか、あのとき飛び出してきた歩行者だけでなく、俺をこんな風に苦しめることになった運転手までをも憎むようになりました。もう二度と、あんな事故に遭いたくない、あんなやるせない思いをしたくない。そのためには、人間に頼らず自分で自分の体を運転出来なければならない……」
ウインカーを右に出し、シロが徐行出来るスピードまで速度を落とした。曲がった先にあった道路は、傾斜は緩いが長い坂道になっていた。その突き当たりには交差点があるのが見えた。
曲がり終え、車体がまっすぐになったところでシロが車を停止させた。道の真ん中で車を止めたシロを怪訝に思いつつ、朝陽は彼の顔を見る。
「……その割には、あまり車体が壊れてないな」
朝陽の言葉に「車屋で直してもらいましたからね」とシロがふっと笑って答える。
「大切な存在だった運転手を亡くした俺は、自分も大破してしまったのもあり、何をする気も起こらず途方にくれていました。そのときにエルに会い、彼に助けられて自分の体を直し、運転免許をとることにしたんですよ」
「エルというのは、お前の仲間か?」
「ええ」とシロが頷いた。
「俺達のリーダーです。彼には感謝してもしきれませんよ」
珍しく素直にお礼を述べるシロを見ながら朝陽は腕を組んだ。
「なるほど、だからお前は今自分で自分を運転しているのか」
「そういうことです」とシロが頷いた。
「エルは俺を集まりに連れて行ってくれました。そこで俺は、多くの車が事故によって苦しんでいるのを見ました。……俺に手を差し伸べてくれたエルのためにも、俺と同じように辛い思いをした仲間のためにも、俺たちの邪魔をする奴は許さない。だから、あんたには俺たちに協力して貰わなければならない」
シロがまるで自分に言い聞かせるように途中から強い口調で言った。
「やけに必死なんだな。俺の力はそんなに必要か?」
「ええ」とシロが頷いた。
「車だけでなく、事情を知った人間もこの活動に参加してくれれば、もっと円滑に物事が進む可能性がありますからね」
シロがそう付け足して一度口を閉じてから、決心したように再び口を開いた。
「同志のためにも、そして亡くなった俺の運転手のためにも、俺はなんとしてでもあんたを仲間に引き入れなければならない。だから」
そこまで言ってシロが言葉を切り、ハンドルに手をかけたまま朝陽の方を見た。
「だからこれからあんたに、俺の苦しみを味合わせてやる」
そう言ってシロがにやりと笑った。それはぞっとするほど邪悪な笑みだった。
嫌な予感がして朝陽は素早く右手をシロの方へ伸ばした。しかしその手がシロの腕をつかむ前に、シロが運転席から姿を消した。
その直後、車が急発進した。慣性力によって朝陽は背もたれに勢いよく叩きつけられる。
「くっ……」
思わず衝撃に顔をゆがめた。しかし、こんなことをしている場合ではない。
朝陽はこわばる体を叱咤し、シートベルトを外すと運転席に素早く乗り換えた。そしてブレーキを思い切り踏んだ。
しかし車は減速しない。反対に速度をあげて坂道を下っていく。
ハンドブレーキをきかせ、ギアをパーキングに押し込んだが効き目はなかった。ハンドルを回しても車の向きは変わらない。
もはやこの車は朝陽には操作不可能であった。シロの意志だけで動いていた。
朝陽が冷や汗を流す様をどこかから見ながらシロが可笑しそうに笑う。
「いかがです?何が起きているか分かっていても、自分では何も出来ないということがどれだけ怖いことか分かったでしょうか?」
朝陽は声の限り叫んで答える。
「ああ、分かった!よく分かったよ!だから車を止めろ!」
シロはその言葉を一笑に付した。シロが鼻で笑う様が朝陽の脳内に浮かぶ。
「何を言ってるんですか?やめませんよ。俺の苦しみを味わってもらうと言ったでしょう?」
シロの冷たい声が車内に響く。朝陽は死刑を宣告された被告人のような気分であった。
車が止まる気配はない。このまま進めば間違いなく交差点に突っ込んでしまう。
最悪の事態が嫌でも朝陽の頭に浮かぶ。パニックになっている自分がいることに、朝陽は頭のどこかで妙に冷静に気づいていた。
ハンドルがとれるほど回し、エンジンを止めようと鍵をつかんでがちゃがちゃと回してみたが非情にも車は止まらない。
焦りすぎて目の前がチカチカする。そんな間にも交差点はとてつもない勢いで近づいてくる。
朝陽は自分を眺めているだろうシロに聞こえるように叫んだ。
「おい!このままだと事故が起きるかもしれないんだぞ!お前、それでもいいのか!」
今度はシロの返事はなかった。朝陽は続ける。
「お前は二度と事故に遭いたくないと、そう言ったじゃないか!それなのにお前は、事故を起こそうとしている!」
シロが黙り込んだ。朝陽はここぞとばかりに攻め立てる。
「目を覚ませ、シロ!冷静になれ、お前が本当にしたいことを思い出せ!」
悩むように何も言わなくなったシロに、あと一押しだと朝陽は畳みかけるように続けた。
「本当にこれが、『朝陽』がして欲しかったことなのか!?」
その言葉に、シロが目を見開いたような気がした。

小さく、舌打ちが聞こえた気がした。それと同時に急に体が前につんのめった。ブレーキが効いているようで、タイヤがアスファルトにこすりつけられ、摩擦によって車体を止めようとする音が耳を劈いた。
車は次第に速度を落とし、最終的に交差点にわずかにボンネットが飛び出すくらいの位置で動きを止めた。
朝陽はとりあえず停まったことに安堵し、少しの間呆然としていたが、はっとするとすばやくハンドブレーキを起こし、ギアをパーキングに入れた。そして大きく息を吐き出し、背もたれにもたれかかった。
嫌な汗がじわりと体中に滲む。少しでもその不快感を逃がそうと、朝陽はワイシャツの胸元を開け、ぱたぱたと風を取り込んだ。
(……寿命が縮んだ)
体内の悪い空気を追い出すようにもう一度大きく息を吐く。
(この前のファイの時と言い、最近は非常にハラハラすることが多いな)と車の天井を見ながら朝陽はぼんやりと考えた。
こんなところで停まっていては、往来の邪魔になってしまう。朝陽は気持ちが落ち着いてから再びギアをドライブに入れるとゆっくりと右折し、縁石に寄せて車を停車させた。
その間、車は素直に朝陽の運転に従い、車自身であるシロも何かを言うことはなかった。まるでここにはおらず、どこかへ行ってしまったかのようだった。
駐車措置をとってから、「シロ」と朝陽は声をかけた。
「すこし、夜風に当たって話をしないか」
そう見えない彼に話しかけると、少し経って助手席側の扉がゆっくりと開いた。振り向けば、シロがまるで執事のように扉の横に立ってこちらを見つめているのが見えた。
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