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シロ

〈4〉

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二人は並んで歩道に立っていた。朝陽は空を見上げ、シロは両手を制服のポケットにつっこみ、俯いていた。
いつの間にか雨はやんでおり、分厚い雲が切れ、今はその隙間からわずかに星が見えるほどだ。雨の後だからか空気が澄んでいるようで、星の光が宝石のように輝いて見えた。
しばらく空を見上げていた朝陽が、シロに目を移した。
「さっきは思いとどまってくれてありがとう。おかげで事故が起きずに済んだ」
そう言うとシロがふんと鼻を鳴らした。
朝陽は背後にある公園の方を振り返る。公園を挟んだ向こう側にあるコンビニエンスストアから漏れ出る白い光が見えた。
(よく仕事の合間に、あのコンビニエンスストアで夕食を買って公園内で食べたものだな)
そう昔のことを思い出して朝陽は懐かしそうにその公園を眺めた。
気づけばシロもその公園の方を眺めていた。まるでエメラルドをはめ込んだようなその瞳からは彼が何を考えているかよく分からなかったが、朝陽にはその瞳がどこか哀愁を帯びているような気がしてならなかった。
「シロ」
そう声をかけるとちらりとシロが朝陽のことを見た。
「……なんだよ」
すっかり素に戻ってそっけない口調で話すシロのことを見ながら朝陽が再び口を開いた。
「事故が起きた当時のお前の苦しみはよく分かったよ。……大変だったな」
シロが疲れたように下を見て笑う。
「……ふん。安っぽい同情だな」
そう言って足下にあった小石を蹴っ飛ばした。その小石はころころ転がっていき、排水溝の隙間から下にことんと落ちた。それを目で追ってから朝陽がシロに視線を戻した。
「……あーあ、無駄にエネルギー使っちまった。あんたが俺の誘いを受けるまであそこから出さないつもりだったのにさ」
シロが制帽を深く被り、自嘲するように笑う。
「……あんなことしても、過去は何も変わらないのにな」
そう沈んだ声で言うシロに朝陽が口を開いた。
「そのことなんだが……。シロ、お前の前の運転手の『朝陽』は死んでなんかいない」
朝陽の言葉にシロが目を見開いた。そして次の瞬間、朝陽の胸ぐらをつかんだ。
「お前、どこで『朝陽』のことを知ったか知らないが、その名前を軽々しく呼ぶんじゃねえ!」
先ほどとは打って変わって頭に血が上ったようなシロの顔を、朝陽が見つめる。
「違う、本当に死んでなんかいないんだ。お前を惑わすためにその場限りの嘘をついているわけじゃない。お前だって俺の名前を知っているだろう。俺がお前の言っている『朝陽』だとは思わなかったのか?」
そう言うも、シロの耳には届いていないようだった。
「黙れ!“俺の”運転手の名前を、これ以上呼んだら轢き殺すぞ!」
そこまで言って、一度息を整える。そして、こちらを見ている朝陽をにらみつけながら再び口を開いた。
「俺はこの目で見たんだ!朝陽が頭から血を流してぐったりしていたところを!『あんな状態で助かる訳がない』って言っていた野次馬どもの声も!全部覚えてるんだよ!」
そのときのことを思い出したのか、シロが顔をゆがめた。
「朝陽は死んだんだ!お前は偽物だ!朝陽のフリをして俺の気持ちを変えようとしているんだ!これ以上あいつを騙るんじゃねえ!」
畳みかけるようにシロは続ける。
「俺は騙されない。俺はあのとき決めたんだ。全ての人間から運転免許を取り上げることを!」
一通り主張を聞き終えてから、朝陽がシロをにらみつけた。
「俺が、そんな簡単に死ぬか!」
そしてシロの胸ぐらをつかみかえす。強い力に少し面食らったのか、朝陽の胸ぐらをつかむシロの手の力が弱くなった。
「シロ!お前は自分の運転手のことが分からないのか!」
シロは様々な感情がいり混じった複雑な顔で朝陽のことを見つめていた。朝陽は荒げた息を整えると、再び口を開いた。
「……覚えているか?俺がお前の運転手になって、二年目くらいの時のことだ」
シロが黙って朝陽を見つめる。
「ある夜、小さな女の子がお母さんと一緒に乗ってきた。そのとき、その子はぬいぐるみを持っていてな、俺にそのぬいぐるみに名前があることを教えてくれた」
シロが聞いていることを確認しながら朝陽は続けた。
「一通り自分の持っているお気に入りのぬいぐるみの話をした後、その子は俺に『この車にも名前はあるの?』と尋ねてきた」
シロは何も言わない。
「俺はどう答えようかと思って迷ってな。そのとき、このタクシーの色を思い出したんだ」
シロの被っている、空に瞬く星のように真っ白な制帽を見て、朝陽は続けた。
「『この車はシロっていうんです。車体が白いから、シロ。いい名前でしょう?』。……俺は、こう答えた。そうだろ?」
最後の言葉でシロは体の力が抜けたようだった。そしてアスファルトに膝から崩れ落ちた。
そんなシロを朝陽は黙って見つめた。
「……そんな、まさか……」
シロが信じられないといったようにうわごとのように呟く。
「俺はずっと、朝陽が死んだって……」
事故に遭い、体も心もぼろぼろだったときに、無理矢理自分に信じ込ませた最愛の運転手が死んだという非情な“事実”。ここに至るまでの数年間、ずっと運転手を救えなかったやるせなさとこんな目に自分を合わせた彼への憎しみだけを糧にして生きてきたというのに、それが違うと突然知らされて、頭がついていかないのは当然のことだった。
朝陽はそんなシロをいたわるように黙って彼のことを見つめていた。

「少しは落ち着いたか?」
シロと共に縁石に腰掛けて、朝陽はシロに話しかけた。シロはちらりと朝陽を見た後、すねたようにそっぽをむいた。
「……あなた、途中から私がかつての担当車だと気づいていたんでしょう」
そう子供っぽくいじけているシロの背中を見て、朝陽は思わず苦笑する。
「まあな。黙っていて悪かった」
朝陽の言葉にシロが苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「おかしいと思ったんだ。俺は自分の名前を言っていないはずなのにあんたは俺の名前が『シロ』だと知っていたし、突然なれなれしくしてきたし」
そうぶつぶつと文句をいうシロを見て朝陽が笑った。
「それにしてもお前、本当に俺のことが大好きなんだな。すこし照れくさいよ」
そう言うとシロがキッと朝陽を睨んだ。顔だけでなく耳まで真っ赤になってしまっている。
「別に俺は、あんたのことが好きなわけでも、あんたに再会できて喜んでるわけでもないんだからな」
「はいはい。そういうことは涙拭ってから言えよな」
そう言っていたずらっぽく朝陽が笑う。シロははっとしてから潤んだ目で朝陽をにらみつけた。
ごしごしと涙を拭うシロに朝陽は近づくと、口を開いた。
「シロ。心配かけて悪かったな」
そう言って優しく頭を撫でる。帽子の上から感じる朝陽の手の暖かみが、かつて自分のハンドルを握っていた物と全く同じで、シロはまた涙が出てくるのをこらえるようにぎゅっと唇を噛みしめた。
「……本当ですよ。あんたのせいで、俺は今日までこんなに苦しんで……」
「ああ、そうだな。……すまなかった」
しばらく、朝陽はシロの頭をなで続けていた。シロも特にその手を振り払うこともなく、なされるがままになっていた。
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