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(これからどうしようかな)
矢印看板の所に戻ってきて、俺は首をひねる。
(そういえば……)
看板に書かれた研究所という文字を目で追って、セシウムが不思議なことを話していたのを思い出した。
(研究所の一番奥に、最も危険な化学物質がいる……)
最も危険な化学物質とは一体なんだろう。思いつく化学物質を頭の中で並べてみたが、ピンとくるものは見つからなかった。
(セシウムは他に『化学物質たちは皆、人間の役に立つのを夢見てる』とも言ってたな……)
別に人間にとって有益ではないからその化学物質が価値がないものかと言われれば、そんなことはないはずだ。化学物質たちだってたかが生物の一種でしかない人間に自分たちの価値を決められるのは嫌だろう。
しかし、数学の国でもそうだったらしいが、教科の国というのは存外人間から受ける影響が大きいらしい。
そもそも、『理科』とか『化学』とかも人間が勝手に定めた名前だ。それを国名や地域名に使っているところを見ると、人間の影響の大きさは教科の国の人たちにとって並々ならぬものなのかもしれない。
「……」
『研究所・兵器工場』と書かれた看板の文字を再度見つめる。
研究所の一番奥にいる化学物質は、最も危険な化学物質らしい。同じ危険物の劇物や毒物にそう言わしめるのだから、人間にとってはかなり危険なものなのだろう。
(もしかしたらそんな言われようをしていることに本人は傷ついているかもしれない)
そう思うといても立ってもいられなくなった。会って話せば、少しはその化学物質の心を慰められるかもしれない。
(ちょっと会いに行ってみよう)
そう決心すると、俺は再び研究所へ急いだ。
今度は研究所の扉はすんなりと開いた。覗きこめば、一酸化炭素が研究員の一人と話しているのが見えた。
研究員に指示をし終えた一酸化炭素が何かに気づいたようにこちらを振り返る。そして俺の顔を見て眉をひそめた。
「……またお前か」
「ごめんね、またお邪魔しちゃって」
頭を下げると一酸化炭素がため息をついた。ふわり、とタバコの煙が俺を取り囲む。
「そんなにお前は被験体になりたいのか?」
そう言われぎょっとする。
「ち、違うよ。……研究所の奥にいる化学物質に会いたいと思って来たんだ」
そう言うと、一酸化炭素の目つきが一段と鋭くなった。
「……駄目だ」
「どうして?」と聞き返すと一酸化炭素が煙を吐き出した。
「逆に聞くが、なぜお前はあいつに会いたいんだ?」
俺は、その化学物質が最も危険な化学物質だと言われて傷ついているかもしれないから、会って慰めてあげたいということを彼女に説明した。それを聞いて一酸化炭素は呆れた顔をした。
「そんな心配は全くの杞憂だ。あいつはむしろ自分が毒物であることを楽しんでいる。そんな気遣いなどいらない」
「え?そうなの?」
そんな化学物質もいるのか、と内心驚く。人間のように化学物質も多様な性格を持っているらしい。
「とにかく、あいつと会うのだけはやめておけ。分かったならさっさと帰るんだな。さもないと……」
そう言って彼女の目がきらりと光った。その隣に控えていた研究員が俺の方に近づこうとする。
「わ、わかった!邪魔してごめんね」
慌てて謝る俺を見て一酸化炭素がふんと鼻を鳴らした。
追い出された研究所の扉の前で、俺は腕を組んだ。
例の化学物質に会えないならここにいたって仕方ない。それに、あちこち歩き回って少し疲れてきた頃だ。
(一度黄リンのところに戻ろうかな……)
そう思って家の方に体を向けたとき、後ろからぐっと口を塞がれた。
(え!?)
ぎょっとして抵抗しようとするが、前からもう一人に押されて、俺はなすすべなく草むらに押し込まれてしまった。
やっと口から誰かの手が離れ、俺は助けを求めようと声を出そうとする。
「しー、静かに!」
そう言って人差し指を口の前に持ってきて、目の前にいた女の子が小声で言った。
「大丈夫、私たちお兄さんにひどいことをしたりしないよ」
そう言って隣にいたもう一人の女の子が笑う。双子なのかと思うほど彼女たちの見た目はそっくりだった。
「君たちは……?」
そう尋ねると人差し指を口の前にあてていた女の子が
「私の名前はノックス。こっちがソックスよ」と答えた。
「ノックスとソックス……」
ノックスは窒素酸化物の総称、ソックスは硫黄酸化物の総称だ。どちらも光化学スモッグや酸性雨を引き起こす大気汚染物質である。
「えっと……君たちが俺に一体なんの用?」
そう尋ねると二人が顔を見合わせ意味有りげに笑った。
「お兄さん、研究所の奥にいる化学物質に会いたいんでしょ?」
「え?なんでそれを?」
不思議そうに尋ねるとふふんとソックスが誇らしげに笑った。
「"あの化学物質"には全てお見通しなんだよ。だから、お兄さんのことも全部知ってるの。お兄さんが化学教師であることも、ついさっきラジオ局に行ってたことも、ぜーんぶ、ね」
そう言われて俺は舌を巻いた。
(研究所の一番奥にいる化学物質は、シアンタウンの長みたいな人なのかな?)
「でも、その化学物質には会えなかったんだ」
そう言うと「それも知ってる」とノックスが頷いた。
「一酸化炭素に止められちゃったんでしょ。全く、堅物なんだから」
「でも大丈夫。もうすぐ一酸化炭素が研究所を出るから。……ほら」
そう言ってソックスが研究所の方を指差す。
俺も草むらから覗けば、一酸化炭素が水銀たちのいた家の方に向かって歩いていくのが見えた。
「一酸化炭素は水銀と仲がいいから、ちょくちょくああいうふうに水銀に会いに行くの。研究所の奥に行くなら今のうちだよ」
「でも、中には他の研究員もいるんじゃ……」
俺の言葉にノックスがくすくす笑った。
「大丈夫、研究員たちは皆マウスの世話で忙しくて、廊下を見回る余裕なんてないから」
「そうそう。ヒ素はいるかもしれないけど、あの子間抜けだし大丈夫だよ」
そう言って二人が笑い、俺の手を引っ張った。
「ほら、行こう!」
ノックスが俺の手を引っ張り、ソックスが背中を押す。二人に連れられて俺は再び研究所の中に入っていった。
矢印看板の所に戻ってきて、俺は首をひねる。
(そういえば……)
看板に書かれた研究所という文字を目で追って、セシウムが不思議なことを話していたのを思い出した。
(研究所の一番奥に、最も危険な化学物質がいる……)
最も危険な化学物質とは一体なんだろう。思いつく化学物質を頭の中で並べてみたが、ピンとくるものは見つからなかった。
(セシウムは他に『化学物質たちは皆、人間の役に立つのを夢見てる』とも言ってたな……)
別に人間にとって有益ではないからその化学物質が価値がないものかと言われれば、そんなことはないはずだ。化学物質たちだってたかが生物の一種でしかない人間に自分たちの価値を決められるのは嫌だろう。
しかし、数学の国でもそうだったらしいが、教科の国というのは存外人間から受ける影響が大きいらしい。
そもそも、『理科』とか『化学』とかも人間が勝手に定めた名前だ。それを国名や地域名に使っているところを見ると、人間の影響の大きさは教科の国の人たちにとって並々ならぬものなのかもしれない。
「……」
『研究所・兵器工場』と書かれた看板の文字を再度見つめる。
研究所の一番奥にいる化学物質は、最も危険な化学物質らしい。同じ危険物の劇物や毒物にそう言わしめるのだから、人間にとってはかなり危険なものなのだろう。
(もしかしたらそんな言われようをしていることに本人は傷ついているかもしれない)
そう思うといても立ってもいられなくなった。会って話せば、少しはその化学物質の心を慰められるかもしれない。
(ちょっと会いに行ってみよう)
そう決心すると、俺は再び研究所へ急いだ。
今度は研究所の扉はすんなりと開いた。覗きこめば、一酸化炭素が研究員の一人と話しているのが見えた。
研究員に指示をし終えた一酸化炭素が何かに気づいたようにこちらを振り返る。そして俺の顔を見て眉をひそめた。
「……またお前か」
「ごめんね、またお邪魔しちゃって」
頭を下げると一酸化炭素がため息をついた。ふわり、とタバコの煙が俺を取り囲む。
「そんなにお前は被験体になりたいのか?」
そう言われぎょっとする。
「ち、違うよ。……研究所の奥にいる化学物質に会いたいと思って来たんだ」
そう言うと、一酸化炭素の目つきが一段と鋭くなった。
「……駄目だ」
「どうして?」と聞き返すと一酸化炭素が煙を吐き出した。
「逆に聞くが、なぜお前はあいつに会いたいんだ?」
俺は、その化学物質が最も危険な化学物質だと言われて傷ついているかもしれないから、会って慰めてあげたいということを彼女に説明した。それを聞いて一酸化炭素は呆れた顔をした。
「そんな心配は全くの杞憂だ。あいつはむしろ自分が毒物であることを楽しんでいる。そんな気遣いなどいらない」
「え?そうなの?」
そんな化学物質もいるのか、と内心驚く。人間のように化学物質も多様な性格を持っているらしい。
「とにかく、あいつと会うのだけはやめておけ。分かったならさっさと帰るんだな。さもないと……」
そう言って彼女の目がきらりと光った。その隣に控えていた研究員が俺の方に近づこうとする。
「わ、わかった!邪魔してごめんね」
慌てて謝る俺を見て一酸化炭素がふんと鼻を鳴らした。
追い出された研究所の扉の前で、俺は腕を組んだ。
例の化学物質に会えないならここにいたって仕方ない。それに、あちこち歩き回って少し疲れてきた頃だ。
(一度黄リンのところに戻ろうかな……)
そう思って家の方に体を向けたとき、後ろからぐっと口を塞がれた。
(え!?)
ぎょっとして抵抗しようとするが、前からもう一人に押されて、俺はなすすべなく草むらに押し込まれてしまった。
やっと口から誰かの手が離れ、俺は助けを求めようと声を出そうとする。
「しー、静かに!」
そう言って人差し指を口の前に持ってきて、目の前にいた女の子が小声で言った。
「大丈夫、私たちお兄さんにひどいことをしたりしないよ」
そう言って隣にいたもう一人の女の子が笑う。双子なのかと思うほど彼女たちの見た目はそっくりだった。
「君たちは……?」
そう尋ねると人差し指を口の前にあてていた女の子が
「私の名前はノックス。こっちがソックスよ」と答えた。
「ノックスとソックス……」
ノックスは窒素酸化物の総称、ソックスは硫黄酸化物の総称だ。どちらも光化学スモッグや酸性雨を引き起こす大気汚染物質である。
「えっと……君たちが俺に一体なんの用?」
そう尋ねると二人が顔を見合わせ意味有りげに笑った。
「お兄さん、研究所の奥にいる化学物質に会いたいんでしょ?」
「え?なんでそれを?」
不思議そうに尋ねるとふふんとソックスが誇らしげに笑った。
「"あの化学物質"には全てお見通しなんだよ。だから、お兄さんのことも全部知ってるの。お兄さんが化学教師であることも、ついさっきラジオ局に行ってたことも、ぜーんぶ、ね」
そう言われて俺は舌を巻いた。
(研究所の一番奥にいる化学物質は、シアンタウンの長みたいな人なのかな?)
「でも、その化学物質には会えなかったんだ」
そう言うと「それも知ってる」とノックスが頷いた。
「一酸化炭素に止められちゃったんでしょ。全く、堅物なんだから」
「でも大丈夫。もうすぐ一酸化炭素が研究所を出るから。……ほら」
そう言ってソックスが研究所の方を指差す。
俺も草むらから覗けば、一酸化炭素が水銀たちのいた家の方に向かって歩いていくのが見えた。
「一酸化炭素は水銀と仲がいいから、ちょくちょくああいうふうに水銀に会いに行くの。研究所の奥に行くなら今のうちだよ」
「でも、中には他の研究員もいるんじゃ……」
俺の言葉にノックスがくすくす笑った。
「大丈夫、研究員たちは皆マウスの世話で忙しくて、廊下を見回る余裕なんてないから」
「そうそう。ヒ素はいるかもしれないけど、あの子間抜けだし大丈夫だよ」
そう言って二人が笑い、俺の手を引っ張った。
「ほら、行こう!」
ノックスが俺の手を引っ張り、ソックスが背中を押す。二人に連れられて俺は再び研究所の中に入っていった。
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