夜闇のかげろう

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夜闇のあかり

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胸を押さえて必死に呼吸を整えようとした。鳴り続ける鼓動を押し殺そうと何度も胸を叩いて、叩いて、叩いて。
やっと呼吸が整ったと思って膝をついた。ドアの前の薄明かりに照らされて、後悔が湧き上がってくる。
頭の中を這いずり回る思いの濁流が涙となって溢れ出てくる。
どうして逃げてきたのか、どうして話そうとしなかったのか、どうしてここにいるのか。
今までも頭の片隅に存在していた考えがほんの僅かな出会いによってその姿が膨れ上がってくる。どれだけ抑えようとしてもその勢いが収まることはない。  
呼吸が乱れる。


はぁ    はぁ       はぁ
   はぁ      はぁ
 はぁ      はぁ    はぁ
     はぁ         はぁ
  はぁ      はぁ      はぁ
はぁ    はぁ     はぁ


笑う膝を左手で掴みながらドアノブに手を掛け家へと逃げ込んでいく。靴を脱ぎ捨て、
ソファに向かって生まれたての子鹿が歩を進める。暗闇の中をふらふらと壁にぶつかりながら進んでいく。  

 ドサッ

二人用のソファに体を落とし、カーテンを閉め忘れた窓の先を見据える。そこに映る一筋の流れ星を。滞在もせず軌跡も残さないその星を己の願いを吐き捨てて、ただ見続けた。
私はもう一度彼に会いたい。なのに、
私は今一度足を踏み出せずにいる。少しだけでいい、たった一歩でいい、私に踏み出す勇気をくれと。
他力本願でいいどんな事をしてでも会いたい

そんな思いも、この部屋が、空気が、暗闇がそして、自分が覆い隠してしまう。
玄関の鍵もカーテンも閉め忘れているのに
私は星空の下に、この両の瞳《め》を閉ざしてしまうのだろう。
明日もいつもと変わらない生活を、玲奈と2人のこの家で暮らしていければそれでいいと思ってしまう。静寂が、夜闇が温かくなるその日まで記憶の蓋を閉じておこう。
瞼はもうじき視界に幕をかける。

もう寝よう 明日になれば全て忘れる

そう思い視界を閉じて、ソファに身体を預けた。そんな静けさを晴らすように扉を開ける
音が聞こえた。それと同時に聞きなれた声が
耳を通ってきた。

「ただいま~
 すず~帰ってきたぞー」

朝よりも元気溌剌なその声が私を呼ぶ。
靴を乱雑に脱ぎ捨てて、この時間にふさわしい缶ビールを片手にリビングの椅子に座る。

「グッグッングッぷっはぁー!仕事終わりのビールがいっちばんいいね!一日の終わりを感じるっす」
「すずも飲む?」

彼女の質問に答えるわけでもなく、相槌を打つでもなく、私は瞼に重石をつける。

「ちょぅとすずー、寝てるの?」

近づいてくる足音がする。電気をつけていないせいか私の顔を覗き込もうとしている。それでも、私は寝たふりをした。

「すずほんとに寝てるの?んっもう、スーツのまま寝たらダメじゃん。シワがつくよ。
玄関の鍵も閉め忘れてるし。不用心だよ。
まったく」

カーテンを閉めながらそんな事を言う彼女とは今朝と立場が逆転している。カーテンが閉められたせいでより部屋の明かりが遮られた
そこでゆっくりと目を開けた。

「ありがとう」
「ちょっ、いきなり脅かさないでよ」

一瞬玲奈がビクッとしてから、先程と同じ調子で返してきた。

「、、、本当にありがとう」
「いきなりどうしたのさ ありがとうなんて」
「ここに居させてくれて、ありがとう」
「 」

外よりも深い闇の中で涙と共に零すその言葉
は彼女に届いただろうか、それとも闇に溶け込まれたのだろうか。遠い沈黙を遮るように
言葉を続けた。

「私に寄り添ってくれてありがとう。
私の味方であり続けてくれてありがとう。
私の我儘に付き合ってくれてありがとう。
今までそばに居てくれて、  
本当に、ありがとう、、、」
「  」

帰ってくる言葉はなかったけれど、この身体を包み込む温《ぬく》もりが、その華奢とは違う強い力が私に想いを届けてくれる。

「やっと分かったの 私の想いに」
「うん」
「私、雄介が好きなんだよ」
「、、、うん」
「大好きなんだ」
「うん」

耳元で聞こえる啜り泣く声が私にまで涙を求めてくる。そばにいる彼女の泣き顔もこの部屋の中じゃよく見えない。それでも分かるよ
玲奈が私のことを思って泣いてるの

「玲奈は分かってたの?」
「当たり前でしょ、毎日毎日彼のこと話してたら誰だって分かるよ。好きなんだろうなぁーって」
「言ってよ、いじわる」
「自分で気づくことに意味があるの」
「まぁ、玲奈に言われても ねぇ」
「そうね、信じないでしょうね あんたは」

「、、、玲奈で良かった」
「私じゃなきゃ見放してる」
「ははっ そうだね」

温かさが私にも届いた頃に彼女が優しく頭を撫でて、足元の方に腰を下ろした。部屋の明かりはまだ付いていない。

「どうして気づけたの」
「今日、彼に会ったの。私はそこから逃げてしまったけれど、逃げても動悸は収まらなかった」
「、、、」
「ここに着いた時にねそれが、"心"から逃げていることだって気づいたの」
「それで、すずは今どうしたいの」

その質問に対する返答はもう決まっている。
なのに、声に出すことができない。頭の中は雄介に会いたいでいっぱいなはずなのに、
会った後でどうすればいいのか分からない不安が邪魔をして一歩をまだ踏み出せない。

「私は、、、」
「まだ決められないの?」
「、、、」
「このままでいいの?ずっと自分を隠したままで、それで本当にいいの」
「玲奈といた方が幸せかもしれないし、、、」
「そんなのこっちが迷惑だよ いつまでも他人に気使うほど暇じゃねぇんだよ」
「雄介と会っても元に戻れる保証なんて、」
「戻れる戻れないの話じゃない あんたが今どうしたいかを聞いてんの」
「何もしないで後悔するより、何かをして後悔するべきだ」

くよくよすんなよ、と言わんばかりのその眼光が胸に突き刺さる。心に張られていた幕が
やっと剥がされた気がする。踏み出す勇気は充分もらった。もう迷いはない。

「わたし 行くよ」
「、、、うん」

玄関に向かうその足にもう重石は付いていない、私の行動を遮る感情は全て消え去った。
頬をつたう雫を振り払い、前へ前へと進み続ける。視界に映るは一点の光。靴を履きドアノブに手を掛けたところで最後にもう一度
感謝の言葉を述べる。

「ありがとう」

私は駆けた。あの日とは逆の方向へ、暗闇を照らす太陽のもとへ走り続けた。彼への想いが消えないことは分かってる。それでも、
今すぐにでも会いたい。もう二度と逃げ出したりなんてしないから。だから、


月明かり照らす公園に着いても彼の姿は見えない。スーツの上着を脱ぎ捨てて必死で彼の姿を探す。

(こんな時になんでヒールで来ちゃったのよ)

足の痛さを押し殺しながら公園の隅々まで駆け巡っていった。見た目が変わっていても、変わらない温かさを頼りに彼のもとへと歩を進める。手当たり次第探しても見つからず
公園にはいないと考えて、アパートに向かおうとした時。自販機に立つ人影を見つけた。

黒いシャツに黒のパンツに、目元まで隠れたボサボサの髪、痩せこけた顔。それに、隠しきれない優しい瞳。雄介だ。私の好きな彼が
今そこにいる。もう逃げたりしないから

「好きだね、コーンスープ 私にも少しちょうだい?」
「  」

彼の瞳の輝きが徐々に増していくようだった
私も緊張しているのか、いつもよりぎこちない笑みで彼に話しかけた。

「ちょっと黙ってないで何か返して、って
痛った」
「っ大丈夫 えっと、あっあそこのベンチで話そう」

華奢な彼に支えられながらこの微妙な空気をどうしようかと考えを巡らせる。いきなり好きだ!と切り出すべきか、いや流石にそれはないな

「何してたの?今まで」
「、、、前と変わらないよ」
「そう」
「、、、」

(話し続けなさいよこのバカ、『そう』で終わらせないでよ)

「すずは、どうしてたの?」
「私は、玲奈の家に行ってた」
「玲奈って中学からの友達の?」
「そう あなたも会ったことあるでしょ
私と同じぐらいの身長で、小顔で目がクリッとしてる」
「あ~あの子、一度うちに来てくれた事あったよね」
「そうね、私が付き合ったって言ったらすぐにでも会いにいくって」
「すごく明るい子だったね」
「うん」
「楽しかった?その子との生活」

そうね楽しかった、と言おうとしたところで
わたしは言葉を飲み込んだ。

「まあ、そこそこかな」
「そうなんだ」

嫌な沈黙を遮るように次の話題を切り出そうとした。

「、、、あなたはどうだったの?」
「君がいた時と同じだよ」

そうなんだと言ってまた間が生まれてしまった。聞きたいことは山ほどあるはずなのに久しぶりに話したせいか会話がうまく続かない

「ちゃんと食べてるの」
「そうだねぇ 最近はカップ麺ばかりかなぁ」
「そんなものばかり食べてると太るよ」
「ははっ そうだね」
「服もシワだらけだし、アイロンかけてるの」
「めんどくさくて」
「だめだよシワが残っちゃうよ」
「さっきからまるでお母さんみたいだね」

そう言ってくしゃっと笑うその表情は今までとなんら変わらない自然な姿で私に許しを与えてくれるみたいで涙が出てくる。

「すず 大丈夫?」
「あなたは何も悪くないのに私の我儘のせいで雄介をまた、、、」
「、、、何も言わなかった僕も悪いよ」
「私は二度もあなたを傷つけた。そんな姿になるまで心を弱らさせた私が、私が、、、」

彼に泣き縋ることなんてできない。たとえ彼が私を許したとしても、彼が自分を責めたとしても。私は彼を許し自分を絶対に許さない
約束を破り自分からも逃げた私を許すわけにはいかない。悪いのは全て私なのだから

「すず、家に来て」

わたしを抱きかかえてポッケから取り出したハンカチで涙を拭いてくれた。家に着くまで何度もわたしに気をかけてくれた。足痛くない、体キツくない、と何度も声をかけてくれた。わたしはまた彼の優しさに触れられたことがただ嬉しかった。

家に着くまで彼の温もりを感じていた。
あの雨の日よりも温かい彼の優しさにただ包まれていたかった。
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