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ニ
しおりを挟む桜花と無枯の戦いは熾烈を極め、一進一退の攻防が繰り広げていた。
桜花は自らの巨体を激動させて、家具や柱の角へ小指をぶつけるたびに悶絶した。
対する無枯は、持ち前の身軽さを遺憾なく発揮し、壁や天井に頭をぶつけては涙目になった。
狭い四畳半の中をぐるぐると、ネコとネズミのように追いかけっこしていれば、当然の展開であった。
桜花は小指を押さえながら、無枯は腕を組んで涙目になりながら、お互いを睨み合った。
しかし、ふいに二人の戦いは終戦を迎えることとなる。
トントンとドアをノックする音が玄関から聞こえてきたのである。
「鬼守先輩、私です。大弥です。お約束していた煮物を持ってきたのですが」
さらに大弥の声がドア越しから聞こえてきた。
桜花は無枯から視線を外し、ちらりと畳に置かれた時計を見た。招き猫型の時計の針はちょうど七時を指していた。
それを確認した桜花は視線を無枯に戻す。二人のお腹がグゥと鳴った。
「一時休戦だ」と桜花が言った。
「仕方ないの」と無枯が答えた。
桜花が肩の力を抜くと、玄関からノックの音と共に大弥の声がまた聞こえてきた。
「鬼守先輩、無枯さん、ご無事ですかー?」
「おー、いま出るから待っててくれ」
そう言って桜花は玄関へと向かった。
◇
ガチャリと桜花が玄関のドアを開けると、外には大弥がいた。彼女は桜花の顔を見るとホッとしたような顔をした。
その様子に桜花は片眉を上げる。
「どうした?」
「いえ、お返事がなかなか返ってこなかったもので。それに部屋の中が騒がしかったですし。もしかしたら、お二人の身に何かあったのかと」
「そりゃあ、すまなかったな。なんだその、ちょっと無枯と遊んでたもんでよ」
「無枯さんと? それは良いことですねっ。どんな遊びをしてらしたんですか?」
大弥が笑顔で聞いてくる。
「んー……鬼ごっこ、かね」
「鬼ごっこ! 楽しそうですね。宜しければ今度、私もやりたいです」
「やめといた方が良い、頭とか小指だけじゃ済まなくなりそうだ」
「?」
大弥は小首傾げた。
ふと彼女が両手で何かを持っていることに桜花は気づいた。それは蓋付きの黄色い鍋であった。
桜花が鍋に視線を送る。「それか、煮物ってのは」
「あっはい、そうでした」と大弥が鍋を桜花へと差し出す。
「お口に合うとよろしいんですけど」
「大弥が作ったんだろ、そこは心配してねえさ。うまいに決まってるってな」
そう言って桜花は鍋を受け取ろうとした。
「そ、そんな私の料理なんて褒められるほどのものじゃありません。お母さんに比べたらまだまだ未熟者ですし」
なんだが慌てた様子で大弥が頭を左右に振る。パタパタと手の平も振る。そして自由になった鍋が落ちる。
「あっ!」
即座に、桜花は自身の足元へ飛び込むように腰を曲げ、腕を鍋へと伸ばした。
「グッ!」
落ちきる寸前に桜花は鍋を掴むのに成功した。
ただ勢いをつけすぎたのか、彼の顔面は床にめり込んでいた。
「あ、危ねえとこだった」
「すみませんすみませんっ、ドジですみません」
桜花が体を起こすと、大弥は水飲み鳥のように何度も頭を下げる。
「まあ、そう気にするな。中身がぶちまかれなくて良かった」
桜花は鍋を片手に持ち替え、もう一方の手で鍋の蓋を開けた。鍋の中には茶色くなるまで煮付けられた鶏肉やこんにゃく、にんじん、大根などが入っていた。醤油の香りとほのかに甘い香りが漂ってくる。
桜花は自分の口の中で唾液が出てくるのを感じた。
「中の煮物も問題なしだ」
「本当にすみません。お怪我などされませんでした?」
「大丈夫だって。こんな事で怪我してちゃ、あの学園じゃとっくにくたばってる」
桜花はニッと歯を見せて笑った。彼の知り合いからは連続凶悪犯、良くて組の若頭と評される顔からの笑みであった。
それに大弥は「ふふっ」と小さく笑った。
「死んじゃうなんて、流石に大袈裟ですよ鬼守先輩」
「はっはっは、大袈裟だったら良いんだけどな」
自分で言っておいて少し悲く感じた桜花であったが、彼女が笑顔になってくれたので良しとした。
すると突然、桜花の背中へ何かが負ぶさった。もしかしなくても、それは無枯であった。
「あっ、無枯さん。おはようございます」
「うむ、おはよう澄澪。おい桜花ッ、貴様はいつまで玄関でくっちゃべっているのだ。我は凄くお腹が減ったぞ。さっきからなにやら美味しそうな匂いもしてくるしッ」
無枯の腹の音が背中を介して桜花へと伝わる。
「はよう飯にしろーッ」
「わーたわーた。すぐ飯にするから耳元で騒ぐんじゃねえ。じゃあすまねえな大弥、ありがたくこれ貰うぜ。鍋は洗って返すからよ」
「はい、どうぞ召し上がってください。お鍋の方は何時でも結構ですから」
「ほほう、これは実に美味そうな」と無枯が桜花の肩から身を乗り出して鍋を覗いた。
「――ッ!」
途端、彼女の顔が険しくなった。
「無枯さん、どうかいたしましたか?」
「ん?」
桜花と大弥の視線が彼女に集中する。
「桜花よ、我、大変なことに気づいた」
「どうしたんだよ」
「我――まだお米炊いてない」
ピシャアと落雷のような衝撃が桜花を襲った。
「なうわあにぃ! 今日はお前が炊くはずじゃなかったのかッ」
「さっきのやり取りですっかり忘れとったわ」
「何で起きてすぐ炊飯器をセットしておかなかった。いくらでも時間あったろ」
「それはだな……」と言って無枯は桜花から飛び降り、玄関のすぐ脇にある流し台の方へ向かった。
戻ってきた彼女の腕には炊飯器が抱えられていた。
「昨日たまたま知ったのだがな。この炊飯器、いつもは炊くのに一時時間はかかるが、ここの設定という所を押して『急速』という状態にするとな、なんと炊き上がりの時間が三十分ほどになるのだ! 凄いだろ半分だぞ半分!」
無枯はまるで世界の半分でも手に入れたかのように目を輝かせている。
「なのに、せっかく実演してやろうと待っていたのに、貴様ときたら封書ばかりを見て我を無視するしまつ」
彼女の言い分に桜花はハッとなった。
「まさかお前、それで妙に機嫌が悪かったのか」
「ふんッ、いまさら気づいたか」
図星らしく、無枯はプイと炊飯器を抱えたままそっぽを向く。
桜花は彼女の不機嫌さの理由に合点がいった。
「無視するみたいになっちまったのは悪かったけどな、だがそれとこれとは話が別だ。だいたい急速なんて既に知っとるわ!」
「何ぃ、ならば何故いつも使わんッ」
「急速だと米が固えんだよ。だから使うこともねえし、教えることもねえなと思っただけだ」
「おのれい、よくもそれを我に黙っていたな。驚かせようとした我、阿呆みたいではないかッ」
無枯が髪を逆立てて、抱えていた炊飯器を思いっきり振り上げた。と思ったら丁寧に床へ置いた。
「どうやら、やはり貴様とはここで決着をつけねばならぬようだな。米が無いとなんか食べる気しないし」
無枯は鋭い八重歯をむき出して、ヤンキーのメンチ切りのような目で桜花を下から睨みつける。
「それはこっちの台詞だ」
話し合いでどうにかなる状態ではないと判断した桜花は、無枯を見下ろす。というより、ご飯が無いと食べる気がしなくなるのは、彼も同じであった。
睨み合う二人の頭の中で、またもやカーンとゴングが鳴った。
しかし始まって一秒も経たずに終戦を迎える。
「あのう」大弥がおずおずと言う。
「良かったらご飯、お持ちしましょうか? 炊きたてじゃありませんけど」
桜花と無枯、二人の視線が大弥に向けられる。再度、二人は互いに目を合わせる。そして、二人はそろって大弥へと深々と頭を下げた。
「「お願いします(する)」」
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