1 / 6
弁当 in the『マ゛ンバ』
しおりを挟む
「うっ……」
小さく呟き、私は開けたばかりの弁当のふたを戻そうとした。
慌てて重ねようとしたふたは、弁当箱の隅についたご飯粒を押しつぶす嫌な感触を私の指に伝えてくる。
油断していた。
うちの母はかなりおかしいということを、どうして失念していたのだろう。
私はもうじき高校生になるのだ。
海苔で書かれた文字ごときで喜ぶお年頃ではないというのに。
しかも今日は、その高校が決まる入試日なのだ。
なぜそんな日のお弁当に、この人は海苔文字に挑戦しようとしたのだろう。
作り続けた中学三年間、一度も書くことなどなかったのに。
母は料理こそかろうじて出来るものの、芸術系の神様に一切の祝福を貰えなかった女性である。
はっきり言おう。
センスがない。いやむしろマイナスといっていいものだ。
思い起こせば、今朝から母の様子はおかしかった。
いつもは台所で粗熱を取るために、ふたを閉じていない状態で弁当は置いてある。
それなのに今日は、すでに袋に入った状態でリビングに準備されていたのだ。
「なんだかドキドキしちゃって、今日は早起きしちゃったから」
緊張するのは、母よりも私のはずなのだが。
口をむずむずとさせながら、弁当箱と私の顔を交互に眺めてくる母に違和感はあったのだ。
今日は、一生を決めると言っても過言ではない大切な日である。
しっかり者といわれる私だが、今日は緊張で冷静さを欠いていたのは否めない。
妙にそわそわしていた母の様子を思いだし、私はため息をついた。
さて、このままでいるわけにもいかない。
ふたを押さえたままの状態で私は深呼吸をする。
……一回、二回。
オーケー、覚悟は出来た。
こんなところで、時間を食っている暇はない。
食っていいのは弁当の中身だけだ。
改めてふたを開く。
敷き詰められたご飯の上に書かれた文字は三文字。
おそらく『ガンバ』と母は書きたかったのだろう。
だが運命のいたずらとは残酷なものだ。
『ガ』の二画目がふたに引っ付いたことによりずれ、『マ゛』という文字に変わっていた。
つまり『マ゛ンバ』という文字が、白く輝くご飯の上にのせられているということ。
なお、私の人生において『マ゛ンバ』という言葉は、聞いたことも話したことも検索サイトで調べたこともない。
さらに言えば母は、バランス感覚というものを祖母のお腹の中に置いて来てしまった人だ。
『マ゛ン』の文字だけで、ご飯の面積の三分の二以上を占めている。
そのために最後の文字の『バ』が非常に小さい。
つまりは。
『マ゛ンバ』
このような状態になっているのだ。
白い世界で、いびつな存在感を放つ黒の三文字。
そんな文字を眺めている私から生まれたのは、笑みだった。
「まぁ、お母さんらしいといえばそうだよな。……ふふ。ありがと」
多少の心の乱れこそ起こったものの、いつも通りのリラックスした気持ちも芽生えさせてくれていた。
朝早くに作られた、すっかり冷めてしまっているお弁当。
でもそれは三年間、食べ続けたいつもの母の味で。
『普段通りに頑張りなさい』と伝えているように感じられるのだ。
いつもより早起きをして、私のために作ってくれたお弁当をゆっくりとかみしめていく。
当たり前に食べていた味が、どうしたことか今日はとても心と鼻の奥を刺激してくる。
視界がぼやけた私は、泣き顔を人に見られないようにと下を向く。
お弁当がしょっぱくなる前に食べるんだ。
そしていつも通りの力を出せるようにしよう。
気合が入った私は、きれいに弁当を食べ終える。
――大丈夫、きっと頑張れるから。
不思議な自信と共にテキストを開き、私は午後の試験に向けて集中を始めるのだった。
◇◇◇◇◇
「ただいまっ! 試験は無事に終わったよ!」
「そう、よかったわね。三年間、あなたはずっと頑張って来たものね。きっといい結果が出るわよ」
いつもならくすぐったくってしょうがない言葉だ。
けれども今日は、素直に私の心にすっと入ってくる。
鞄から弁当箱を取り出し、台所にいる母へと手渡す。
「お弁当、美味しかったよ! 明後日の受験も頑張って行ってくるね!」
「ふふ、いい手ごたえだったのかしら? じゃあお母さんも次のお弁当、しっかり作らなきゃね」
受け取った弁当箱を洗いながら母は笑った。
その言葉に私にも笑顔が生まれていく。
きっと明後日も頑張れる。
そんな気持ちで私はその日を過ごしたのだった。
そして私は二日後の試験会場にて、パワーアップした海苔文字弁当に会うことになる。
でもそれはまた、別のお話。
そしてこれは、こんな私たちのとてもにぎやかな日々の話。
小さく呟き、私は開けたばかりの弁当のふたを戻そうとした。
慌てて重ねようとしたふたは、弁当箱の隅についたご飯粒を押しつぶす嫌な感触を私の指に伝えてくる。
油断していた。
うちの母はかなりおかしいということを、どうして失念していたのだろう。
私はもうじき高校生になるのだ。
海苔で書かれた文字ごときで喜ぶお年頃ではないというのに。
しかも今日は、その高校が決まる入試日なのだ。
なぜそんな日のお弁当に、この人は海苔文字に挑戦しようとしたのだろう。
作り続けた中学三年間、一度も書くことなどなかったのに。
母は料理こそかろうじて出来るものの、芸術系の神様に一切の祝福を貰えなかった女性である。
はっきり言おう。
センスがない。いやむしろマイナスといっていいものだ。
思い起こせば、今朝から母の様子はおかしかった。
いつもは台所で粗熱を取るために、ふたを閉じていない状態で弁当は置いてある。
それなのに今日は、すでに袋に入った状態でリビングに準備されていたのだ。
「なんだかドキドキしちゃって、今日は早起きしちゃったから」
緊張するのは、母よりも私のはずなのだが。
口をむずむずとさせながら、弁当箱と私の顔を交互に眺めてくる母に違和感はあったのだ。
今日は、一生を決めると言っても過言ではない大切な日である。
しっかり者といわれる私だが、今日は緊張で冷静さを欠いていたのは否めない。
妙にそわそわしていた母の様子を思いだし、私はため息をついた。
さて、このままでいるわけにもいかない。
ふたを押さえたままの状態で私は深呼吸をする。
……一回、二回。
オーケー、覚悟は出来た。
こんなところで、時間を食っている暇はない。
食っていいのは弁当の中身だけだ。
改めてふたを開く。
敷き詰められたご飯の上に書かれた文字は三文字。
おそらく『ガンバ』と母は書きたかったのだろう。
だが運命のいたずらとは残酷なものだ。
『ガ』の二画目がふたに引っ付いたことによりずれ、『マ゛』という文字に変わっていた。
つまり『マ゛ンバ』という文字が、白く輝くご飯の上にのせられているということ。
なお、私の人生において『マ゛ンバ』という言葉は、聞いたことも話したことも検索サイトで調べたこともない。
さらに言えば母は、バランス感覚というものを祖母のお腹の中に置いて来てしまった人だ。
『マ゛ン』の文字だけで、ご飯の面積の三分の二以上を占めている。
そのために最後の文字の『バ』が非常に小さい。
つまりは。
『マ゛ンバ』
このような状態になっているのだ。
白い世界で、いびつな存在感を放つ黒の三文字。
そんな文字を眺めている私から生まれたのは、笑みだった。
「まぁ、お母さんらしいといえばそうだよな。……ふふ。ありがと」
多少の心の乱れこそ起こったものの、いつも通りのリラックスした気持ちも芽生えさせてくれていた。
朝早くに作られた、すっかり冷めてしまっているお弁当。
でもそれは三年間、食べ続けたいつもの母の味で。
『普段通りに頑張りなさい』と伝えているように感じられるのだ。
いつもより早起きをして、私のために作ってくれたお弁当をゆっくりとかみしめていく。
当たり前に食べていた味が、どうしたことか今日はとても心と鼻の奥を刺激してくる。
視界がぼやけた私は、泣き顔を人に見られないようにと下を向く。
お弁当がしょっぱくなる前に食べるんだ。
そしていつも通りの力を出せるようにしよう。
気合が入った私は、きれいに弁当を食べ終える。
――大丈夫、きっと頑張れるから。
不思議な自信と共にテキストを開き、私は午後の試験に向けて集中を始めるのだった。
◇◇◇◇◇
「ただいまっ! 試験は無事に終わったよ!」
「そう、よかったわね。三年間、あなたはずっと頑張って来たものね。きっといい結果が出るわよ」
いつもならくすぐったくってしょうがない言葉だ。
けれども今日は、素直に私の心にすっと入ってくる。
鞄から弁当箱を取り出し、台所にいる母へと手渡す。
「お弁当、美味しかったよ! 明後日の受験も頑張って行ってくるね!」
「ふふ、いい手ごたえだったのかしら? じゃあお母さんも次のお弁当、しっかり作らなきゃね」
受け取った弁当箱を洗いながら母は笑った。
その言葉に私にも笑顔が生まれていく。
きっと明後日も頑張れる。
そんな気持ちで私はその日を過ごしたのだった。
そして私は二日後の試験会場にて、パワーアップした海苔文字弁当に会うことになる。
でもそれはまた、別のお話。
そしてこれは、こんな私たちのとてもにぎやかな日々の話。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる