弁当 in the『マ゛ンﾊﾞ』

コメとハナ、そして私。

「ふぅ、暑かったぁ。ただいま～！　……って、ええっ！」

　それは八月のある日。
　汗を拭い、帰宅を告げる私の声に重なるように聞こえて来たのは、何かをひっくり返した大きな音。
　そして数秒後にリビングの方から聞こえていたのは、「ぐぎゅぅ」という普通の人間なら発することのない声。

　……まぁ、でもうちの母ならば出しかねない。
　うちの母は、かなり残念な人間だからだ。
　とりあえずは、自分の部屋に鞄を置きに向かう。

　え？　どうしてリビングに直行しないのかって？
　母親が心配ではないのかですって？
　もちろん心配ですよ。
　
　リビングの惨状と、これからの現実を見なければいけない私のメンタルがね！

　自室の机に鞄を置き深呼吸。
　……一回、二回。
　オーケー、諦めはついた。
　今までの経験を踏まえ、起こりうる可能性を想定しながら、静かにリビングの扉を開く。

　――そこに散らばるは、一面の米。

　くそぅ、まだ私には経験値と覚悟が足りなかったようだ。
　想定を余裕で飛び越えた、『起こりうる可能性』を私は恨む。

　ライトブラウンの床には、数多あまたの白い米が広がっていた。
　そしてそれを必死にかき集めている母親の後ろ姿が見える。
　私の頭の中に小学校の時に国語で習ったある詩の一節、「いちめんのなのはな」が「なのはな」の部分を「米」に変えて、エンドレスで流れ出す。
　あっちは綺麗な景色だが、こっちはみじめな景色だよ、ちくしょうめ。

　……おっと、口が悪いのはいけない。
　女子高校生にとって、清く正しい言葉遣いは大切だ。

「えっと、お母さん。何してるの」

　私の声に、母の体がびくりと震える。
　ゆっくりと振り返った顔には、カチコチの笑顔が張り付いていた。

「おっ、おかえりなさい！　ひーちゃん！」

　ちなみに『ひーちゃん』は私のあだ名だ。
　震え声の母の言葉は続く。

「お風呂にする？　ご飯にする？　それともお・こ・め？」
「いや、ご飯の時点で米はカウントされないか？　って違う違う！　何なの、この惨状は？」
「え、えっとほら、もうすぐあなたのおばあちゃんのお誕生日でしょう？　今年は８８歳の米寿だから、何かお祝いしてあげたいなぁって思って」
「うん、それは知ってる。私はだた、それがどうしてこんな『米散らかしフェスティバル』に変化したのか説明してほしいだけ」
「米散らかし……。うぅ、そんな言い方ひどい。だからプレゼントでね。手作りのぬいぐるみを贈りたいなぁと思っていたの」

　――今この人、何て言った？

「え？　ちょっともう一度きいていい？　『手作り』のぬいぐるみをって言った？」
「そうだよ！　やっぱり気持ちがこもっていた方がいいかなぁって！」

　先程のカチコチの笑顔から一転。
　あふれんばかりの本物の笑顔が表れる。　
　お母様、お忘れですか？
　あなたの芸術のセンスが皆無だということを。

「い、一応さ。それ見せてもらっていいかなぁ」
「もちろんいいわよ！」

　差し出された『それ』を前に、私の時間は止まった。
　今、私の体から出てくる汗は、きっと暑さのせいだけではないだろう。

「おばあちゃん干支がイノシシだからね！　ふふ、頑張っちゃったぁ」

　大きさは１５センチほどだろうか。
　問題はその容姿だ。
　サル？　イノシシ？　ブタ？
　そこにいたのは、何かの複合体としか言えない形状のもの。
　目の位置がちくはぐに縫われ、なぜだか縫い目の部分に赤い染みが点々と付いている。
　私に分かるのは、これはこの世に居てはいけない存在ということだけだ。

「どうしてこんなにお米が散らばっているの？」
「えっとね。米寿だから、ちょっとした遊び心で、ぬいぐるみの中にお米を入れてみようと思ったの～！ほら、まさに『思いを米こめて！』なんちゃって～！」

　……ぬいぐるみに米ですか？

「それでね、私ってあまり器用じゃないから。お米が上手に入れられなくって、ちょっと散らばっちゃったの。でも、縫い終わるまでは片づけられなくて。それでやっと縫い終わったら、ちょうどひーちゃんが帰って来たのよ。お迎えに行こうとしたら、うっかりお米が入っていた袋に足を引っかけて転んじゃったの」

　周りを見渡す。
　これは私の感覚では、『ちょっと』とは呼ばない。
『かなり』と人が言う量だと思う。
　母のそばに転がっている、２キロと書かれた米袋を私は見つめる。

「どうして米袋をそのままリビングに持ってきたの？　このぬいぐるみの大きさなら、ボウルに入れるくらいの量で充分でしょう？」
「実はおばあちゃんのが完成したら、私やひーちゃん、あとお友達の分も作ってあげたいなぁと思ってたの。でもおばあちゃんのだけで、すごく時間が掛かってしまったから」

　しょんぼりとした声で、母が答えてくる。
　この危険な物体を複数、私の視界にとらえるのは精神的にかなり厳しい。
　一体で済んだことに安堵しながら、ぬいぐるみを指さし私は尋ねる。

「なんで縫い目に赤い染みついてるの？　これってまさか……？」
「もう指を刺しまくりよ～。痛いったらありゃしないわぁ！」

　確かに母の人差し指だけで、赤い北斗七星が作れそうだ。
　私は笑顔で自分のスマホを取り出し、検索してはいけないと言われている、『ひとりかくれんぼ』という言葉を打ち込み母に見せる。
　これはぬいぐるみに米を入れて行う降霊術であり、とても怖い都市伝説だ。
　覗き込んだ母の顔から、次第に笑顔が消え、顔色は青へ。
　そしてあっという間に白へと変わっていく。
　うん、驚きの白さだね。
　なにせ母は、大変な怖がりなのだ。

「ちょ、ちょっとお母さん。なぜだか急に、懐かしい気持ちに満たされちゃってるわぁ。今日はあなたと昔を語り合いたいわねぇ」
「あ、別に結構です。さすがに高校生にもなって、親と一緒に眠るなんて……」
「すみません。何でもしますので今日だけは一緒に寝てくださいぃぃ！」　

　涙目で叫ぶ母に、ため息をつき私は言う。

「じゃあ、このお米をまずは片付けよう。そしたら今日は一緒に寝るから。あとね、おばあちゃんに一緒に手紙を書こう。気持ちをいっぱい込めてね」
「うんっ、うん！　書く、いっぱい書くから！　あとお片付けに時間かかっちゃうだろうから、今日の夕飯は『鳥日和とりびより』に食べに行こうよ！」

 　鳥日和は近所にある焼き鳥屋だ。
　父と母が出会った場所であり、私たちの行きつけのお店でもある。

「いっぱいって量の問題じゃないからね。あと後半の意見は賛成。つくねスペシャル頼んでいい？」
「もちろん！　あ、あのね、手紙と一緒にお花も贈りたいの、それでね……」

　後日、手紙と黄金色に輝くひまわりを十本準備して、私たちはおばあちゃんの家へと向かう。
　ひまわりの花束は、本数により花言葉が変わる。
　例えば一本だと『一目ぼれ』、三本では『愛の告白』という意味になるそうだ。
　
「ちなみに十本での花言葉は、特にないんだって」

　玄関の呼び鈴を鳴らし待つ間、いたずらっぽい笑みを浮かべ、母は嬉しそうに話してくれた。

　おばあちゃんが見守る中、母が手紙を読み上げるのを聞きながら、私は花束を渡す時を待つ。　
　この花は、十一本で『最愛』という花言葉になるのだ。
　手紙が読み終わると同時に、私はおばあちゃんに花束を持ったまま抱き着いていく。

　そう、私の名は『ひまわり』。
　おばあちゃんは、十一本目となった私の頭を撫でると、太陽のようなあたたかな笑顔を注いでくれた。