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短編(1話完結)

6番線の西トイレ ※

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 「いいか、久辺。22時以降……最低でも23時以降には6番線の西トイレには近づくなよ??」

歓迎会で冗談交じりに先輩の田所さんが言った。
今日はもう仕事上がりだからとビールを飲んでご満悦な顔をしてそう言った。
にっこにこの上機嫌な赤ら顔からは、事の重要性や話のジャンルが見て取れない。
私はどう捉えていいのかわからず、曖昧に笑って頷いた。
田所さんはそれに満足したのか、うんうんと頷くと唐揚げを食べに行ってしまった。

 何が言いたかったんだろう?

その時はあまり気にも止めなかった。





 新しい駅舎に配属になり、慌ただしい日々が続いた。
やはりその駅ごとに色々異なる点があり、覚える事が多いからだ。

 田所さんはあれ以降、6番線の西トイレの話はしてこない。
ただ気になる点はあった。
それはこの駅舎が妙に職員の出入りが多い事だ。
長くこの駅舎に努めているのは、田所さんと再雇用の小川さん、後、清掃の野間さんぐらいだった。
後は転勤希望が出せる時期が来ると、必ず皆、転勤願いを出してここを出ていく。

 ここは地方駅だがそれなりに大きな駅だ。
別に利用者が多い訳ではないのだけれども、ここいら一体の地方駅のハブポイントになっている為、無駄にホームが多かった。
乗り換えや追い越し、回送電車の入れ替え等の業務を一手に担っている。
とはいえ都会の駅とは違い、のんびりとはしているのだけれども。

 そんな中に6番線はある。
一番使われないホームだ。

昼間はそれなりに電車の入れ替えや特急の追い越し待ちなどに使われるが、夜になれば基本は閉鎖されて明かりも最小限になる。
 そして6番線の西トイレというのは、いかにも何か出てもおかしくない、隅の方にぽつんと心もとなく立っているトイレだった。
お世辞にも綺麗とは言えない古びたトイレ。
むしろなぜ撤去されないのだろうとすら思える。

 「あら、新人さん。仕事は慣れた?」

ホームの点検をしているとそう声をかけられた。
顔を上げると、この辺の駅の清掃担当をしている野間さんだった。
にこやかな初老のおばさんで、こうして声をかけてくれる。

「新人だなんてそんな……。」

思わず笑う。
この駅では新人である事は間違いない。
ただ、本当に新人だったのは遠い昔だから何ともむず痒くなる。

「お疲れ様です。野間さん。いつも清掃ありがとうございます。」

「いえいえ、仕事だもの。このご時世、働かせてもらえて有り難いわ。」

そう言って笑う顔は晴れやかだ。
そんな事を屈託なく言える人生の先輩を眩しく思う。

「……野間さんはこの駅の清掃担当をされて長いんですよね?」

ふと、口をついて出た言葉。
その言葉に野間さんは少し意味有りげに微笑んだ。

「そうね~。ちょこっとずつ担当駅は変わるけど、ここの駅はずっと担当しているわね~。」

「……どうしてですか?」

「さぁ?どうしてかしら?」

ふふふと笑う野間さん。
その笑顔はどこか、そこにある何かを聞かずにおけと言う意味を感じさせた。

「田所さんに何か言われたんでしょ?」

「あ~……、はい。」

「懲りないわねぇ~。」

「懲りない?」

「そ、田所さん、新人さんにいつもアレを言うから……。前は凄く言い聞かせたもんだから、一度、注意を受けたのよ。」

「……アレ、ですか?」

「そ。その言われた新人さん、先輩に怖がらせられるって上に苦情を言ってねぇ~。1回、大変だったのよ~。」

「はぁ……。」

私が知りたいのはその部分ではなかったのだが、どうやら田所さんはいつもそういう話を新しく来た職員にするようだ。
だとしたら、単なる質の悪い冗談なのかもしれない。

「……でもね、悪気はないのよ。誤解しないであげてね。むしろ……。」

 野間さんがそう言いかけた時、電車が駅につくアナウンスが流れ出した。
私は慌てて持ち場に戻ろうと軽く会釈をする。
野間さんも慣れたもので、にこにこと手を振って見送ってくれた。

 野間さんの言いかけた話は気になったが、また話す機会もあるだろう。
私はそう思ってその場を後にした。







 そんな事があったが、日々、仕事に追われていればそれどころではなくてやがてそこにあったいいえぬ感情は薄れていく。

 だが、否応なしに思い出す日もある。
21:45分、6番線を使う最終電車が終わり、ホームを閉鎖しようと見て回る。

薄暗いホームの先には、件の西トイレ。

閉鎖する時は電気を消すのが決まりとなっている。
薄れたとはいえ、何となく苦手意識を持ったそこに近づいていくと、何か影が動いた。
思わず足が止まる。
他のホームの気配が遠退き、ズンッとした闇の中に古びた西トイレだけがやけに鮮明に視界に浮かび上がる。

「……っ……っ…………っ。」

何か掠れた声のようなモノが聞こえた。
ビクッと体が硬直した。

一瞬思考が止まり、動けなくなる。

だがそうも言ってはいられない。
きちんと点検して、消灯しなければならない。

こんな事なら、田所さんにどういう事なのかきちんと聞いておくべきだった。
野間さんにあの話の続きを聞いておくべきだった。

足を動かす前に、誰かいないかと他のホームに顔を向けた。
すると一番離れた1番線にいた、私の前に入った先輩と目が合った。
私の様子から何か察したらしく、強張った顔で頷くと、小走りにその場を離れていく。
おそらくこちらに向かってきてくれるのだろう。

私は少しだけ気持ちに余裕ができて大きく深呼吸をした。
西トイレからは掠れた声のようなモノと微かな物音がしている。

大丈夫、すぐに先輩が来てくれる。
私は意を決してトイレに近づいた。

「誰かいますかぁ~?!」

私は声を張り上げた。
ガタッと少し大きめな音がして、そして静まり返った。
手始めに男子トイレから確認する。
覗いても誰もいなかったが、恐る恐る、個室のドアを開ける。

………………誰もいない。

その事に安堵しながらも、まだ緊張している。
一応、掃除用具入れのドアも鍵を空けて確認した。
次は女子トイレだ。

「すみません!22時で6番線ホームは閉鎖します。どなたかいらっしゃいますか?!」

声をかけるが、静寂が重く空気に響くだけ。
薄暗い電球に影が走り、何かと思って見上げれば大きめな虫が光を遮って影を動かしていた。

「すみません、確認の為、入らせて頂きます。」

そう断りを入れてから、女子トイレに入る。
洗面台前には人はいない。
個室は2つ。
私はまた恐る恐るその一つを開けた。

………………何もない。

少しほっと息を吐き出す。
そこに顔を強張らせた先輩が恐る恐る女子トイレの中を覗いてきた。
暗い夜の闇の中からじわじわっと顔だけを覗かせたので、むしろそんな先輩に私はビクッとしてしまった。
私と目が合うと、恐る恐る中を見渡し、無言で入ってくる。
その手には何故か開きかけの蝙蝠傘が握られている。

武器のつもりなのだろうか?
だとしたら何故、開きかけなのだろう?

私は不思議に思いながらも、二人になった事から強気になり、最後の個室を指差した。
何かいるとしたら、ここだけだ。
先輩と私は無言で頷き合い、そっとそのドアに手をかけようとした。

「……すみません!入ってます!!」

「?!?!」

その瞬間、女性の声がした。
まだ若そうな声だ。

利用者がいた事で私と先輩は慌てふためき、どうしたらいいのかと顔を見合わせる。

「え?!お客様?!」

「すみません!入ってます!!」

どうやら何か怖いものでもなさそうだ。
ほっと胸を撫で下ろすと、今度は冷静に対応していく。

「大変申し訳ございません、お客様。6番線のホームは22時で閉鎖になります。外で待ちますので、急かすようで申し訳ございませんがお早くお出になって下さい。」

「…………しばらく出れません……。」

「え??え、いや……申し訳ございませんが出て頂きませんと……。」

「しばらく出れないって言ってるでしょ?!セクハラよ!!」

私達は顔を見合わせた。
ここでセクハラ問題になるのはまずい。
先輩は時計を確認し、目で合図すると走って出ていく。
現在、21:56分。
女性職員は今日、22時上がりの筈だ。
まだ間に合うかもしれない。

「大変失礼しました。今、女性職員を呼びに行きましたので、私は外で待機させて頂きます。」

「いいから出てって!!閉鎖していいからほっといて!!」

そんな事を言われても、こっちにも仕事がある。
それにここで何かされても困るのだ。

私はとにかく女子トイレの外に出て、女性職員が来てくれるのを待っていた。










 疲れた……。

同じように疲れきった先輩と女性職員が30分遅れで帰って行ったのは20分ほど前。
そして目の前には不機嫌そうな田所さん。

「……全く……最近の若けぇのは……!!」

まぁ、田所さんが怒るのも無理もない。
6番線の西トイレに立て篭っていた女性は……その……一人ではなかった。
恋人と二人でトイレを利用していたのだ。
まぁ、それで察して欲しい。
 前々から人気のないトイレで目をつけていたのだそうだ。
ただ、6番線のホームが22時で閉鎖とは知らなかったらしい。
 散々、すったもんだし、具合が悪いなら救急車を、そうでないなら警察に通報させてもらうと言ってやっと出てきた二人は、不貞腐れて盛大に文句を言ってきた。
そこで笑顔でぶちギレモードの田所さんに厳重注意をされたと言う訳だ。

「便所はラブホじゃねぇっての!!」

「ははははは……。」

私は報告書類を書きながら、田所さんのダダ漏れの本音を聞かされた。
まだ業務中なので、田所さんはブラックコーヒー片手に苛々を流し込んでいる。

「……6番線の西トイレだって?例のアベック?」

そこに再雇用の小川さんが戻ってきてそう言った。
アベックって言ってるの、生で初めて聞いたと少し場違いな事を思う。
田所さんは苛つきながらそれに頷いた。

「……おい、久辺。全員が出て消灯したの、何時だ?」

「え……ええ、閉鎖したのが22:27でしたから、22:19分ぐらいかと……。」

「19分か……まぁ、ギリ平気だろうけど……。」

「一応見てくるよ。」

「悪いな、小川ちゃん。」

「野間さんにも連絡入れとくよ。」

「ん、頼んだ。」

「……大福は?」

「菓子棚にねぇか?」

「……あ~、あったあった。なら行ってくる。」

そう言うと小川さんは個包装の大福を一つ持って出ていってしまった。
それに報告書を書く手を止めて、田所さんを振り返る。

 「……前から思ってたんですけど……あの大福、何か意味があるんですか??」

この駅舎にはちょっと不思議な習慣がある。
必ず大福が置いてあり、それを最終職員が終業後に食べると言うものだ。
駅締めをする最終職員への労りなのだと思っていたが、他の菓子を用意しようとしたら大福でないと駄目だと言われて不思議に思っていたのだ。

「……非常食だよ。気にすんな、新人。」

「新人って勤続年数でもないんですけどね……。」

不機嫌そうにコーヒーを飲む田所さんにそれ以上聞けず、私は報告書を書き続けた。

6番線の西トイレ。
22時の閉鎖。
そして大福……。

そこには一体何があるのだろう?
小川さんは野間さんにも連絡すると言っていた。
昔からいる三人にはわかっている事。
「新人」と呼ばれる私には、全く検討もつかなかった。







 私の前にこの駅舎に来た先輩が転勤願いを出している事を知ったのは、それから数日後だった。
やっと今季の異動が終わったばかりだと言うのに、こんな早々に転勤願いを出すなんて何かおかしい。
そして女性職員に至っては、結婚を期に退職する旨を異動でこの駅舎に来た時から聞いていた。

この駅舎には、一体何があるというのか……。

「おはよう、新人さん。」

「新人はよしてくださいよ、野間さん。」

「ふふっ、そうね。ごめんなさいね、久辺さん。」

「いえいえ。」

朝の通勤ラッシュが終わった頃、駅内清掃の為に野間さんがホームにみえた。
トイレ清掃に向かうようだ。
それでふと思い出し、控えめに聞いた。

「あの……6番線の西トイレ。あの日は朝イチに清掃されてましたよね……。」

「……あら、いつの話かしら?」

野間さんは一瞬だけ間を置いて笑った。
わかってるんだ、と思った。

そこで突っ込んで聞ければいいのだが、私は気が引けて曖昧な顔をする事しかできない。
そんな私を野間さんはじっと見つめた。

「……久辺さんは、小川さんに似てるわね。」

「え?」

唐突な言葉に一瞬固まる。
小川さんに似てる?
私が?
不思議に思って野間さんを見つめる。

「……そうね。久辺さんとは長い付き合いになるかもね。」

「はぁ……。」

「ここ、人がいつかないじゃない?!」

そう言っていつものように明るく笑う。
小川さんと似ているとここで長く務められるのだろうか?
よくわからない。

そこでまた、電車の到着を告げるアナウンスが流れたので、お互い仕事に戻った。









 あれはどういう意味だったんだろう?

夕飯を食べながら、先日、野間さんに言われた事を考えていた。
私とは長い付き合いになるというのはどういう事だろう?

 そもそも、異動でここに来た職員の殆どが、異動可能になると異動願いを出すというのはどうしてなのだろう?
ここは激務とは言えないし、ガラの悪い利用者に毎日の様に悩まされるなんて事もない。
確かにちょっとだけ田所さんは癖があるけれど、別にパワハラをしてきたりしない。
むしろ何かあると率先して前に出てくれるので、何だかんだ守ってもらっていると思う。

乗客ものどかだし、嫌な職員がいる訳じゃない。

唯一、気になっているといえば、6番線の西トイレだ。
それとなく聞こうとしても、皆、それとなく話を濁す。
だから私は結局未だに何も知らない。
おかしな事があったのも、あのカップルの件だけだ。

「……ただあの後、田所さんをはじめ小川さんも野間さんもちょっと変だった……。」

あの後、1週間ほど6番線の閉めは田所さんか小川さんが行っていた。
たまにあの日の翌日の様に野間さんが朝イチで掃除に来ていた。
そして飽きた飽きたと言いながら、田所さんが大福をやたら買っていた。
(飽きたからなのか様々な種類の大福を買ってきていた。)

「……なんで大福なんだ?」

ふと見れば、お菓子棚にはいつも通り大福がある。
今日は奮発したのかいちご大福だ。

「美味しそう……。」

本当は終業後に食べる決まりだが、そんな数時間で何か問題になるとも思えない。
今、食べても別に構わないんじゃないかと、私は大福に手を伸ばした。

「駄目だよ、久辺くん。大福は仕事が終わってからね。」

そう、穏やかな声がした。
振り向くと小川さんがにっこり笑っていた。
その顔を目をぱちくりさせながら眺める。

『久辺さんは小川さんに似てるわね』

野間さんはそう言った。
私はこの人に似ているのだろうか?
そんな事を思う。

「前から思っていたのですが……この大福は何なんですか?」

田所さんには聞きづらいし、野間さんはこの話になるとどこか頑なだ。
だが小川さんは一貫していつも穏やかな事から、この人なら答えてくれるのではないかと思えた。

「あ~、これはね、お守りだよ。」

「……お守り?」

「うん。」

小川さんは朗らかにそう言った。
だがその顔はどこか疲れて見えた。

「お疲れですね。大丈夫ですか?」

「いやまあ、見ての通りもう歳だしね。」

はははと笑う小川さん。
再雇用制度を利用する理由は人それぞれだろうけれど、どうしてこの人はそれをしたのだろうか?

「やっぱり老後が心配だからなんですか?」

「う~ん。それも確かにあるねぇ~。後、いきなり仕事がなくなると変な感じがしてねぇ~。それに……。」

「それに?」

「何となく、後ろ髪引かれたんだよ。今年で退職だって時はやっと終わるって思ったのに……。」

どっこいしょと小川さんは腰掛ける。
その顔は何と表現したらいいのかわからない。
疲れているような、困っているような。
でもその奥に、強い使命感のような揺るがないものを感じた。

私はこの人に似ているのだろうか……。

その言葉を発するのもためらわれるような、長年仕事を背負ってきた風格が何かを物語っている。
穏やかで、けれど決して折れる事のない強さが静かにそこに存在している。

「だってそうだろ?田所くんはアレだから、僕は心配で心配で。」

けれどそれをも相手に気負わせないかのように、小川さんは茶目っ気たっぷりに笑った。
私も思わずつられて笑ってしまう。

「悪い人じゃないんですけどね?田所さん。」

「そうなんだよねぇ。勝ち気というか一本気というか。イイ奴なんだけど、今の時代、ちょっと煙たがられるんだよねぇ。」

ちらりと時計を見ると、休憩時間が終わりかけている。
私は弁当箱とマグカップを片付け、帽子を被った。
そんな私にカップうどんにお湯を入れながら小川さんが言った。

「持ち場はどこだい?」

「まず6番線の最終を見送って閉めて、そこから一番線ですね。」

「……そうか……6番線の閉めか……。」

どこか空気の違う発音でそう言った。
気にはなったが、時間通りに動かなければならない。

私は小川さんに会釈して仕事に戻った。










 そんな会話をした後だから、私は少し、過敏になっていた。
6番線の最後の電車を送り出し、ホームを確認して回る。
本当なら一番始めに西トイレを確認して終わらせてしまいたいのだが、何故か暗黙のルールとして「西トイレを最後に確認してすぐにホームを閉鎖する」事になっていた。

大丈夫、何も気にすることはない。

そう自分に言い聞かせながら西トイレに向かう。
ホームの端、夜の中にぽつんと明かりが灯るその小さなコンクリート小屋のようなそれは、どこか虚無的で時代から忘れ去られた廃墟のようだ。

そこから漏れる明かりに影が走って揺れた。

ビクッと足が強張る。
だがあのカップルがいた日もそんな感じだった。
大きな虫が光を遮ったのだろう。
私は平常心を保ちながら、西トイレに向かっていく。

「……っ…………っ……。」

何か掠れた声のようなモノ。
それを聞いて私は逆に落ち着いてしまった。
またかと思ったのだ。

あの後、あのカップルが言い広めたのか何なのか、たまにおかしな男女がそこを「利用」しようとしている事が数回あったのだ。
その度に田所さんが表面上はにこやかに、しかしかなり荒れて大変だった。
今日も田所さんは駅締めのメンバーだ。
これは知られぬうちにさっさと帰って頂かないと面倒な事になると私は対応を急いだ。

「すみません!6番線ホームは22時時で閉鎖です!!速やかにお出になって下さい!!体調が悪いようでしたら……!!」

そう穏やかだが大きな声で呼びかけながらトイレに入っていく。
明かりが遮られ、フッと影が走る。


「…………えっ?」


バッと覗いた男子トイレ。
そこはいつもと違った。

一瞬、何を自分が見ているのかわからず思考が止まる。

そこは……とても汚れていた。
昼間に点検した時は、いつも通り野間さんが綺麗に清掃してくれてあったのに。

しかも汚れているの汚れているが、理解の範疇を越えている。
まるで誰かが泥を持ち込んであちこちに投げ飛ばした様に汚れているのだ。
しかも投げ飛ばした泥を手で壁なんかに塗りたくっている。

「……え?」

意味がわからない。
そう言った臭いがしないので、排泄物ではないと思う。

でもなんで泥?
どこから出てきた泥なんだ?

その時、ボタン……と肩に何か当たった。

驚いてそれを見ると泥だ。
制服の肩にべったり、泥がついている。

「えっ?!」

なんで泥?
どこから?なんで?

驚く間もなく、ぼたぼたぼた……っとあちこちに泥の雨が降り始めた。
驚きのあまり声が出ない。
自分が見ている光景を理解できない。

降り注ぐ泥はタイルの床に跳ね、一面を汚していく。
ドロドロと……ぐちゃぐちゃと……清潔に保たれていたトイレを暗く重い土気色に変えていく……。

カップルともめた日、先輩が蝙蝠傘を開きかけながら中を覗いてきた光景が頭に浮かんだ。
あぁ、これだから蝙蝠傘なのか……。
訳がわからない状況で、パニックが一周回ってどこか冷静にそう思った。

ボタン……ッ。

一際大きな泥の塊が真横に落ちた。
それが跳ねてズボンは肩と同じく泥まみれになる。

人間とは不思議なものだ。

こんな理解不能な状況だというのに、上から何か降ってきたのなら反射的に上を見上げてしまうのだ。



「…………?……ああぁぁぁぁ……っ?!」



私は見た。

それを見てしまった。
理解できるものじゃない。

天井を覆う、泥。
そこから無数の手が伸びている。

蠢くように。
もがくように。
救いを求めるように……。

大きさは様々だ。
けれどそこから垂れ下がる何かは全て手だった。

無秩序に何かを掴もうと伸ばされた手。
その腕が千切れてボタリと落ちてくる。

ぼたぼたぼたっと泥が降る。
私を囲むようにそれは降りしきる。

泥……?

これは本当に泥なのだろうか?
それを見てしまった私は呆然と立ち尽くしながらそう思った。

周囲がそれに囲まれていく。
視界がそれに飲み込まれていく。

思考が……飲まれていく……。

光は見えない。
ただその泥のような何かが世界の全てを覆っている。

暗い……グニャグニャする……。



「……久辺くん!!」



そう声がした。

そしてそのまとわりつく泥の中から、ズボッと誰かに腕を引っ張られ、抜け出した。
ドスンとトイレの入り口スペースに尻餅をつく。

「久辺くん!しっかり!!」

「…………小川さん……?」

「大福!!」

「へ?」

目の前に大福を突きつけられる。

一瞬それに対して物凄い嫌悪感を抱いた。
白くてもっちりした見た目も、半透明に透けて見えるあんこも、吐き気がするほど気持ち悪く感じ、暴れてそれをはね避けようとした。

「久辺くん!!」

しかし小川さんは俺を取り押さえ、大福を無理やり近づけてくる。

嫌だ!!止めろ!!
そう思いながらちらりと大福を見る。

「………っ!………?」

大福を見る。
さっき美味しそうだと思ったいちご大福。

「……いちご大福……。」

「良かった……。」

小川さんのその安心したような声を最後に、私は気を失ってしまった。










 はたと気づくと、休憩用のソファーに寝かされていた。
何が起きたのかわからない。
しかし習慣とは怖いもので、さっと時計を確認し飛び起きた。

「……しまった!駅閉め!!」

焦って冷や汗が吹き出す。
寝ている場合ではない。
早く作業をしなければ!!

「……真面目か。」

「田所さん!!」

そんな私を呆れたように田所さんが振り返った。
田所さんがいるという事は、駅閉めは終わっているだろう。

ほっと息を吐き、ソファーに座り直した。
そこに緑茶のティーパックの入った湯気立つマグカップを持って、田所さんが近づいてくる。

「……気ぃ失って、目覚めた第一声が仕事の事とか、お前、どんだけだよ?!」

「すみません……。」

どうして自分の方が謝るのかよくわからなかったが、上下関係を重視する事が骨まで染み付いた私は反射的にそう言ってしまった。
それに時間的に考えても、駅閉めは自分抜きで終わらせてもらった事を考えれば、やはりすみませんが妥当だと思う。

呆れ顔の田所さんは俺の前に手に持っていたものを置いた。
コトンと置かれたマグカップ。
そしてその横には……いちご大福が置かれた。

「……ッ!!」

「言いたい事は山ほどあんだろうが、まずは食え。話はそれからだ。」

私はいちご大福をじっと見つめた。
夕飯を食べ終えた時はあんなに美味しそうに見えたいちご大福が、今は味気ないものに見える。
スカスカなグレーがかった色の味が口の中に想像された。

しかし田所さんが有無を言わさぬ眼光で見つめているので、私は仕方なくそれをもそもそと食べ始めた。
はじめは予想通りなんの味も旨味も感じなかったが、やがて鮮明にそれは口の中に存在を示しだした。

もっちりとした革の柔らかさ。
ほのかで優しい甘さ。
そしていちごの爽やかな酸味が口に広がる。

「……美味しい。」

「そうかい。そりゃ良かった。」

そう呟いた私を見て、田所さんは口悪くそう言った。
だがその顔はとても安心した様に見えた。

「……ただいま~。あ、久辺くん。目が覚めたかい?そうか、食べれたか……。良かった……。」

そこに最後の見回りを終えたらしい小川さんが帰ってきた。
そして私がいちご大福を食べているのを見て微笑んだ。

「どうだったよ、アレ?」

「うん、ここまで大掛かりなのはかなり久々だからね。明日は私も早めに来て掃除を手伝うよ。」

「は~、全く……。」

私は二人の会話を聞きながら、今日こそはきちんと聞かなければならないと思った。
姿勢を正した私に、田所さんも小川さんも黙って向かいのソファーに腰掛けた。

「あの……。」

「わからん。」

「は?」

「ちょっと、田所くん。それじゃ久辺くんがわからないだろう?」

問いかけようとした私の言葉にかぶせてきた田所さんに、小川さんは苦笑する。
確かにこれでは……心置きなく引退する事はできなかっただろう。

「だってお前、あれは何だって聞こうとしたんだろ?だからわからねぇって答えただけだろ。」

「……わからないんですか?!」

「うん。実は僕達もアレが何かはわからないんだよ。ただ、昔からあのトイレにアレはたまに出るんだ。最も、今回のように大掛かりなのは本当に希にしかないんだけどね。」

「時間も早かったしな。全く……。」

よくわからないが、どうやら私は色々と大当たりを引いたらしい。
何を言っていいのかわからずお茶を啜った。

「いつもはちょっと、壁を汚したり、ぼたぼた降ったりする程度なんだけど……。」

「それでも十分、怖いですよ……アレは……。」

天井にベッタリと張り付いていた泥のようなものの中から伸びる無数の手を思い出し、私は身震いする。
もしもアレにあのまま取りこまれていたらどうなっていたのだろう……。
あまり想像したくない。

「……と言うか、大福は何なんですか?」

とりあえず、アレについてはとにかく誰もわからない事はわかった。
だが、この大福は何なのだろうと思う。
あの時、私は本当にこの小さな大福が物凄く嫌なものに見えた。
近づけて欲しくなかったし、ましてや食べるなんて想像もつかなかった。

「……お守りだよ。」

小川さんが数時間前と同じように穏やかに言った。
田所さんは面倒そうに頭を掻いている。

「よくわかんねぇんだよ、マジで。ただ、アレは大福を嫌がんだよ。何でか知らねぇけど……。」

「だから非常用のお守りとして使ってるんだ。」

二人は困ったようにそう言った。
アレ自体がよくわからないのだ。
何故、大福を嫌がるのかはわからない。

だが自分が経験したからわかる。
アレは、大福に物凄い嫌悪感を持っている。
それだけは確かだ。

「だったら……常に大福を置いておけば?」

「そう思うだろ?!だがな?!アレは馬鹿じゃねぇ。あのトイレに大福を置いておくと、別の所に出んだよ。」

「えぇぇっ?!」

「6番線の西トイレは殆ど利用されないし22時以降閉鎖してしまえるから多少色々あっても問題ないけど……他のところだと大騒ぎになるだろう?」

「そう……ですね……。」

もしも利用者の多い改札付近のトイレにアレがいついてしまったら、この駅は閉鎖するしかなくなるだろう。

「……取り壊してしまう事もできないんですか??」

「それも同じだ。あそこを取り壊そうとすると別のところに出る。」

「しかもね~、取り壊しを請け負った会社にも行くんだよ、アレ。」

小川さんは少しおかしそうにそう言った。
物凄く普通の事のように笑う小川さん。
アレに関わりすぎて慣れすぎて、ちょっと感覚がおかしくなっているのかもしれない。

「だからどこも請け負ってくんねぇし、別の場所に出られんのも迷惑なんだよ。」

田所さんはただただ面倒そうにそう言った。
思ったより、アレに順応しているのは強気な田所さんより小川さんの方なのかもしれない。

アレの事は誰にもよくわからない。
わかっているのは、大福を異様に毛嫌いしている事。
そして大福をトイレに置いたり、トイレを取り壊そうとすると別の場所に移動する事。

「……だとすると……現状維持が一番都合がいいんですね……。」

私は考え込みながらそう言った。
根本的な解決にはならないが、あそこにアレを置いておく事が必要悪というか最善の策である事は理解できた。
そんな私を二人はぽかんと眺める。
続けておかしそうに笑った。

「…………野間さんの言った通りだね。」

「だな。意外だけどよ。」

「え?」

何故そんな反応をされるのかわからず戸惑う。
野間さんが何を言ったのだろう?

「どういう事ですか?」

「いやな、他の奴はお前より軽い感じでアレと接触しただけで、もう震え上がっちまってな……。なのに久辺、お前、アレに取り込まれそうになってたらしいのにめちゃくちゃ冷静でよぉ~。」

「結構、アレを見たら今すぐ辞めたいって言う人も少なくないんだよ。」

「……あ~。」

そう言われ、納得した。
そしてここに人がいつかない理由も理解した。

しかし、私の頭には辞める事も異動願いを出す事もなかった。

あんなに怖い思いをしたのに?
それに気づいても、ここを逃げ出そうとは思わなかった。

「さすが、目覚めて開口一番「駅閉め!」って叫んだ社畜だわ。」

「え?!久辺くん、そんな事叫んだのかい?!少し休んだ方がいいよ?!有給使ってるかい?!」

「あは、はははは……。」

褒めてるのか貶しているのかわからない田所さん。
心配と哀れみの混じった目で私を見つめる小川さん。
骨の髄まで染み付いている仕事体質。
我ながら嘆かわしい……。

そう。

私はアレに対する怖さよりも、アレの存在を知った上で仕事をいかに行うかを無意識に考えていた。
何と言う社畜根性なのか……。

恐れるべきは、あの怪異か自分の社畜体質か……。

「まぁ、お前とは長い付き合いになりそうだな、久辺。」

「無理する必要はないけれど……頑張れるだけ頑張ってくれると嬉しいよ、久辺くん。」

二人の顔に笑顔が浮かんだ。
それは新しい戦友に向ける心からの笑顔だった。

私は曖昧に頷きながら、それに答えたのだった。
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