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残香〜影を弔う人々

影の弔い人

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 幼い頃、不思議に思っていた。時より見かける、あの、黒っぽいモヤのようなものは何なのだろうと。それは建物や何かの物陰に潜み、手招きするように揺れている。


 死に匂いがあると感じたのは、三軒隣の家のおじいさんが死んだ時だ。幼い私は発表会で着るようなよそ行きの服を着せられ、母親に手を引かれるままそのお宅に連れて行かれた。葬儀の手伝いに付き合わされたのだ。
 そこでふと、匂いを感じた。私は不思議に思い、台所を手伝っている母の元に行き聞いたのだ。

「母さん。何か匂いがする。」

私の問いに、母親やその他手伝いに来ていた近所のおばさんたちがきょとんと顔を向けた。

「匂い?料理の??」
「うううん。何か知らない匂いがする。」
「お線香の香りじゃなくて?」
「お線香じゃないよ。何か知らない匂い。」

それをどう表現していいのかわからず、私はグズるようにそう言った。それを困ったように母たちは笑う。

「飽きてきちゃった?もう少し我慢してね?もうじき食事になるから。」
「飽きたんじゃないよ。何か匂いがする。」
「あれじゃないかしら?よそのお宅って、自分の家と違う匂いがするじゃない?」
「違うわよ、きっとアレよ。遠方の……。」
「香水をつけてくるなんてねぇ~。」
「世間知らずでヤダわ~。」

おばさん達が噂話をはじめる。私はため息をついた。ここにいても聞いた事の答えが帰ってくることはないと、私は黙ってその場を離れる。

「あ!もうすぐ食事になるから!うろうろしないでよ?!」

そんな私の背に母がそう言った。


 それにしてもこの匂いは何だろう?線香の匂いとは違うそれ。私は微かに漂うそれを追うように、家の中を勝手に歩き出した。

「……何、してるの?」

そしてその人を見つけた。皆の集まる客間から離れた長い廊下。そこで羽根叩きのような物で庭に出る大きな窓枠を履いている人。他の人と同じく喪服を着ているが、他の人とは違い頻繁に袖を通されているのか少しくたびれていた。そして手には白い手袋。だから私はその人は葬儀屋さんなのだと思ったのだ。
 その人は静かに穏やかな笑みを見せた。そして叩きで集めたらしい埃のようなものを丁寧に瓶に移した。

「こんばんわ。ここの坊やかな?」
「違うよ。母さんが手伝いに来たんだ。」
「そうかい。騒がずに待っていて偉いね。」

私はふんふんと鼻を鳴らした。それまでで一番、何かの匂いを感じたからだ。それにその年配の男の人は少し驚いたように私を見つめる。

「……どうしたんだい?」
「あのね、何か匂いがするんだ。」
「……え?」

さらに驚いたように言葉を詰まらす。そして少しだけ私に近づくと、覗き込むように私の顔を見つめた。

「匂いがするのかい?」
「うん。何か知らない匂いがする。」
「……そうか。」
「料理の匂いでも線香の匂いでも、香水の匂いでもないよ?!」
「うん、わかっているよ。」

その人は少し困ったように笑った。私はといえば、やっと匂いの事をわかってくれる人がいてほっとしていた。

「……そうか……わかるのか……。」

困ったようにしばらく考えた後、その人は少し難しい顔をして、さっき埃を詰めていた瓶を取り出した。そしてそれを私の目の前に近づける。

「なら、これが見えたりするかい?」
「……埃なら見えてるよ?」
「どんな?」
「どんなって……埃だよ。黒くてモヤモヤしてる。」

私の言葉にその人は小さく息を呑み、私を凝視した。私は何だか居心地が悪くなって、もじもじと足を擦り合わせる。

「あ、ごめんね。変な事ばかり聞いて。」
「うん……。」
「あまりね、これが見える人はいないんだよ。」
「え?!埃が?!」
「ふふっ。実はこれ、埃じゃないんだ。」
「そうなの?!」
「それにしても匂いにまで勘付いてるとなるとなぁ……。参ったなぁ……。」
「え?この匂い……その埃の匂いなの?!」
「この埃も匂いがするんだけどね。今、君が感じているのはコレの匂いと言うよりは……おそらく……。」

その人はとても困ってしまったように小さく唸っている。しかし私はそんな様子を気にする余裕はなく、初めて嗅いだ表現のしようのない匂いが知りたくて仕方なかった。

「ねぇ!何なの?!これ、何の匂いなの?!」

飛びつかんばかりにその人に近づくと、その人は少し慌てて持っていた瓶を丁寧に鞄にしまった。そして私に向き直ると、少し迷った後、難しい顔でこう言った。

「……死の残り香だよ。」

しゃがみ込み、私と視線を合わせてゆっくりとそう言った。その人の真剣さ、そしてここがおじいさんが亡くなったばかりの家なのだと思い出し、急に怖くなった。緊張に体が固くなり、身動きできなくなる。

「……大丈夫、落ち着いて。ただの匂いだから。」
「でも……!」
「うん。この匂いに気付ける人は少ない。でも、ただの匂いだから大丈夫。」
「……何もないの?」
「うん。カレーの日はお家の中がカレーの匂いがするよね?でも、そのうちしなくなる。それと一緒。」
「……カレーと一緒……。」

その人の例えがあまりに唐突で、私はぽかんとその人を見つめた。そのせいで怖いと思っていた事がすっぽ抜けてしまう。

「むしろ……これが見えることの方がちょっと、ね……。」

その人はそう言ってさっきしまった瓶をまた取り出した。その中には、何か朧げなモヤが蠢いている。私は少し緊張し、ぐっと唾を飲み込んだ。

「……それが見えるのは、危ないの?」
「いや、危なくはない……。ただ、このモヤには危ないものもある。むしろ危ないものの方が多い……。」

その人は難しい顔で瓶を見つめている。私もじっとそのモヤを見つめる。言われてみればそれは埃とは違う。瓶に入っているから気づかなかったが、私は似たようなものを知っていた。

「……それみたいなの、たまに見るよ……。」
「そうか……やはりそうか……。」
「他の子に言ってもわかんないから、あんまり見ないようにしてた……。」
「うん。それでいいよ。これが見えても近づいたら駄目だ。無視した方がいい。このお家にあるのは亡くなったおじいさんの物で、新しいし悪いものじゃない。でも、普段、人がいないような場所にいつまでもこびり付いているようなものは……とても危ない。見えたらその場を離れなさい。決して近づいたら駄目だよ?」

諭すように語るその人に私はしっかりと頷いた。匂いもこのモヤも、今まで誰にもわかってもらえなかった。でもその人はわかってくれる。だからその言葉がとても大事なものとして胸の中にストンと落ちたのだ。

「……これ、何?」

私はその人の手の中の小瓶を見つめた。寄りかかるようにしてその人とその瓶を見つめる。

「……残香。私はそう呼んでいるよ。」

ザンコウ。ゆっくりとその言葉を噛みしめる。そんな私を見つめながらその人は続けた。

「亡くなられた方の影の残り。独特の匂いがするんだ。」
「影の残り?」
「そう。亡くなってこの世に存在が無くなれば、当然、影もなくなる。けれどこうして残るものがあるんだ。それは時間が経てば大体のものは自然に消える。けれど……消えずにそこに残り続けるものもある……。」
「……それが危ないヤツ?」
「そう、そういうモノは危ない。だから見かけても近づいたら駄目だ。関わらない方がいい。」
「どうして影が残るの?」
「想いだよ。そこにふっと残した想い。記憶というのかな……。それが影となって残るんだ。無意識のものもあれば、意識的にそこに残るもの、色々な場合がある。そしてその残された記憶によって違う匂いがするんだよ。」
「それを集めてどうするの?」
「弔うのさ。」
「弔う?」
「うん。小さな影の欠片でも、その方の一部だからね。残っていると、その人の全てがあちらに行った事にならないから。」
「ふ~ん。」

それまで知っていたあの世とか幽霊とか心霊的な事とは違う残香の話。なのに私はその内容に妙に納得していた。

「おじいさん、想いが残ってたの?」
「うん。それまでここで生きていたんだから、いろんな思い出が残っているんだよ。」
「おじいさんの思い出、弔っちゃうの?」
「……そうだね。確かにここに思い出を置いて行くのも悪くないかもしれない。でも、そうすると自然に消えるまでの間、おじいさんの影の一部はここに残ったままになってしまうんだよ。そうするとこの家のご家族も無意識にその匂いを感じとってね、いつまでもおじいさんがいるように思えてしまうんだ。それがいい事か悪い事かは考え方によって違うだろう。でもおじいさんの事を考えた時、お葬式の時点でちゃんと思い出を全部持って行かせてあげた方が、むこうで思い出せて良いんじゃないかな?」
「……そっか。置いてきちゃって、むこうで思い出せないのも嫌だよね。」
「うん。そういう事だよ。」

その人は穏やかに笑って私の頭を撫でてくれた。初めて会ったのに私はその人をとても近く感じていた。

 「……あらやだ!すみません!!」

そこに母親がやってくる。そして私の腕を引っ張って引き離すと、その人に平謝りしていた。どうも私がその人の仕事の邪魔をしていると思ったようだった。

「お食事の用意が出来ましたので、お仕事がお済みでしたら……。」
「ありがとうございます。……それより、その子のお母様ですか?」
「はい、そうですが?」
「……そうですか。では、手の空いた時で構いませんので、少しお話させて頂いても?」
「……え?は、はい……。」

母は困惑気味にその人と私を交互に見た。私もその人が母に何の用があるのだろうと首を傾げる。
 その後、私は客間に連れて行かれおとなしく隅の方で食事を済ませた。母はずっと手伝いをしていたのか、その人と話していたのか知らないが、客間には来なかった。そして食事の片付けが終わる頃、また手を引かれて家に戻った。
 そしてその日、その後その人と会う事はなかった。帰りながら私はおじいさんの家を振り返り、もっと話がしたかったな、名前を聞いておけばよかったなと思った。


 人の話し声がする。そう思って薄目を開けた。椅子に座って寝ていたので体のあちこちが痛かった。
 何だか懐かしい夢を見ていた気がする。そしてどこか懐かしい匂いも……。大欠伸をして伸びをすると、ハリのある声がピシャリと私に飛んできた。

「あ!やっと起きた!!」
「何だよ……騒々しいな……。」

責めるようなその声につっけんどんに返しながらそちらを見ると、ソファーに懐かしい顔があった。

「あれ?!師匠?!いつの間に?!」
「あはは、久しぶり。寄せを観に近くに来たからね。よらせてもらったよ。」

 相変わらず朗らかな笑み。懐かしい匂いの理由がわかって私も表情を緩めた。
 あれから何年経ったのだろう。すっかり老け込んだ師匠を見つめ、懐かしく思う。

「それにしても、相変わらずお前はマイペースだね?バイト君が困っているじゃないか?」
「バイトっていうか……。頼んだ日じゃなくても、毎日、勝手に来られてるというか……。」

穏やかながら苦言を示され、言い訳のように口篭る。それに便乗するようにハキハキとした声が響いた。

「何です?!先生?!私がいなきゃ!ここで寝てるだけで、電話にも相談者さんにも気づかないじゃないですか?!」

ツンと姑みたいな女子高生。一応バイトというか、私の弟子みたいなものだ。あの頃の私と同じように、残香の見える彼女にその対応を身に着けさせている。
 それにしたって何とも小生意気なバイトだ。私はムスッと拗ねたように顔を顰める。

「重要なモノには気づくっての。」
「そんな事言って!つまんない相談でもきちんと起きてください!!だから万年、自転車操業なんですよ!!」
「あはは!これは痛い所を突かれたな、お前。」

ブスリと急所を突かれ、バツが悪そうに苦い顔をすると、そんな私を師匠が面白そうに笑った。悪気はないのだ。

「良いんですよ……この仕事は多くない方が……。」
「駄目です!弔うか弔わないかは置いといても!相談に来られた方は困ってたり悩まれてるんですよ?!もっと親身にならなきゃ!!」
「知らない他人に親身になってどうするんだ?」
「まず第一に!相談料が頂けます!」
「初回の相談料なんて30分は無料だし、長引いて取れたとしても微々たるもんだろ?!長々と話を聞く時間と労力に見合ってないっての。」
「でもそこが契約の要です!!そして第二に!ここの評判が上がります!!それだけでもかなり経営が改善されると思うんですけど?!」

制服姿の女子高生にガンガン叱りつけられ、私は寝起きの頭を押さえた。全く、彼女がうちに来るようになってからは気持ちよく昼寝もできやしない。そんな私を年老いた師匠が微笑ましく眺めている。

「元気があっていいね。お前もここも活気が出てきたじゃないか?」
「……活気に見えます?これ?!」
「ふふっ。お前に後を任せてからは、この事務所も開店休業で埃が溜まっていたが……。うん。活気づいて良かった良かった。」
「……師匠は相変わらず……いや、何でもないです……。」

天然なのか無駄に肝が座っているのか。常に朗らかで穏やかさを崩さない己の師匠に小さくため息をつく。何だかんだ文句を言いつつも、お茶を入れて持ってきてくれた高校生バイトに礼を言う。

「……お?!芋きんつばとどら焼きじゃないですか?!流石は師匠~!わかってらっしゃる~!!」

普段お茶請けを頼むと、駄菓子やら何だが訳のわからない流行りの食べ物を出されるので、名店の甘味に頬が緩んだ。

「はは、若い子もいるからどうしようかと思ったんだけどねぇ。歳のせいか、つい昔ながらのものを選んでしまったよ。」
「そんな!きんつばもどら焼きも凄い美味しかったです!!」
「そうかそうか、若い子にも喜んでもらえて良かったよ。」

師匠には礼儀正しく接する女子高生。私には常に姑みたいだというのに面白くない。

「……何言ってんだ。老舗の和菓子もコンビニの和菓子も区別つかないくせに。」
「つきます!わかります!失礼な事言わないでください!!」
「あはは、仲良さそうで安心したよ。」

穏やかに笑う師匠の顔を見つめ、ため息をつく。これのどこをどう見たらそう見けるのだろうと思いながら、私はきんつばを頂いたのだった。
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