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短編(1話完結)

おとぼけさん

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うちのオンボロな学生寮には、昔から「おとぼけさん」と呼ばれるおばけがいる。

おばけって何だよって思うかもしれない。
まぁ、多分、幽霊なんだろう。
ただあんまり幽霊っぽくないというか、うん。
「おばけ」って言葉の方が合うんだよ、おとぼけさん。

具体的に言うと、例えば便所で紙がなかったとしよう。
男子寮の個室の方だから多いんだよ、そういうの。
やべぇってなるじゃん?
叫んだりしても、誰も通りかからなかったりする事もあるんだよ。
もう、生きた心地がしないよな。

そんな時だ。

トントンと突然、肩を叩かれたりする。
ギョッとして振り向くが、当然ながら誰もいない。
そりゃそうだよな、トイレの個室だし。
で「え??」とか思って前に向き直ると、膝の上にトイレットペーパーが少量、置いてある。
凄いだろ?

でもここからが「おとぼけさん」がおとぼけさんたる由縁だ。

そのおとぼけさんが渡してくれるトイレットペーパー。
微妙に少ないんだよ。
ギリギリピンチは乗り越えられるんだが、それだけだと正直、心もとない。
それでとりあえずピンチだけは乗り越えて、仕方なく無くなっているトイレットペーパーを補充してスッキリさせるんだよ。

どうせならきっちり1回分くれたっていいのにさ。
すっとぼけてんだよ。

その他にもさ?
バイトの日に寝過ごしそうなのを起こしてくれたりもするんだけどさ?
ギリギリ微妙に間に合わない時間で起こすんだよ。
負けるもんかとこっちも意地になって間に合わそうとするんだけど、どんなに急いでも絶対、一、二分とか間に合わないの。
で、15分とか遅刻扱いになるの。

でもこれが試験の場合はちょっと違う。
本気で急げばギリギリ入室に滑り込める。
学生寮の幽霊だけあって、学業の方は頑張れば入室に間に合うように起こしてくれるみたいだ。

ただし、デートとか遊びに行くとかの時は起こしてくれない。
多分、ひがんでるんだって誰かが言ってた。
その他にも、酔っ払って玄関で寝てる奴を落ち葉やダンボールで埋めたり、有難いんだけど微妙に事足りないレベルでフォローしてくれんの。

ただし、貰うだけもらってトイレットペーパーの補充しない奴とか、ギリギリに起こされてもどうせ間に合わないからと急がない奴とかの前には現れなくなる。

真面目に学生やってれば、微妙に助けてくれるおばけ。
それが「おとぼけさん」だ。

誰もその姿は見た事はない。
ただ、肩を叩かれたり、引っ張られたり、軽く叩かれたり、揺さぶられたりするだけ。
昔、自称霊感の強い奴が言ったことによると、おとぼけさんは右手だけの幽霊らしい。
だから肩を叩いたり、起こそうと揺さぶったりはするけど、声を聞いたという話もないし、姿も見えないらしい。

ある日の事だった。

俺が朝のおつとめでトイレの個室にこもっていると、トントントン……とノックされた。
トイレをノックするような品のある奴は、すでに寮にはいない。
皆、「誰だよ!篭ってるやつは?!名を名乗れ!!早く出ろ!!」と直接、声をかけてくるものだ。
だから妙だなと思ったが、あ、おとぼけさんかな?と思ってノックを返した。
しかしトイレットペーパーを見たが、まだちゃんとある。
どうしたんだろうと不思議に思っていると、また、トントントン……とノックされた。

「おい、誰だよ?!集中が途切れるからやめろよ?!」

俺は少しイラッとしてそうか声をかけた。
その途端、トイレのドアがドンドンドンドンッ!!と激しく叩かれ、挙句には開けようとしているのかドアをガタガタ揺らしてくる。

もう、糞ビビった。
糞どころではなくなるほどビビった。

異常な事態に声も出ずに固まっていると、じきに静かになる。
しかしそれがかえって不気味だった。

何だ?!
何が起きたんだ?!

この寮でそんな事が起こるなんて話は今まで聞いた事がない。
トイレどころではなくなり、俺はそうっと立ち上がり、耳を澄ませて外の様子を伺いながらズボンを上げた。
誰かいるのか?
そう思ってドアの下の隙間に目をやった。

「……ぎ……ぎゃあぁぁぁぁっ!!」

俺は叫んだ。
そこには、濡れたような長い髪と青白い手があった。
外から中側に入り込もうとしているように見えた。

そんな一件以降、皆が様々な怖い目に合うようになった。

頭を洗っていたら、青白い手が肩を掴んで濡れた長い髪が見えたとか、階段で後ろに引っ張られて落ちかけたとか、俺と同じようにトイレでドンドンされたとか、夜中に部屋のドアをノックされて覗き穴を覗いたら黒い髪の毛が見えたとか、夜中に足や手を掴まれたとか……。

「………………。」

雑談室に集まった俺達は、一様に暗い顔をしていた。
誰も何も言わないが、皆の考えは多分、同じだった。

「おとぼけさんも、やっぱ幽霊なんだな……。」

日野が口火を切るようにそう言った。
それに誰も何も答えない。

だが、ここのところ、おとぼけさんに助けられた奴はいない。

それが皆の口を重くさせていた。
はぁ、と俺はため息をつく。

「……なんか、俺。おとぼけさんっておっさんだと勝手に思ってたわ。」

「わかる。」

「言えてる。」

俺の言葉に少しだけ雰囲気が和らぎ、何人かがそう言って笑った。
そこからが皆が意見を出し合う。

どうしていきなりこんな事になったのか?
何か心当たりはないか?
しかし明確な答えは出ず、最後に細田先輩がこうまとめた。

「おとぼけさんが何で急に悪霊みたいになったのかはわからない。だが、このままにしておくのは俺達にとっても危険だし、なんだかんだ世話になってきたおとぼけさんを、これ以上、悪者にしたくない。お祓いができる人を探そう。料金は全員から徴収。いいな?」

皆、それに黙って頷いた。

なんだかんだ、ずっと俺達学生を見守ってくれていたおとぼけさん。
どうして急に悪霊化したのかわからない。
霊感とかあれば原因を見つけておさめる事もできるのかもしれないが、残念ながら今寮にいる奴らやその知り合い程度では、誰にもわからなかった。
それならお祓いをしてもらって、おとぼけさんをあるべき場所に還してあげる方がいいと思えた。

「……おとぼけさん。女の人なら、優しい時、もっと甘えとけば良かったなぁ~。」

「いやいや、女の人だとしても、いくつなのかはわかんねぇぞ?」

「あの面倒みの良さ、多分、母ちゃん世代だぜ?!」

「美人なら母ちゃん世代でもOK!」

「マジで?!」

そんなつまらない事を言い合って場が和む。
本当は皆、おとぼけさんがいくつだろうが、男だろうが女だろうが気にしてなんかいない。
「おとぼけさん」は「おとぼけさん」だからだ。
学生寮の「おばけ」。
親しみを込めて「おとぼけさん」と呼ばれていた幽霊。

どうしておとぼけさんが突然、俺達に悪意を持ってしまったのかはわからない。
誰かがやってはならない何かをしてしまったのかもしれない。
そう思うと同時に、きっと俺達の馬鹿さ加減に愛想が尽きたんだろうとも思っていた。
人間でも幽霊でも、優しさは無限にある訳じゃない。
小さな事でも積み重なっていけば、限界が来てしまって、愛想をつかされるんだ。
じんわりと胸の中、悲しさと申し訳なさが広がる。

皆が同じ想いを抱えながらも、いつものように笑い合っていたその時だった。

バンッ!と大きな音が響いた。
それと同時に、フッと部屋の電気が消える。

そこにいた全員が声も出せずに硬直した。
この部屋だけじゃない。
廊下の電気も消えている。
ただ非常電源に切り替わった非常口の明かりだけが、緑色に辿々しく現実を照らしている。
日常に突如落とし込まれた非日常。
その中で、どうしてだか、寮の全ての電気が消えたのだと思った。

静まり返った室内。
音を立てないようにされる浅い呼吸。
慎重に、ゆっくり、近くのヤツと顔を見合わせる。


バンッ!!


またも大きな音が響く。
闇の中、誰かがヒッと小さく悲鳴を上げた。
反射的に近くのヤツと身を寄せ合う。
ガチガチに固まった体は肺が上手く膨らまないのか、息が詰まって呼吸を止める。

バンッ!
バンッバンッバンッバンッバンッバンッバンッ!!

いつかのトイレの時のように、ガンガンドアが叩かれる。
雑談室の2つある入り口の一つを全員が凝視していた。
叩かれる度、その激しさを物語るように揺れるドア。
その磨りガラスの向こうには、ぼんやりと黒い影があった。

寮にいる奴は、今、全員ここにいる。
だいたい、雑談室のドアに鍵なんかついていない。
だから入りたければ入れる筈なのだ。

もちろん、それが人間ならば、だけれども。

いや、幽霊がドアを開けられないとは思わないし、むしろドアがあってもすり抜けて来そうなものだ。
なのにその黒い影は廊下に佇み、磨りガラスの向こうからじっとこちらを見ている。

そう、見ている。

影は真っ黒だし、磨りガラスだから顔なんか見えない。
でも、そこにいる何かがじっとりとこちらを見ている視線を、俺達は感じていた。
恨みや憎しみというか、何と表現したらいいのかわからない禍々しく強烈な視線が俺達を見ている。

バンッバンッバンッバンッバンッバンッ!!

その間も、絶え間なくドアは叩かれ、ガタガタと大きく揺れている。
そのうちドアノブをガチャガチャと回そうとしている音も混ざり始めた。
俺達は恐怖で固まり、無理やり呼吸しながらそれを見ている事しかできない。

何なんだ?!
何で入ってこようとしているんだ?!
入って来てどうするつもりなんだ?!

俺達はガタガタと震えながら、まだ起きていない先の事を無意識に詮索して恐怖に戦いていた。
誰もがちらりと見たという青白い手。
そして濡れたような長い髪。
それは有名な数々の恐怖映画を思い起こさせ、そしてその結末を連想させた。

「…………おい……。」

どれぐらいの時間、そうしていたのだろう?
物凄く長い様な短いような時間を経て、誰かが微かな声を出した。
皆がそちらに視線だけちらりと向ける。
練馬だった。
練馬は顔を向けた俺達の誰の顔も見ようとしない。
血の気の引いた顔でただじっとドアを見ている。

「……ドア、よく見ろ。」

そう言われ、俺達はまた激しく叩かれて揺れるドアに視線を向けた。
何も変わらない。
相変わらず激しく叩かれ、ガタガタと壊れるんじゃないかと言うくらい揺れ、気が狂ったようにガチャガチャとドアノブが音を立てている。

「……ドアが何だよ?!」

「よく見ろ!」

「……は?!」

「押えてる!!」

その言葉が耳から脳に届き、その意味を理解してからドアに目を向ける。

「……あっ!!」

「押えてる!!」

「手が、ドアを押えてる!!」

ハッとした。
いや、ハッとしたというより俺達はわっと盛り上がった。
こんな状況だけれども、俺達はわっと盛り上がった。
恐怖に硬直していた体から緊張が緩み、僅かな温かさが胸に湧いた。

「……おとぼけさんだ!!」

誰かがそう言ったが、そんなのは言われなくても全員わかっていた。
暗闇の中、バンバン激しく叩かれるそのドアを、手首から下の右手が頼りなさげに押さえている。
それは激しくドアを叩く「何か」に比べるととても弱々しく心もとない。
でもその頼りない手が、必死になってドアを押さえてくれている。

ああ、そうだったのか。
そういう事だったのか……。

俺達は納得した。

ここのところ起こる怪奇現象。
俺達はおとぼけさんに慣れていたせいで、多少、変な事が起きても気にしなかった。
しかしどう考えても悪意のある現象が増えた事で、おとぼけさんが悪霊になってしまったのだと思ってしまった。
でも違うのだ。
ここのところ、俺達に悪意を持って脅してきたのは別の「何か」なのだ。
そしておとぼけさんがここのところ何もしてくれなくなったのは、その「何か」との攻防で手が回らなくなっていたからなのだ。

おそらくおとぼけさんはずっと、俺達を守ろうとしてくれていたのだろう。

なのに俺達はおとぼけさんが突然悪霊になってしまったと思ってしまった。
考えてみれば、おとぼけさんがそんな事する訳がない。
いや、するかもしれないけれど、やるとしてもちょっとしたイタズラ程度だろう。
悪意を持ったからといって、この「何か」のように禍々しい憎悪を撒き散らせてくるようなおばけじゃない。
失礼ながら、そんなパワー溢れる凄い幽霊じゃないんだ、おとぼけさんは。

実際、おとぼけさんはこの新参者の「何か」を抑えようとしているのだろうが、全く歯が立っていない。
完全に「何か」≫「おとぼけさん」なのだ。

……おとぼけさん、めちゃくちゃ弱えぇ。

そう思ったが、口には出さなかった。
何となく皆そう思っただろう気はしたが、誰も何も言わなかった。

俺達はほっとして顔を見合わせる。
状況は変わっていない。
禍々しい雰囲気に包まれた、電気の消えた寮。
雑談室のドアは狂ったようにバンバン叩かれ、暗闇の中、ドアノブがガチャガチャ異常な音を響かせている。

でも、俺達はほっとしていた。

俺達を恐怖に貶めようとしているのが、おとぼけさんではない事がわかったからだ。
なんだかんだ、俺達は皆、おとぼけさんが好きなのだ。
だからおとぼけさんが悪霊になった訳じゃない事実が嬉しかった。
そして頼りないながらも、必死に俺達を守ろうとしてくれている「おとぼけさん」の気持ちが嬉しかった。
恐怖の中、その頼りない優しさは俺達に勇気をくれた。
とても大きな勇気をくれた。

「……俺のせいだ。」

異常事態は続いている。
それでも小さな温かさに顔を上げた俺達の中、一人だけ暗い顔で頭を抱えて蹲っている奴がいた。
田代だった。
田代は少しヤンチャで、寮のルールもなあなあだし、おとぼけさんの事も馬鹿にしている所のある、俺的にはあまりいい感情を持っていないヤツだった。
そんな田代だけが、この状況にまだ怯えて頭を抱えている。

「……どういう事だ、田代。」

「………………。」

「黙ってないで何とか言え!!」

先輩方が田代を責める。
ヤツは観念したようにボソッと言った。

「……2週間ちょっと前……心霊スポットで仲間と暴れて騒いだ……。いつもやって事だし、気にしてなかった……。でも……変な事が起き始めた時と合致してる……。」

そう言われ、皆、顔を見合わせる。
田代が仲間と心霊スポットなどに行って騒いできたという話は、よく武勇伝のように語っていたから知っていた。
でも、これが起こる前は何も言っていなかったのだ。

「……何で黙ってた?!」

「関係あると思わなかった!!」

「だったらいつもみたいに自慢すればよかっただろうが!!」

「ダチが!……ダチが次の日、事故ったんだよ!!偶然だろうけど、なんか気味が悪かったから……!」

どうやら、新しく寮に現れた「何か」は、田代が心霊スポットから持ち帰ったものらしい。
俺達は顔を見合わせてため息をつく。
なんとも迷惑な話だ。
ただ、断言はできないけれど、おそらくそれだろうという原因はわかった。
それならどういう幽霊か分かれば、この状況をどうにかできるかもしれない。
皆がさらに詳しく話を聞こうと詰め寄りかけた時だった。


「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"ぁァァァ……っ!!」


突然、地の底から響き渡る様な唸り声が響く。
そのまとわり付くような声に、全員、ビクッと身を縮めた。

バーンッ!バーンッ!

ドアが軋み、それまでとは比べ物にならないほど殺気立った悪意が闇の中の俺達を飲み込んだ。
怒りに任せて体当たりしているようだ。
田代が話した事で、それの意志が明確にこちらに向けられた気がした。
溜め込んで渦巻く重たい憎悪の塊。
それは強い意思を持って、こちらに来ようとしていた。

誰も指一本動かせない。
ギチギチと密閉された切迫感と緊張感。
首と視線だけを動かしドアを見つめる。

バーンッ!!

何度目だろうか?
硬直してそれを見ている事しかできなかった俺達の前で、とうとうドアが乱暴に開かれた。
その拍子に、小さくて白い物が弾き飛ばされて床に転がる。
おとぼけさんだ。
その右手は気を失ったように、クタッと床に伸びて動かない。

おとぼけさん!!

そう叫んで駆け寄りたかった。
でも、できなかった。

俺達は誰一人、動く事も、声を出す事もできなかった。

開いたドアの向こう。
真っ暗な闇があった。

明かりのない中でも、完全に何も見えない訳じゃない。
なのにそこだけ真っ黒だった。
空間に穴が空いたようにぽっかりと深淵が口を開いている。

「あ"……あ"あ"あ"あ"ぁぁ……。」

歯ぎしりの混ざったような、うめき声。
憎しみと僅かな喜びを含んだ耳障りなその声。

真っ暗な闇の中に、赤くドス黒い口腔内が見えた。

底のない闇の中に開いた異質な赤。
その両端は釣り上がり、笑っているようにも見えた。
濃密な黒と赤に挟まれた歯が、やけに白く異様だった。

ずる……。

何かを引きずる音。
光を全く反射しないで吸収してしまうような不自然な闇が、ずるり、と動いた。

生きた心地がしない。
息を吸ってるのか止めているのかすらよくわからない。
ただ絶望という名の果てしない恐怖で体が強ばり、鼻や目から変な液が出始めていた。

周りに他の奴らがいるはずなのに、何も見えない。
闇がじっとりと全身にまとわり付く。
その中で一人、孤独なまま、ずるずるとにじり寄ってくる絶望を見ている事しかできなかった。

終わりだ。

理由なんかない。
なんでこんな目に合わなければならないかなど考える隙も与えず、その絶望に終わりをわからせられた。
今、自分にできるのは、その禍々しい闇が自分の元まで来るの黙って待っている事だけだった。

誰もそれに抵抗しようとはしない。
闇の中に囚われ、砂粒ほどの希望すら俺達は見いだせなかった。
ただ絶望し、それを受け入れる事しかできないのだ。

だが……。

その「何か」が部屋にだいぶ入り込んできた時、突然、その真っ暗な闇が後ろに吹っ飛んだ。
白い何かが矢のように飛んで、赤黒い口元、おそらく「何か」の顔があるあたりを直撃した。

フッと体から緊張が緩む。
止まっていた呼吸が再開し、肺の奥まで空気を吸い込んだ。


「おとぼけさん!!」


そして叫んだ。
禍々しい闇に向かっていったのは、一つの右手。
伸びていた筈のおとぼけさんが、渾身の力を込めて「何か」に襲いかかった。
不意打ちを食らった「何か」は、おとぼけさんの思わぬ力で廊下まで吹っ飛び、廊下の壁に激突した。

「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"ぁァァァ……っ!!」

怒りに満ちた叫び声を上げる何か。
おとぼけさんを引き剥がそうと、青白い手と濡れ汚れた長い髪がおとぼけさんにまとわりついていく。

「おとぼけさん!!」

おとぼけさんのお陰で正気を取り戻した俺達は口々に叫ぶ。
あのなんだかわからないモノも恐ろしかったが、このままではおとぼけさんが死んでしまうと思ったのだ。
いや、おとぼけさんは幽霊だからすでに死んでるんだけど、なんと言うか、うん、とにかく俺達は皆、おとぼけさんが死んでしまうと本気で思っていた。

「おとぼけさんが死んじまう!!」

「助けなきゃ!!」

さっきまでの恐怖は何だったのか。
俺達は弾かれたように各々動き出した。

咄嗟に日野がテーブルに置いてあったお茶請けの皿を手に、「何か」とおとぼけさんの方に向かっていくと、中身の個包装の菓子を投げつけ始めた。

「鬼は外!!鬼は外!!悪霊退散!!」

いや、確かに豆だけどな?
ピーナッツやら何やらの豆菓子が個包装になっているそれを、豆まきのように投げる日野。
そこに数人が思いっきり振った発泡酒をプシュッと開け、撒き散らし始める。
いや、確かに酒で場を浄めるってよくあるけどさ?
とはいえパニクってる俺も、どこかで煙草の臭いがするとそういうモノが遠退くと聞いた事を思い出して、震えながらも火をつけて無駄にふーふー煙をそちらに向けて吐き続ける。

「どけどけ!!」

そう叫びながら、先輩方が何か重そうな袋を抱えて向かってくると、その中身をバラバラと撒き始めた。
何かと思ったら凍結防止剤だ。
あの、雪が降った時とかに撒くやつ。

「……まぁ、確かに「塩」だけどさ……。」

だんだん冷静になってきた俺は、床に溜まった発泡酒で吸い殻を消しながら呟く。

それぞれ、それっぽいけどちょっと違う物を手に、おとぼけさんを助けようとした。
確かに「それじゃない」のだが、全員、めちゃくちゃ真剣だった。

だって困るのだ。
おとぼけさんにいなくなられては……。

いや、ちゃんと成仏してくれるなら別にいい。
でもこんなどこの何かもわからない悪霊に、俺達の「おとぼけさん」を殺させる訳にはいかないのだ。
弱い癖に、俺達みたいなダメ学生を一生懸命守ろうとしてくれたおとぼけさん。
いつも助けられてるんだ。
俺達だっておとぼけさんを助けたいんだ。

しかし……。

真剣とはいえ、あまりにそれぞれ「それじゃない感」満載なものを持ち出してきたので、だんだんおかしくなってくる。
それまでただならぬ恐怖に感情を抑え込まれていた事も手伝い、俺達は場違いにも笑いだしてしまった。

「……あはは!つまみ豆アソート撒きながら鬼は外はねぇだろ?!」

「はぁ?!ビール掛けモドキがなんで除霊になるんだよ?!祝い事じゃあるまいし!!」

「ていうか!くふふ……凍結防止剤……確かに塩だけど……凍結防止剤って……!!」

「というか、喫煙所以外で煙草吸うなや!!」

「酒とつまみの豆と煙草って……飲み会かよ?!」

一度緊張の糸が切れると、キチガイのように笑いが止まらなくなる。
ヒーヒー笑っているうちに、蛍光灯が瞬き、明かりがついた。

「あ……。」

それに気づいて上を見上げ、そして「何か」の方に顔を向けた。
いつの間にか「何か」はいなくなっていた。
ただ、いた場所が濡れており、生臭い臭いがした。
所々にドブをさらったような泥がこびり付き、表現のしようのない嫌な臭いが立ち込めていた。

「臭っ!!」

「……気持ち悪。」

そこに発泡酒や煙草の臭いが混じり、阿鼻叫喚である。
皆が慌ててあちこちの窓を開け掃除を始めた。

皆、軽口は叩くが口数は少なかった。
特に原因となったらしい田代はずっと無言で黙々と掃除をしている。

「何か」はいなくなった。

どうしてだか、それはわかっていた。
でも、誰も「おとぼけさん」がどうなったのか、わからなかった。
そしてそれを口に出すと、本当にいなくなってしまう気がして言えなかった。

掃除が終わるとひとまず解散となり、それぞれの部屋に帰って寝た。









「やっぱ、あれはさぁ~?酒で除霊されたんだよ。」

「最後にトチ狂って笑い転げたから怖がられたんじゃね?コイツらやべえって。」

「ちげぇよ、塩だろ、塩。」

「お前らな?最初にヤツに一撃入れたのは俺だからな?やっぱり、古来からの伝統には勝てねぇんだよ。」

「でん六アソートで除霊とか聞いたことねぇよ。」

休日、談話室にたむろしていた俺達はあの日の事を話す。
誰の除霊方法が一番効果的だったか、無駄に争う。

でも、本当は皆、わかっている。

あんな「これじゃない」感満載なモノが悪霊を追い出したんじゃない。
おとぼけさんの俺達を守りたいという気持ち。
そして俺達の「おとぼけさんを助けたい」と言う気持ち。
それが「何か」を追い払ったのだと。

いや、それでも俺の煙草も絶対、役に立ったけどな。
でもそれを言い出すと、エンドレスループで話が終わらないので黙っていた。

「うわっ!!やべぇ!!」

そこに練馬が慌ただしく階段を駆け下りて外に出て行った。
それをぼんやりと皆で見送る。

「バイト、何時からだよ??」

「今慌てて出てったって事は、10時じゃね?」

「ギリ、間に合わねぇな。」

「ホントな。」

そう言った俺達は顔を見合わせて笑った。
いつもの事だからだ。

うちのオンボロな寮には「おとぼけさん」と言うおばけがいる。

ちょっと事足りないレベルで手助けをしてくれるおばけ。
それが「おとぼけさん」だ。

幽霊と言うより「おばけ」という言葉が似合う、右手だけの幽霊。
頼りなくて弱っちいおばけだけど、いざという時は寮に住む馬鹿な俺達学生を必死に守ってくれる。

あの後、何も言えずにいた俺達の心配をよそに、おとぼけさんはしれっと現れた。
いつものようにギリギリ間に合わない時間に俺達を起こしてくれるし、いつも通りちょっと事足りないトイレットペーパーを渡してくれる。

本当、すっとぼけてるんだよ、あのおばけ。

あんな事があったのだ。
右手だけの弱っちいおとぼけさんは消滅してしまったんじゃないかと皆が思っていた。
だというのに、次の日から何もなかったかのように、しれっといつも通りなのだ。
皆、拍子抜けして笑ってしまった。


オンボロ学生寮の親愛なるおばけ。

それが「おとぼけさん」だ。
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