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番外編
道化師《ピエロ》は菜の花の花束を抱えて歩く 9
しおりを挟む数日後、仕事から帰宅するなり、心結は父親の書斎に呼ばれた。
恐らくはここ数日の間に呼ばれるだろう、と推測していたので驚かなかった。
書斎に入ると、父が机の椅子に座り、目を忙しなく動かしている。
「何かご用件があるとのことですが、何事でしょうか?」
努めて平坦に応じる心結を、まるで嫌なものでもみるかのような視線で一瞥し、父親は口を開く。
「・・・・・・香恋の嫁ぎ先を探すことになったのだが・・・」
あまりにも予想と同じことを口にされたので、心結は父親の言葉の先を自身の口から発していた。
「日柳家に嫁がせるのでしたら、わたしは反対などしませんし、余計なことも致しません。どうぞお心のままに」
そう一礼して、心結は父親の顔を見ることなく書斎を出て、自室に上がる。
明後日には心結を除いた家族で長期の海外旅行に行くことが決まっていることは、久美から聞いて知っている。
家族は可愛い娘の縁談が纏まることを喜び、門出祝いのつもりの旅行なのだろう。
きっと旅行から戻れば、自動的に心結も嫁ぎ先を決められる。
だが、そこまで許容するつもりは心結には毛頭ない。
家族が旅行に出掛ける日が、心結にとっても勝負の日となるのだから。
翌日、会社を休み、菜月の滞在しているホテルへと心結は足を進めていた。関係者専用のロビーで、心結の姿を見とがめた菜月が、手を上げて
「こちらだ」
と伝える。
そこには菜月の他に、一人の高級なスーツを着こなした美丈夫が優雅にコーヒーを飲みながら椅子に腰掛けていた。
「ザック小父様、心結さんです」
菜月が心結の腕を掴んで嬉しそうに歩いてくる姿を微笑ましそうに見る姿は、世界の企業達と互角に渡り合う辣腕家という批評とはほど遠い人物に思える。
菜月と一緒にソファに腰掛けた心結に目線を合わすなり、口元は笑みを浮かべているのに、瞳の奥に怜悧な光が瞬き、心結は背筋が粟立った。
ザッカリー・ジェイコブ。
世界的な大富豪であり、幾つもの大会社を運営し、世界的に有名な数多の企業の株主でもある。
若い時からその頭角を現し、世界の風雲児となり、その容姿も相まって、世界的な規模の信者も多数存在しているらしい。
裏社会にまでその影響力は轟き、叶わないことは何もない、という人間像を体現している。
反面、敵と見なした者には容赦など一切なく、逆に懐に入れた者に対してはとても情が深い。
自分は今、見極められている、と心結は感じる。
受け答え、言動一つとっても、間違えたら破滅に繋がるだろう。
そんな心結を眺めつつ、ジェイコブは口を開く。
「ミス・菜月から貴方のことは訊いています。是非、ミス・菜月の秘書に、と」
「・・・世界的に期待されている画家である菜月さんの秘書が務まるかどうかはわかりませんが、大学卒業の年までは美術に直接触れていましたので、そういったことには造詣はあるとは自負しております」
小さな深呼吸をしてから、心結も話し始める。
心結の返答に満足そうに口元を緩めると、ジェイコブは用意してきたであろう心結の資料が入っている封筒を開きもせずに手で示す。
恐らく、心結の経歴等々などは、すべて頭の中に入っているのだろう。
「ミス・七種の資料は拝見しました。周囲の評価、仕事ぶり、美術に対する知識の深さも申し分ない。だからこそ、お訊きしたい」
「はい」
「ミス・菜月の秘書、という仕事に就けば、貴方の見識は広まり、将来も開ける。だが、故郷や家族、友人といった今まで培ってきたものと何年間も距離を置かねばならない。その覚悟はありますか?」
今更、な質問である。
此処に来るまでに、心結は既にすべてのことに対して見切りと覚悟を付けている。
それは、虐げられてきた歳月にも由来しているのだろう。
想いは消えずとも、相手に期待することを諦められなかった時間はとうに過ぎ去ってしまっていたことに、菜月と千咲と出会って気付いた。だから、一歩を踏み出すのだ。
「はい。その覚悟があるからこそ、今日この場に居ます」
真っ直ぐにジェイコブの視線を捉える。
本心はジェイコブの圧倒的なまでの雰囲気と威圧に呑まれそうになるのを、根性で心結は踏ん張っている。ジリジリとした時間が永遠かとも思えた頃、ジェイコブが瞳の奥の冷徹な光を収め、微笑んだ。
「合格です。ミス・菜月のサポートを宜しくお願いします」
ジェイコブの一言に、ドッ、と安堵が広がり、行儀が悪いことだと理解していたが、ソファの背凭れに凭れ掛かる。
「心結さん~~! これで一緒にお仕事が出来ますね~~~!」
緊張のあまり忘れていたが、菜月が心結の隣に座っていたのだった。
心結に勢いよく力一杯抱き付いてくる。
ジェイコブとの商談中、菜月は一切の言葉を発せず、行動もしなかった。
己が入り込んで良くない時は絶対に入り込まないことを徹底しているのだろう。
そういった面もとても好感が持てる。
が、首を絞められているような状態の今現在、何とかして菜月を引き離すことが先決だろうと心結は苦しさに呻きながら考える。
「菜月ちゃん、ミス・七種が苦しそうですよ」
「え? あ、ごめんなさい!」
心結の顔色と苦しげな表情を見て、ようやく我に返って菜月は心結から素早く離れる。
その様子をジェイコブは可笑しそうに微笑んで見ている。
本当に菜月を自身の子ども同然に可愛がっていることが心結にもわかる。
「それでは、正式な契約の話をしましょう」
用意してある部屋へと誘導されながら、心結は小さく拳を握る。
ここからが正念場だ。
今までの人生を帳消しに出来るわけではないが、自分なりの幸せを掴むことを行動に移さなければ、心結を心から心配してくれる数少ない人達に申し訳がたたない。
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