あなたの傍に置いて下さい ~医者と奴隷~

如月あこ

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第三章

1、

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 その日、セディルは仕事を早めに終えた。建築関係の仕事について半月と少し。徐々に慣れてきたところだ。体力面は勿論だが、専門的な知識も必要で、覚えることは数多ある。字の読み書きが出来ないことが厳しく、己の無知さを痛感する毎日だ。
 日雇いや雑用仕事ならば構わないが、安定した給金を得るには専門的な知識を得て、今の案件が終わっても仕事を得続ける必要がある。
 セディルはアイナを養えるほどの給料がほしい。
 その理想のためには、日雇いでは不安が残る。
 専門家として確立する必要があった。
 建築関係を選んだのは、奴隷だったころに経験があるからだ。
 主の命令は絶対なので、当時は何も考えずに指示されたことだけをしていた。しかし、今のセディルは更なる高みを求めている。
 知識は現場と本から得るべきで、報告書や記録をつける必要もあり、字の読み書きは必ず覚えなければならない。
 そんなことを考えながら帰宅したセディルは、帰宅するとすぐにアイナの姿を探した。アイナに相談しようと考えたのだ。
 もっとも、相談事がなくても、帰宅したらすぐにアイナを探すのだけれど。
 アイナは居間で医療機器の手入れをしていた。本格的に医者として開業する予定が押している。開業前に、往診希望の患者の対応に追われ、なかなか準備が整わないという。
 主にレックスの知り合いばかりだが、医者不足というのはかなり深刻な状況らしく、アイナは医者として求められれば、夜中でも患者のもとへ駆けつけた。

「セディル? 早いじゃないの」

 アイナは驚いた顔をしてセディルを見たが、すぐにうとうとと前のめりになる。昨夜も急患があり、アイナは治療に追われた。この街にも医者はいるが、アイナ以外にはせいぜい二人。うち一人は先日出産のときにいた若い女だという。
 このままでは、アイナの身体が心配だった。

「仕事が落ち着いたから、早めの帰宅になった。明後日から、連勤になるはずだ」
「そうなの。おかえり、お腹減ったでしょ? 何か食べる?」
「ただいま」

 こそばゆく、暖かな気持ちで答えた。字の読み書きについて相談したかったが、アイナにはアイナの仕事がある。不本意だが、レックスに相談するしかないだろう。
 そのとき、不意に呼び鈴が鳴った。アイナが立ち上がろうとするのを制して、セディルが来客の元へ行く。
 そこにいたのは、あの日に出産した夫婦と、連れ子だという少年だった。確か名前は、フィダとミナル、ショーンだ。

「あの、先生にお礼を言いたくて」

 あの日、恐ろしいほど死の匂いをさせていたミナルは、しおらしい女性としてそこにいた。幸せそうに微笑むミナルの肩を抱くフィダもまた、幸せな雰囲気を色濃く醸していた。




 アイナは、眠気を覚ますために自分の頬を両手で叩いた。昨夜は急患が出て走り回っていたので、少しだけ疲れが出ていた。
 患者が多いことは喜ばしいことではないが、開業する前から生活する資金が稼げるのは有難いことでもある。けれど、やはり多忙すぎる。この街に、もう少し医者を派遣してもらえるよう、領主には打診してあるのだろうか。アイナはあまり出しゃばったことをしたくはないが、人の命には代えられない。もし必要ならば、アイナが街の管理者に現状を報告しなければならないだろう。
 民は、生活向上を目的とした意見書を管理者に提出することができる。管理者は必要に応じて調べ、なんらかの対応をしなければならない――と、先の国王が法を決めた。
 しかし、先王が定めた法律は細々と数多にのぼり、学業を学ぶ機会のない民には知ることができない。不満を文章にして訴えることができる、という法を知らない者がほとんどで、字をかけない者も多い。果たしてなんのための法だというのか。
 アイナは来客があったことを察して、医療道具を片付けた。患者ならば、セディルが先に知らせにきてくれるはずだ。真っ先にこないということは、レックス辺りが遊びに来たのだろう。遊びでなければ、なんらかの相談や報告かもしれない。
 レックスとは、よき友人だ。彼がかなりの遊び人だということも、本当は真面目な男だということもアイナは気づいている。アイナが気づいていることにレックスも気づいており、そのことが友情を芽生えさせたようだった。
 お茶と菓子を準備しようと立ち上がったとき、セディルが居間へと来客を連れて来た。
 眠気は一気に覚めた。
 そこには、ミナルがいた。
 先にミナルに気づいたのはアイナだったため、ミナルの微笑む姿を見てしまった。けれど、見たのは一瞬だけ。ミナルもまたアイナに視線を寄越したが、その瞬間、ミナルの顔色は真っ青になり、その場で足を止めた。

「ミナル?」

 夫の――フィダだっただろうか、レックスの親戚だという――は、妻の異変に気づいて戸惑いを含んだ声で、彼女の名前を呼んだ。ミナルは食い入るようにアイナを見つめ、無意識にお腹をさすっていた。
 アイナは静かに呼吸をして、自らを落ち着けた。手は小刻みに震えていたが、拳をつくることで耐え、無理やり笑みをつくる。

「身体は無事みたいね、よかった」

 努めて明るく言ったけれど、ミナルは青い顔のままだ。アイナの声をきいて、さらに身体をこわばらせ、呼吸さえ忘れたように微動だにしない。

「お茶をいれるわ、どうぞ座って」

 アイナがそう言って、茶の準備のために背中を向けたとき。

「どうして助けたの」

 か細い声がした。ミナルの声だ。かつての、可憐な少女の声音よりやや低くなったが、それでも聞き間違いのない、ミナルの声。アイナはミナルの可憐な容姿や声音が羨ましかった。羨ましい以上に、とても好きだった。
 ひと月前、この街へ来た日。
 レックスに頼まれて向かった出産の現場で、アイナは知り合いと再会した。見間違えたりはしなかった。ミナルは当時のまま美しく、出産という神秘的な行為が、益々ミナルを美しく見せていた。可憐な少女から大人の女性となって尚、ミナルの魅力はあの頃のままだったから。

「どうして、あたしを助けたの」

 ミナルが繰り返し告げた言葉は力強く、驚愕とともに怒りも感じられた。いや、怒りとは違い、恐怖に近いといえた。重々しくも力強い響きからは、「今すぐここから逃げてしまいたい」というミナルの心境を読み取ることができる。
 アイナが振り返ると、フィダが驚いた顔でミナルの肩を引き寄せていた。どうしたんだ、と戸惑う彼の態度は当然のことだろう。ついさっきまで幸せいっぱいだった妻が、悪魔でも見たかのように恐怖に顔を引きつらせて、ガタガタと震えているのだから。

「死ねばいいって、思わなかったの」

 ミナルの言葉は続く。彼女が吐き出した言葉の重みに、アイナは目を眇めた。
 アイナは、フィダと同じように驚いた顔をしている子どもに視線を向けた。見覚えのある赤毛の少年は、ミナルによく似て愛らしい顔をしている。……赤毛は、ジルと同じ色だ。ジル。そう、ジル。
 アイナは目を伏せて、ため息をついた。

「今はね」

 我ながら皮肉な言い方だった。

「あれからかなり経つもの、もういいわ。それなりに今は楽しくやってるし」

 肩をすくめて苦笑を浮かべると、ミナルに椅子をすすめた。ここにきてやっと、ミナルは肩の力を抜いたようだった。表情はこわばったままで、アイナを見つめる視線には脅えを浮かべているが、おそるおそる椅子へ向かう。
 アイナは、無意識に笑みを浮かべていた。
 かつてミナルは、アイナが部屋に呼ぶたびに、嬉しそうについてきた。自分を慕うミナルが可愛くて、いつも彼女の好むお菓子を用意した。アイナが椅子をすすめると、ぱっと微笑んで椅子に座り、愛らしいくるりとした瞳でアイナを見つめてきた――そんな過去が、一瞬だけ脳裏に蘇った。

「アイナ、って、名前のお医者様はどこなの」

 ミナルは強張った声音で、問うた。

「私よ。私が、アイナ」
「……やっぱり。あのとき意識が朦朧としてたけど、あなたの声はよく聞こえたの。気のせいだったと思ってたのよ。でも、本当に――本当に、どうしてあたしを助けたの」

 ミナルはまた、その質問を繰り返す。あれからかなり経つ、という答えは彼女を納得させるものではなかったらしい。けれど、何を告げても、どんな言い訳をしても、ミナルを納得させることはできないだろう。
 ミナルの態度から察するに、彼女はアイナに対して負い目を抱いているし、アイナもまた、過去のことを無かったことになどできないのだから。許す許さないの問題ではなく、誰が加害者で被害者かといった話にもしたくない。
 もう、触れたくないのだ。
 正直、ミナルにも会いたくなかった。二度と、会うつもりなどなかったのに、どうして彼女と再会してしまったのだろう。

「ねぇ、ミナル。ジルはどうしたの?」

 ずばりとアイナは切り込んだ。ミナルはさらに、表情をこわばらせて、呼吸をつまらせた。

「……妊娠中に、女をつくって出て行ったわ。それっきりよ」
「ふぅん」

 やはり、クズな男だった。昔のアイナが愚かだったとはいえ、あんな男と幸せになれることを夢見ていたなんて。
 ジルは、ふらりと街にやってきた旅芸人の男だった。見目麗しく、情熱的に愛を囁き、誠実で、アイナを大切にしてくれた。彼の熱意は本物で、心からアイナを愛してくれた――と、当時はそう思っていた。だから、反対する両親を強引に説得して、アイナはジルと結婚した。
 そう、結婚したのだ。豪華な挙式をあげ、多くの人々に幸せを願ってもらい、翌日にはハネムーンへ出かけた。あのときのアイナは、幸せの絶頂にいた。

――ジルの態度が豹変するまで、アイナはあの男の本性を微塵も見抜けなかったのだ

 視線を落としたアイナだったが、はっと顔をあげたミナルの気配を感じて、ゆっくりと視線を向ける。

「待って、どうしてここにいるの。ワックステイド様と結婚して、幸せに暮らしてるんじゃないの? ……あたしのことを殺したいほど恨みながら」

 ミナルの言葉に、アイナはまた、肩をすくめた。カップを彼女の前に置いて、向かい側に座る。男たちは今なお立ち尽くしているが、放っておいた。

「私が処女なら、親も再婚させたでしょうけど――」

 ミナルが引きつった悲鳴をあげた。顔色がみるみる変わり、青色を通り越して白くなりつつある。呼吸さえ忘れているようで、胸も上下せず、彫刻になってしまったかのように固まった。

「ミナル、もう昔の話なの。だから」
「嘘でしょ、どうして」
(どうして?)

 アイナは思わず鼻で笑った。自嘲的な態度に、ミナルは慌てて口を閉じた。己の失言に気づいたようだが、もう遅かった。

「ハネムーンの夜に。新婚初夜よ、当然じゃないの。……あたし、何も知らなかったもの」

 ミナルは唇を震わせてアイナから視線を逸らすと、そのまま駆け出した。フィダを押しのけて家を出て行ったミナルを、フィダとショーンが追いかける。アイナは追わなかった。追う必要もないし、金輪際、彼女と会うこともないだろうと思った。

「アイナ」

 セディルに呼ばれて、アイナはまた自嘲した。

「セディル。ミナルに、伝えてきてくれないかしら。もう昔のことだから、って。過去は変えられないし、私にはもうどうでもいい。……ミナルのことなんて、どうでもいいのよ」




 セディルがミナルたちに追いついたのは、表の通りへ通じる路地裏だった。
 ミナルは胸を押さえてしゃがみこもうとしており、背中にはフィダが手を添えている。

「お母さん、しんどいの? 大丈夫?」

 ショーンがミナルの肩に手を置いた瞬間、ミナルはカッと目を見開いてショーンの髪を掴んだ。ぎょっとするセディルが見ている前で、ミナルはショーンを壁に叩きつける。

「なんでそんな髪の色をしてるのよ。あんなクズみたいに、優しくして言葉で騙すつもり? あんたのせいで、あたしは、あたしはっ――」
「落ち着いて、ミナル。ショーンに当たるのはよくない。ショーンは、ジルじゃないんだ」

 フィダはそう諭したが、壁に叩きつけられて地面にしゃがみ込んだショーンを助け起こしはしなかった。ショーンは頭を抱えて、ごめんなさい、と繰り返す。初めてではないのかもしれない、とセディルは思った。フィダは驚いていないし、ショーンもまた、当然のように謝罪を繰り返しているから。
 ふと、フィダと目が合った。あ、と小さく呟いたフィダにつられてミナルが顔をあげると、ミナルへ視線を移した。先ほどまでの幸せな雰囲気など全くない、やつれた姿の女がいた。瞳は遠くを見ているように虚無だが、虚無の奥底には絶望が見える。
 ふらり、とミナルは吸い寄せられるようにセディルへ向かって歩き出したが、数歩で止まった。

「どこまで知っているの」

 ミナルは、間違いなくセディルへ問うていた。セディルは、彼女がアイナのことを――アイナの過去を指しているのだとわかった。先ほど、アイナとミナルは、聞いているだけで凍りつくような危うい会話をしていた。会話という道を一歩でも踏み外せば、何かしら大変な事態が起こってしまうのだと思った。
 そして、先に会話を踏み外したのはアイナだった。 そして。 切り込んだアイナから、ミナルは逃げた。

「何も知らない。アイナにしてやれることはないだろうか」

 ミナルは目を瞬いたが、次の瞬間、こぼれんばかりに目を見張った。

「何も知らずに結婚して、知らないままにあの子を慰めているの?」

 結婚はしていない、と言いかけて辞めた。なんとなく、この家族の前ではアイナが幸せな家庭を持っているのだと、思わせたかった。
 ふと。
 乾いた笑い声が、路地裏に響いた。
 ミナルが笑っている。
 目を見開いたまま、僅かも瞳を笑みに歪めずに。

「何も知らないで、あの子の傍にいるなんて無理よ。あの子は変わったわ。昔の彼女じゃない。今はきっと、誰も信じてないのよ。あなただって、信用なんかされてないわ」

 ミナルは深く息を吐きだすと、ふらついた身体を壁で支えた。

「信用されてないから、あの子は何も話さないのよ」
 ミナルはセディルに背を向けて歩き出し、もう話すことはないと言外に語った。フィダが彼女の背にまた手を置いたが、ミナルはフィダの手を振り払った。

「一人で歩けるわ。お願いだから、あたしに優しくしないで」
「同情じゃないよ、僕はきみを愛してるんだ」
「わかってるわ。だから、駄目なの。……まさか、処女を失っていたなんて。奪ったのよ、あたしが何もかも。全部を。全部よ、本当に全部、何もかもを!」

 ミナルは肩を震わせながら涙をぬぐい、支えようとした夫の手を再び振り払って一人で歩き出した。フィダが慌てて追いかけ、そのあとを、ショーンがのろのろとついていく。
 セディルは彼ら一家を見送るのもほどほどに、家へと戻った。
 居間にアイナの姿はなかった。どこかへ出かけたのかと思ったが、念のために部屋を一部屋ずつ見て回っていると、奥の寝室でアイナを見つけた。ベッドにうつぶせの状態で、枕に顔を埋めている。

「アイナ」
「なに」

 ここは寝室として使っている部屋で、セディルはアイナとともにこのベッドで眠っている。セディルは隣の部屋を与えられているが、アイナと一緒にいたいので、自分の部屋は仕事の荷物置き場と化していた。ここ半月ですっかり馴染んだアイナの部屋は、彼女らしい、無駄のない簡素な部屋だ。簡素なのに、部屋の隅々までアイナの気配がするから、セディルはこの部屋が好きだった。アイナと共に眠る夜は、幸福に満ちている。
 セディルはベッド脇に腰を下ろすと、アイナの頭を撫でた。

「アイナ」
「……なによ」
「愛している」

 すらりと口からこぼれた。
 言ったセディル自身驚いたが、口に出してやっと、自分がアイナに向けている感情が「愛」ではないかと知った。ずっと自身が抱えている感情の名前がわからずにもどかしかったが、これが「愛してる」感情だというのならば、納得できた。
 アイナを愛している。もしかしたら、これは「愛」ではないかもしれないが、構わなかった。セディルの、アイナを振り向かせたいという本能と彼女を癒したいという気持ちが、「愛している」という言葉を引き出したのだから。
 本能のままの告白だった。セディルは知っていたのだ。今、ここで愛を告げなければならないことを。アイナが時折ぼんやりと見つめていた視線の先に過去があったことや、自嘲気味に笑う姿、それらが起因する原因を、つい先ほど、セディルは知ってしまったから。

「愛しているんだ」
「ね、ねぇ、なんで、今」

 アイナは恐る恐る枕から顔をあげた。照れても泣いても怒ってもいない、アイナの瞳がセディルを見つめ返した。人形のような虚無が、ついさっきまでアイナを浸食していたのだろう。アイナの瞳に微かに浮かぶ戸惑い以外に、感情らしいものは消え去っていた。優しい笑みや、治療に専念する真剣さといったものは、どこへ身をひそめてしまったのだろう。もしかしたら、いつもの姿の方が偽物だったのではないか――ふと、そんなことを思ったが、すぐに否定をした。
 どちらのアイナでも傍にいたいと思う気持ちに偽りはないが、これまでに見てきたアイナが偽物だとは思わない。

「愛している」
「だから、なんで今、言うの。冗談じゃ――」
「本気だ。俺は奴隷ではないとアイナが言ったから、望みを言う」 

 セディルは身を屈めて、アイナを抱きしめるようにベッドに横たわった。

「傍にいる。俺が働いてアイナを養う。特別な存在になりたいと思っている」

 アイナは眉をひそめて、セディルの胸を両手で押し返した。

「信じなくていい」

 アイナの手から、力が緩んだ。

「俺はここにいたい。ずっと傍にいる。俺を信用しなくていいし、気持ちに答えなくてもいい。俺を傍においてくれ」
「なによ、それ」
「アイナがいない世界でなど、生きてゆけないからだ」

 アイナは何かを言いたげに口を開いたが、すぐに閉じて、ややのち、そう、とだけ答えた。
 セディルはアイナの頭を撫でて抱きしめると、ベッドから降りて、居間に置きっぱなしになってきたカップを片付けた。ドアに鍵をかけて、今日はこれ以上アイナを煩わせないよう、来客を拒む準備をする。あとで知ったアイナは怒るかもしれないが、アイナには時間をあげたい。
 この街にきてから、アイナが休むこともそぞろに働いてきたのは、生計をたてるためや町に馴染むためであると同時に、辛い過去を思い出さないためだったのだろう。アイナは考えないすべをとったのだ、忘れることが出来ないから。
 だが、今の精神状態が続けば、心身が疲れ果てて薄氷は壊れ、脆く崩れ去るだろう。
 その前に、向き合わなければ。忘れられないのなら、消化して、思い出のなかの一部にする必要がある。セディルは、アイナとともに今後のことを話したいと思った。
 ベッドに戻ったセディルは、アイナを抱きしめる。枕にうつ伏せていたアイナは、セディルに擦り寄ってくると首筋に腕を回し、胸に頬を押しつけた。
 アイナが甘えてくるのは珍しく、それだけ弱っているのだとわかっているが、それでも嬉しかった。必要としてくれるアイナを強く抱きしめると、アイナは緊張に身体を強ばらせたあと、話し出した。

「婚約者がいたのよ」

 セディルは視線だけをアイナの頭部へ向けた。この角度では表情が見えないことがもどかしいが、傍にいるのだと伝えたくて、背中を撫でると、アイナは少しだけ体の力を抜いた。

「私は当時、公爵令嬢だったの。今の私からは想像も出来ないでしょうけれどね。あの頃はまだ十代で、決められた婚約者より旅芸人だったジルを選んだ。私は三女だったし、親も私に甘かったから、ジルと結婚させてくれたわ」

 ジル、という名前をセディルは記憶に刻む。先程も、アイナとミナルの話に出てきた名前だった。

「でも裏切られたの。いいえ、騙されていたのよ。ハネムーンの初夜を終えてすぐに、ジルは私を殺そうとした。胸を刃物で刺したの。ジルは私が自由に出来た結婚費用――今思うとかなりの額だったわ――と、結婚を誰より祝福してハネムーンの手はずを整えてくれた、従姉妹のミナルと一緒に姿を消した」
「……従姉妹?」
「そう。ミナルは私の従姉妹だったの。でも、母親に事情があって認知されていなかったから、うちで召使いとして働いていたのよ」

 アイナは、それから淡々と事情を話した。できうる限り抑揚を抑えた声音だった。
 アイナはハネムーンの翌日に発見され、生死をさまよった末に目が覚めた。現実を信じきれなくておかしくなりそうだったアイナに優しくしてくれたのは、アイナを助けた老夫婦だった。
 だが、老夫婦はアイナが屋敷に帰りたいと告げても是と言わず、怪我がかなり回復してきたころに、湖で夫婦揃って浮かんでいるのが発見された。
 何が起きたのだと戸惑うアイナの元へ、弁護士を名乗る男がやってきたのは、老夫婦が発見された当日だった。
 老夫婦は、アイナが夫に駆け落ちされて捨てられたうえにカネを盗まれたという醜聞をネタに、アイナの実家から大金をせしめようとしたという。ところが、不運な事故で溺死してしまった。
 弁護士は淡々と説明したあと、両親からの手紙をアイナに渡した。そこには父の筆跡で、他人行儀に今後の行動について記されていた。
 アイナが相続するはずだった南の古城、それを売った額を今すぐに支払ってやる。だから、二度と戻ってくるな。
 端的に説明すると、そういうことだった。アイナは茫然自失となり、自分が世間では事故死したことになっている事実を受け入れられないまま、セディルと出会ったあの領地へと弁護士の男に連れていかれた。
 そこで小さな家を与えられて手切れ金とばかりに大金を渡され、その日のうちに弁護士は姿を消した。
 心のどこかで、アイナは両親が暖かく迎えて慰めてくれるもの思い込んでいた。アイナは大切に育てられてきたし、ほかの貴族のように、地位を重視するとは露ほども考えなかった。 けれど、公爵令嬢が旅芸人だった夫に殺されかけた挙句、従姉妹と夫は駆け落ち、大金を持って逃げた――――そんな大醜聞、貴族ならば間違いなく隠蔽するだろう。しかも、アイナからジルとどうしても結婚したいと、両親に訴えたのだから。
 アイナは、セディルの衣類を強く掴んだ。小さく身体が震えている。

「突然一人になって、生きていく方法がわからなくて。誰も信じられなかったから、お金を持っていることは隠し続けたわ。身なりも、食べ物も、生活習慣も、ほかの人たちの真似をした。家には帰れないし、何もなくなって、結局死のうと思ったときに、師に拾ってもらったの。私の医学の先生よ」
「そうか」

 頭を撫でると、アイナは微かに笑った。

「師の言葉は、私を救ってくれたの。『何も失うものが無いなんて、幸せなこった。あとは這いあがるだけだねぇ』だって。……あの頃は何も考えられなくて、全部を嫌って、恨んだけど。今思うと、両親は私を殺さなかったし、あの領主とも知り合いで私をよろしくって言ってくれたらしいの……これは余計なことだけど、気にかけてくれたのよ。私が街で暮らすために必要なものは揃っていたし、私は令嬢ではなく平民になっただけ。恵まれていたの」
「なるほど、そう思い込もうとしたのか」

 アイナは弾かれるように顔をあげた。うっすらと涙のあとが見えて、セディルは目元に口付ける。

「……生きていくには充分なお金をくれたわ」
「手切れ金だろう。貰ったのなら、好きに使えばいい。それより、酷い話だ。あの女がミナル本人なんだろう」

 追いかけた先で、路地裏にいたミナルを思い出した。我が子を叩きつけ、ヒステリックに被害者ぶりながらも、己を愛する男を傍に置く。思い出しただけでも、セディルは腹立たしさに歯を噛み締めた。

「なぜ助けたんだ。お前を陥れて、すべてを奪った女だろう」
「プライドかしら。あそこで助けなかったら、私はまだ過去に縛られてるって認めることになるもの……認めたくなかったのよ」
「……前にも、プライドと言っていた。それは大切なのか」

 前というのは、アイナがセディルを助けたときの話だ。出会って間もない頃だが、あれからまだ三ヶ月も過ぎていないなんて。アイナはセディルをじっと見つめて、柔和に表情を和らげた。――いつものアイナの笑みだ。

「目の前で無実の人が死ぬのが嫌だった。だから、助けたかったの。セディルの処刑を止めるのに、ずっと使えずにいたおカネも処分できたわ。おかげですっきりした」

 セディルは、アイナの言葉の意味を理解して、目を見張る。ずっと、アイナがセディルのために支払ったという大金は、どこからきたのだろうと考えていた。レックスから、処刑を止めるために必要な金額を聞いたとき、聞いたこともない単位が出てきて、目を丸くしたのだ。その金額は、庶民が生涯働いても手に入れることなどできない額だった。

「……俺に、親から譲られた財産を使ったのか」
「全部くれてやったわ。ずっと使えずにも捨てられずにもいたから、本当に助かったの。これでもう、私はただのアイナでしかない。両親と繋がるものは、何もなくなったから」

 セディルはアイナに噛み付くようなキスをして、アイナのうえに被さった。のしかかるままにアイナを抱きしめると、アイナが呻いた。くぐもった苦しそうな声をきいても、離してやる気にはならない。身体の昂りを押しつけて、かすかな興奮を得ることで、無理やり貫かないよう自制するので精一杯だった。
 やはり、あの女の言うことは間違っていた。アイナは誰も信用していないのではない。セディルを傍に置いているのも、命を救ったのも、信用していないからではなく、見返りを求めていないのだ。
 アイナは、差し出すだけ差し出して、何も貰おうとしない。それをプライドと名付けて、プライドを糧に生きている。
 誰だって、他者に何かしらの見返りを求めるものだ。アイナは見返りを得ないことを見返りと考えることができる、稀な人間なのだろう。それがどれほど難しいことか、セディルは知っている。また、アイナのような生き方の者を愚か者だと笑うものがいることも、知っていた。

(アイナは、強い人間だ)

 セディルは誇らしい気持ちでいっぱいになった。

「アイナ」
「……苦しいから、退いて」

 割と本気で怒られて、セディルは少しだけ身体をずらした。アイナはセディルを上目遣いという可愛いしぐさで、睨みつけてきた。堪らずにキスをして、衣類の下に手を滑り込ませると、アイナの柔らかくすべすべとした肌を撫でる。
 ドレスの胸元を広げて、痛々しい傷痕に口付けた。恐らくだが、アイナの言っていた、夫に刺された場所なのだろう。
 両手でセディルの頭を押し返してきたアイナだったが、舐めて吸いつき、傷口を愛撫すると、やがてアイナは抵抗を辞めた。
 セディルは持てる限りの理性を集め、辛抱強く、アイナの心を包むように、全身を丁寧に愛撫した。
 アイナがセディルに与えてくれたほどのものは、生涯かけても返すことはできないだろう。それでも、僅かでも、自分の存在や言動、その他すべてが、アイナの心に安らぎをもたらせばいい。ほんのカケラでも、微々たるものでも――アイナがすぐに忘れてしまうような、些細なことでも構わないのだ。
 一瞬でも、彼女の心に安らぎが訪れますように。
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